初日 最新 目次 MAIL HOME


読書・映画・旅ノート(毎日更新目指す)
くま
MAIL
HOME

My追加

2005年09月22日(木)
「アイランド」ぱ60点

クローンものである。それだけであらすじの説明は必要がない。
スカーレット・ヨハンソンの「何も知らない無垢の少女」の顔と「妖艶な女の顔」が
全く同時に同居するという彼女の魅力はこの映画でもはまり役になっていた。案外ア
クションシーンもこなすし、がんばっていました。何よりも、セックスの「セ」の字
も知らなかった彼女がすぐに「キス」の味を覚えてしまうという設定は彼女だからこ
そ実現できたのであろう。なんて柔らかそうな唇でしょ。うーんセクシ〜(^-^)突っ
込みところはいろいろあるのではあるが、許しちゃいましょ。そんなに目くじら立て
るような映画ではない。
(05.08.20)



2005年09月21日(水)
「スター・ウォーズ3/シスの復讐」は80点

なかなか見ごたえのある映画でした。ただし、EP1から6までの5作品をあらかじめ見
ている人にとっては。なぜなら、これ一作だけでは、単にCGをうまく使った冒険活劇
にしか見えないからである。通しで観ると、これはギリシャ古典のような「運命劇」
だったのだと納得するわけです。これは親子三代にわたる「因果の巡る物語」なので
ある。異論があるのを承知で言えば、パルパティーン→アナキン・スカイウォーカー
→ルーク・スカイウォーカーという「隠された父息子関係」の間での「フォースとは
何か」という問答の物語である。だからルークの片腕がなくなったようにアナキンも
片腕をなくす必要があったし、パルパティーンが自分の師を殺したようにアナキン
(ダース・ベイダー)も自分の師を殺す必要があった。それらの「因果」をことごと
く断ち切ったのは、ルークである。ルークがいったい何を断ち切ったのか、それを
じっくり描いたのが、EP1〜3だったというわけだ。「ダークサイドとは何か」力には
力、復讐には復讐、その連鎖を繰り返していくとアナキン(ダース・ベイダー)が生
まれる。

「エピ3」の中のオペラ座でのシーンで、パルパティーンがアナキンに「自分の師で
あるダーク・プレイガスはシスのフォースを極めて生命をも誕生させる術を会得し
た」と言うようなニュアンスのセリフを言っています。これが私の「説」の大きな根
拠でした。外部から「フォース」がある意図でもって入ったのです。つまりシスは師
弟関係でしかフォースを繋げないのだから、いろんなところに「種」を植え付けてい
たのだというのが私の「想像」です。そのとき、「生命誕生」の力も使えたわけで
す。

結局私の好きな映画というのは「物語」なんだと思う。「エレニの旅」も「叙事詩」
という特別な「物語」だったし。
(05.08.20)




2005年09月20日(火)
二回目の鑑賞「エレニの旅」は90点


今年初めて二回目の鑑賞である。
写真は冒頭のシーン。冒頭から、魅せる。彼らはロシア・オデッサからの難民だ。ひとつの共同体の今日までの顛末が「台詞」で語られる。後ろに河、そして前にも河が流れている。過去から未来へ。現世から死の世界へ。時代の暴力の塊として、この河はさまざまに意味を変える。アンゲロプロスの映画以外ではそこまでの象徴性は持つことはできない。しかし、彼の映画にいたっては、ひとつのシーンの美しさがそれを可能にしている。しかも、もっとも大切なドラマはシーンの中では語られない。ドラマは台詞によって語られるか、あるいは背景で説明されるだけか。この物語にドラマを入れようとすると当然入れなければいけないシーンはいくつかある。難民が国境を越えたところ。15歳のアレクシスが13歳のエレニとはじめて結ばれたところ、結婚式場でエレニがアレクシスとともに逃げようと決意するところ。等々……。それを入れないことでどういうことが起きるのか。一人の女性が運命と戦い傷つき倒れるドラマを見るのではなく、一つの叙事詩を見るのである。そのとき、河は河ではなく、雨は雨でなく、白い布も、汽車も、洪水も、双子の子供も、共同体の長である父親も、人民戦線も、三回に渡る血の色(羊の血、白い布につく血痕、別れの赤い糸)も、エレニという一人の女性も、さまざまな意味を持って何度も何度も歌い継がれる存在に変化してしまう。それは決して時代を描くということではない。自分にとっての「何か」を映像として自分の中に取り込むということだ。

