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2005年10月02日(日) ■ |
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「ヒトラー〜最期の12日間〜」は90点 |
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「(悲惨な目にあっている)国民には涙しない。 彼らが選んだのだ。 自業自得だ。」 最後の最後で国民のことをこう言ってのけ 冷静な判断はおそろしいほど出来ず ドイツ帝国の地下の最高司令部で最高幹部たちを面罵し、 右手は常にいらだち震えている。 一方では潔く死を決意し、女性子供には優しく接する。 (とはいっても生きながらえたときの地獄を知っていたのだろうが) ひとりの独裁者の最期がこうまで克明に映像化されたことは 世界史上今までなかったし、これからもないようにしてほしい。
「ヒトラー 〜最期の12日間〜」 監督 オリヴァー・ヒルシュビーゲル 製作・脚本ベルント・アイヒンガー 出演 ブルーノ・ガンツ アレクサンドラ・マリア・ララ コリンナ・ハルフォーフ
それにしても、この映画を作るために60年の歳月が要ったのである。 それほどまでに事実を事実として受け入れるのには 国民的な傷を癒すには、時間がかかるのだ。 日本国民は果たしてここまでの映画が作れるだろうか。 ムリだろう。 この60年間何もしてこなかったのだから。
ところで、あの幹部たちの無能さはどうだろう。 果たしてあれはあの国のあの時代でのことだけなのだろうか。 いったん社会的にに作ってしまった忠誠心。 状況が悪くなればなるほど 個人は個人を更に厳しく追い詰めていく。 自ら厳しく。それは優秀な人たちほどそうなる。 優秀な人たちほどヒトラーの過ちを正すなんて露とも思わない。 そして部下に更に厳しく地獄に放り出す。 それが更に自ら厳しくさせる悪循環。 少し厳しくないものは酒に溺れる。 地上では地獄絵が繰り広げられているのに。
今日たまたま元いた職場のいやな事情を聞いた。 部下のミスに対する上司の異様なほどの厳しい態度 次回起こしたら、職場を去れ、 その一言がいかに職場を硬直させるのか 部下を地獄に放り出すことになるのか上司は気がつかない。 背景には経営が思わしくないということもあるのだろう この職場も帝国末期のように感じる。 もっともそこから逃げ出した私も同罪。
独裁者に諫言すれば殺される可能性がある。 だから誰一人逆らわない。 いや、優秀な人ほど逆らう心を持たず、 それ以外の手段を考える。 だから独裁者が自殺したあと目を覆うような悲劇が訪れる。 この映画はヒトラーが死んだあとが見どころである。 状況が人の人格さえ変えていくさまは 「es」の監督らしい描き方ではある。
本当にこの出来事はドイツの1945年のことなのだろうか。 私のもといた職場のことも考えるし、 今現在の日本のことも考える。 秘書は最後に本人が出演して言う。 「私は罪がないと思っていた。 私は何も知らされていなかったのだから。 でも違っていた。 若かったから、というのは言い訳にならない。 本当に目を見開いていたなら それは分かることができることなのだから。」 Last updated 2005.09.02 09:55:12
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2005年10月01日(土) ■ |
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「リンダ、リンダ、リンダ」は80点 |
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この映画を観て何を思い出しますか? 私はなぜか高校の文化祭のことは何一つ思い出せなかった。中学校の体育祭の11枚も 描いた応援の立て看描き、大学のときの部活の締め切り間際の「恒例」の徹夜、社会 人になっての……
人生の中のきらめく一瞬。仲間との共有できるあの時。誰もが持っているものだ。で も、ものすごくありふれているし、特別ドラマチックでもない。だからこの映画、一 応仕掛けはあるけど全然ドラマチックじゃない。
でも映画館を出るとき少し元気になれる。そうだ、今でもがんばれる。きっと。
ペ・ドゥナはやはりいい。どこがいいのか、いまだに分からないけど。収穫は香椎由 宇。「ローレライ」はうそ臭かったけど、この彼女はリアルだった。立ち姿が背中伸 びて、彼女の性格がわかる。前田亜季はやはり可愛い。この作品、思いかけない収穫 だった。
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2005年09月30日(金) ■ |
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「姑獲鳥の夏」は65点 |
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監督 : 実相寺昭雄
出演 : 堤真一(京極堂) 永瀬正敏(関口) 阿部寛(榎木津) 宮迫博之(木場) 原田知世(涼子 梗子) 田中麗奈 いしだあゆみ
