月の輪通信 日々の想い
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昨年1月に乗り換えた愛車のオドメーターが1万キロを越えた。 駅への送り迎えや近隣のスーパーへの買い物、義父母の通院など、一回数キロ単位の近距離限定の日常の脚。それでも、「塵も積もれば」で、走行距離は5ケタに突入した。 9999のゾロ目をデジカメで撮っておきたいと思っていたのだけれど、ふと気づいたら、1万キロを数キロ越して、半端な数字が並んでいる。
何なんだかなぁと、愚痴る日もある。 朝、「遅刻だぁ」ともどかしげにブーツのひもを結ぶ女子大生を駅まで送る。 「窯、400度で強、795度で止める。止まったらメールして。」と窯番を命じる夫を駅へと送る。 「いっつもすまんな。運転できたら、病院くらい自分で行けるのに。」と、くの字に曲がった背中で、助手席によじ登る舅を病院に送る。 休日の早朝、「今日の試合は、全然勝てる気がせん。」と、重い防具袋を後部座席にずしりと積んで、天井につかえそうな長身の息子を助手席に乗せる。 「1時に消防署んとこで、待ち合わせやねん。」と、数日前から念入りに考えたハロウィンの仮装を忍ばせて、晴れやかにあそびに出掛ける中学生を路肩に寄せて、下ろす。
送って行った者たちは、たいがい、何時間か後には迎えねばならぬ。 「○分、枚方乗ります。」 「○分、私市着。迎えてくれる?」 軽やかなCメールの着信音が、私設タクシーの出動を求める。 日に何度も、工房から駅までの1キロ弱の細い山道を下り、上る。 その積み重ねが、1万と数キロ。
工房2階に住む義父母が年をとり、日常の些細な事柄にも何かとサポートが必要になってきた。職住一致の工房には仕事関係の電話もひっきりなしにかかってくる。 営業活動やら、教室の講師やら、義兄や父さんの外出の機会も格段に増えた。 で、必然的に、主婦兼パート従業員である私の重要な任務は、留守番。 工房の洗い物や荷造り仕事を粛々とこなしながら、日の当らぬ荷造り場で日中の多くの時間を過ごす。 合間合間に、送りと迎え。 そんな日常。
守りの年齢になってきたのかなと思う。 子どもたちはそれぞれてんでに散らばっていく。 愚痴りながら、鼻歌を歌いながら、スニーカーをつっかけながら、「傘、要る?」と訊きながら。 父さんも義兄も、ぎりぎりまで粘って片づけかねた仕事を、「悪いね」と言い残して、外回りの仕事に出ていく。 いってらっしゃいと送り出し、お帰りと迎える。 それが今の私。
同じ年代の子育て仲間だった女性たちが、動き始めている。 職場の制服に身を包み、忙しく立ち働く友を見る。 情報誌の一角に、趣味を生かしてクラフトの講師を務める友の名を見つける。 母上の地盤を引き継いで、地域の市会議員になった女性もいる。 子育てを一段落させ、新しいステージに勇敢に挑んでいこうとする友人たちを眩しく見上げながら、駅のロータリーの人ごみの中、降りてくる家族の姿を探す。
送り迎えしなければならない家族がいる。 手助けを必要としている老人たちがいる。 離れられない場所、そこにいることが仕事である空間がある。 私はまさに守りの人。 それでよいのだと、自分自身に言い聞かせる。
本日発送予定の荷物の納品書に日付を書き込もうとして、ふっと気がついた。 11月4日。今日は、結婚記念日。 今朝、大慌てで駅の改札を抜けて行った父さんは、気が付いていたんだろうか。 うっかり見落とした9999のぞろ目と、危うく忘れかけた大切な記念日。 どこか似ている。 ちょっと笑える。
来週、守りの人、少しだけ攻めてみる。 小さな一歩。
この日曜日のお茶会に向けて、義父の担当分である水指(みずさし)の生地がようやく出来上がった。 素焼き前の生地に栗茶の化粧土で描いた山河の風景。 義父が若いころから得意としてきた、大和絵風のパノラマの技法だ。