ひとつの世界観を作ってしまった「ロード・オブ・ザ・リング」というような作り方もあれば、このような形で世界をつくってしまうこともできるのだ。「ユリシーズの瞳」のときはまだわたしのほうの準備が足りなかった。「永遠と一日」のときは時代が後方に追いやられていためか、その広がりがよくわからなかった。今回初めて彼の作品で衝撃を受けた。

一回目の鑑賞のとき一つ私は勘違いをしていた。訂正してお詫びします。「霧はまったくでない」のではない。霧はいつも出ていた。ニューオデッサで、白布の丘で、アメリカにつながっているという海で。息子が死んだ海で。しかし、今回は目の前がまったく見えなくなるような霧が出ていなかっただけなのだ。その代わり雨が降る。涙のように。そして霧の日はむしろこの時代にあっては「晴れ間の日」だったのである。
Last updated 2005.07.27 01:20:54



2005年09月19日(月)
「エレニの旅」は90点

監督 : テオ・アンゲロプロス

出演 : アレクサンドラ・アイディニ
ニコス・プルサニディス
ヨルゴス・アルメニス
ヴァシリス・コロヴォス
エヴァ・コタマニドゥ
ミハリス・ヤナトス
トゥーラ・スタトプロウ

アンゲロプロスの映画では約束事であった「霧」は全く出てこない。その代わり、執拗に「雨」が降り注ぐ。あるいは雨の結果である「川」が湖のように村にそして戦場に横たわっている。霧はいつも未来を不透明にするが、物理的な力はない。しかし、雨は違う。それは時には洪水になりひとつの村を水没させたりするのである。それは運命?それは時代?それは物理的な暴力である。圧倒的な力が歴史の中にうずもれる個人の一人ひとりに襲い掛かる。ギリシャの1919年からおそらく1950年頃まで。難民、戦争、人民戦線、内戦、息つく暇もないほど、時代の雨に翻弄される一人の女性を描く。しかし女性に雨雲の全体は見えない。だからわれわれに見せるのは目の前の雨粒だけだ。

雨の間には晴間もあるだろう。私たちの晴れ間とは違い恐ろしく短いように思えるが。逃げだした二人を温かく迎える、ジプシーに似たフリーの音楽仲間、そして主旋律になるアレクシスの作曲した悲しく優しい調べ、晴間になるとすぐに出てくる目の醒めるような白いシーツの群れ(最後は血に染まる)、この映画では音楽だけが、晴間だった。

何回か彼の作品を観て、今回ほどワンシーンワンカットの妙味を堪能したことはない。二つの村を忠実に再現させたのはCGを使いたくなかった監督のエゴからではない。果てしない平原、やがて一つ一つをレンガで積み上げた質素な家からなる10数件ばかしの小さな村の全体像が写り、馬や羊などの生活の風景が写り、村の全体をなめるように写したあと川から着いたばかしの女性にズームしていくと、力なく死んだようなか弱い少女が抱き着替えられて村一番大きい屋敷に運ばれていく。全体から個人へそして全体へとカメラつまり監督の視線は常にそのように移動していく。それはまるでシャガールの絵の様だ。恋人を正面に大きく描くけど、常に背景には彼が住んでいた村や人々の世界が描かれている。駅のすぐ傍の工場地帯の村ではレンガ積みの家さえ珍しい、雨のもれるトタン屋根に木造の家、それらの世界が個人の悲しみにやがてシフトしていく。CGなどでは表わせる世界ではない。

