ちむたんのつぶやき
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2008年03月09日(日) 人に歴史あり

四十九日の法事を父の生まれ故郷でやったので、前日の土曜から泊まりがけで行って、母の生家があった場所を訪れたり、名物のかつ丼を食べたり、路線バスに乗って町をぐるっと回ったり、やりたい放題遊んできました(笑)。

母の生家はだいぶ昔に壊してしまって今は空き地になっているのですが、門柱が一本と表札がぽつんと残っていて驚きました。母はこの状態を見たのかなあ。

日曜は上天気。この時季、突然雪が降ったりすることもままあるので心配していましたが、とても良い日になってよかったです。
父方の親戚はわりと陽気な人が多いので、会食では昔話などが弾み、母の法事のときより賑やかでした。

で、そこで聞いた、うちの両親が結婚したいきさつ。

娘に生まれたからには、母親に一度は聞きますわな。「お父さんとどうやって知り合って結婚したの?」みたいなことを。
私ももちろん尋ねましたが、母が「お見合いよ。あの頃恋愛結婚なんてないわよ」としらっと答えたので、完全にそれを信じ切っておりました。時代も時代だし(結婚は昭和27年)、そういうもんなんだろうな、でもちょっとつまんないな、とか思って。

ところがどっこい。
両親は、進駐軍のキャンプに勤めていて知り合ったのでした。父は通訳、母はタイピスト。

母は、お医者さんだった父親を早くに亡くしたものの、町では名の通った家のお嬢さんでした。叔母(父の妹)とは女学校が一年違いで、在学当時から知り合いだったのですが、上で書いた母の生家の庭はそれは見事なものだったそうです。
そんなお嬢さんが、嫁入り前とはいえなぜ進駐軍でタイピストなどしていたかというと、それはひとえに太平洋戦争のせい。
戦後の農地改革で、地代収入に頼っていた母の生家の暮らしは非常に苦しくなってしまったのでした。
母の兄二人はお医者さんになりましたし、母の姉たちは地元の女学校から東京の学校に進んだので、母も家が豊かなら当然同じ進路になったのでしょうが、残念ながらその頃にはもうゆとりがなく、女学校を卒業した母は働かねばならなかったのですね。

そこで、父と知り合ったと。
当時の父はたいそうモテて、一緒に歩いてる相手が毎回違ってる、といわれていたほどだったとか。叔母はよく女性からラブレターを預かって父に渡していたそうです。
まあ確かに昔の写真を見るとなかなかバタくさいハンサムなので、お嬢さん育ちの母はイチコロ(死語)だったのでしょうなあ。
そういえば、両親が昔話をしていて、当時母の同僚だったというある女の人の名前が出ると、母がなんとなくイヤな顔をしていたような記憶がおぼろげにあります。今にして思えば恋敵だったのかもしれません。

母が一方的に熱をあげたというわけでもなかったようで、父は母の実家へ結婚の申込みにいくことになりました。

ところが、今とはやっぱり時代が違う。
父の家はごく普通の商家だったので、父方の祖母(祖父は亡くなっていました)は、お医者さんの家からお嫁さんをもらうなんて家柄が違って不幸のもとだと大反対。
それでも申込みを敢行した父に対し、母方の祖母はやはり「娘は医者でなければお嫁にやれません」ときっぱり断ったのだそうです。
断られた父の落胆ぶりといったらなくて、叔母に「俺はもう一生独身でいる」としょげていたとか。生前の父の学歴コンプレックスはたいそう強いものでしたが、原因はこのへんにあったのでしょうね。

そこで破談になっても不思議はなかったのでしょうが、どうも母はただのおとなしいお嬢さんではなかったらしく。
なんと、父の下宿に転がり込んで押しかけ女房になってしまったのでした!

