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2008年10月16日(木) 引っ越しました。


2007年06月14日(木) Mac・Windowsの共存に、感動。

■周囲がパソコンを使い始めても、頑としてワープロを使っていたわたしが、初めてiMacを買ったのは8年前。当時の恋人はMacを仕事でフル活用している人で、一緒に秋葉原に行ってあれこれと教えてもらいながら購入した。わたしはその時、Macを買うことより、恋人とデートできることでウキウキしていたような気がする。
とにもかくにも手に入れてみると、パソコンにはまった。何より、文章を書くのが楽だった。目から鱗の便利さだった。メールというコミュニケーションツールにも驚いた。それまでわたしは、常に鞄に便せん封筒と切手のセットを入れていて、しょっちゅう手紙を書いている人だったから……。

■Windowsに乗り換えたのは、PowerBookG4がおシャカになった後。Macの恋人と別れた後でもあった。何より、Windowsでしか動かない「一太郎」に惚れ込んでしまったのだ。日本語を書くには、Wordよりずっと親切で優しかった。一太郎を使える限り、ずっとWindowsでいいと思っていたのに、音楽の仕事が増え、音楽のソフトを使えば使うほど、Windowsの重さがつらくなってきた。
そして……。
パソコン歴の半分をMacと、半分をWindowsと過ごしてきたわたしは、昨日、新しいMacを購入した。Mac Book Proの15インチ。計画通り、恐るおそるBoot campでXPをMacにインストールしてみた。驚いた……って言うか、ちょっと感動……Mac上でWindowsがさくさくと動いている。Windowsにはメモリの割り当てを少なくしたから、一太郎とプリンタドライバをいれるともういっぱいいっぱい。でも、それで十分。あとはMacがすべてやってくれる。
MacとWindowsを切り替えるには、再起動が必要だけれど、重いWindowsの長い長い起動時間に慣れているわたしには、何のストレスもない。ただただ、新しく手に入れたツールの便利さに、完璧さに、感動している。
すごいなあ、いやあ、本当にすごい。技術がくれる感動は、半端な芸術の感動なんて遙かに超えてくることがある。





2007年06月13日(水) ひっかき傷。

■人と出会ったり別れたりは、わたしの仕事の一部だ。もう20年以上一緒に、或いは断続的に一緒に、仕事をしている仲間がいる。また、たった一度のご一緒で終わる場合もある。仕事を離れると、たくさんの友達、そして、去っていった恋人たち。さらには今の恋人。……出会ったり別れたりが、まわりの人より激しい人生を歩んできたような気がする。
そして、表現の仕事をしている以上、知り合っていなくても作品で無数の人に話しかけている。こうしてネット上に文章を書いていることでも、わずかながら見知らぬ人が、文章を通じてわたしを知っていたりする。

■谷川俊太郎の「午前二時のサイレント映画」という詩に、こんな一節がある。 
  
  人はたったひとつの自分の一生を生きることしが出来なくて
  あといくつかの他人の人生をひっかいたくらいで終わる
  でもそのひっかきかたに自分の一生がかかっているのだ
  それがドタバタ喜劇にすぎなかったとしても

■そして、レイモンド・カーヴァーは「ひっかき傷」という詩を書いている。

  目がさめたら、目の上に
  血がついていた。おでこの途中から
  ひっかき傷ができている。でも、
  わたしはこのごろ一人で寝ている。
  自分に爪を立てるようなやつがいるだろうか?
  いくら眠っているときでも。
  今朝からずっと、この疑問に悩んでいる。
  窓ガラスに顔を映してみながら。

■人との出会い別れを思うたび、わたしはこの2篇を思い出す。
出会っても、別れても、どんなに頑張っても、どんなに愛しても、自分は自分で、他人にたかだかひっかき傷をつけるくらいしか出来ない。でも、カーヴァーの描くひっかき傷の、ひりひりとした痛みはどうだろう? この詩の男は、由ないひっかき傷のついた己の顔を、ずっと窓ガラスに映しているのだ。ひっかき傷のない自分ではなく、ひっかき傷のある自分を見つめ続けているのだ。

