連載 「小鳥物語」

2013年10月20日(日) 第五章 面影 2203年 東京冬 (2)

第五章 面影 2203年 東京冬(2)


 二人は外灯がほのかに照らす小道を辿り、館内の明るい照明が細長い大きな窓から漏れて公園の木立の中に浮かび上がった光の塔のように見える図書館の方に進み、その重たいガラス張りのドアを押し開けて中に入って行った。

「おお、中はあったかいね。ほっとするな」

「どうするのですか。ここは、何の建物なのかな」

「図書館だよ」

純一は裕作について入って来たものの、きょろきょろと館内を見渡しながらその場でくるりと廻った。裕作は微笑むと先に立ってロビーの中へ入り、飲み干してしまって空になったコーヒーの缶を奥の空き缶収集機に投げ込み、コイン発行の赤いボタンを馴れた手つきで押した。

金色のコインが一つチリンという音をたてて機械の中から転がり落ちて目の前のトレーの上に乗った。裕作はコインをつまみ上げて純一に見せながらにっこり微笑んだ。

「その空き缶をこの穴に入れて、この発行ボタンを押してごらん」

純一の目がきらきらと輝いた。純一は手に持っていたココアの缶を投入口へ投げ込み、言われたようにボタンを押した。純一の前のトレーにコインが転がり落ちて来てチリンと軽い音を立てた。

「このお金もらっていいのかしら」

「そうだよ、君のお金さ、でもこのロビーの中でしか通用しないお金なのさ。本当のお金じゃなくてコインっていうんだよ。隣のお菓子の販売機を見てごらん」

「そうか、アメが買えるんだね。わかったよ、面白いね」

純一はコインを販売機の投入口に滑り込ませて、目の前のディスプレイを見て何を買おうかと人差し指をぐるぐる回した。

「それじゃあ、ジャム入り果汁のドロップにしよう」

純一がボタンを押すと透明な卵型の小さなカプセルに入った黄色いアメが一粒ジグザグに転がり落ちて来た。

「それ、結構うまいよ。僕はダージリンティーキャンディ」

「面白いね。僕、持って帰って友達に見せるんだ。いつも一緒に食事したり遊んだりしてる友達なんだけど、こんなの知らないと思うの」

「じゃあ僕のコインをあげるよ。ポケットにもまだ幾つもあるんだよ」

裕作はズボンのポケットの底からコインを数枚出して、アメのカプセルをてのひらにのせて嬉しそうに眺めているその純一のてのひらに乗せた。アメの販売機の他にクッキーの販売機やチョコレートの販売機などが並んでいた。

純一はコインを持って販売機の前で何を買おうかとうろうろした後、投入口にコインを入れては、一つ一つ卵型のカプセルが転がり落ちるのを見て楽しんだ。裕作はそんな純一の様子を眺めているうちに久しぶりに楽しい気分になった。

 二人は建物の中を通り抜けて、公園の外の道路に面した出口から薄暗い夜の道に出た。路上に置かれた看板やゴミの入ったダンボール箱など邪魔な物を避けながら、重い鳥篭を下げて歩くのは思ったよりも大変な事だった。じきに鳥篭の重みで裕作の手が痛みだした。

「おじさん今度は僕が持つよ。もう大丈夫だから」

だがそう言って差し出した純一の掌はまだ真っ赤で見るからに痛々しかった。
「まだまだ、全然大丈夫だよ。純一君は心配しないで」

裕作は時計を見た。あまり遅くなっては家の人が心配するだろう。裕作は丁度前から走って来たタクシーを止めて前を行く純一を呼び止めた。

「純一君、丁度良いからタクシーに乗って行こうよ。無理をすると手を痛めるよ。さあ早く乗って乗って」

純一はちょっとためらった。裕作が自分の鳥篭を抱えて乗り込んでしまったのを見てちょっとびっくりした顔を見せたが、微笑んで手招きしている裕作に微笑み返し隣に乗り込んだ。

