2004年11月28日(日) |
コンパスのような女性⑤ |
同窓会の翌日、桑野が香織の自宅を訪問しようと誘いにきた。青山香織の母は年頃の娘三人を抱えているので、若い男が遊びにきてくれるのを歓迎していた。娘三人とも中学校から女子ばかりのミッションスクールに進学させたので、親の目の届くところで男性と交際させるのを望んでいる。香織の姉二人の男友達もよく香織の家へ遊びに行っている。昨日同窓会で桑野が遊びにいってもいいかと尋ねたら是非来てほしい。母も歓迎する筈だと言った。自分独りで行くのも変な気がするので、肇も一緒についてきて欲しい。同級生の中で時間に余裕のあるのは学生の肇くらいしかいないので君を誘ったのだと言うのである。 肇は桑野に誘われて香織の家へ付いて行った。 H町の城跡のある山の中腹に、生け垣に囲まれた古風な造りの家が青山香織の家であった。桑野が案内を乞うと香織が出てきて、訪問客が肇と桑野であると知って笑顔を作り 「あら、珍しい方がいらっしゃったわ。さあどうぞ。どうぞ、お上がり下さい。お母様、桑野さんと中村さんがいらっしゃったわよ」と奥へ声をかけるとその声に香織の母親も奥から出てきて遠慮しないで上がってくれという。 桑野と肇が奥へ通されると、堀り炬燵の布団を取り払って机代わりに使っているらしい炬燵台の上には、今しがたまで母娘が談笑していたとみえ、いちごが皿に入れて置かれていた。 「よくいらっしゃいました。桑野さんも中村さんもお元気でしたか。二人の姉が嫁いでしまいましたので、香織と二人で寂しく暮らしていますのよ。色々、楽しいお話を聞かせて下さい。若い男の方のお話は頼もしくていいですね」と少し上がり気味の桑野と肇の様子を見て、香織の母は言葉巧みに話しかけてくる。やがて香織が台所からお茶を入れて持って来た。 「中村さんも桑野さんもH町に帰って来られたら、これからも是非、遊びにいらっしゃって下さい。香織の二人の姉達のお友達も皆さんよく遊びにいらっしゃって下さいましたわ。皆さんそれぞれ立派な社会人になられて。皆さんが成長なさるのを拝見しているのはとても楽しいことですのよ」 香織の母は自分の息子達が親許へ帰ってきたような喜びようである。
このようにして、肇は大学生の4年間、帰省すると必ず香織の家へ遊びにいくようになった。肇の学校生活の模様とか、香織の学生生活が話題になった。ある日話題が肇の将来の職業に及んだ時、肇は司法官を目指して勉強していることを披露した。肇には国家試験に合格する自信はなかったが、香織のために頑張るつもりであった。 「司法試験に合格したら、香織さんにプロポーズしようと思っています」と肇が意中を漏らすと香織は顔を朱に染めたが、 「私は司法官は堅苦しくて嫌よ。お医者さんか、大蔵省とか通産省の公務員の方が好きだわ」と言った。 肇は戸惑った。医者になることは法学部の学生にとって無理な注文であった。だが,大蔵省か通産省の役人になることはできる。この時以来、肇は司法官試験の勉強から上級国家公務員試験へと勉強方法を変えた。結果的にはこのことは功を奏した。
4年生になって国家公務員試験に合格し、通産省入りが内定した肇は、卒業前の短い休暇を利用して帰省し、香織の自宅を勇み立って訪問した。香織と母は何時ものように肇を迎えてくれたが 「中村さん、良かったわね、通産省に入省がお決まりになって。おめでとうございます。お蔭さまで香織も、この度K大学の医学部でインターンをしている方と婚約が調いましたのよ。中村さんや桑野さんのような良いお友達と交際させて頂いたお蔭ですわ。これからも、帰省されたときには元気なお姿を拝見させて下さい」と香織の母が言った。
香織の母の説明によれば、未亡人として女手一つで三人の娘を育て挙げ、それぞれに嫁がせることができた。女手で娘を育てるのだから、どうしても父親のようにはいかない。そこで、信頼出来る男友達を自宅へ招いて、親の目の届くところで交際させ娘に男を見る目を養わせたいと思って、肇や桑野と交際させた。肇や桑野が香織に好意以上のものを寄せていることは判ってていた。特に肇が国家試験に合格したらプロポーズしてくるだろうということも予想していた。香織が肇に好意を寄せていることも承知していた。しかし問題は肇が長男で、年老いた両親を扶養していく立場にあることだった。そして、香織の母にも最後の娘を嫁がてしまうと、老後の生活をどうするかという問題があった。そこで次男坊の医学生と結婚させるのが一番いいと思っていた。幸い良縁があったので婚約したということであった。