たとえ家族でも、生涯愛し続けたいと思う人でも、他者は他者。わたしはわたしで、一人だ。

その痛み、その諦観。

そして、「ひっかき傷」は、逆にわたしの微かな希望となる。そのひっかき方こそが、我が人生なのだ、喜劇であれ悲劇であれ、冗漫であれ凡庸であれ。

今も、どこかで誰かが、わたしのつけたひっかき傷の痛みで、わたしを思い出しているかもしれない。

そしてわたしは、ひりひりする痛みを抱え続けて、日々を生きている。痛みなんて何もないふりをしながら。






2007年06月08日(金) 青い実、桃の実。

■今年は旅の仕事が多い。大阪はこれで三回目。仕事場まで大阪城を抜けていくのだが、わたしは城ホールのほど近くにある小さな桃園を抜けていく道が気にいっている。4月に通ったときには桜の季節で桃はすでに散りかけ。でも、小道の両側から枝を伸ばした低木の作るアーチの下をくぐっていくのは、とても心地のよいことだった。

■そして今。同じ道を通ると、桃たちが小さな青い実をたくさんつけている。大きな青梅くらいの大きさの、すでにうっすらの毛の生えた、たっくさんのコロコロしたものが、光を浴びてきらきらと光っている。

■なんでも、時分の美しさってものがあるんだなあ。熟す前の新しさ、美しさ。熟しかけの張り、艶。熟しきった甘さ、充実感。次の世代へ繋ぐための落実……。

■次にここに仕事にくるのは、9月の予定。秋口には、この低木の園はどんな姿を見せてくれるのだろう?





2007年06月05日(火) 母に電話をする幸せ。

■我が母。
 動脈瘤の手術を受け、合併症のあれこれで生死の間を彷徨い、植物人間状態となった母が、奇跡的に目覚めて、すでに2年が経つ。その目覚めを、主治医は「奇跡」と言って憚らなかった。目覚める前に、「奇跡でも起きない限り無理だと思います」と告げたとき、主治医は「奇跡」を信じていなかったに違いない。
■母は、自分が起こした奇跡のことを何も知らず目覚めた。手術の時すでに脳梗塞を起こしていたものだから、記憶がさっぱり失われて、まっさらの状態だった。そして、父と出会いなおす。それまでも世界中でいちばん好きだった人と出会いなおし、あまりにも自分に優しい人として再び好きになり、頼り、甘えた。わたしはしばらく、母の妹、わたしの叔母にあたる「礼子ちゃん」の名前で呼ばれ続けた。のどに差し込まれたチューブからしか生きるための栄養を摂取できなかった母が、はじめて「礼子ちゃん」であるわたしの差し出すスプーンからゼリーを口にした時は、生きるために食べるということは、なんて素晴らしいことだろうと感動した。そのとき「まずいなあ、でも礼子ちゃんが言うんやったら食べるわ」という意味のことをたどたどしくも口にした時は、「この人は治る、きっとよくなる」と確信した。元気だった頃の母が、垣間見えた。
■母の記憶は、2年間ですっかり戻った。じわりじわりと戻り、躍進的に戻り、また後退しては戻り、で、今は物忘れの激しくなったおばあさんくらいですんでいる。
■脳梗塞の影響で、目が見えなくなってしまったものの、これもたまにぼんやり見えることもあるらしい。わたしが久しぶりに会いに行ったときに「あんたの顔が見れたらどんなに嬉しいか」とぽろぽろ涙をこぼしながら、全盲人のようにわたしの顔を撫でさすって確かめたりするものだから、わたしもぽろぽろ涙をこぼしたというのに、そのすぐ後一緒に食事をしている時に、「こぼしたで!」と、わたしの食べこぼしを咎めたりする。「なんや、見えてるやんか!」と突っ込むと、泣き真似をして見せて「たまーに見えるんや、たまーにやで!」と言い訳してみせたりする。「この人は大丈夫だ」と、その時、また思ったりした。
 