ここ数年、義父は腰が急速に曲がり、歩行の速度や距離も著しく衰えてきた。 また帯状疱疹の後遺症による日常的な痛みに悩まされており、「痛い、痛い」が口癖になっている。 痛みのひどい時には、一日中ご機嫌が悪く、仕事場へ入られることもなく、横になっておられる時間ばかりが増える。 唯一、得意のおしゃべりをなさっている間だけは、気がまぎれるのか、痛みを訴えられることが少なくなる。家族や教室の生徒さん、来窯のお客様や通りすがりのハイカーに至るまで、おしゃべりのできる相手を見つけると長い時間昔語りに興じていらっしゃる。
義父のおしゃべり好きは、若いころからの事。 ニギハヤヒノミコトの話や、北河内地区のそこここに残る古墳のお話、出征していた頃の異国の風土の話。 義父十八番の昔語りは長年にわたり、何度も何度も繰り返され、家族にとってはそれこそ耳にタコができるほど聞き馴染んだ話題でもある。 しかし、最近になって、そのおしゃべりの中でも、重要な固有名詞が思い浮かばなくなったり、別の話題がいくつも交錯して脈絡がなくなったりしてしまうことが増えた。 義父自身もそのことがもどかしく、イラついたりぼやいたりして、またおしゃべりの時間が長くなる。
「なんで、こんな些細なことが思い出せなくなるんやろう。 これまで知っていたことや聞きためた知識は、このままどんどん消えてなくなっていくんやろうか。」 嘆きとも不安ともつかない呟きを洩らす義父。 いつもは義父の長すぎるおしゃべりにいくらか辟易しつつある私だが、「老い」という深い淵を見下ろし、立ちすくむ人の背中の小ささに胸の痛む思いも湧いてくる。 日一日と衰え、小さくしぼんでいこうとする人の生を、何と言って慰めればよいのだろう。
数年前、ひいばあちゃんが亡くなったときの事。 ひいばあちゃんの小さな亡骸を荼毘にふす時、 「ああ、この人が生前身につけた技術や知識、記憶や思い出、そのすべてが一緒に燃えてなくなってしまうのだ」 という思いが募り、心から惜しいと思った。 ひいばあちゃんの肉体という引き出しに、ぎっしり詰め込まれていたであろう知識や技術は、ひいばあちゃんの死とともに永遠に閉ざされ、無に帰してしまう。 それが、人が生きて死ぬということなのだと、初めて思い知らされた気がする。
義父という引き出しにおさめられた、数々の経験や知識。 その一つ一つを惜しみなく誰かに伝えようと、滔々とおしゃべりをやめない義父。 けれど、その出力量は老いとともにどんどん少なくなリ、先細っていく。
「大丈夫ですよ、お父さん。 お父さんの知識や経験は、ちゃんとお父さんという引き出しの中に残っていますよ。 ただ、その引き出しの開け方がちょっと難しくなってきただけなんじゃないですか。」
私は笑って、慰めにもならない軽口で義父の嘆きをかわすけれど、日に日に開きにくくなる義父という引き出しの中身を、どうして差し上げればよいのかが判らない。 「老い」という淵は、遠目に見ても、とてつもなく深い。
今日、どうしてもやらなくてはいけない大仕事とか、 明日、どうしても会わなければならない嫌なヤツとか、 いくら考えてもすぐには答えの出ない、苦い難問とか、 考えれば考えるほど、ウッと息がつまりそうになる暗い不安とか、 パラパラと手の中から零れおちていくのをただ見送るしかない希望とか、 鍵のかかる箱に入れて、遠くに置き去りにしてしまいたい自己嫌悪とか ワッと叫んで逃げ出してしまいたくなる、日々の限りないルーティンとか。
そんなものを、おそらくは私より数倍たくさん抱えているはずなのに、 なぜこの人は、逃げもせず、立ち続けることができるのだろう。 日に数時間の短い仮眠を貪るように眠る人の寝息を間近に聞きながら、 土と釉薬で荒れた手にマニキュアの剥げた指先を重ねる。 この人のこの手に、私は守られているのだ。 私のこの小さな手は、この人の何を支えていくことができるのだろう。
私たちはまた、この難所を越えていく。 きっとまた、越えて行ける。 だからお願い。 「大丈夫。」と言って。