肇は香織の母の説明を聞いて落胆した。目の前が真っ暗になる思いであった。春秋に富む時代に人生の方向を定める羅針盤の役割を果たした女性は手の届かない所へ去っていこうとしていた。その時、小学校3年生の夏、臨海学校で溺死した少女の柩桶を見たときの光景が瞼に浮かびやはり絆は切れたと思った。
肇は大学を卒業して入省してから間もなく田鶴子と見合い結婚した。香織からは時節の挨拶が毎年送られてきた。肇も儀礼的に年賀状や暑中見舞いを出していたが、田鶴子に指摘されてからは出さなくなった。
消息が判らなくなって4~5年経ったある日、香織から夫が心臓病で急死したという便りが届いた。数えてみると香織は35歳で、香織の母が未亡人となった年齢と奇しくも同じ年齢であった。
2004年11月27日(土) |
コンパスのような女性④ |
再び肇が香織と交渉を持つようになったのは、大学1年の夏休みのことである。激しい受験勉強から開放され、目的の国立大学に入学した肇は親元を離れて古都での学生生活にも漸く慣れ、祇園祭り、大文字焼きを土産話しにして初めて帰省した。肇が帰省するのを待ちかねるようにして、小学校時代の同窓会が開かれた。中学時代ではなく小学時代の同窓会であるところに意味があった。
同窓会の幹事役を買ってでたのは桑野である。桑野は頭の良い男であったが、家庭の経済状態が許さず夜間高校へ通って、苦学力行しミシンのセールスにかけては特異な能力を発揮した。Rミシンでは3年間続けたトップセールスマンの実績を看板にして独立を試み、商事会社を設立して意気大いに上がっているときであった。桑野は自分の隆盛を同級生に誇示したいという気持ちがあった。また、とみに美人の誉れ高かった青山香織に近づきたいという魂胆もあった。そこで桑野は小学校時代の同窓会という奇抜なことを思いついたのである。H町にはH小学校とH中学校しかなかったから、H中学は小学校の延長であり、仮に同窓会を開くとすれば、H中学の同窓会を開くのが常識であった。ただ、中学時代の同窓会を開くことになると中学校からはO市のミッションスクールへ通学した青山香織が漏れてしまう。一計を案じた桑野は小学校時代の同窓会を開くという大義名分をたてておいて通知をだしたのである。
中学卒業以来5年程経っていたので、久し振りに見る顔は皆立派な大人であった。当日30人程の同窓生が集まり、旧交を温めた。女子の中には既に結婚して母親になっている者もいた。
餓鬼大将だった清山が学校菜園の西瓜畑に忍び込んで、西瓜に麦藁を突き刺し中の汁を吸ってしまったのを先生に見つかり、一日中廊下に立たされた話しとか、おませの栗坂京子が粗相して小便京子という異名をとった話しなど思い出話しに花が咲いた。
餓鬼大将の清山が銀行マンになっており、物腰が柔らかく話し上手になっているのは驚きであったし、小便京子が化粧品会社のマネキンガールになって見違える程美しくなっているのも肇には新しい発見であった。幹事の桑野は「社長」「社長」と呼ばれ得意になってセールスの秘訣なるものを披露していた。
青山香織は皆が楽しく談笑しているのをにこにこしながら聞いていた。桑野は誰彼となく如才なく話しかけていたが、栗坂京子と青山香織には特に親切に振る舞っていた。いつとはなしに、話題は恋愛論、結婚観、女性観、男性観へと転じていった。若い年頃の男女の集まりとしては当然のなりゆきであった。
肇も桑野に促されて、恋愛論を喋らされるはめになってしまった。 肇は小学校3年の時、臨海学校へ行って、飛び込み台の高い所から飛び込んだ話しをした。そして、あのとき未経験にもかかわらず、自分を一番高い所から飛び込ませる原動力となったものが、初恋の感情であり、純粋な恋愛感情というのは、そのようなものではないかと思うと述べ、この純粋な気持ちを大切にしたいと結んだ。肇は喋りながら、香織の方を注意していたが、香織は頷きながら、肇の話しを熱心に聞いていた。水玉模様の帽子を被り、黄色の水着を来ていた女の子が香織のことであると気づいている筈なのに、その表情からはよく読み取れなかった。しかし肇は香織の視線に眩しいものを感じていた。
