突然さらっと言ってしまいますが、現在おそまきながら産休に入りました。
現在10か月目。ええ臨月ですとも。それはさておき。
よく見たら、この2年間とくにマトモに更新できなかったことについて、ようやく自分の気持ちが整理できつつあるかな、と思います。
・・・よく頑張ったなぁ、私。挨拶無視はもちろんのこと、3週間口聞いてもらえないこともあったし、それはともかく業務上の連絡事項まで伝えられてなかったのは切実に困った。
子どもに「挨拶をしろ、いじめをするな」と言ったって、当の本人がそれをやっていて何とも思わないのだろうか?そしてこれは残念ながら私だけではなく、いろいろな大人社会でも見受けられる現象なのでしょう。
以前、「たのしい『生活指導』」(仮説社)の中に、「いじめている原因の一つに、(本人たちは気づいていないだろうが)その人のことをなんとかしてなおしたい、という思いがある」というのを読んだ。この記述はおもにいじめの加害者と接する時に、公平な教員としての心構えを書いたもので、読んだ当時はすごく納得したし、今でもすごく頷く部分もあるんだけれど、最近、教員としての経験を重ねたからか、それだけですますわけにはいかない、というのを感じる。
多分私は大人のADHDだと思うのだけれど、じゃあ、どうやってもなおせないその人のくせや思考や仕事ぶりなどは、どうやって評価されればいいのでしょう?私だって、いろいろ試みましたとも。仕事を早くしてみるとか、整理整頓を心がけるとか、あの方の気に入りそうなことを。でも、何してもダメだったんですよ。もう苦しくて苦しくて仕方なかった。妊娠したとわかった時、もちろん新しい命を授かったことは無条件にうれしかったけれど、『これは神様からのプレゼントだ。頑張った私に休みなさいって言ってくれてるんだ』と思ってしまった私の気持ち。こんな形でしか休めない自分を、それでもよかったと思った。
ちょうどマタハラ裁判の結果が出たころ、日々悪くなる体調などと戦いながら仕事して、裁判を起こして勝つという結果を出すまでには途方もなく力がいることだと思い知った。あのマタハラ裁判の結果に対して第三者の私がいろいろということはできないけど、すごいなぁ、と純粋に尊敬した。証拠を残していく、それすら心も体も擦り減らした自分にとってはすごく困難なことだったから。
そんなワケで、自分の話はこれでおしまい。次からはちょっと2年間を振り返って、フツーの(?)教員日記に戻れたら、と思います。