せきねしんいちの観劇&稽古日記
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一日、仕事と、原稿書き。 なかなか終わらない。 合間に、フライヤーの裏面をデザインして、劇場の地図をつくったりする。 単純作業が、熱くなった頭を冷やしてくれる。
夜までかかって、まだ二つ残っている。 どちらも大物。 この日記も気分転換。
夕方からの富士見ヶ丘小学校の演劇授業のうち合わせ、仕事が終わらず行けなくなってしまった。授業は来週の火曜日、朝からだそう。
久し振りに長袖のシャツを着た。冷房の効いた部屋や電車はそろそろつらい。何年か前に、一夏ずっと長袖で通したことを思い出す。日に焼けないようにというたくらみだったと思う。その年一年で終わってしまった企画だ。ていうか、さっきまですっかり忘れていた。 暑い日に暑さをしのぐため、どんどん薄着になるか、それとも重ね着をしていくかという性格判断があった。いずれにしろ、性格が変わってきたってことに間違いはない。 長袖を着て、汗をかくかと思ったら、涼しい風が袖の中に入って、かえって涼しい。 肌で直に感じる日射しとはまた違う季節の感じ方だ。 夜、母親に桃を食べないかと言われる。 昨日、「桃はもうおしまいだねえ」という話をしたばかりだ。 近くの八百屋さんに、毎年買っているその桃が出ていたのだそうだ。 3個は近くの妹夫婦のところへ、うちへは2個、そして、お盆に遊びに来れなかった弟夫婦のところに1ダースの箱入りを送ったという。 母自慢のその桃はたしかにとってもおいしかった。 種のまわりまでがやわらかく甘く、ちっとも酸っぱくない。 明日、また2個買ってこようと母は言っている。
母はこの頃、猫と散歩をしている。 ひもをつけているわけでもないのに、ちゃんとついていってるらしい。 最近つけた鈴が「ちゃりんちゃりん」と鳴って、しばらくついてこないなと思っても、すぐに追いついてくるのよと母はうれしそうだ。 いつもは家のあるブロックをひとまわりのところ、今日は二回りしてきたという。 玄関先に来ると、猫はごろんと横になって、家に連れて行けと催促する。 母の留守に僕が帰ってきたとき、外に閉め出されていると、彼はそんなふうにごろりと転がってみせる。横柄なヤツだと思いながら抱きかかえると、のさっとした重さが手に嬉しい。 さっき、帰ってきた猫を抱き上げたら、近くの畑の脇に植えられたラベンダーのにおいがした。
錦糸町の楽天地で「華氏911」を見る。 さすが映画の日だけど、平日なのに、こんなに混んでるんだなあとまずは驚く。 となりに座ってきた、金髪の外人な男の子、どんな反応するのかしらと時折気にしながら見ている。 映画は、とってもよくできてると思った。 ブッシュとサウジアラビアのつながりだとか、イラクへの攻撃がどれだけ貧困層の犠牲の上になりたった、富裕層のためのものであるかとか、報道される断片からはなかなかイメージできない全体像をくっきりと見せてくれる。 爆撃されるイラクのむごさ。映画館で見る、爆撃の絵が、CGじゃなくて、本物なんだということが、とってもおそろしい。 リーディングのためにいろいろ読んだこと、まさにそのものを目の当たりつきつけられた気がする。 マイケル・ムーアが「あなたの息子を戦場へ」と議員に迫るところ、ホットドッグかなんかを売る車を借りて、誰も読まずにサインした「愛国法」を読み上げるところなどなど、彼の理屈じゃない、だまっていられないんだという心意気とユーモアのセンスを感じる。 一番心に残ったのは、イラクの爆撃の映像と、泣き叫ぶ人々の姿。 いつもは、アクションやSF映画の爆撃の場面を見ても、その炎の下で死んでいく人々の苦しみを思ったことはなかった。 もしかしたら、僕たちは、超大作SFアクション映画のせいで、そんな気持を麻痺させられてしまっていたのかもしれない。 今、これを書きながらも、爆撃の映像と、人々の死というものが、ストレートにつながらないもどかしさをかんじる。 映画に登場していた兵士たちは、そのつながりを、自分から切り離すことで自分を保っている。そのつながりがあることにすら無意識な兵士達も紹介される。 どちらも悲しい。