ひとつのシーンは突然切り替わる。ギリシャの歴史に詳しかったら、ギリシャの古典に詳しかったら、もっとこの作品の「詩篇」の意味が分かったのかもしれないが、しかし、それは次の楽しみに取っておけということなのだろう。
updated 2005.07.10



2005年09月18日(日)
「大統領の理髪師」は80点


監督 : イム・チャンサン

出演 : ソン・ガンホ
ムン・ソリ
リュ・スンス
イ・ジェウン
チョ・ヨンジン
ソン・ビョンホ
パク・ヨンス

この息子はどうやら私と同年代らしい。この息子が27歳になるまで、韓国という国は独裁政権の国でとても怖い国だということが宣伝されていた。なるほど下痢しただけで「マルクス病」だとレッテルを貼られて、拷問にあったりしたのだから、怖いことは怖いのであるが、庶民はそれほどびくびくしながら生きてきたわけではなく、大統領の髪を刈っても別段庶民の暮らしをそのまましていたのである。

朴正熙という大統領はあまり独裁者でひどい人物には描かれていない。その一方で、朴大統領暗殺後のどたばたで大統領になった全斗煥に対しては辛らつである。これはもしかしたら韓国庶民の偽らざる感情なのかもしれない。

この映画は79年で終わる。しかし、実はこのあと8年が激動なのではあるが、理髪師を辞めた以上はここで止まるしかなかったのだろう。つくづくガンホの笑顔は素晴らしい。

しかし、韓国の人たちの歴史の描き方の成熟していること。「ペパーミントキャンデー」にしても「殺人の追憶」にしても「ブラザーフッド」にしてもちゃんと自分の血肉にしてから、庶民の視点で、そしてちゃんと時代を見据えて映像にしている。日本の映画でこれが出来ているのはあるだろうか。山本薩夫に若干あった気がするが、庶民の視点に徹底しているのはなかった。チャン・イーモウの「活きる」にしても時代観が素晴らしい。日本人の歴史観について、いろいろ中国・韓国から言われるのも、全然根拠のないことではない。
(05.07.10)



2005年09月17日(土)
「トニー滝谷 」は65点


なんだか本格的な話に入る前に終わってしまった。非常にあっけない。最後まで、何の内容もない、という風に私には思える。
市川準は短いショットを重ねて作品を作る。それ自体ははまったときにはいいのだが、(私の気に入っているのは『病院で死ぬということ』))この作品のように登場人物に何の共感もわかなかった場合は悲惨だ。
しかも1時間10分の作品なので特にそうなのである。宮沢りえはすばらしいが、露出が少ない。
(05.07.10)



2005年09月16日(金)
「バットマン ビギンズ」は80点



監督 : クリストファー・ノーラン
出演 : クリスチャン・ベール
リーアム・ニーソン
モーガン・フリーマン
ゲイリー・オールドマン
マイケル・ケイン
渡辺謙

両親を殺され、復讐心に燃える男が、やがて社会正義に目覚めるまでを描く、エンターテイメント作品。真っ当な映画である。

おそらくクリスチャン・ベールとリーアム・ニーソンの差は紙一重なんだろうと思う。と、同時にその差はとてつもなく大きい。ベールにあってニーソンになかったのは何か。それはあの父親の存在であり、執事マイケル・ケインの存在なのだろう。この映画、脇役がなかなかいい味を出している。

恋人との関係も最後なんかは「スパイダーマン1」を髣髴させるが、内容的にはまるっきり正反対のことをいっている。私なんかは今回のほうが正論だと思うのではあるが。

癖のある俳優を使っているので、いつ彼が悪役になるのか、いつ彼が善役になるのか、どきどきしながら観たのではあるが、それも配役の計算のうちなんだろうか。ちょっとずるい。
(05.06.30)