■昼間、今日は夜一回公演で時間があったので、電話をかけてみた。4月に帰省して以来、久しぶりにのんびり話した。
 目が見えなくても、相変わらずの病院通いでも、母は生きていることだけでうれしいみたい。なにせ、大好きな父とずっと一緒にいられて、大好きな父がずっと面倒をみてくれるのだから。
■母は、自分が起こした奇跡について、周囲から聞かされて自分でも驚いていたものだが、今は二つのことが、自分を生かしてくれたのだと思っている。
 一つは、自分が頑張って周囲の人間のために生きてきたこと。だから、たくさんの他者が、恩返しのように生かしてくれた、ということ。
 もう一つは、父が待っていてくれたこと。父がいなければ、一人で生きられない老女を神様は生かさないだろう、ということ。

■母と話していると、わたしはいつも心が穏やかになる。
 わたしが生きてるということだけで喜んでくれる人がいる、と、ほっとする。そして、相変わらず出世もせず金持ちにもならず、周囲の人間の面倒を見続けるわたしの暮らしを見て、「あんたは大丈夫。ママみたいに、いつかいっぱい恩返しされるから」と信じている。その確信に、わたしの荒れた気持ちが凪いでいく。
 生きてるだけでよくって、凪いだ気持ちでばっかりいたんじゃあ、わたしの屈折した仕事はうまくいかないから、だから、たまに電話をする。たまに電話をすると、幸せになる。

 今日の午後は幸せだった。母と電話で話す幸せ。



2007年06月04日(月) 希望もなく絶望もなくわたしは毎日少しずつ書きます。

■日々がめまぐるしく過ぎていったからこそ、毎日少しずつでも書いておけばよかったと思うときがある。
仕事が思いがけず早過ぎるほど早く終わって、飲みに行く一群に背を向けて、まだ陽のある街をゆっくり歩く。ゆっくり歩くのは久しぶりかもしれない。初夏を匂わせる風が吹いていたり、ここが旅先であったりで、気がつくと、自分の来し方を思ったりしている。
その時間時間が「現在」である時には、書くほどもないと思えたことが、「過去」になってみると、何か少し匂いたってきて、書いておけばよかったと思える類のことに姿を変えたりする。

■自分のHPを開いたのは2000年の5月だった。ワープロ愛用者がはじめてMacを使い出してすぐのことだ。iMac→iBook→PowerBookと三台をおしゃかにしてからWindwsに乗り換え、すでに自分のHPを更新する術を失い、新たに作り変える気もなく放置していた。1年ぶりくらいにのぞいてみると、ちゃんとかつての自分の文章にたどり着けて、当たり前のことに少し驚く。

わたしはこんなことを書いていた。

「また五月がやってくる。
 四月を迎えて、また花の季節がやってくると思ったように、新緑の季節がやってくる。五月の葉っぱはまだ成長の途上。人の手の大きさで言えば小学校五年生くらい。葉と葉の間からまだまだ空が垣間見える。その緑はまだ淡く薄く頼りなく葉脈だってはかなげで、陽の光は思うさま彼らをすり抜けてくる。
 五月は木漏れ日のいちばん美しい季節だ。

 自分が自らの人生でまだ何も成し遂げていないと落ち込むよりは、歳がいくつであれ、5月の葉っぱのような人でありたい。途上であるからこその、美しさ、軽やかさ、風通しのよさ。
 ざわめく心をひとり鎮めて、伸びゆくエネルギーに変えていきたい。5月の葉っぱのように。」

かつて自分の書いたことが、今の自分に優しかった。
そして、変わらない自分がいるのに、書かない間に、少しずつ何かを失い続けてきた自分に気づきもした。失ってきた経過を、書き留めてきてもよかったのではないかと思った。