2004年11月26日(金) |
コンパスのような女性③ |
臨海学校へ参加した30人の学童のうち、男子はサポーターと称する三角褌または六尺褌をつけており、海水パンツなどという贅沢な水着をつけている男子学童はひとりもいなかった。女子学童にしても水着を着ている者は2~3人で大半の女子はシュミーズのままで海に入った。水着を着ている2~3人の女子の中に青山香織がいた。
香織は黄色の水玉模様の海水帽を被っており、シュミーズや三角褌をつけた学童の中では、目立つ存在であった。そして泳ぎのできる者は男女取り混ぜて10人程しかおらず、女子で泳ぎの出来たものは香織だけであった。肇は腕白小僧達に鍛えられているので泳ぎは得意であった。 泳ぎの出来る10人程の学童は沖の飛び込み台まで泳いでいってはキャッキャッと騒ぎながら、水をかけあったりしてふざけていた。
波打ち際から50メートル程の沖合にある飛び込み台の所では水深3mほどあり、そこから沖へ出ることは禁止されていた。学童達は丸太で作られている飛び込み台の一番低いところから飛び込みをして、潜水競争をしたり、競泳をしたりした。男子の中に混じって飛び込み台まで泳いで来て、低い所から飛び込みをする黄色い帽子の香織は水の女王のように振る舞った。 「誰か一番高い所から飛び込める人いるかしら」と香織が言った。飛び込み台の一番高い所は2m50cm近くもあるので、流石に腕白連中もしり込みした。 「おい。お前やってみろよ」 「随分高いもんなぁ」 皆が尻込みするのを見て、肇は胸が激しく高鳴るのを感じた。ここはひとつ自分がいいところを見せたいと思った。肇は2m50cmもある高い所から飛び込んだ経験はなかったが、今ここで飛び込んで見せれば、香織の気持ちを引きつけることができるだろうと思った。肇は武者振るいすると、一番高い所へ登っていった。下を見ると柱につかまって香織が見上げている。黄色の水着と水玉模様の帽子が早く飛び込んでご覧なさいと囁きかけている。肇は使命感のようなものを感じると目を瞑って、飛び込んだ。耳がジーンと痛く水が鼻孔を激しく刺激した。随分長い時間水に潜っているような気持ちがした。ぽかり、水面に顔を出すと 「凄いわ。中村さん」と香織が感嘆の声を発した。肇は香織のその言葉を聞いてポット体が熱くなった。香織が命令するならもっと高い所からでも飛び込むことができると思った。憧憬の対象に一歩近づいたと思った。香織との間に絆が出来たと思った。
臨海学校の最終日に、高波に浚われて、他校からきていた3年生の女の子が溺死するという事件が起きた。夕闇迫る頃、柩に入れられた遺体が宿舎から運び出されるのを遠巻きに眺めた肇は、飛び込みの時香織との間にできた絆がこの見知らぬ少女の死によって断ち切られたのではないかという不安な気持ちになった。
肇は香織と同学年であったが、小学校を卒業するまで、同じ級になったことがない。香織は二人の姉がそうであったように、小学校を卒業すると、ミッションスクールへ進学したので、H町の新制中学へ進学した肇とは没交渉になってしまった。
2004年11月25日(木) |
コンパスのような女性② |
桜井香織は旧姓青山香織といい、肇と同じ町内の出身で、年も肇と同年である。肇が終戦後、満州から引き上げてきて住みついたのは、瀬戸内地方の畳表の産地として有名なH町であった。
肇は小学2年生で、下に二人の妹がいた。満州で薬品会社の試験室に分析技師として勤務していた父は、応召し内地の通信学校勤務のまま、終戦を迎え、家族より一足先に、住み慣れた故郷のH町へ復員していた。そのため、肇の母は戦後ベストセラーになった藤原てい著「流れる星は生きていた」にでてくる主人公と同じような苦労をして肇と二人の妹を女手一つで引き連れてH町の親元へ引き上げてきたのである。 肇がH町の小学校へ転校したとき、同学年にいたオチャッピィーな女の子が青山香織である。青山家はH町でも由緒ある家柄の旧家で、香織の母は見識高い美貌の未亡人であった。青山夫人は後妻であり、先妻の長男と自分の腹を痛めた三人の女の子を育てていた。香織は末っ子であった。なさぬ仲の長男は既に東京へ遊学しており、H町にはミッションスクールに通っている長女と小学5年の次女と末っ子の香織が親元から通学していた。
