覚 書

日記だったり日記じゃなかったり

2011年03月26日(土)  東日本大震災覚書き/11日・12日

東日本大震災後最初のツイッターのログもなくなっているのでここらが書き留められる限界かなと思った。
そろそろ自分用に記録しておこうと思う。



■3月9日(水)

11日ではないけどこの日にも少し大きい地震があって、親に安否確認のメールを入れてる。むしろお前んとこが大丈夫か的な返事をもらっていた様子。
いつもよりは大きくてこれが宮城県沖地震なんじゃなんて翌日職場で言っているひとがいて、まさかこんな程度で済むわけないよと笑い話をしていた。

これが前震だったのでは、と後にラジオで聴く。



■3月11日(金)

ちょうど昼寝しようと寝入って20分ほどでなんでかぱっちり目が醒める。同時に揺れを感じて飛び起きた。揺れたから目が醒めたのか嫌な予感でもしたのかはわからない。
飛び起きついでにがらっと部屋の引き戸を開ける。梁が歪んで閉じ込められるの防止。窓はあるけど、窓開けるより戸のほうが近かった。

潜れる机なんかはなく、しかし倒れて挟まれたら動けなくなりそうな家具は足下の本棚くらいだったのでその場で布団をかぶって蛍光灯が落ちてきた場合に備え、隣の部屋正面にあるテレビが吹っ飛んでこないかを用心しつつきょろきょろ。
ついに宮城県沖地震が来た、と確信していた。こう考えた宮城県在住者は多いと思う。

ぐらぐらぐらーと揺れて、治まるか? と思うとさらに強い揺れが、というのを何度も繰り返したように思う。むっちゃ長かった気がするけど実際どのくらいの時間だったのかが解らない。のちに連鎖して次々プレートが破壊されたと聞きなるほどその揺れか、と思う。

本棚の上に付けてた防振用の突っ張り棒が寝室・居間どちらの本棚からも外れてふっとんだのが見えた。不安定な形のiMacがキーボードを潰して倒れ、うわああいまっくしんだかも! と思ったところにパソコンの向かいにある本棚が倒れて更に押しつぶした。完全にiMacは壊れたと思った。

パソコン置いてる机の後ろの金属ラックの上に付けてる防振用突っ張り棒が斜めってきたのが見えた。ラックが崩壊したらかなりまずいな、と考えながらもこの揺れが怖くはなかった。
もともと地震の揺れで怖さを感じることはないほうなんだけど、それにしてもどきどきはしたけどどっちかというと興奮のどきどきであって怖さではなかった。体験したことのない揺れではあったし、気持ちの麻痺もあったのかとは思うが。

ようやく揺れが治まって、とにかく窓だと窓を開ける。すんなり開いた。
居間に飛び込み倒れた本棚を退けなくては、と手を掛けるも雪崩れた本と本棚の前に詰んでいた荷物が邪魔で立てられない。荷物を引っ張り出すも本棚が重すぎる。
とにかくこの本棚を立てなくては外に出られないので、まだ詰まっている本とつっかえている本を手荒く掻き分け落として軽くなった本棚を立てた。

ここで慌て過ぎていたため小冊子とかゴミを本棚の下に巻き込んでいたのに気付かず、今もって挟まっているので余裕が出来たら本棚整理のついでに取らねばならない。

とりあえず本棚を立て道が出来たので大量の本を跨いでキッチンへ出る。なんと食器棚は無事。そのうえ棚の戸が閉まったままだったお陰で、食器棚内の食器が全て無事というミラクル。
レンジは扉を半開きにしていたはずなのが振動で閉まったようで、おかげでターンテーブルも飛び出すことなく無事。
この後の被災生活の命運を分けたと言っていいと思う。うちのレンジはターンテーブルだけとか売ってないので割ったら取り寄せ。昔割って苦労したことがある。

とりあえず食器棚が無事=足下に散らばる破片はない、ということを確認して玄関へ直行。ドアを開ける。すげえ軋むが問題なく開く。
そのまま開けておいて風呂場へ直行。電気付かず。この時点で即停電していた。
水は出たので断水が来る前にとバスタブへ水を張る。

