せきねしんいちの観劇&稽古日記
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2008年03月10日(月) |
ジンチョウゲとネズミ |
昨日とはうって変わって寒い朝。雨も本降りだ。 稽古場近くのジンチョウゲが咲いているのに気がついた。春はどんどんやってくる。 お嬢さんを中心にした場面を午後から。 その後、昨日の続きの明治2を。積み上がってきた。 最後は、明治1。先生と小宮(K)の場面と学生たちの場面。柳内さんに竹薮さんの所作のアドバイスをしてもらう。 遠藤くんから聞いたネズミの話。昨日の夜中、彼の部屋にネズミが出たそうだ。あ、ネズミ!と思った次の瞬間、ネズミは壁を駆け上がり、「ブレーカーを落として」消えたそうな。真っ暗闇の中で呆然とする遠藤くん。なんだそれ?とみんなで笑う。後で調べたら、ブレーカーの中に外への抜け穴が開いていたそう。遠藤くんが困っている様子も含めて、目に浮かぶような情景だった。部屋でネズミを見たのは初めてだそう。これも、春だからか。
あたたかな日。 稽古場の近くの公園の梅が、ずいぶん咲いている。 14時半開始に間に合うよう、14時着で鍵を持って行ったら、もうみんな入り口で待っていてくれる。ありがとう。 夕方の食事の時間、今日はカップ麺率が高い。カップ焼きそばも登場。 細かく細かく組み立てる稽古。漱石のテキストを再構成した場面。読んだだけではわからない気持ちをもとに動いてもらう。漱石が書いてないかもしれない、激しい、そして切ない感情をイメージしてもらう。リーディングのように、シンプルに演じてその先は想像してもらうということではない、切ったら血が出る人物が語る漱石の言葉が聞きたい。 最後に、いくつかの場面を通してみる。違ったなじみ方、違ったいかたが出来てきている。どうしても重たくなっていた場面のおかしさを、いくつも見つけて、拡大する。せつなくも、おかしい、「こころ」をつくりあげていく。 稽古場に、制作の樺澤氏と舞台監督の赤坂さんが来てくれた。もろもろ打ち合わせ。 帰り、薄い春物のトレンチコートでもう寒くない。たぶん、今日から春だ。
午前中、年度末の仕事を何とか片付ける。ほんとうはもっと早くに終わっているはずだったのだけれど、これでようやく僕の手からはなれた。 稽古は、午後、岸本さんと早瀬くんの場面。緻密に、ディテールを組み立てていく。 夜は、桑島さんの「語り」。講談の息でお願いします、などとむずかしいな注文をする。 パソコンに入っていた、白石加代子さんの「百物語」を少し聞いてもらう。その後、明らかに息が変わった、桑島さん。すばらしい! 漱石の文章は、どこか東京の寄席のにおいがする。漱石が書いたものではないものだけれども、芝居の中に、そんな息がいきづいているのはおもしろいんじゃないかと思う。 今日も一日、ずっと芝居をしている。家で、台本を書いているときとは違う、みんなで作ってるんだという気持ちが、僕の背中を押してくれる。 いつもは大人数の座組だと、はじめはこんなにたくさん!と思うものだけれど、今回は、初めからそんなふうな気持ちになることもなく、一人一人がとても近しく思える。今回の座組は、そんなチームだ。
昼間、劇作家協会へ。 その後、れいさん、鳥養さん、王様美術さんと美術打ち合わせ@新宿。 稽古場へばたばたと向かう。 明治2の先生がいろんな思想を語るところ。稽古しながら、細かく手直し。 その後、学生たちの場面。5人の男たちが、志向はバラバラなのに、ちゃんと友達でいる様子が見えてくる。立ち上がる、というのはこういうことなのだろう。 硬派も軟派も中立派もみんな含めて、やいやい話をしている。このみんなバラバラだけど仲がいいというのが僕が描きたい明治の気分だ。 漱石の「こころ」には描かれていない、そんな時代の空気感が、この場面にはあるんじゃないか。そう思えてくる。 帰り、朝から一日出かけて、食事ができなかったので、一人で夕飯。 駅前の「ぶるだっく」という韓国食堂。店名のぶるだっくは、鶏もも肉を辛いソースで炒めた物。とてもおいしいが、とってもからい。唐辛子と山椒とその他いろいろ。ほかほかとした身体で帰ってくる。
午後、女学生たちのやりとり。衣装を着てもらって。着物に羽織りにえび茶の袴、そしてブーツも。 柳内さんの「はいからさんが通る」の紅緒or「婦系図」の妙子のような袴姿がジャストフィット。いるいるこういう子!なかんじになった。 衣装のたすけもあって、芝居もいろんなことが見えてくる。 明治2の先生の家の場面。岸本さん、早瀬くん、まみぃが、漱石の文体をどう身体になじませるか、いろいろなアプローチ。 夜、学生たちの場面。途中までで時間。続きは明日。
富士見丘小学校の6年生の「卒業を祝う会」に招待していただく。 授業や発表のときとは違う、子供達と一緒に座って、先生方、保護者のみなさんの出し物を見る。 「雪の降る日に」の中の「心臓の音が違う女の子を見つけて、その音を聞いてみる」という場面を先生方が、再現してくれる。聞こえてくるのは、6年生の1年生からの思い出の音や声。素敵なパロディになっていた。 6年生の出し物は、まず「君の瞳に恋してる」の合奏。つづいて「雪の降る日に」から、「ありがとう」の合唱。僕が初めに書いた詞を、みんなでアレンジしてくれて、とてもいい歌になった。今日も涙。 その後、来年度の授業の打ち合わせを平田さん、先生方と。 以前から、演劇授業を100年続けたいと言ってくださっている宮校長先生。 この頃、その100年という歳月の重みを感じるようになった。抽象的な100年じゃなくて、しっかりと手応えのある時間としてと言ったらいいだろうか? たぶん、今、生きている僕たちはもういないだろうけど、演劇授業はあり続ける。自分がいなくなった後にあるものというのを、僕はこれまで考えたことがなかった。 100年先のことを、100年後につながる演劇に携われていることが、とてもうれしい。 僕の芝居は、たとえば、フライングステージは、どうしたら100年続くことができるのかなとも考えた。 すっかり遅くなって稽古場へ。 あわただしい気持ちのまま稽古。 今回の「新・こころ」には、今からほぼ100年前の時代が登場する。 今日は100年未来と、100年過去の両方を考えた。これまでとこれからのあわせて200年の間に今生きている自分。200年にわたる芝居のことを考えると、不思議な、そして幸せな気持ちになる。
午後は、原作でいうところの「先生と私」、先生と奥さんと私の場面。 漱石の言葉を主につなげているのだけれど、それだけで、ええ、そうだったんだ!という意外な空気が浮かび上がってくる。 夫が鎌倉の海で出会った学生を迎える妻の気持ちはどんなだろうqとか。そんな三人で酒を飲むってどういうことだろうとか。 今回の「新・こころ」では、そんな舞台化してみただけで浮かんでくるいろいろがおもしろい。文字として読むのと、人物として話すのとでは全然違うんだもの。読み方が甘いということなのか。いや、演劇の力だと思いたい。シチュエーションを生きて、言葉を発してみて初めてわかることがあるということだ。 夜は、昨日に続いて、着物で稽古。今日は、男子の袴着用率を高くしてみた。 着物で下駄を履いて歩くと、それだけで芝居の息が変わってくる。 最後は、学生たちの場面のエチュードをやってみてもらう。 それぞれが好きな映画について話をしている5人。 台本では、最近読んだ本についてあれこれ言い合う、硬派と軟派の学生たちだ。
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