ゲンの高校入学。 オニイ、アユコ、アプコの進級。 東京での、初代150回忌法要茶会。 東京日本橋三越での展示会。 怒涛のように過ぎて行った四月。 否応なしに乗せられたトロッコで、先の見えない峠の道を全速力で駆け降りて行くような、嵐の日々。 工房と自宅の間の短い距離を、ただひたすらにこま鼠のようにせかせかと往復する毎日。 今年の桜はいつの間に咲いて、いつの間に散っていったのだろう。 空はもう、私の好きな5月の色だ。
初代150回忌の法要茶会を執り行ったのは。4月11日。 初代の菩提寺を借り切って、法要と記念のお茶会が開かれた。 窯元からは、義父母、義兄夫婦、従業員のNさん、M君、私と父さんとオニイが車で上京。 お寺の方々や茶道のお社中の方々の助けを借りて、100人近くのお客様をお迎えした。 慣れぬ土地での催し。 しかも歩行や健康状態に不安のある年寄りたちを連れての2泊3日。 途中、口を利くことさえ面倒になるほど疲労困憊の場面もあったが、なんとか無事に終えることができた。 何よりよかったのは、年老いた義父母が150回忌という大きな法要を無事務められたことをとても喜んでおられたこと。 父母の悪戦苦闘ぶりを見かねてツアーに同行してくれたオニイが、義父母のお世話や茶会でのお客様との対応に、思いの外よく頑張ってくれたこと。 そして、父母の不在中、新学期のあわただしい時期にもかかわらず、3日間の留守番生活を乗り切ってくれた子供たちの成長に感謝。
法要に引き続いての日本橋三越の茶陶展。 2年ぶりの大舞台。父さんも2度に分けて、一週間に計4日間の会場入り。 留守宅を守るのは、例によって、私の役目。 来月のお茶会のDM作成や発送に追われながら、義父母宅の家事、電話番。
法要旅行と茶陶展の合間には、事務のNさんが突然の入院。 ご高齢なので、もうこのまま退職なさるかもしれないという。 ただでさえ煩雑で、膨大な事務作業。 多忙で留守がちな義兄一人で、Nさんの不在を埋めていけるとは思えない。 怒涛の余波は、またこちらに押し寄せてくるのだろうか。
朝からよいお天気。 子どもらはそれぞれに慌しく出かけていく。 今日はアプコの通う小学校の入学式。 6年生になったアプコは、最高学年として新入生を迎えるために少し早めに家を出た。 高3に進級したアユコは、春休み最後の講習。 少し遅れて、高校の入学式を控えたゲンが、制服を受け取りに出かけた。 久しぶりにみんなが出かけてガランとした家の中。 ここぞとばかりに窓を開け放し、掃除機をかけ、干し物をする。 春になると、窓ガラスの汚れがやたらと目に付くようになるのは何故だろう。 川向こうの山桜が、ハラハラと花弁を散らして、水面に落ちる。
ゲンが進学するのは、アユコとおんなじ、隣の町の公立高校。 「自転車で通学できて、剣道が楽しくやれそうな学校」というシンプルな志望動機で選んだ学校だ。 制服は黒の詰襟学生服。これに防具袋と竹刀を担いで自転車に乗れば、古風な昭和の高校生の出来上がり。朴訥で、とんとオシャレの香りのしないゲンにはお似合いのスタイルになるだろう。 そういえば、先日、東京の弟からゲンに電話があった。 「入学祝いに何が欲しい?」と問う弟に、ゲンは「満ち足りてます。」と答えたのだという。あとでふたたび電話をしてきてくれた弟が、笑って教えてくれた。 これといって贅沢なものを買い与えたこともない。 特別甘えたり、何かをねだったりするわけでもない。 一緒に買い物に出かけても「いいよ、いいよ。」と首をふる無欲なゲン。 15の春を迎え、新しい環境の中へ歩き出そうという今、彼の心のなかに溢れるほど満ち足りているものとは、いったい何なんだろう。 実り多い高校生活となることを祈る。
午後から、陶芸教室の新年会。 義兄と父さんがそろって出かけていった。 朝から、焼きあがったばかりの生徒さんの作品を包装し、福引用の作品を箱に詰め、箱待ちだった香合の発送を手配したら、午後いっぱい、ぽっかりと時間が空いてしまった。 しゃあないなぁ。 年末から荷造り仕事の多忙を言い訳に見て見ぬ振りを決め込んでいた作業場前の落ち葉掻きにノロノロと取り掛かる。