「直ぐ近くだから遠慮しないでよ」

ちょっと不安そうな顔になってしまった純一を見て裕作が言った。そしてタクシーのドライバーに行き先を告げた。

「新開発地区の東エリアへお願いします。文化ホール前の高層マンションまて行ってください。」

「スカイヒルスっていう高層ビルなんだけど」

と更に純一が付け加えた。既に車はドアを閉めるのももどかしいと言わんばかりに、せっかちに走り出していた。

「歩くと結構遠いけれど車なら直ぐそこさ。こんな重い大きな鳥篭を持っている時には本当に楽だよ。歩くのは健康に良いけれど時と場合によるね。もっと暖かい晴れた日に、散歩道を身軽なかっこうで、ナップサックにちょっとスナック菓子でも入れて歩けば半日だって歩いていられる。君は家族でハイキングなんかに行くかい」

「いいえ、ハイキングは一度も行ったことがないです。家族一緒に何処かに行く事は殆どありません。おとうさんは仕事で外国にずっと行っていて滅多に帰って来れないし、おかあさんはコンピューターの仕事が凄く忙しくて寝る暇もない位ですから」

「そうか、大人は皆仕事が忙しくて大変だ。ご両親も本当はもっと家族で過ごしたいのをぐっと堪えているんだろうね。本当はもっと時間に余裕のある豊かな生活を心底望んでいるのに、どうにもならないのさ。ところで純一君は何歳なの」

「十二歳です。僕はもっと色々な所へ行って見たいんです。知らなくてはならない事をまだ何も知らない気がして仕方がないんです。十二歳になったのだから一人でだって大丈夫なんです。何処へ行ったってそんなに危険な事などないのにかあさんは心配ばかり先に考える悪い癖があって」

裕作は純一のいかにも少年らしい悩みを聴いて微笑ましいと思った。

「ああ、まったくだ。君のおかあさんだけじゃなく親は皆そうなんだな。そうか君は十二歳なのか。私に小鳥を探す手伝いをさせてくれないかな。一人で探しに行くのはつまらないだろう。君の友達もさそって皆で楽しく探しに行こうじゃないか。そのうちに必ず連絡するからね」

大きなマンションの前の広場に沿った道にタクシーが止まった。純一は車から降りると鳥篭を裕作から受け取った。そして歩道に上がって振りかえり、車内に残った裕作に手を振った。

最後に何か言ったようだが車のドアが閉って聞き取れなかった。裕作はいつも公園で写真を撮った後母が入院している病院へ行くことにしていた。

「ええと、次は青葉病院までお願いします」

ドライバーに次の行き先を告げながら、段々遠くなって視界から消えるまで、裕作は手を振りながら立っている純一の姿を見詰め続けた。

十年前に事故で死んだ息子の光弘を思い出す時、その姿はいつも二歳のままだったが、もし生きていれば光弘も十二歳だった。ちょうど純一と同じ位の背の高さで、純一のような声であんな事を言うのだろう。

純一の姿が見えなくなった。裕作はダウンコートのポケットから先程純一から受け取った紙を取り出して広げて見た。小さな小鳥を探しています、という書き出しで始まる文章の一番最後に少年の名前が書いてある。

葉を落とした木々の間を、手に鳥篭を下げて歩く華奢な肢体の少年のシルエットが裕作の脳裏に浮かんだ。少年の寂しい面影が逃れられない悲しみを裕作に訴え掛けて来るようだった。

すると、かけがえのない愛する者を失った日の悲しみが甦り、決して癒されない底無しの絶望感がふいに裕作の胸に迫って、そして一瞬の内に彼の胸を満たし、更に急激に拡大して彼の全身に満ちた。裕作は胸が張り裂けそうに痛み、思わずぎゅっと拳を握り胸に押し当てた。湧き上がった深い深い悲しみに押し潰され、息苦しさに絶えかねて身悶えた。

「ああ、こんな気持ちを抱えて、かあさんの見舞いになんか行けない」

裕作は少年を下ろした場所まで戻るようにドライバーに告げた。車は次のブロックで右折し、脇道を巡って文化ホールの前の広場に戻って来た。裕作はドライバーに少し多めに料金を払ってタクシーを降りた。

さっき純一が立っていた所には若い男女のカップルが互いに腕を絡ませて楽しそうに言葉を囁き合っては微笑んでいた。裕作はその場に足を止めてスカイヒルスを見上げた。

ショッピングモールになっている総ガラス張の大きな窓にレストランや喫茶店の華やかな内部が見えた。その上の居住部分は少し暗く街の明かりの反射で白い夜空に聳え立っている。

何も考えず足がひとりでに進むにまかせ、裕作は大きな自動ドアの中の光に吸い込まれるようにその建物の中に入って行った。

                              
( 続く )