しかもその事態の露見のしかたがまたふるっていて。
ある日父方の祖母が、留守中に下宿にやってきて父の帰りを待っていたところ、母が「ただいまー」と帰ってきたのだそうです。
仰天した祖母は母に向かって「とにかくあなたは家にお帰りなさい」と諭し、帰宅した父をこっぴどく叱ったのち、こうなってしまった以上はもう結婚させるしかないと腹をくくって母の実家に頭を下げにいったのでした。
母方の祖母もさすがに承知するしかなく、昭和27年4月15日、めでたく結婚の運びとなり、翌年10月には長兄が生まれました。
そして平成7年2月17日に母が亡くなるまで、ずっと一緒にいたわけです。


…しかし、祖母ふたりの心中、察するに余りあります……明治の女は気骨があった(涙)。父方の祖母は私が生まれるだいぶ前に、母方の祖母は私が生後4ヶ月のときに亡くなってしまいましたが、元気だったらぜひ当時の話を聞きたかったです。

まあ当時の父が27歳、母が21歳くらい。若かったんだなあ(遠い目)。


そんな大騒ぎまでして一緒になったわりには、しょっちゅうケンカしてた夫婦でした。
長兄が小さい頃、母はしばしばプチ家出みたいなのをしてたそうですし、一時期は本気で離婚を考えたこともあったようです。
私もたしか高校生くらいのとき、母に「結婚なんてすることないわよ」とシリアスな顔で言われたことがありました。
そんなふうに書くと母がわがままだったようですが、父も強烈でした。
いったん怒り出すと手がつけられないという感じで怖かったので、とにかく怒らせないようにつとめていた少女時代でありました。母を亡くしたあたりからはずいぶん穏やかになりましたが、それでも怒らせるとおっかないので、一緒に旅行にいくときなんかは常に顔色を窺っていました。

要するに二人ともキャラが濃くて熱かったんですな。ひるがえって自分の薄さに唖然といたします。とてもかなわない(笑)。


っていうか、娘にそういう大事なことでウソつくなよ母!

まあきっと照れと、もしかしたら後悔もあったのでしょう。
でも、私の記憶のなかにたくさん残っている母の姿が、父と結婚したことを悔やんでいるだけではないと語ってくれているように思います。
人生は幸福ばかりでも、不幸ばかりでもないのだから。

私が知っている両親は、人生の後半にさしかかりそれなりに落ち着いてきていたのですね、たぶん。
が、こうして若い日の話を聞くと、父母それぞれに歴史があり、私と同じように迷ったり悩んだり失敗したりしながら生きてきたのだなあ、としみじみと思うのでした。


いつか両親に再会できたら、結婚のいきさつについて父が黙っていたこと、母がウソをついたこと、それぞれに対してじっくり問い詰めたいと思います(笑)。


2008年03月07日(金) 女子高生誕生

姪2号が無事志望校に合格しました。めでたい。

先日、四十九日の法事のことで長兄(姪2号の父)に確認電話をしたついでに「入試どうだったの?」と訊ねたらなんとも微妙に言葉を濁していた(近くに本人がいたのか?)ので、失敗したのかなーと心配してました。
合格発表後に聞いたところ、数学で失敗しちゃったらしいです。試験当日に帰宅したときは真っ暗だったそうで。

でもまあ、問題が難しかったのなら彼女だけができないってことはあまり考えられないわけで、きっと他の子もできなかったんでしょう。仮にビリに近くても、合格してしまえばこっちのものだし。

と、自分自身も高校入試の数学で100点満点で50点を取り(図形の合同を証明する問題がまるで解けなかった)、たしか400人中300番台半ばくらいでやっと合格し、入学してすぐの担任との面接で「どんなバカが来るのかと思った」といわれた過去を持つ叔母は思うのでした(笑)

それでなくても悲しい法事に、受験に失敗した姪2号が暗い顔で現れたら悲しさ二乗なので、本当によかったです。9日に会ったとき、お祝いにほしいものを訊くので考えておくようにとメールしておきました。