年末年始、お人が頻繁に通る玄関前やお茶のお稽古に使うお茶室周りの落ち葉は毎日義母が体調のいい時間を見計らってほそぼそとお掃除してくださっていた。近年、すっかり荷造り仕事から手を引いてしまわれた義母にとって、庭の落ち葉掻きは残り少ない工房仕事の役割の一つなのだろう。 「わたしは掃除が好きだから」と、時には日が暮れるまで依怙地のように降り積む落ち葉をかき集めておられることもある。 落ち葉っぱい集めた箕に長いひもを結びつけ、アスファルトの地面を引きずって谷まで運ぶ。10年前ならひょいと持ち上げてさっさと谷まで運んでおられた軽い軽い箕をズルズルと引きずって歩くその様は、まるで幼い子の拙いお砂場遊びのようだ。年をとってしまわれたのだなぁと胸が痛む。
数年前までは、休日に子ども達を総動員して、ワイワイと賑やかに取り掛かっていた落ち葉掻き。 オニイが巣立ち、アユコやゲンも部活や図書館通いで休日には家にいないことが増えた。今はまだ、かろうじて家に残ったアプコが気まぐれに手伝ってはくれるものの、すぐに彼女も出払ってしまう年齢になるだろう。 義父母が老い、子ども達は成長して、やがて巣立っていく。
5年先、そして10年先には、あいも変わらず庭の落ち葉を、私は一人で細々と掻き集め続けているのだろうか。 降り積む落ち葉の量は、10年前も20年前も大して変わってはいない。 変わっていくのは人の営み。 ただそれだけのことだ。
私と父さんの結婚記念日。 たぶん20年目。 普段はこれといってお祝いなどはしないのだけれど、調べてみたら、20年目の結婚記念日は陶器婚式というらしい。 たまたま遠方へ数物の注文品の納品の仕事があったので、ドライブがてら朝から出かける。
途中、結婚前に何度かいった神戸の飲茶専門店でお祝いランチをと楽しみにしていたのだけれど、行ってみるとたまたま定休日。 すぐ近所の別の老舗中華屋さんでお手軽ランチとなった。 800円也の海老チリ定食、なかなかの味とボリュームで大当たり。やっぱりこういう庶民的な中華料理は神戸に限るとご機嫌さんでいただいた。
納品先は姫路の古いお寺。 私の実家のおばあちゃんの菩提寺からのご注文品だ。 お寺への地理が怪しかったので、途中実家に立ち寄り父から詳しい道順を聞く。結局、ナビゲーターがわりに父に便乗してもらうことになり、当然のように母も一緒に乗り込んで、姫路へ向かった。 車内4人。賑やかにおしゃべりしながらのドライブは楽しかった。 おかげで約束の時間通りに無事納品を済ませた。
結婚してから20年ということは、この父母の手元を離れて20年。 私自身が親となり、子ども達の成長と夫の両親の老いを見守る日々。 ともすれば日常の雑事に追われて、自分がこの両親の娘として大切に育んでいただいた年月を忘れて過ごす。 それでも、父が急に外出するといえばするりと車に乗り込む母の要領、一人分には多すぎる和菓子の半分を母に残して取り置く父の習慣は、長年連れ添った夫婦の形として、紛れもなく我が凸凹夫婦に引き継がれている。 面白いものだなぁと思う。
最近の父さんは、工房での仕事のほかに、教室やら工芸会やら外での仕事も多い。 黙って土に向かいさまざまな色彩を生み出す工房仕事と違い、会議をしたりイベントを企画運営したりする人間相手の仕事は、思いのほか、人のよい父さんを疲弊させる。 外出中に滞った工房仕事を帰宅後の夜なべ仕事で補いながらも、昼間の会合でのやり取りや明日の打ち合わせの段取りに気を取られ、なかなか集中したお仕事モードに戻れなくて大きなため息をつく。
「お父さん、また、ため息をついた。」 「ため息ばかりつくと、幸せが逃げちゃうよ。」 心ここにあらず。気がつくと癖のように溜息をつく父さんを見かねて、娘たちが笑う。 「確かに、体の中の元気が一気にこぼれだしちゃう気がするね。」 「はいはい。コーヒーでも飲んで、元気を補充!」 気を取り直した父さんは、無理をして笑う。
昨日、何かの折に父さんがヒンヒンと不自然な呼吸をしてた。 体調でも悪いのかとびっくりして声をかけたら、 「ちょっとため息を吸ってみた。」 と父さん。 確かにため息つくと体内の『気』が抜けちゃうような気がするから、ためしにため息を吸ってみているのだという。