バスタブに水を張っている間にキッチンへ。コンロを捻る。火が付いた。ガスはこの時点では来ていたらしいが、ガス管に残っていたガスで火が付いただけかもしれない。今となっては確認のしようがない。
というか今考えるとガス漏れしていたらここで死んでいた。マイコンメーターがガス漏れは察知してくれるはずだが、それにしても危なかった。

PHSを確認。圏外。一時的に混んでいるのだろうか、と思うがPHSは災害時に強い。向こうが受けとれなくてもこちらから発信はできる。それが電波なしとはこれいかに。
実家と相方にメールを書くも、当然送信できず。しばし時間をおくことにする。

この時点でわたしは未曾有の大震災であったことをまったく予想していなかった。宮城県沖地震だと思っていたので被害は宮城県に集中しているものと思っていた。
我が家の地域は保険屋が太鼓判を押すほど地盤が固いらしく地震被害はさほど出ないので、震源に近い方はもう少し酷いかも知れないな、程度には考えてはいたがその程度だった。

荷物で塞いでいたダイニングテーブルの下から踏み台を出す。一応のためにブレーカーを上げたり下ろしたりしてブレーカーが落ちたのか停電なのかを確認。もちろん停電していた。

踏み台はいつ必要になるかわからないのでとりあえず出したままにしておき、すこし前にたまたま発掘して手元においていた懐中電灯を確保。電池をあさるがちょうどいい電池がない。
入りっぱなしの電池がいつ切れるかわからないので節約して使うことにする。

バスタブの水を見に行くとなんか濁ってる。懐中電灯で照らすと真っ茶色。どこかで水道管が破裂したようだ。これは断水がくるのでは、と思う。

水を止めて蓋をし、家電から電話を入れてみるがどこも通じない。

普段使いのでかい斜めがけバッグに現金・懐中電灯・チョコレート・飲みかけのペットボトルお茶・PHS・充電器を詰め込み、ダウンを着て戸締まりをし一度外へ。この時着たダウンを丸二日ほど脱げなくなった。寒すぎて。
バイクは倒れずに無事。両輪がパンクしていた乗れない自転車が倒れていたので直す。

情報がまったく入ってこず、震度も、震源地も解らないためどこか避難所はないかとうろつく。雪がちらついてきた。
遠くでサイレンが鳴っているが、何を言っているのか聞き取れない。聞き取れないということは水害はここにはあるまい、と思うことにする。
実際のところ川より低いところにある土地なので川が氾濫すれば一発で冠水する。

交差点の信号が付いていない。地域一帯が完全に停電をしていること、道一本向こうの水道管が破裂して水浸しなことを確認し、吹雪いてきたので一度帰宅。
もの凄い吹雪いてきたので傘を持って、少しはなれた小学校へと行ってみる。みちみちPHSを確認するが電波は復帰せず。
吹雪は直ぐに止んだけど雪だるまになるくらい吹雪いた。地震雲的な…? とか考えてひとりで気味悪がる。

途中公衆電話で話しているひとを見掛けて公衆電話は災害時でも大丈夫、と覚える。
小学校に着くも人の出入りが解らず、一応指定避難所なはずなんだけど、とうろうろとしつつ諦めて引き返す。

一度帰宅。暗くなる前に真っ暗でも一直線に玄関へ出れるように道を作るべく、本の山を寄せる。
片付けがてらお茶か何かについてきた鈴を見付け、PHSへと付ける。家電よりPHSのほうが災害時は通じる、と信じていたのでこれが生命線になると思っていた。
実際PHSは強いんだけど、今回の地震の場合はソフトバンクの基地局が死んだのでPHSも通じなかった、というオチだったと後で知った。もちろん他のキャリアも軒並みだめだったし、これだけの広域災害ともなれば致し方ないことではある。

そしてこれが失敗だったのだけど、ここで冷蔵庫を開けてしまった。
冷凍庫のものを保冷袋に詰め込み再び冷凍室へ。
冷蔵庫は開けなければ冷蔵庫そのものがしばらく保冷していてくれるのだと知ったのは電気が復旧してらだった。また停電になったときには参考にする。