思ったよりよかった。 確かに美術はしょぼい。致命的である。 脚本も冗長な所や説明不足もあることは否定しない。 しかし俳優人ががんばっている。 阿部寛意外は役にはまっていたと思う。 眩暈のするようなカメラワークも、 今回の作品にいたっては意味があった。
本来この作品はミステリーではない。 容疑者の過去が見える榎木津がいる限り。 しかもこの作品にいたってはあまりにも 容疑者と探偵のと関係が密接すぎる。 単純に言うと、 京極堂は容疑者のために出張ったのではない。 関口のためだったのである。 キーマンは関口であるが、 永瀬が思った以上にがんばっていた。
映画オリジナル場面で、 紙芝居のおっちゃんが言う。 「何が真実か分からんじゃないですか。 先の大戦だって、本当だと思っていたことが違うといわれたり……」 というような意味のことを言っていた気がする。 私は先に長いあの原作を読んでいたのだが、 どうしてこの作品が昭和27年の設定になっているのか、 どうして京極堂は科学的な頭脳と 憑きもの落としの能力を同時に持っているのか、 そういう設定の意図がいまひとつ分からなかったのであるが、 今回やっとすっきりした。 戦後のあの頃は 確かに物事の善悪が逆転した時代だった。 だからこそ科学的な思考が必要ではあったのだが、 それだけでは感情的などろどろは解決できない。 憑きもの落としが必要になる所以である。
梗子 涼子の憑きもの落とし以上に 関口の「憑き物」を落とす必要があった。 京極堂は見事であった。
原田知世もなかなかよかった。
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2005年09月29日(木) ■ |
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「亡国のイージス」は50点 |
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まず、私は原作は読んでいないし、これからも読む気がないことを断っておく。だからこの評論は原作から離れて純粋にこの映画について語るつもりだ。
イージスとはギリシャ神話に登場する「ゼウスが娘のアテナにあたえた防具アイギス(イージス)」が語源らしい。つまり最強の盾なのである。事実イージス艦の防御能力のすごさはこの映画の中で何度も言及される。そして米軍より盗んだ核兵器級の爆弾を抱えて東京湾に現れ、政府を脅すわけだ。某国のテロリストの煽動に乗った自衛官の幹部が協力するわけであるが、彼らは最強の武器を持ちながら、「専守防衛」の原則が気に食わないというわけである。「日本は平和ボケしている。亡国のイージスだ。」というわけだ。
原作の意図はどうなのかは知らないが、この映画では監督は「専守防衛、是か非か」という論点は微妙にずらしてつくっている。(如月)「撃たれる前に撃つ。それが鉄則だ。」(千石)「じゃあどうして俺のときには撃たなかったんだ。」ぐっと詰まる如月情報員。防衛論議を個人の話にすりかえて誤魔化してしまった。
そうやって千石伍長を主人公にすえて、話を作ったのは阪本順治らしい。監督はがんばった。さすがに俳優人たちもよくがんばっている。退屈だけはしなかった。しかし、と私は思う。それではなぜ今この時期にイージス艦なのか。話を誤魔化してしまった以上、結局印象に残るのは、ドラマではなく、イージス艦という「本物の兵器」だけなのだ。製作者や監督の意図はどうであれ、これは到底反戦映画にはなりえない。結局、「これだけ優秀な武器を持ちながら宝の持ち腐れだよなあ。」と観た人が思っても決して不思議ではない、という映画になっている。だから改憲へ、とは単純には結びつかないだろうが、それを後押しする映画にはなると思う。結局、設定自体は現状に振り回される映画なのだ。結果好戦映画になっている。防衛庁の勝利だろう。
「いまの日本は危機管理がなっていない。そのことを指摘した映画だ。」と誰かは言うかもしれない。しかし、本当の危機管理はテロリストをおびき寄せない政策だろうと私は思う。ことの発端はあるはずのない最悪の米軍製化学兵器を某国(北朝鮮であることはあまりにも明らか)テロリストが盗んだことにある。しかも、それを消すためにはやはり米国製の強力焼夷弾が必要だという。今回の「危機」の原因は日米安保条約にあることは明らかだ。テロリストをおびき寄せない政策というのは同時に戦争をもおびき寄せない政策でもある。だからヨンファが「見ろ!日本。これが戦争だ。」なんて言わなくてもいいのである。
かって考古学者の佐原真は「人類の歴史300万年を仮に3mとすると、日本の場合最後の3mmで武器や戦争を持った。殺しあうことが人間の本能ではない。戦争は人間がつい最近作り出したものだから必ず捨てることが出来る」といった。人間が盾を持ってたかだか3000年に過ぎない。必ず捨てることが出来る。そういう雄大な映画を、誰か撮ってもらえないかなあ。 Last updated 2005.08.05 09:50:24
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2005年09月28日(水) ■ |
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「皇帝ペンギン」は70点 |