この人ってばもう、大真面目な顔をして、なんてまあ、おもしろい。 「で、どう?効果ある?」 と訊いては見たけど、あわただしい工房仕事のさなかに奥さんがクスッと笑わせてもらった分だけ、ちょっとした効果はあったんじゃないだろうか。
前日に引き続いて、本日はオニイとゲンが会場入り。
何日か前、 「日曜に展覧会を見に行くつもりだけれど、ゲンを連れ出してもいいだろうか。」 とオニイから、妙にかしこまった電話があった。 展示会を一通り見た後、久々に兄弟で大阪の街をぶらぶらしてくる予定らしい。 「いいけど、日曜日は教室があるから、父さんは会場へは行かないよ。」 と言うと、 「そっか…。ちょっと会いたかったんだけどな。」 とちょっと残念そうな風だった。
京都で一人暮らしを始めたオニイ。 夏休みの前後から何となく元気のない電話が続いた。 「眠れない」とか「起きられない」とか「痩せた」とか、言葉の端々に体調不良をこぼす言葉が混じる。 遅めの五月病か、一人暮らしのお疲れが出たか、果ては陶芸修行そのものが嫌になっているのではないかと、オニイの言葉の一つ一つに勘ぐり、疑い、うろたえる。 「勝手に自分の道を切り開け」と、啖呵を切って息子を送り出した割には、おろおろと腰の定まらない母。 その姿を見て、言葉にはしないものの始終息子の様子を案じているらしい父。 結局は彼自身がなんとか切り抜けるより仕方がないとは解りつつ、何となく落ち着かない思いで気遣う日が続いた。 そこへ、オニイからの「会いたかったんだけどな。」の電話。 とうとう音を上げて「帰りたい」とでも言いだすかと、ますます心配モードに陥りそうになっていた。
朝、久々に外出するというのに、大々的に朝寝坊して大目玉を食うゲン。 待ち合わせの時間や場所は、オニイから細かく指示が出ていたのに、前日に電車の時刻も不案内な都会の地理も全然下調べをしてなくて、しかも呑気に朝寝坊という有様だ。 中3にもなって、何たることぞとお説教しながら駅へと送る。 とうに会場に向かっているであろうオニイにあわてて「遅れる」の連絡を入れたら、「そんな事だろうと思ったよ」と意外と大人の反応。 「すまないねぇ、よろしく頼むよ。」と都会に疎いゲンをオニイに託す。 結局、無事、兄弟は会場で落ち合うことができ、父さんたちの作品をゆっくり見て回った後、食事をして、久々の街遊びを楽しんできたらしい。 帰り際、オニイから「今、ゲンを帰りの電車に乗せた。今日はゲンを借り出して、悪かったね。」との電話。 その声も、以前よりずいぶん明るくて、いつもの頼れるオニイの声だった。
夜、再びオニイと電話。 「展示会、どうだった?」 会場で会うことができなかった父さんが、なにか、言いたいことでもあったのかと探りを入れる。 「学校で、茶道を学び始めたら、父さんのやっている仕事のことがちょっと分かってきた気がする」 思いがけない前向きな感想に、ちょっと拍子ぬけするような安堵がひろがった。 とりあえず、「帰りたい」ではなくてよかった。 たぶんまたオニイは大きな山を一つ越えつつあるのだろう。 そっか、そっか。 よかった、よかった。
うれしくなった親バカ母はまた、段ボール箱にオニイの好きそうなレトルト食品をぎゅうぎゅう詰めて、「とにかく喰え。たらふく食べて、夏ヤセ分の体重を取り戻せ。」と援助物資を送ることにする。
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9日から15日、梅田大丸で展覧会。 義父、義兄と3人での茶陶展。
地元での展覧会のときには、いつも子どもたちが揃って会場へ見に行くのだが、今回はそれぞれのスケジュールが合わず、分散して出かけることになった。 初日には、文化祭の代休のアユコが父さんと一緒に出かけて行った。 今日は、アプコと私が義父母とともに父さんの車で会場入り。 ゲンは明日、京都から出てくるオニイと会場で待ち合わせするのだという。