キッチンでいろいろやっているときに椅子の角で額を強打。たんこぶていうかへこんで数日痛かった。今回唯一の負傷。

再び小学校へ。
途中行き会ったひとに避難所を知らないか訊いてみたが、この辺りに住んでいるわけではないので知らないと言われる。時間が経ってきたためか、次第に家へ急ぐ勤め人や学生が目に付くようになる。

小学校は相変わらず人の出入りがわからず踏み込めない。学校なだけに、避難指示の出ていない場合には単なる侵入者として通報されそうな気がして尻込み。
仕方なく戻る。だんだんと暗くなってくる中、途中ふとコンビニ、と思いついて足を向ける。
ラジオを流しているかも、と考えてのことだったが、コンビニは既に人だかりが出来た後のようで、商品がなくなったので閉めますの看板。みんな行動早いわ……と思いながら家へと引き返す。
途中公民館的な建物があったのを思い出して覗くと人が出入りしていた。あとでラジオを聴きに来ることにする。

帰宅。PHSは相変わらず通じない。相方が石巻方面で仕事をしている可能性が高かったので、津波があったのかどうかだけでも知りたいのだが情報源がない。

ふと災害伝言ダイヤルを思い出すも番号が思い出せない。散々考えて思い出せなかったが代わりに捨てていなかった古いタウンページがどこかにあるはず、と思い出して慌てて探す。
なんとか見付けて引っ張り出し、171へ伝言。
このときにはまだ171は通じたが、のちに171すら通じなくなり正直意味はなかったけれどイナイの番号は覚えておこうと思う。

水がまだ出ているのを確認して、避難所へ。避難してきた人がそれなりにいる。ボランティアのひとが働いていて、入り口のところに音声だけテレビがあったので椅子を持ち出して勝手に聴く。
ラジオではなくテレビの音声なのでなにがなにやらさっぱりだったが、とにかく大きな津波が各地にあったことだけはわかる。

今思うとたぶん気仙沼の大火災の上をヘリでレポートしていたのではないかと思う。けれど聴いていたそのときには何があったのかまったくわからなかった。
思ったより被害が大きいとは思ったけれど、まだ東日本全土が被災しているなど考えてもいなかった。

震度はなんだ震度は、と考えながら聴いていたら不審に思われたのか大丈夫かと尋ねられた。
ちょう元気だったので大丈夫ですうちラジオないんですよーところで震度って何度だったんですかと訊くが、ボランティアのひともまるでわかっていなかった。
震度8とか言われていやそんなんきたら仙台壊滅だわ…と思う。おじさんはたぶんマグニチュードと間違えてた。
うちのあたりは5くらいかなあ、と考えていた。たぶんそのくらいだったんじゃないかと思う。6もないんじゃないかと思うが、道路一本はさん出向こうはもっと揺れたんではないかと思う。近所だがこちらと違って地盤ゆるゆるらしい。

和室のほうへ音声だけテレビが移されたので、くっついて和室へ上がる。
座り込んで聴いていると、わたしの住んでいる区域がものすごい被害で何百人と亡くなった、と当日夜の段階で断言されてしまいまるで区内すべてが全滅かのような報道がされたため、これは早く連絡をとらねば家族友人知人みんながわたしが死んだのではと気を揉むぞ、と思う。
それから何百人ってどういうことだ、と初めてじわじわと嫌な予感がした。

音声だけテレビを聴いていてもレポーターの見えますか! に見えねーよ、としか返せない状態が続いて新しい情報など何も入ってこないため、相方が戻ったときのために自宅へ戻る。
このとき得た情報で、どうやら宮城県沖地震ではないらしいと知るが、この規模の地震がもう一度くるのかと少し滅入る。

余震が続き、火の気が絶えている上に部屋と廊下の扉を念のために開けはなしていたためものすごく寒い。
とにかく厚着をしてダウンを着たまま布団へ潜る。PHSはずっと圏外。

寒いしご飯もないし、興奮が続いているのか食欲もないしですることがないのでうとうとしたりPSP持ち出してたまたまデータがあった録画した番組を見たりして時間を潰すものの相方帰宅せず。
飲み物は冷蔵庫に入れていたパックのお茶があったのでしのげた。