2013年10月19日(土) 第六章 愛しきもの 2203年 春 (1)

第六章 愛しきもの 2203年 春 (1)


 沢井園子は新しく建てた山小屋風のアトリエへ嶺岸茜を誘った。会って色々語り合いたいと思いながらも互いに忙しくてこのようにゆっくり二人で過ごすのは昨年以来の事だった。

茜は園子の新しいアトリエを遠くから眺めたことはあったが訪れた事はなかった。どのような建物なのか興味があったので園子の誘いに喜んで久しぶりに休暇を取って来た。

川に沿った遊歩道を上流の方へ暫く歩き、杉林の中の細道を登ると光る川を見下ろす崖の上にそれはあった。茜は幼い頃見た絵本の何処かにこんな丸太小屋の絵を見たような気がして、何だか嬉しくなってしまった。

目を輝かせて暫し見惚れていると、園子が入り口のドアを開けて、急き立てて茜をアトリエの中に招き入れた。

茜は自然の木の素朴な質感だけの室内を見回しながら嬉しそうにその場でくるくると回った。

「まあ茜さん。落ち着いて座ってよ」

と園子が笑ってソファーに茜を座らせた。アトリエの中は想像した以上に広かった。

「素敵なアトリエね。わあ、良い感じね」

茜はソファーに座ったまま室内をぐるっと眺めてシンプルで居心地の良い雰囲気に感心していた。

リビングルームの一角をカウンターで仕切った内側が対面式のキッチンスペースになっていて、その側にバスルームのドアがあった。

リビングの奥は絵を描く仕事場になっていて、その更に奥まった所の中二階に梯子の様に急な階段がついていて、上の段にはベッドが置かれ園子の寝室になっていた。

ベッドの横の三角形の壁に窓があり、窓辺で緑の梢が揺れて光が揺らいでいた。天井が無く屋根の傾斜がそのまま頭上に大きな空間を作っていた。

山小屋の周りの杉の梢が風に揺れると屋根の天窓から差し込んでくる日差しが揺らいだ。川に面した大きいガラス戸からも日が差して全体に明るい感じだった。

水の流れの音が耳に心地よく、優しい木の質感と杉材の爽やかな香りが疲れた神経をリラックスさせてくれるのだ。茜はソファーの背に身を委ねて心地良さに優しく包まれて脱力していた。

「ああ、何かほっとするわ」

茜はふわっと身を包む安らかさの中で、今まで気付かなかったが本当は酷く疲れていた事を自覚した。目を閉じてほっと溜息を一つはきだして目を開けた。

すると、何と園子の肩に小鳥がとまっていて、それがちょろちょろと彼女の肩の上を端から端へ小走りに動き回っているではないか。

快活な仕草の小鳥のつぶらな黒い瞳が自分をとらえ、明らかに興味を示していた。無邪気な好奇心に突き動かされて今にもこちらの方へ飛んで来ようとしていた。

園子は茜のびっくりした様子を見て微笑んで言った。

「ラピちゃんって言うのよ、この子。かわいいでしょう。高水のおばあさんの小鳥じゃないのよ」

園子は肩に小鳥を乗せたままコーヒーを運んできた。すると、小鳥が急に茜の方に飛んで来て、不意を突かれて一瞬身を引いてしまった茜の肩先に上手に着地すると、嬉しそうに行ったり来たり駆け回った。

突然、小鳥が肩に乗って来たので、茜はすっかり固まってしまった。

そんな茜を見て園子は自分の肩先を指先で軽く叩いて小鳥に手で合図して見せながら優しくその名を呼んだ。

「ラピちゃん、ここにおいで。ラピ、ラピ、ラピ、ここにおいで」

すると小鳥は小さな足で茜の肩を蹴って園子の肩へ飛び移って行った。茜は園子の肩にようやく落ち着いた小鳥を眺めた。

それは非常に綺麗な青紫のセキセイインコだった。

「小さな小鳥なのに園子さんの言う事が良く解かるのね。凄い利口なんだ」

ほっとしながらも興味深そうに見ている茜に園子が話し出した。

「この小鳥ラピちゃんっていうのだけど、私東京で拾ったのよ。一月の中旬ころだったわ。

あの日は都心の文化ホールにちょうど良い小スペースがあるので絵画展の場所にどうかと思って下見に行ったのよ。

ちょうどその日は写真展の初日で、お祝いの花篭が沢山入り口の外に飾ってあったのだけど、閉める時間だったので受付の人が外にある花篭を全部中に入れて壁際に片付けたのよ。