38歳の自分が、45歳の自分に、そう勧めてきたのだ。

また書いてみようかと思う。

アイザック・ディネーセンの言葉に立ち返る。
「希望もなく 絶望もなく わたしは毎日少しずつ書きます」
38歳のわたしより、45歳のわたしの方が、この言葉を痛ましく味わえる。虚しい時間の経過が、ことばの意味をより際立たせるのだ。


2006年02月14日(火) ひと仕事終えて。

■正月明けからの仕事は厳しかった。心も体も酷使した。2月頭にひと仕事終えたときには、すべての疲れが胃と腸に集まって、水も飲めなくなり2日ほど点滴暮らし。
 でも、自分が現在出来ることが極限状態で分かったし、結果にも満足。たくさんの他者と仕事をする、たくさんの他者を率いてまとめるっていう難局を、今まででいちばんうまく乗り切れたような気もする。欲しかった眼が増えてきた感じ。少しでも他者を痛めたり傷つけたりしないで仕事するには、想像力を育てることだ。そして、たくさんの眼で世界を見ること。
 追い込みの5日間、午前5時まで仕事して午前9時には仕事始めてるっていう、睡眠不足がいちばんこたえた。食事を摂ると眠くなる体質なので、ついユンケルでお茶を濁してたから、胃腸がやられたんだな。……少し前まではそんなこと平気だったような気もする。年齢とうまくつきあっていかなければなあ。仕事する人間、ものを創る人間としてはようやく入り口にさしかかっているのだから。

■次の仕事まで、自分の仕事の準備をして暮らす。毎日、勉強勉強。その生活が、今は楽しい。
 30代に入ったばかりの恋人は、仕事帰り、毎日友人と飲み歩いている。かつては自分もそうだったなあ、と、ほほえましく懐かしく見守りながら、わたしは今、自己実現への勉強が、何より楽しい。それぞれの現在。


2006年01月09日(月) 孤独。

■仕事をしている時は、目標に向かっていつも突っ走っていて、自分のことを振り返る暇がない。恋人といる時は、ただただ生きていることがうれしい。仕事のための勉強をしている時は、ひたすらに自分の見たい作品を夢見てる。

■でも、ふと、一人の部屋で、無為の時間が訪れると、感じるのは、ただただ、孤独だけだ。寂しい、淋しい、と感じる自分が、いつも泣きそうになるのをこらえながら、次に為すことを探している。


2006年01月05日(木) 新しい年、新しい仕事。

■新しい年が始まって、すぐに新しい仕事が始まった。はじめて出会うスタッフ、はじめて出会う俳優たちと、すでに共同作業が始まっている。昨年末は自分の勉強のために、ほぼ閉じこもり生活を2ヶ月続け、年末年始は恋人と二人きり。ほとんど人と会うことのない時間が続いたので、今はとても新鮮。ただ、年明けからいきなり大変な仕事であることは間違いない。どうも、わたしは大変な仕事に呼ばれる質らしい。業界内見渡してみれば、楽そうな仕事はいっぱいあるんだけどなあ。……というか、わたしが呼んでるんだな。大変な仕事、燃えるものね。いい仕事、人をより喜ばせる仕事は、楽なはずがない。まあ、大変な思いして失敗作を作ってしまうこともあるけれど、それはそれで、次のためのステップになるだろうし。……稽古は始まったばかりなのに、チケットはもう完売してる。頑張らないわけにはいかないよな。