昨日は、父が自筆でのこした遺言状の検認をしてもらうため、きょうだい揃って実家の町の家庭裁判所にいってきました。
検認済みの証明書が来月あたりに発行されたら、いよいよ相続の具体的な手続をはじめることになるようです。


父が亡くなってからひと月半、週末に実家に通っては少しずつ片付けをしてきました。
空き家になってしまった実家の玄関を開けるたび、戸締りをして帰るたび、両親を失った悲しみは増幅されてゆきます。
でも早くきちんとしないと家も庭ももっと傷んで荒れてしまう、特にこの先夏が来れば…という焦りと、悲しくて思うように手が動かないつらさとに苛まれる辛い日々がずっと続いていました。

前にも書いたように、父の遺言に従って家は私が相続することになるのですが、今後どうするかは性急に決めてしまわず、少なくとも一周忌まではこのままにしてゆっくり考えてみたらどう?と兄たちから勧められました。

両親がはじめて建てた一軒家。きょうだいの中で、この家で暮らしたことがあるのは私だけです。
母はここで息を引き取り、父も最期に家を離れたのはほんの数日間だけでした。私にとって実家は、両親と切り離して考えることはできない存在なのです。

両親の死に対する思いが全く整理できずにいる以上、家をどうするかも今すぐ決められるわけがないのに。
そんな簡単なことさえもわからないほど混乱していたんだと、兄たちの言葉で気付きました。いえ、正確に言うなら兄たちの言葉を聞いてから一日経った今、この文章を書きながらようやく気付いたという感じです。兄たちと話していたときは、家の話題になると涙を抑えるのに必死だったので。

両親を慕ってきたように、この家に思いをかけてもいい。
いつか、両親を思う気持ちが悲しみ一色だけではなくなる時が来たら、この家に新たな役割を与えるのか、それとも別れを告げるのか、きっと決められる。

今は、そう考えていようと思います。


2008年02月27日(水) 姪の入試

姪2号は中学3年生、ただいま受験シーズンを迎えております。
父のお通夜の日がちょうど私立の入試日と重なってしまい、終わってから急いでやってきたので結果を心配しましたが、無事受かっていました。

そしていよいよ今日は本命の公立高校の入試だそうです。父親である長兄は、発表はいつだか知らないと申しておりました。おいおい。
9日に父の四十九日の法事をするのですが、その頃には結果が出てるんでしょうか。
(と思っていま調べたら、6日に発表のようです)
思い通り志望校に進めますように。お父さん、お母さん、孫娘を守ってあげて。


そう、四十九日。
お寺への依頼は長兄からしてもらった。
法事のあとの会食は予約したし、引き出物も手配した。
写真と位牌は長兄に車で運んでもらうし…
6日に兄たちと会うので、当日の段取りを確認しておく。
あとなんかあったっけー???と混乱中です。ごく身内でやるので、たった12名なんですけどねえ。


2008年02月20日(水) ひと月が過ぎて

現在の心境を端的に述べるならば。


電信柱が高いのも、郵便ポストが赤いのも、ぜんぶ悲しい。

街に出てお店を眺めればどこの売り場もすっかり春模様ですし、寒い中にも春の気配はしっかり混ざりはじめていますが、父がいないのに春がくるなんてあんまりだ。


…というような感じでなかなかけっこうな痛さです。
とほほ。我ながらここまで堪えるとは。


去っていった人に対してどれだけ思いを巡らせてみたところで、決してその人からの答えがもらえることはない、それがつらい。
父は私という娘を持って幸せだっただろうか、と問えば、私の周りの人はみんな、もちろんそうに決まってるよ、と答えてくれるでしょう。
でも、本人からの答えは返ってこない。問いはもはや、自己満足のためのものでしかない。

母のときも全く同じことを思いました、そういえば。
今になって、母を失ったときの痛みまでもがごていねいに甦ってやってきているような感じです。


でもちゃんと食べて眠っていますし、仕事もいつも通りしています。
こんなふうに沈んでいるのにも、さすがにそのうち飽きるのだろうとは思うのですが、今のところはどうも身を縮めてこらえてゆくしかないようです。


2008年02月12日(火) ふたたび舞台へ

チャーちゃんからのお知らせが届きました。
6月に品川と宝塚で開催されるヤンさん(安寿ミラさん)のダンスコンサート「FEMALE Vol.9」に出演されるのだそうです!