家の前に車が止まったので相方か!? と懐中電灯を持って飛び出すも隣家の方。
家が潰れたかと思ったけど大丈夫でしたよーすごかったですね、と言われてほんとですよねーと少し話をして戻る。



■3月12日(土)

高速を使えずに仙台に戻ってくるのに時間が掛かっているか会社で拘束されているかどちらかだろうか、と考えながら少し長く転た寝してふっと携帯を見ると午前2時半。飛び起きる。いくら何でも遅すぎる。会社まで戻れているのならば顔を出すはず、と思う。
このとき初めて相方は死んだかもしれない、とちらと考える。

同時にずっと圏外だったせいでPHSの電池が死にかけなのに気付き、慌てて電源を切り懐中電灯を頼りにメモ帳とペンを探す。
PHSに電源を入れ、電話番号をひたすらメモ。必要な部分を書き出し、PHSは電源を落としておくことにする。

二度びっくりしたせいで目が冴えたがトイレに行きまだ水が出ることを確認し、玄関を出て外を見る。雪が降ったり止んだり。
カーテンは道路に面している窓のところを半分だけ開けていたが、ひっきりなしにヘリのライトが差し込んでいた。
明確に非常事態なんだ、と考えたことはなかったが、確実に非常事態だった。

何度か家電から電話をするがどこにも通じない。
そのうちオッサンの声で「171に電話してください」と言われて切られる。録音というかんじではなく東北訛りのふつうのオッサンの声だったんだけど電話局の人だろうか。深夜の電話でしらないオッサンの声ってこわい。
その後電話は不通に。

目が冴えてはいたものの朝方に少し転た寝して5時頃起き出し、6時半頃に避難所を覗きに行く。とにかく情報が欲しかった。
途中昨日は破裂していた水道管が直っているのを見る。昨夜は雪も降っていたというのに直したのか! 水道局すげえ! と作業員を心の中で絶賛。

なんと新聞が出たようで貼り出されていた。紙面縮小の上配達が遅れてすみません、の断り書きに新聞屋さんもすげえと感嘆する。

大きくM8.8の見出し。唖然とする。

新聞を読み、これは相方は本当に死んだのでは、と思う。会社で拘束され連絡が取れないだけならいいが、石巻に本当にいたなら津波に呑まれただろう、と考える。取り敢えず落着いてはいた。

これは岩手沿岸の実家もまずいかもしれない、と親も最悪死んだかもしれないと考えながら避難所を出るとたまたま配給の時間だったらしくおにぎりをいただく。
有り難く受け取るが特に空腹でもなかったので、帰宅し相方が帰ってきたときのために職場へ行ってみること、いない時には避難所にいることと地図を書き記しておにぎりを添えて相方のパソコンデスクへ置き、とりあえずバイクで出勤。
道すがらの状況と職場の状況、それから電話が通じるエリアが欲しかった。

仙台市街はぱっと見はさほどのダメージは見受けられなかったが、大きな交差点以外は信号が全滅。ただし車はほぼ通っていなかったのですんなり職場到着。

付いた途端ばったり会った上司に今日はないよー! と言われる。
ただ荷物は入っているから、月曜は忙しいかもしれないのでわたしは非番の日だったけどできれば出てほしい、と言われ、相方が石巻に行ったかもしれないこと、連絡がとれないことを話し状況がわからないので無理かもしれないと伝える。
できるだけ連絡は入れる、と上司と別れ、近くの公衆電話へ。長蛇の列。
これは……と別の公衆電話を探すべく進むとコンビニが開いたらしくこちらも長蛇の列。
飲み物だけは確保せねば、と突撃しなんとか売ってもらう。水はなかったのでジュースとお茶とお菓子を少量。食べ物はもう狩られ尽くした後という様子。

他の公衆電話がさらに長蛇だったので戻り並ぶ。前に並んでいたひとにコンビニが開いていたことなど世間話をし、電話。相方に通じて驚く。

やはり石巻にいたようだが車を持ったまま運良く逃げ出せて、一晩高台の避難所で明かし日が出て来たので抜けれる道を探しながら一旦北上して今は仙台に向かって南下中とのことだった。まさに間一髪だったようだが怪我もなく命拾いはしたようで取り敢えず安堵。