青山夫人は亡夫が残した遺産と実家からの援助で豊かな生活をしているというのが世間の風評であった。青山夫人はなかなかの社交家で、婦人会の会長を勤めたり、学校のPTAの役員をしたりしていたが、なさぬ仲の長男を継子扱いして東京の学校へ追い出してしまったとか、女だてらにPTAの役員に名を連ねては、見識ぶった発言をするとか、娘達を中学からミッションスクールへ通わせて、見栄をはっているなどと噂されていた。それらの噂は戦後、物資の不足している時代に亡夫の遺産と実家からの援助でぬくぬくした生活をしていることへの羨望と若後家を通しながらも女手一つで旧家の体面を保っていこうとするひたむきな姿勢に対するやっかみが入り交じったものであった。
財産を満州へ置き去りにしたまま裸一貫で引き上げてきて、一から新しい生活を始めた肇の両親も青山未亡人には羨望の念を持っており、世間の噂に同調しているようなところがあった。肇が転校してきたのは二年生の時である。世間の噂や近所の陰口が耳に入っていたので、肇は青山家の人達は特殊な世界に住む別種の人種のように考えていた。
肇が小学三年になった夏休みに、瀬戸内海の小島で臨海学校が催されることになって、肇も初めて親元を離れ、三泊四日の臨海学校へ参加した。一学年百二十人ほどの生徒のうち、臨海学校へ参加した学童は30人程で比較的生活にゆとりのある家庭の子供に限られた。肇が香織の存在を意識したのはこの臨海学校でのことであった。
2004年11月24日(水) |
コンパスのような女性① |
勇は後年、青山拓子をモデルにして短編小説を書いているので以下数回に分けてこの短編小説を引用しておくこととする。
コンパスのような女性① 「あなた、もういい加減に若い娘さんのところへ年賀状を出すのは止めて下さいよ。先方だって男の名前で年賀状がくるのは、迷惑なんですから」と妻の田鶴子が横から口を出した。
中村 肇はせっせと年賀状の宛て名を書いている。朝から一心に書いているのだが、なかなか終わらない。几帳面な性格の肇は、自分に送られてきた手紙は全部住所を切り抜いて、名刺帳に整理してあるので、夏、冬二回は決まって三日間ほどかけて、年賀状と暑中見舞いを書くのが習わしになっている。肇は年賀状を印刷屋に頼んだことがない。儀礼的に出す賀状であるとはいえ、通り一片の文句を活字で印刷して出すことには抵抗がある。受け取る相手に心が籠もっていると感じて貰える賀状を出したいと心掛けているのである。そのため、肇は毎年趣向を凝らせた版画か水彩画を自分で一枚宛描くことにしている。余白には必ず一筆近況を書き添えなければ気が済まない律儀な性格である。
肇の賀状はいつも評判が良かった。正月三日頃に配達されてくる肇宛の賀状には、綺麗な賀状をありがとうとか美しい賀状を拝受したとか、心の籠もった賀状に接し恐縮したという文句が書き添えられているものが多かった。
肇の傍らで書き上がった賀状に郵便番号を書き入れる作業を手伝っていた田鶴子が一枚の葉書を取り上げた。
「あなた、桜井香織さんという方から毎年賀状がきているようですが、どういう方ですの」 「幼な友達でね。コンパスのようなものさ」 「なんですかコンパスというのは」 「船に羅針盤というのがあるだろう。あれのことさ」 「どういう意味ですの」 「僕の人生を導いて呉れた人」 「まあ、憎らしい。その方と何かあったんですか」 「ハッハッハッ。冗談さ。コンパスという綽名がついていた」 「なあんだそうなの。それにしても上手な字を書く人ね」 「うん、書道は巧かったね。確か師範の免許をとった筈だよ」 「まだ結婚はなさらないのかしら」 「いや、結婚しているんだよ」 「あらそうなの。ご主人の名前を書いていらっしゃらないから、独身の方かと思っていましたわ。ご主人がおありになるなら、なおさらのこと、あなたが賀状をお出しになるのはおかしいわ。先方のご主人だって、男から妻宛の賀状が届いたりするといい気持ちはしないと思うわよ」 「わかった。わかった。今年から出すのは止めにするよ」