2005年09月14日(水)
「マラソン」は80点

監督・脚本 : チョン・ユンチョル

出演 : チョ・スンウ
キム・ミスク
ソン・チョンウク
ペク・ソンヒョン
アン・ネサン

こういう映画にありがちな、自閉症の主人公がどえらいことをしでかすという映画ではない。では周りがすごいのかというと、どう見ても普通の、もしかしたらそれ以下の親だったり教師だったりする。

しかし、なかなかいいのである。それでも、人間というものは、自閉症の子であれ、親であれ、教師であれ、時々ものすごく輝くことがあるのだ、ということを教えてくれる映画だ。

自閉症の子(といっても20歳だけどね。彼の演技は素晴らしいの一言。)に話をする場面が多いので、勢い、基本的な会話や単語が飛び交う。韓国語聞き取りにはぴったりの映画かも。DVDは買いですね。

お母さん役のキム・ミスクはどの映画に出ていたのだろう。「おかあさん」を見事に演じている。

韓国ではマラソンを「マラトン」と読む。正確にはマr・ア・トンの言葉を縮めるとマラトンになるわけだが、マrは「馬」という意味もあるから、主人公がシマウマ好きなのは、よく出来た作り話なのだろう。この作品事実を基にしているといいながら、よく「作って」いる。自閉症の親と子供の関係というのは、世界初の映画ではないだろうか。
(05.07.08記入)




2005年09月13日(火)
Yさんへの手紙

以下の手紙は、某場所に私が投稿した「04年の映画ベスト23」(05.02.1〜2の日記に載せています)に対するはじめて長文の感想が送られてきたので、それに答えたものです。
Yさんの了承は得ていないのですが、匿名で書けば、それほど問題もなかろうと思い、此処に載せます。映画に対する私の態度表明文章になっています。


Y様、このたびは私の拙文に長い感想を書いてくださり、ありがとうございました。本来はもっと早くお返事をすべきだったのですが、こんなにも遅くなって申し訳ありません。
いろいろとご指摘ありがとうございました。

「各作品の点数を教えてほしい。」ということですが、私の点数のつけ方は、見た直後、70点、75点、80点、85点、90点という風につけていきます。ただ、直後の点数が、しばらく自分の中で熟成してくるとあがったり下がったりするのです。ただ、不思議と80点の合格ラインだけは、しばらく経ってもそれをまたいで評価が変わることはありません。よって、点数は同点があまりにも多いし、書いた時点の評価ということで、変動もあるので書いていないのです。(95点以上の評価はめったにないし、去年もありませんでした。)

「文章上、文法上、ふさわしくない表記がある」とのことです。申し訳ありません。自分なりに読み返してはいるのですが、やはりあるんですね。気をつけたいと思います。
P.19「言わずもがななのである」→「言わずもがなのことなのである」
P14「私の合格作品」P19「父親の何度も聞いた話」→「私の選んだ合格作品」「父親から何度も聞いた話」訂正したいと思います。

「いま、会いにゆきます」で、「そこで一首」の文意が分からない。短歌でごまかしているという意見でした。しかも短歌の内容は、「伏線を見事に活かしている」と評しているわりには、内容に踏み込むものであったと書いていらっしゃいます。そうか、やはり分かりにくかったですか。いや、内容に踏み込むとネタバレになるのですが、踏み込まないと感動を伝えれないと思ったので「突然」挿入したのです。短歌はそれほど重要なネタバレにはなっていないと思うのですが。でも読み返してみて、良く分からない文章ではありましたね。この手の映画は「あっと驚く展開」が命なので、「まあ、騙されたと思ってみてください」というしかないのかな。

「映画はあくまで娯楽であり、虚構であると私は思っています。中途半端な芸術性や社会性は不要のものと思っております。要するに面白いことが最も大切なことではなかろうかと感じています。」とYさんは書かれていました。この文章は別に私の評論を批判したわけではなく、Yさんの持論なのだと思うので、私がそのことについて、間違っているというつもりは全然ないのですが、Yさんの意見は私の想いとは違っており、「意見の違いは実は最も大事なところ」という私の持論の通り、両者の意見の違いの中に実は「映画の魅力」が隠されているのではないかと思うので、少し展開させていただきたいと思います。