そしたら、その花篭の花の中に小鳥がとまっていたの。それがこのラピちゃんだったってわけなの。受付の人はこんな小さな小鳥も怖がるほどの怖がり屋の若い娘さんで、怖くて近寄ることもできないの。

可愛いセキセイインコだし、もしかしたら手乗りかもしれないと思ってそっと手を近づけたらこの指に乗って来たのよ。あの時のこの手の感触が何とも言えず印象的で、この子の足の冷たさとぎゅっとつかんだ小さな足の力が私のこの手に伝わって来てね。

それが強烈だったわ。小鳥を手にとめた経験なんて一度も無かったの。その時が初めてだったのよ。この子ったら黒い小さな丸い目で私の顔を見詰めたの。

私のこの手を両足でぎゅっと握っていたのよ。そうしたら冷たかったその足の感触が段々温かくなって来て、小さな命が必死に生きようとしているのを感じたの。

会ったばかりの私を信頼してくれたのがとっても嬉しかったわ。すっかりこの小鳥に魅せられてしまって、それでアトリエに連れて帰って来たの。

今ではすっかり馴れて私の可愛い家族なの。機嫌が良い時は、ラピちゃんラピちゃん、なんて自分の名前を言うのよ」

園子は愛しそうに小鳥の頭の後ろを指で軽く撫ぜた。小鳥は園子の柔らかい指の愛撫に頭を差し出して目を瞑りうっとりとして、さらに首筋を撫ぜて欲しいと言わんばかりに首を傾けて目を細めた。

「あらあら、撫ぜてあげると気持ち良さそうに甘えてるのね、驚いたわ。園子さんに自分の名前をちゃんと教えたのね。なんてラピちゃんはおりこうさんなのでしょうね。可愛いわね、園子さんの宝物ね」

茜は感心して小鳥の仕草に見惚れていた。

「あの日は本当に底冷えのする寒い日で、あのまま外に放置されていたら、きっと凍え死んでしまったと思うわ。ペットを飼っていても手に余ると簡単に捨ててしまうそうよ。

引っ越す時に置き去りにして行ったり、適当に外に放して行ったりするそうよ。この子はどうだったのか解からないけど、私の手をしっかり捕まえてしがみ付いている以上置き去りにすることなんて私にはできなかったわ」

園子はレタスの葉を少しキッチンから持って来た。すると、小鳥はいそいそと園子の腕をつたい、手に持ったレタスに飛びつき美味しそうに夢中になって食べ始めた。


( 続く )



2013年10月18日(金) 第六章 愛しきもの 2203年 春 (2)

第六章 愛しきもの 2203年 春 (2)


「それでどうやって連れてきたの」

茜が園子に話しの続きを促した。

「お祝いの花篭の花を適当な花瓶に移して、その花篭を譲ってもらったの。簡単にあり合わせの厚紙で花篭にふたを作ってね、それをテープで止めて出て来ない様にして、手に下げて来たのよ。

この子を花篭に入れる時、何か拍子抜けする位に簡単だったのよ。あの時、ここに入ってね、と言いながら花篭の中にそっと小鳥を下ろしたら大人しく自分から中に入ったの。

その時は偶然に上手く入れられたと思ったのだけれどね。あの時この子は私の言葉が良く解かっていて、その通りに言う事をきいてくれたのね。

今でも時々言葉が本当によく解かる小鳥なんだって感心してしまう事があるのよ」

そう言って園子は部屋の奥から白い鳥籠を持って来てテーブルの上に置いた。

「茜さんちょっと見ててごらんなさい。鳥籠に入るようにラピちゃんに言ってみるわね。ラピちゃんがどうするか見ててね」

茜はまさかそう上手く行く訳はあるまいと思いながらも興味深深で見ていた。

「ラピちゃん籠にお入りなさい。ラピちゃん籠にお入りなさい」

園子は肩に止まっている小鳥に向かって、小さい子供に話しかける様に優しく言葉を投げ掛けた。やがて小鳥は園子の肩から腕をつたい降り、テーブルの上をくるくると歩き回り園子の顔を見て躊躇した。