肇は妻から詮索されるのがうるさくなったので、大きな声で答えておいてその日の賀状書きを終えることにした。なまじ、妻に詮索されたら、肇がコンパスのようなものさと言った意味を千言万語費やしても的確に説明することは出来ないだろう。田鶴子は肇が机の上を片付けだしたので、それ以上詮索するのは止めて台所へ立って行った。
2004年11月23日(火) |
父祖の地へ生還し早島町で生活② |
岸田の寿美姉さんが泳ぎは一番うまく、飛び込み台からも飛び込んでは沖の方から手をあげて岸辺の私の方へ合図していたのを覚えている。美智子姉さんは、飛び込み台までは泳いで行くが飛び込みをするほどの勇気はなかったようである。その内、潮が引き私の犬掻き泳ぎでもたどりつける距離に飛び込み台が近ずいた時、岸田の寿美姉さんにけしかけられて、何回も塩水を飲み込みながらほうほうのていで飛び込み台まで辿りついた。飛び込み台の脚につかまりながら、岸田の寿美姉さんにクロ-ルの要領を教えてもらい、海岸へ向けて何回も練習をした。水面から顔をあげて呼吸をすることができなくて、クロ-ルは諦め、呼吸のしやすい平泳ぎを教わった。 岸田の寿美姉さんは当時、倉敷高女の二年生であったが、海水浴を終わって、宿へ帰ると私と一緒に恥じらいもなく風呂へ入って塩水を洗い流していた姿が、漸く生え揃った恥毛とともに強烈な印象を私の脳裏へ刻みつけた。それは春に目覚める前触れの感受性がしからしめたものであったのかもしれない。 早島小学校五年生の夏のことであったと記憶するが、渋川の海水浴場へ臨海学校と称して二泊三日の合宿に参加したことがある。当時は大東亜戦争が終わり、社会は混乱し、先行き経済の復興は出来るのかどうか予測も出来ず日本国全体が暗中模索の時代であったといえよう。ちなみに昭和24年の出来事を拾ってみると、下山事件、松川事件、シャープ勧告、毛沢東の中華人民共和国成立宣言、湯川秀樹ノーベル賞受賞などがある。 当時の学級担任は荻野先生であったが、生徒達は初めての合宿であり、はしゃぎまわり、皆喜びではちきれていた。飽食時代の今の子供達には考え及びもしないことだが、食料事情が良くないので、全員米を袋に入れて参加することが、条件になっていた。確か一人三合ずつの米を荷物の中に入れていたと思う。合宿所に着くと、最初にしたことが、荷物から米袋を出して大きな米櫃に移し替えることであった。合宿所での生活は楽しかったし、青山拓子との間にプラトニックな恋愛感情を育んだのはこの合宿においてであった。
2004年11月20日(土) |
父祖の地へ生還し早島町で生活① |
2.岡山時代 ▼父祖の地へ生還し早島町で生活 宇野線の早島駅に昭和21年10月21日未明に到着し駅前で畳表や茣座の卸問屋を営んでいる母方の伯母(母の実姉)宅へ辿りつき、苦しかった北朝鮮鎮南浦からの引き揚げは終わったのである。この日は早島の秋祭りの日であった。このとき残り物ではあったが、御馳走になった「ばら寿司」の味は一生忘れられない。
母子四人が無事生還できたのは、ひとえに母の頑張りのおかげである。このあと栄養失調に陥っていた母子四人は一か月程の静養の後、健康を取り戻したのである。
小学校2年に編入したのは昭和21年の暮れであった。
早島小学校三年生の時の夏休みに丸百の美智子姉さんと岸田の寿美姉さんに連れられて瀬戸内海の田島へ出掛けたのが、親と離れて旅した初めての経験であった。丸百は園田百次郎商店の屋号である。丸百はこの地方の特産品である畳表の卸問屋を生業としており、父方の大叔母が初代百次郎に嫁いでいた。また母の姉が二代百次郎に嫁いでいたので、勇にとって丸百は父方からも母方からも親戚である。従って美智子姉さんは従姉弟にあたるが、勇とひとまわり程年長者である。田島は瀬戸内海の小島で尾道から船で小一時間程の所にある漁師の島である。この田島に先代の大叔母、園田 米が別荘を持っていた。別荘と言っても実益を兼ねたやりかたで、留守居番の婦人に佃煮を作らせていた。私が美智子姉さんとこの島へ遊びに行った時この別荘を手放す予定にしており、手放してしまうと田島へ海水浴に出かけることも出来なくなるので、勇に一度、田島を見せておいてあげよういうことであったらしい。勇の育った早島町には、子供達が水遊び出来るような川も池も近くになかったので、海辺で数日間を過ごせることは無上の喜びであった。戦後間のない頃であり、水着などという贅沢品は求めようにも売っていなかった。男の子は当時サポーターと称していたが、布切れで出来た三角形の金隠しを付けて海や川に入った。女の子はシュミーズとズロースを着用していた。