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冒頭だいたい次のような意味のナレーションが入る。「ずーと昔、南極大陸は自然がいっぱいだった。しかしやがてこの大陸は凍りに覆われ、植物や動物は逃げていった。僕たちの祖先はここに残った。」一体いつから彼らは毎年あのような過酷な季節労働、もとい「生活」をしているのだろうか。3億5000万年前の氷で覆われているということは、3億5000万回もこんなことをやってきたというのだろうか。100キロの行進。三ヶ月以上の絶食。250kmのブリザード。半分も孵らないというヒナ。
リュック・ジャケ監督 エミリー・シモン音楽
途中、いらいらする。もっと効率のいいところで卵産んだほうがいいのでは。たとえば海より10kmくらい離れたところで。しかし、しだいと納得する。だってあんなに犠牲者が出ても彼らはじっと耐えているんだ。昔からずっと。それならはこれが最良の道なのに違いない。
実はこの夏ずーと私の壁紙は「これ」でした。涼しいかな、と思って。映画は観るつもりなかった。でも観て、これはやはり映画館で観るべき映画だと思った。赤ちゃんの可愛さはテレビでも分かる。でも自然の過酷さは映画館でしか分からない。
彼らの行進する姿が、遠い昔、古代といわれる時代、人間たちが自分たちの住むところを求めて行進している姿に思えた。南極大陸の姿は基本的には何億年も変わっていないのだろう。 Last updated 2005.08.21 01:17:54
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2005年09月27日(火) ■ |
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DVD『スターウオーズ2クローンの攻撃』は65点 |
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思えば突発に出てくる母親の死亡であるが、ここでアナキンは力に対する想いを強めてしまうし、「3」に対する重要な伏線になる。しかしあの惨殺がジェダイにばれていなかったのだとすれば、なぜパルパティーンはそれを知っていたのか、「パルパティーンはアナキンの父親説」のわたしの重要な根拠がここにある。クワイ・ガンジンの声が聞こえたのを今回初めて知った。
又ジェダイの弟子関係では、ヨーダ>ドゥーク>クワイ・ガンジン>オビ・ワン・ケノービ>アナキンとなることに初めて気がついた。「2」でドゥークはアナキンの右腕を切る。しかし次にあったときはドゥークを圧倒した。アナキンは無抵抗のドゥークをシスのそそのかしに従い殺した。これが結局『6』で繰り返される。しかし、ルークはとどめを拒否する。ルークが物語の連鎖を切る役目であったことは確かである。これでパルパティーンの右腕が偽手だったら完璧だったのに。
「2」でクローンの発注もとはパルパティーンであることがほぼはっきりする。そのことにあと一歩で近ずき分からなくなる。「2」はあらゆるエピソードが中途半端。人気が無かったのも肯ける。
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2005年09月26日(月) ■ |
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DVD『スターウオーズ5帝国の逆襲』は70点 |
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「3」まではこの「5」が一番人気が良かった。それも分かる気がする。なぜならこの2作目で、物語を一気に無限にまで広げたからである。単なる英雄物語から運命の物語まで、フォースとはなにか哲学的な物語へ。「6」は想いっきり広げた風呂敷をたたんだだけだから評判が良くなかったのだろう。ベイダーの頭も初めてちらりと出てくる。このときはまだ火山の決闘は頭に無かったのかもしれない。
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2005年09月25日(日) ■ |
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DVD『スターウオーズ4新たなる希望』は70点 |
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わたしの『スターウオーズ』体験は実は『6』より始まる。たぶんそれまでに『4』はテレビかビデオで見ていたはずだ。『5』にいたっては全然見ていない。たぶんその頃はちょうどおとなの映画にはまりかけの頃で、『スターウオーズ』みたいな子供向けハリウッド大作(と思っていた)に拒否感があったのでしょう。それではなぜ『6』を映画館で見たかというと、吾妻ひでおにせよ、あまりにもいろんなところで『スターウオーズ』が引用されていて、教養としてみておかなくてはいけない一本にその頃にはなっていたからではないかと思う。「6」を見た感想は『ふーん。こんなもんか』というようなものであった。
と言うことなので、よく言われる宇宙船が登場してその大きさが次第次第と分かっていくという『歴史的』なショットはこの『4』の始まって数分たったところで出てくるのではあるが、映画館でリアルタイムで見たなら衝撃があって以後フリークにでもなっていたかもしれないが、とりあえず今回はテレビで見たということもあり、そんなに大きさは感じなかった。もう一度見て、ベイダー卿が実はアナキン・スカイウオーカーだったという設定を、このときから考えていたかということは無い可能性のほうが高いような気がした。結局『4』の成功がすべてだったのだ。良くも悪くもこの映画のおかげでCG技術が大幅に向上したのだがら、やはりこれは歴史的大作なのである。