■新しい年を迎える前に、新しいノートパソコンを買った。(貧乏なのに。)愛用の外出用メビウスが、トロイの木馬に乗っとられて完璧にお釈迦になってしまったのだ。消したくないデータの数々を諦めて、リストアしてみたが、それでも駄目。不調は続き、リストアしたに関わらず、どんな方法を試してみても立ち上がらなくなってしまった。
それにしても、いったいいつどうやって、トロイの木馬は入りこんだのか? 変な添付ファイルを開いた覚えはないから、IEをたちあげている時に、へんてこなものをクリックしてしまったに違いない。どんなウィルス撃退ソフトを使っても駄目。HDのチェックを延々と続け、完全に撃退したと思っていても、またどこからか生まれている。その繰り返し。あげくのお別れ。
6年前までワープロを使っていた自分がすでに信じられないほど、仕事でもプライベートでも活用して暮らしてきた。ワープロは意外と堅牢で、故障で買い換えるというより、新機種が欲しくての買い換えだった。それが……。今度は落としたりしないで(そりゃあ壊れるっつうの!)、変なものに乗っ取られないよう目を光らせて、大事にしてあげようっと。ここから、新しいことばたちが生まれてきますように。


2005年12月19日(月) チェーホフとの日々。

■この間、この日記を書いたのは、もう一ヶ月以上も前のことなんだなあ。……あれから、チェーホフを読み続けていた。一ヶ月半弱、起きてから寝るまで、ずっと読んでいた。毎日、毎日。……たまに次の仕事の打ち合わせに出ていったり、十日に一度くらい恋人に会ったりする以外は、ずっと。
ひとつ読んではあらすじをまとめ、感想を書き、心に残る描写やことばを抜き書きしていった。もう、なんというか、自分でも呆れるくらいの入れこみ方だった。

44歳で亡くなったチェーホフが生きている間にやったことを、わたしは44歳になった今からやろうとしている。そんな生きる欲求と意地が、わたしを動かしていたんだろうか?

■中央公論から出ている全集に収められた501の短篇を、今日、すべて読み終えた。ファイルメイカーで作ってきたデータベースは大変な文字数、ページ数になった。そのこと自体にも、ちょっと感動するのだが、いや、そんなことより、何よりも、何よりも。

501篇の中で、わたしは本当にたくさんの、生きた人間たちに出会った。誰も彼も、チェーホフの描いた人間たちは、みんな懸命に生きていた。十九世紀に生きる彼らは、二十一世紀に生きるわたしたちとほぼ変わりなく生きていた。

愚かな者も賢明な者も、富める者も貧しき者も、身分のある者もない者も、聖なる者も俗なる者も、名のある者も名のない者も、恋に喜ぶも者も泣く者も、運に恵まれた者も運に見放された者も、健全なる者も病める者も、教育のある者もない者も、正しき者も狂える者も、社会に有益な者も無益な者も、男も、女も、老人も、壮年も、青年も、子供も、赤ん坊も、時としては犬も、鳥も、虫たちも! そして、大いなる大地、大いなる自然、人間と共存するすべてのものが、輝いて、時に暴れて、普遍の営みで人間を潤したりいたぶったりしながら、その懸命に生きる者たちを見守り育くみ、淘汰していた……。

人生は時として苛酷で、時として優しく、無数の生きる喜びの裏には無数の生きる哀しみがひそんでいた。それでも、501篇を通り抜けた後に残るのは、やはり、どうであれ、「生きる」ことなのだ。

さあ、こんな体験のあとに、わたしはどうしよう?
演劇人としてチェーホフの戯曲はすでに読破していたから、これで作品群はすべて読み終えた。これから、チェーホフを友に、わたしは自分を、どう生きていこうか?

■それにしても、読書好きで通してきたわたしも、44年間、こんなに読書だけで過ごし続けたのははじめて。読書って、「経験」なんだなあ。

チェーホフはすごいです。彼の短篇はどれも宝物です。一篇一篇解説して、伝道者になりたいくらい。

ああ、本当に、明日から何をしよう?
短篇を越えてきた自分で、もう一度戯曲を読み直そうか?それとも、サハリンシベリアの記録に移るか、それとも、自分で書き始めるか……。
とりあえず、自分を、見つめなきゃなあ、これからを生きるために。生き直すために。


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