ヤンさんは、サヨナラ公演でも振付を担当してくださった、チャーちゃんにとって浅からぬご縁のかた。「あの時悲しませちゃったファンに、今度は喜んでもらおうね!」とおっしゃってくださっているのだそう。
それだけでもう、ありがたくて泣けてくるというもの………。

ファンクラブも再結成されるそうで、4月にはお茶会を予定していますとのこと。わーい。
7月には舞台出演がもうひとつ決まっているそうです。

チャーちゃんのゆく道が、護られてありますように。


「FEMALE」を観にいきたい、もしくはファンクラブに入りたい、とお考えのかたがいらっしゃいましたら、詳細ご案内できますのでお気軽にメールくださいませ。
と、たいへんささやかながら販促活動をば(笑)


2008年02月07日(木) お誕生日だね

母のときは、亡くなったのが2月で誕生日は8月。それなりに日数が経っていたこともあり、ここまでビビッドには心に響きませんでしたが、今回はまだ3週間も経っておりませんので、やはり痛い。いたたたた。

ちなみに今さら調べてみましたところ、阿久悠さんと同じお誕生日だったのですね。去年、追悼番組を見ながら「こんなにたくさんいい詞を書いてたんだなあ」と褒めていたので、その時気づけばよかったです。
なお、命日はオードリー・ヘップバーンと一緒でした。こちらはコメントのしようがイマイチありません。

次兄から「いま決裁書を見ていて気づいたけど、今日はお父さんの誕生日だね」というメールがきました。決裁書ってとこがなんかムカつくな(この間葬儀屋さんに渡していた名刺によると、次兄は統括部長という役職らしいです)。

いろいろお誕生日を祝ってきたはずなんですが。
80歳のときは銀座でお誕生会をしたりもしたのですが。
なんだかトホホなことしか思い出せません。
母を自宅で看ていた頃、余裕がなくて買ってきたお赤飯を出したら「上手に炊けたねえ」と言われて、買ってきたものだとはどうにも言えなくなったことが一番に頭から出てきました。それはどうなのか。

もう、歳はとらなくなっちゃったんだね。
百歳まで元気でいそうな気がしていましたよ。


2008年02月06日(水) われ泣きぬれて数字とたわむる

わたくしのいる会社は新年度のスタートが8月なので、1月末でちょうど上半期が終わったところ。すごくヘンな感じなんですがそうなんです。
ちなみに決算がまあまあよかったそうで、社長と経理からおつかれさまでしたのお菓子をもらいました。って、焼き菓子の詰め合わせの中から好きなのを1個選ぶだけですけど。

そして、もう2009年度(今年の8月〜来年の7月)の予算を出せー、とお上からお達しが。
予算策定そのものには携わっておりませんが、資料作りはすべてわたくしの仕事。あちこちから数字を拾って入力していきます。
正直なところ異なる文化圏の人がつくったExcelファイルは理解しづらく、苦難の連続です。しかも入力単位がUSドルなので、ケタが間違っててもとっさに気づきにくいという事態が(おい)。半年やってだいぶ慣れてはきましたけどね…。「めんどくさいー!!」とあたりかまわず叫びながらPCに向かってます。



こうやって忙しくしながら、新しい日常になじんでゆけるのでしょうかね。
明日は父の誕生日です。母にお祝いしてもらうといいのだわ。(なぜお嬢様口調)


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