確認したのはオビワンはルークにジェダイの勇士だった人の息子以上のものを期待していたかどうか(救世主的なものを期待していたかどうか)、アナキンの父親のヒントみたいなものがあったかどうかである。答えは二つとも『ノー』である。とりあえずわたしの『これだけで終わらせるつもりだった説』を否定するものはなにも無かった。
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2005年09月24日(土) ■ |
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「フライ,ダディ,フライ 」は80点 |
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終わって周りを見ると、岡田君目当ての若い女の子ばっかり。でもこの作品は男の子こそ観てほしい作品。しかも、中年男性は観てほしい。おっさん、見ろ! 「フライ,ダディ,フライ 」 監督 : 成島出 出演 : 岡田准一(スンシン) 堤真一 (鈴木一) 松尾敏伸 (スンシンたちの知恵袋?) 須藤元気 (石原龍太郎次期首相候補の息子) 星井七瀬 (鈴木さんの愛娘。) 愛華みれ (鈴木さんの愛妻)
夜10時、電車に揺られ疲れて駅に帰ってくると、鈴木さんだけには妻の車の迎えがあった。絵に描いたような円満な家庭で幸せな生活を送っている鈴木一。ところが、ある日、愛娘が殴られて入院した。病院に向かった鈴木に、教頭は表ざたにしないように圧力をかける。加害者の父親が石原龍太郎という見事な名前の次期首相候補でおまけに息子はボクシング高校チャンプ。圧力に屈して何もいえなかった鈴木さん。彼はたまたま出合った高校生たちの提案を受け入れ、石原と決闘するためにトレーニングを始める。
以上が話の「導入部分」である。ここがあまりにも、前時代的なので失敗したかなあ、と思ったのであるが、トレーニングが始まると、そういうのはどうでもよくなって惹きつけられていった。
流す汗がとても気持ちよさそうだ。 よーし明日からこそ、この前挫折した○○を再開するぞ、と、とりあえず思った。
娘の星井七瀬がかわいい。主役の二人もいい味出しているが、(堤真一は本当にうまい)松田敏伸が案外いい味出している。
(05.07.30)
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2005年09月23日(金) ■ |
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『妖怪大戦争』は80点 |
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さて、盆休みだ。 仕事のことは忘れて、携帯が鳴らない事を祈りつつ、 一日中涼しいところにいた。
子供だましという説と、 傑作だ、という説が入り乱れている 『妖怪大戦争』をやはりチェックすることにした。
カップルやら、子供連れやら、熟年夫婦やら、 いろんなタイプが見に来ているが、 中年ひとりというのは私だけか(^^;)
愉しめた〜(^^) 神木隆之介君はかわいいし、 大人も楽しめるパンチラサービスはあるし(^^;) 何より妖怪が人間に擦り寄ってはいない、 さすが妖怪の大御所たちが関わっているだけあり、 妖怪に対する愛が感じられた。
以下ネタバレモード。 加藤保憲の目的ならある程度は達したのかもしれない。 あれなら、ほぼ帝都は消滅したのだから。 妖怪たちは『勝った、勝った』『祭りは終わった』 といって帰っていったのだけど、 実際はいったい何十万人の人間たちが死んだのだろうか。 それは見事に省略する。 いろんなところに おごる人間たちに対する警告がちりばめられていて、 私などは大変面白かった。 曰く 『過去を知らなければ未来はない』 『復讐するのは人間だから、私は人間ほど落ちぶれたくはない』 そして最後の水木しげる御大将の含蓄ある言葉 『戦争は……』
良く分からなかったのは、 加藤はどうして アギを拒んだのだろう。 台詞がよく聞き取れなかった。 アギとはどういう妖怪なのだろう。
という疑問をあるところで出したら
ちなみに荒俣センセイの設定によるとアギは 1/日本ができたときに移住民だった人たちが 一つのシステムに組み入れられた時の 一群の職や技能をもった女性。 大和の民族ではなく、フリーな存在なので 妖怪は<仲間じゃないか>と言っていた 2/アギはもともとは巫女だった <鳥刺し>というのは<飛んでいる魂>、 そんな霊的なパワーがあるので 大天狗とっつかまえるコトもできた ということだそうで、、 3/加藤がアギをスカウトしたのでなく、 アギが加藤を選んだ、、 そうで、 加藤がアギを拒んだのは 「愛するという感情は不純なので 邪魔である」 だそうです、、
という回答をいただいた。 ありがたいことです。
子供だましだけど、傑作です。 (05.09.24)
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