「ラピちゃん籠にお入りなさい」

園子が小鳥の目を見て優しく言葉を掛けて促すと、小鳥は籠の入り口にぴょんと飛び乗った。そしていそいそと自らの意思で籠に入り、下げてある鈴をチャラチャラ鳴らして遊び始めた。

「私、小鳥の事本当に知らなかったわ。何て可愛い生き物なの。まるでおとぎばなしの中に出て来る妖精みたいね」

「茜さんそれはちょっと違うみたいよ。この子は妖精じゃないんじゃないかな。とっても悪戯っぽくて気が強くて、妖精というより悪戯好きなやんちゃな男の子だわね」

茜は暫くの間未知の小さな生き物を発見した人の様に目を丸くして無邪気に遊んでいる小鳥に見惚れていた。

「可愛いな、小鳥がこんなに可愛いなんて知らなかったわ。私、高水のおばあさんが残した小鳥がもし私になついてくれたら一羽でいいから飼いたいな」

高水奈津子の死から一年ほどが過ぎていたが、茜はあの朝の孤独な奈津子の絶望的な気持ちを思うと胸が痛んだ。

「高水さんのお屋敷は暫くあのままなのかしら。高水家の後を継ぐ人は誰もいないのかしらね」

そう言いながら茜はあの日の事を思い出していた。高水奈津子が残した小鳥達と荒れ果てた庭にひっそりと残された古びた館の光景が様々に脳裏に浮かんだ。

奈津子の孤独な長い長い一生の後、彼女がこの世を去った後に残された小鳥達やあの館がどうなって行くのかが気に掛かった。

彼女の大切な小鳥達を近所に住んでいる隣人の茜や園子達に託し、昔からの親しい人達を呼び寄せて、見守られながら臨終を迎えても誰も迷惑に思ったりはしなかったのに、何故誰にも知らせなかったのだろうか。

何故たった一人で寂しく死出の旅路に旅立ったのだろうか。可愛がって育てたまるで彼女の子供のような小鳥達をまだ肌寒い早春の野に放した時、きっと悲しかっただろうに。

小鳥を放した事で高水奈津子に異変があったと直ぐ解かったのだから、あの小鳥達に重大な役目が託されていて、その役目は見事に果たされた事になるが、そんな方法は悲し過ぎる。

高水奈津子は日頃から小鳥を放す時がどのような時なのか回りの者に何度となく言っていた。

「またそんな弱気なことを言っては駄目でしょう」
と皆笑っていたが、現実に彼女の大切な小鳥達が梅林を飛び廻っているのを目にした時、その年寄りの戯言のような言葉が皆の心に大聖堂の鐘の音の様に鳴り響いたのだった。

温室には老いた小鳥が二羽残り外へ出て行こうとせず居間やサンルームなど部屋の中をふわふわと飛び回っていた。そして温室の高い所の止まり木の隅にいて茜や園子達を見下ろしていた。

奈津子はその二羽の老鳥が外へ出て行かずに館に留まる事を見越していたかのように、彼らの為に温室の中に沢山餌を置き、さらに雨どいの雨水を一部引き込み何時までも水の絶えない水場を作って用意していた。

また、外の小鳥達が温室に入って来れるように高い所の小窓が少しだけ開けてあった。自分が死んだ後も少しでも長く小鳥達が幸せに過ごせる様に色々考えて彼女なりにできる限り工夫していたのだ。

居間の暖かそうなソファーの上に毛布が敷かれ、小鳥の餌が大きな袋ごと口を開けて置いてあった。きっと外へ出た小鳥達が寒さをしのぎに戻った時に暖かく過ごせるように用意したものだろう。

奈津子が自分の死を前に、残して行かなければならない小鳥達の為に色々と心を砕いて準備した様子が館のあちらこちらに見られた。小鳥達のことがどんなにか心配で心残りであったろうとその心情がしのばれた。

そのような心のこもった奈津子の細かい気配りをそのままそっと動かさずに閉じられた洋館の中には今も黄緑色と黄色の二羽の老いた小鳥だけが仲良く暮しているのだった。

温室の中から呼ぶ仲間の声に誘われて小窓から館に戻る小鳥もいるかもしれない。どのように暮すかは自由な小鳥達の意志に任された。

そのうちに人々に忘れられ、うっそうと木々が茂る森のような庭の奥で、小鳥だけが住む古い館がこの先の長い年月をどのような時を刻み続けていくのかはその小鳥達だけが知っているのだろう。


( 続く )


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