親には電話は通じず、相方の実家にも通じない。
友人知人にも通じず、関東関西の友人は電話は通じても出なかったので数人に留守電だけ残し、少なくともその周りの友人には生きていることは伝わるだろうと一旦電話ボックスから離れる。
PHSは電波が復帰しなかった。

そのまま相方の実家へ様子を見に。全員の無事を確認。

一度帰宅。
さすがにおなかが空いたのでおにぎりを半分食べる。すっかり冷めた上に生米。男のひとが炊いたのだろうか…と思いつつ残りを置き、家電を使おうとするも通じない。
何度か掛けるうちにこの電話は故障していますとか言われる。おい昨夜まで故障してませんでしたよ…! と思いつつ徒歩で小学校方面の公衆電話へ向かう。公衆電話ね「この電話は故障しています」と同じアナウンスが流れ、どうもこの辺一帯の電話がダメなのだと知る。

お米屋さんで灯油を売っているのを見掛けるものの、うちにはファンヒーターしかなく電気が来ない以上灯油だけあっても…とスルー。電気が回復したときのことを考えればよかったのにまったく思いつかなかった。
このあとも電気関係のことではわたしの頭の線はまったく繋がらずいろいろとボケていろんなひとに笑われた。

近所を探索して小さな商店が開いているのを発見。菓子類などを買う。

朝に避難所にいったときに見た掲示板に、少し離れた駅の電話ボックスは通じますと伝言してあるのを見ていたので、他人宛ての情報ではあったが有り難く利用させてもらうことにし、昼過ぎに再びバイクで出動。
行く道がもの凄いうねっていてまるでオフロード。バイク乗りの友人がオフ車最強と言っていたがまさに、というかんじ。液状化凄すぎる。
そのあたり一帯は昔田んぼだったらしいと後で知る。

駅前に着くも公衆電話は長蛇の列。日陰でちょう寒い中電話を待つ。
実家には繋がらなかったものの関西の友人に繋がり、無事を伝え他の友人にも伝えてくれるようお願いする。相方に引き続き声が聞けて安堵した。

電話を終えて駅前でひなたぼっこしながらPHSの電源を入れてみると辛うじて電波が入り留守電メッセージありと出た。驚いて実家に電話をするも繋がらない。
留守電を聞く。電波が弱く全ては聞けなかったが、相方からと、実家からと、友人からの伝言が聞けた。取り敢えず電波を探しながら実家にメールを送信。届くかはわからないが両親の無事が確認出来てほっとする。
伝言を入れてくれた友人に掛けるために再び公衆電話に並ぶも、今度は繋がらず諦める。
充分にひなたぼっこをしながらあちこちに届くかもわからない生存報告メールをし、帰宅。

この日は19度くらいまであったらしいのだが家がもの凄く寒いため、避難所のすみっこでひなたぼっこをして休んでいるところに相方帰宅。朝方から夕方まで掛けて仙台に戻ったらしい。生米のおにぎりは食われた。

一度帰宅。とにかく当座使うものなどを集めて部屋に設置。バスタブの泥水は一度抜き、もう一度溜める。だいぶましにはなったもののまだ濁っているのでとても飲める状態ではない。

暗くなって寒くなったので情報収集に避難所へ。ストーブがあったので暖を取り、自宅の中ががちゃがちゃでとても眠れないからと避難してきた見知らぬ方と話をして情報交換。
19時過ぎまで時間を潰し、帰宅。相方の車で暖を取りラジオを聞きながら、相方の携帯が電波も電源も生きていたので実家に電話。繋がらない。母の携帯もずっと通じない。
関東と関西の友人に電話。通じる。
地元が岩手繋がりの関東の友人と話をし、実家方面の情報などをいろいろと仕入れる。津波被害が割合酷いことを確認。
それからやっぱりわたしの住居地区の被害が酷いと報道されていたようで死んだのでは思われていたこと判明。生きてます。

充分に温まりダウンを着たままふとんへ潜る。することもまるでないので寝る。

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