台風一過の空が夜明けと一緒にぐんぐん晴れていくのを見ていた。 小松川高校の演劇部の稽古に顔を出す。 夏休みも今日でおしまい。 そろそろ通し稽古ができるということなので、ひさしぶりに顔をだした。 三年生のナッちゃんとこないだ卒業したアキナちゃんと一緒に、体育館の舞台で、見学。 古城十忍作「肉体改造クラブ 女子高生版」。 途中から、一番気になっていた場面に登場する「主任」くんを相手に、どうやって笑うかというエチュードをいろいろさせてもらう。お父さんがテレビと見ながら、笑っている。そのおかしさを娘を共有したいのだけれど、娘はずっとふてくされて、相手にしない。お父さんの台詞は「笑い声」だけ。しかも、同時にもう一組の母子の会話が展開する。この台本を上演すると決まったとき、一番難しいのはここのお父さんの芝居だと思った。少し見せてもらったその場面で主任くんはずいぶん苦労しているようだったので、お手伝いさせてもらった。 理屈でああでもないこうでもないと積み上げていく演技は、それはそれとして正しいと思うけど、どこか窮屈な気がしてならない。 エチュードで大きくつくった演技の、余分なところの角をとって、演技プランに生かしていく方がずっと生き生きとしたものになるような気が僕はしている。何より、その方がやっていておもしろいんだもの。これは、見てる側の感想じゃなく、自分でやってる時の気持としてもね。 主任くんには、自分の中からだけで気持をつくろうとするより、相手役やそのとき見ているテレビから何かをもらって、気持を動かしてごらんと話す。 午後から、通し稽古を見せてもらう。まだ、衣装、小道具の全部はできてないながら、流れとしてはほぼできあがっている。ただ、まだ、みんなが自分一人でがんばった成果の発表が順番に続くだけなかんじ。台詞は入った、動きも覚えた。その先の、芝居づくりは一人じゃできない。みんなでつくっていくものだよと話す。 主人公の幻想の中で幸せな家族が繰り広げる誕生日パーティの風景、楽しさがいまいちぎこちない。みんなが自分の台詞と動きをなぞるのにいっぱいで、やりとりになっていかず、楽しさが盛り上がっていかない。 台本の設定と、一度ついている演出を忘れて、思い切り楽しくやってみてもらうことにする。 うなだれて登場する主人公を演じるヤブコちゃんには走り込んできてもらう。お行儀のいいお母さんをていねいに演じているアメちゃんには、もっとヤブコちゃんの身体にタッチしなさいと話す。 そうしてできた場面はなんだかむちゃくちゃ生き生きとしていた。すごいじゃん!これだよねえ!と見ていたみんなで盛り上がる。 一気におもしろくなったので、どんどんやってみる。 夢のように幸せな誕生日の場面の後、そっけない両親とのほんとうの誕生日の場面が続く。 ここまでを通してもらったら、夢と現実の落差がすごくて、とっても切ない場面になった。 時間が来たので、今日はここまで。何よりみんなの生き生きと演技する姿を見ることができてよかった。自分一人じゃなくて、みんなで芝居をつくっていくことのおもしろさを、どんどん楽しんで、いい舞台をつくりあげていってほしいと思う。
帰り、平井の駅前でおばさんの衣裳に使えそうなものを山ほどみつける。値段もお手頃、ゲットするかと思いながら、もう少し考えてからにしようと我慢する。 いずれにしても、サイズが問題。 フリーサイズでかなり大きめに見えるけど、僕が着るとけっこうパツンパツンだったりするから油断できない。 バストが大きいおばさん用っていうのを、胸囲が広い僕が着るのは、なかなか難しい。肩幅もあるしね。プリーツ素材だからって安心はできない。 衣裳については、土曜日に三枝嬢とうち合わせ。予算の少ない中、今回も通販で何点かゲットすることになりそう。 あ、報告が遅れましたが、次回のフライングステージ公演「約束」での僕の役は、またかというかんじでおばさんです。
夜になったら、どんどん肩が凝ってきて、気分が悪くなる。 特に右側。親指のつけねもパンパンに張っている。 このところパソコンに向かう時間が長いからそのせいだろうか。 バンテリンを塗ったら、ものすごくひりひりして、大後悔。しばらく使わない間に蒸発して濃ゆくなってしまったのか、それとも、僕の肌が弱くなっているのか。 あまりに、いたたまれないので、風呂に入って、洗い流した。 いつもより長めに湯船につかるが、肩こり自体は、少しも改善されない。
フライヤーデザインをお願いしているマツウラヒロユキくんから、デザインが届く。 なかなかいいかんじ。 文字の修正をいくつかして、ほぼ決定になるだろう。 台本をひたすら書く。 1場まで書いて、やや書きづまっていたのを、強引に先に進めていく。 今回は、いつもにまして、おかしな人たちがおおぜい登場する。 そのキャラクターと場の設定の特殊さがどんどん募ってしまい、肝心の物語が立ち上がっていかないいらだちをずっと抱えていた。 制作の高市氏に励まされ、とにかく書いていく。 書きながら、なかなか外に出ていこうとしないものを、無理矢理生み出していく中で、思いも寄らない人物の感情や背景が見つかっていく。 夜遅く、2場までをメールで送る。全体では6場を予定しているから、約三分の一。 その後、電話で高内氏とうち合わせをする。 フライヤーのデザインの準備も始まっている。 今回は、客演の方が多いので、出演者の写真をのせることにした。 みなさんから送ってもらった写真をトリミングして明るさを調整。 うちの劇団のメンバーの写真が、なかなか決まらない。 僕も含めて、一度、プロフィール用の写真を撮ってもらいたいねとノグとやりとりする。