10年程前には、ベビーカーの赤ん坊も含めてコロコロと目の離せない幼い子どもたちを引き連れて、デパートの静かな美術画廊へ出かけていくのは本当に大仕事だった。 都会の空気に弱い田舎者の子どもたちは、混雑した人ごみの中にいると誰かが必ず「頭が痛い」とか、「足が痛い」とか言い出す。 退屈した子どもらを紛らわせるためのお菓子や飲み物をたくさん用意し、おもちゃ売り場や書籍売り場へ時間つぶしにいったりもした。 そのころに比べると、それぞれが自分のスケジュールに合わせて出かけて行ってくれるようになって、なんと身軽になったことか。 初日に第一陣として出かけて行ったアユコは、久々に父娘でのランチを楽しんで上機嫌で帰ってきた。
今日、義父、義母を連れて、父さんの車で会場入り。 ここ数年、腰を痛めすっかり歩行が困難になった義父と、たびたび貧血様の発作を起こす義母を連れての外出は、大仕事となってきた。 駐車場から会場、会場から食事場所までのわずかな移動にも思いがけない時間がかかる。しかも二人の歩行のペースが違うので、付添要員は複数いるほうが望ましい。 ということで、アプコにも動員がかかった。
赤ん坊のころから、おじいちゃんおばあちゃんの近くで育ったアプコは、兄弟の中でも一番年寄りとのコミュニケーションの取り方がうまい。 繰り返し繰り返し聞かされるおじいちゃんの昔話には辛抱強く相槌を打ち、おばあちゃんのうっかりミスには自分も気がつかなかった様な顔をしてさりげなくフォローに回る。 おじいちゃんおばあちゃんのほうでも、相手が幼いアプコだと「世話をしてもらっている」とか、「手伝ってもらっている」とかという負い目を感じることもなく、気が楽なのだろう。 外出のお供にアプコがついてくると、二人ともご機嫌がすこぶる良いような気がする。 すんなりと背が伸びたアプコが、おばあちゃんと腕をからめ合い、内緒話でもするように寄り添って歩く後ろ姿は、なんとなく良い。 ちょっと涙が出そうになる。
「お母さん、あのね。あたし、ちょっと、ああいうの、苦手やねん。」 義父母のいないところでアプコがこそっとつぶやいた。
すっかり腰が曲がって、数十メートルの移動にも休憩が必要になった義父は少しでも座れる場所を見つけると、もれなく腰をかける。 今日の展覧会場でも、少し離れたお手洗いへ行った帰り、貴金属売り場に置かれた椅子に崩れるように座り込んでしまわれた。そこには「商談用」という札が置いてあって、明らかに休憩のために設けられた席ではない。 帰りの遅いおじいちゃんを気にして迎えに行ったアプコが、その場に居合わせることになった。 もちろん、見た目にも歩行が困難であることのわかる義父に対して、そのことを咎めた人があったわけではない。売場にはたまたま人も少なかったし、おじいちゃんの休憩もほんの数分の短いものだ。 大人にとっては別にどうということもない一コマだけれど、生真面目な小学生のアプコにとっては、本来座るべき場所でない席にどっかと腰を下ろして休憩するおじいちゃんのそばに付き添っているのは、何となく気恥ずかしく気まずい思いをしたのだろう。
おじいちゃんの行為を「恥ずかしい」と思ってしまう気持ちと、 堂々と付き添っていられない自分自身を「恥ずかしい」と思う気持ち。 その入り混じったぐちゃぐちゃとした空気が、アプコのいう「苦手」なのだろうと思う。 「おじいちゃんはもうお年寄りだし、少し歩くのもあんなに大変なんだから、少しくらい変なところに座ってしまわれてもOKなのよ。」 と、いくら言い含めたところで、何となく居心地の悪い、もやもやとした「苦手」はなかなか晴れない。 そのことをも含めて、「労わる立場」の務めの一つだということを、これからアプコは時間をかけて学んでいくだろう。 「商談用」の椅子で休憩するおじいちゃんに、「早く行こうよ」と急かす言葉を吐かなかったアプコはもう、そのことを学ぶ入口にいる。 有難いことだなぁと、私は思う。
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