厚生省の援護局から内地の紙幣を支給されて、佐世保駅から上り列車にやっと乗り込むことが出来た。博多の駅や下関の駅につくごとに、土地の婦人会の人達が湯茶の接待をして下さり、「長い道中、御苦労様でした」とねぎらいの言葉をかけて下さったので、やはり祖国はいいなとしみじみ思ったものである。
途中の駅で駅弁を売っているところがあり、早速母が支給されたばかりの内地の紙幣でこれを求めた。中身は稲荷寿司なので、久し振りに御馳走が食べられると喜んで、かぶりついたところが、油揚げの下からでてきたのはお酢のよくきかせてある「おから」であった。内地だから、稲荷寿司には当然米の飯が使われているものと早合点した私達のほうに内地の経済事情についての認識不足があった。
爆撃を受けて、生産施設に壊滅的な打撃を受けた日本の経済はまだ復興の緒についたばかりの段階で、米の配給制度は厳然として行われており、駅で売られる弁当に米が使われるような状態ではなかったのである。そのときやはり内地も敗戦国の苦しみを味わっているんだなということを認識した。
停泊中の貨物船に乗り込んで佐世保の港まで玄界灘の荒波に悩まされながらも、一行の気持ちだけは寛いでいた。しかし、引き揚げ船の中で片桐さんの生後三、四か月の嬰児が栄養失調が原因で死亡するという悲しい出来事があった。苦しい逃避行の中でもそれまで死者はなかったのに、祖国を目前にしてついに犠牲者が出てしまった。貨物船の薄暗い船底でお経をあげ、水葬にするという侘しくも悲しい弔いであった。
佐世保港へついてからも直ちに上陸が許された訳ではない。検疫のため、肛門に注射器ようのものを挿入されて便を採られた。さらにDDTで消毒されたので、下船までには随分時間がかかった。やっと踏みしめた祖国の大地であった。このあと港の倉庫で引き揚げ列車の順番を待ったり、帰国手続きのために一晩をあかすことになった。貨物船も狭い場所へ大勢の人がごろ寝をしたが、体を横にして手足を伸ばすだけの場所はあった。ところが、上陸したとはいえ、一晩を過ごした倉庫の中は手狭で、横になるだけのスペースがないため、床に腰を降ろして立て膝をしたまま仮眠するのがやっとの状態であった。積み重ねたリュックサックに背中をもたせかけて、立て膝を両手で抱えこんだ姿で鼾をかきながら一行は、安堵の夢を結んだのである。
2004年11月17日(水) |
米軍管理下の難民収容所③ |
また、母は勇の細君にも晩年、何も財産らしいものは残せなかったが、3人の幼子を誰一人欠けることなく日本へ連れて帰って来たことが母の誇りであるし母の無形の財産であると語ったということである。
開城のテント村から仁川のテント村への移動も米軍のジープとトラックで行われた。威嚇射撃をしたり、賄賂を要求する「ロ助」と比較すれば、さらに七日間の徒歩による逃避行のことを思えば、乗り物に乗せて内地へ確実に一歩ずつ近付けて呉れる米軍はまさに地獄に仏の存在であった。開城から仁川へ向かうトラックを運転していた兵士は黒人で、チューインガムをむしゃむしゃ噛んでいる唇の合間に見える白い歯が、非常に印象的であった。また仁川のキャンプ村へ近付いたとき、通り抜けた茶色い切り通しの崖のうえに仰いだ、雲一つない青空は勇の人生の中で感じた最も美しい色の一つであった。港の海面も太陽に眩しいばかりに輝いており、紺碧の色は苦難を乗り越えて、父祖の国へ確実に近付いている引き揚げ者の明るい気持ちを象徴しているようであった。
仁川でもまずDDTの洗礼を受けてからテント村へ入った。ここでは三日間の短い日数であったから、記憶に残る思い出はない。
|