外は台風のせいで大嵐。 風と雨の音がすごい。 雨が小止みなると、庭から虫の声が聞こえる。 不思議なかんじ。 窓を思い切り開けて、風がどんどん入ってくるようにしたまま、部屋の明かりを消して、パソコンに向かっている。 僕は、嵐の夜に、窓を開けて、嵐をかんじるのが好きだ。 風と一緒に、夜がどんどん部屋の中に入ってくる。 部屋の中が夜の気配にどんどん侵されていくかんじに魅かれる。 普通の夜に、窓を開けても、こんな気持にはならない。 嵐の中、外に立っているよりもずっと。 コクトーの「双頭の鷲」をtptで見たとき、冒頭の嵐の場面が見事だった。 麻実れい演じる王妃が、登場とともに、締め切っていた窓をどんどん開けはなっていく。 まどの向うにはまちがいなく嵐があった。ベニサンピットの舞台の向うに、僕はほんものの嵐をかんじた。 1幕の途中で雷鳴とともに部屋にとびこんできた死んだ王にうりふたつのスタニスラスを王妃はかくまう。彼が、自分の命をねらう暗殺者だということがわかって、はじめて彼女は、侍女に窓をしめさせる。まさしく嵐そのものが、部屋の中に封じ込められていく瞬間は、ほとんどエロチックといってもいいくらいだった。 嵐の夜、僕は、この場面を思い出しているのかもしれない。 もちろん、僕の部屋の窓からは、後に命を賭けた恋に落ちることになる暗殺者がとびこんでくることはなく、窓辺では猫があおむけになって寝ている。
台風で雨降り。雨降りでとっても寒い、こんな8月ってなんだろう?
夜中、録画しておいた、蜷川幸雄演出、野村萬斎主演「オイディプス」@ギリシャ ヘロデス・アティコス劇場)を見てしまう。 野村萬斎は、様式的な表現が先行して、何かが足りない気がする。 麻実れいは、見事。ラストの絶叫、あられもないかんじがものすごい。 他の男優陣も見応えがある。 ただ、男性コロスの叫んでばっかりなところにどうしても違和感がある。 もともとコロスって、自分の気持ちをきっちりと伝えてればいいんじゃないのかな? 叫びは自分の感情のたかまりなわけだけれど、主人公以上にたかまってる理由がわからない。 このあいだ、大沢健さんと話した築地本願寺で見た蜷川さんの「オイディプス」のことも思い出す。もう二十年近く前の舞台だ。 京の四条河原に集まる遊芸人たちという設定のコロスたちが、延々と泣き続ける演出に僕はほんとうにうんざりした。 主人公の悲劇をともに悲しむ群衆というのはまあいい。でも、それだっても、最終的には笑うんじゃないかな? 泣いて泣いたあげくに、すっきりする、もしくは笑う、群衆っていうか大衆ってそういうものなんじゃないかと思う。 その少し前に見た同じ蜷川さんの「にごり江」は、樋口一葉の切ない女たちの物語がつむがれた最後、舞台にいくつものテレビモニターがあらわれ、今の番組を映し出す、それと同時に響き渡る人々の哄笑の中、幕は下りる。 これだよね……と当時の僕は思ったんだった。今もその思いは変わらない。 だから、今回の蜷川さんの「オイディプス」はやっぱり納得がいかないものが残った。 野外劇場ということもあり、声に比重のかかった演技だったせいもあるかもしれない。 蜷川さんの「メディア」のコロスも、こんなに絶叫しない。 押さえた声で情念を伝え、一番重たい感情は津軽三味線の響きが担っている。 たしかに「オイディプス」は、「メディア」と違って、情念よりは、謎解きが優先される独自の構造をもつ悲劇だ。出生の秘密を探らずにはいられないオイディプスの情念が物語を動かしているのは間違いないが、コロスが一緒になって泣いても、妙に余計なことをしているような気がする。 だとしたら、どんなコロスが可能なんだろう? いろんなことを考えた。 この芝居のコロスは街の長老たち。風のように、もっとすっきりといることはできないだろうか。もっと枯れたかんじで。観客と一緒に悲劇を受け入れ、許していく、そんなコロスだったら、どうなんだろう。 ラストにコロス達が笙を演奏しながら、粛々と去っていく姿が美しい。でも、この情景があんまり唐突な気がするのは僕だけだろうか? 気持はつながってるんだろうか? この情景をベースに全編やってほしかった気がするなあ。
さんざんまよったあげく、OSの再インストールを試みる。 ソフトじゃなくて、ハードがおかしくなってる気がするので、これでほんとうに死んでしまったらどうしようかとハラハラする。 結果、死んでしまうこともなく、無事再起動。 ネットには、つながるようになった。 よかった! たまっていたメールをどんどこ送る。 書きためていた、とりあえずの日記もあれこれアップしてみる。
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