映画は巨大な映像産業です。よってまずは「面白いことが最も大切」だと言われるYさんの意見には一理あると思います。そうでないと商売として成立しないからです。「面白い」という意味の中には「可笑しい。スカッとする。」という以外に「知的に興奮する。勉強になる。」という意味もおそらく含まれているのだろうと思います。しかし、それ以外に私は「芸術性」も「社会性」も必要だろうと思っています。そして素晴らしい作品というのは、たいてい「娯楽」であり、「芸術性」も「社会性」ももっているのではないでしょうか。

Yさんは「ゴジラファイナルウォーズ」が最も好きだと書いていました。あれに「芸術性」があるかどうかは置いておくとして、私は「娯楽性」と同時に「社会性」ももっていると思っています。しかもかなり鋭い形で。そうでないと、ゴジラがこうまで長い間人・社会に影響を与え続けてきた理由が分かりません。Yさんはなぜゴジラを観て「胸はわくわく身体は震え、私自身もゴジラになって一緒に吠え」るのでしょうか。そのことに「意味」を見つけるのは間違っているのでしょうか。その「意味」が私の言うように、「戦後の繁栄は実はとんでもない虚妄の上に建っているのではないかという漠然たる想いを私たちはみんな持っているのではないか。だからゴジラが国会議事堂を壊し、東京ツインタワーを壊し、福岡ドームを壊し、各地域の原発を壊していくことで私たちは「癒し」を得ているのではないか。ゴジラは破壊神です。逆説的ではあるが、日本の高度成長が生んだ神であったと私は思う。」という意味かどうなのか、Yさんの「ゴジラは私自身だ」というゴジラ像とは違うみたいですが、ここでは議論するのはやめましょう。面白い議論になると思いますが。長くなるので。

映画はどんな低予算映画であろうと、観客を要する限りは、「娯楽性」を要求するでしょうが、同時に作り手の「思い」がこもらなければ、どんなに予算をかけても「いい作品」にならないというのは、Yさんも納得していただけると思います。その「思い」が社会に影響を与えるとき、「社会性」をもったということになり、個々人の思想や人生に影響を与えたとき、「芸術性」をもったというような言い方も出来るのではないでしょうか。

私は「いい作品」にであいたいのです。そういう作品にであったとき、そのことの「意味」を自分なりの言葉で書いて、ある程度納得したいし、出来ることなら、ほかの人にも読んでもらって、「そうだね」とか「違うよ」とか「意見」を聞きたいのです。

そういう意味でほかにも映画評そのものに対する意見があれば嬉しかったのですが。

いやいや、ちょっとくどくなりすぎました。

またいろいろとご意見ください。それでは。
(05.04.30)



2005年09月12日(月)
マニフェストを読む(憲法編その三)

すみません。ずいぶんご無沙汰しました。
ちょっといろんなところで少しずつ忙しくなって、
まとめて更新も出来ません。
今日かいら一応再開させてください。
ただし、「歴史的な自民党大勝」に気落ちして
この投稿本来はリンク張るべきところですが、
めんどくさいので張りません。

ああ、あと10年、私の生活は持つのでしょうか。
日本は持つのでしょうか。
「スターウォーズEP2」でアミダラ姫は言います。
「自由は死んだ。万雷の拍手の中で。」あるいは「ヒトラー最期の12日間」でヒトラーは言います。
「彼らが私を選んだのだ。自業自得だ。」

あっそれでは本題です。

せっかく各党のマニフェストを読んできたのだから、新しい党の憲法政策も読まないと片手落ちだろう。

ということで、
国民新党
見たらわかるように憲法については何も書いていません。
ものすごい簡単な公約ですね。
まあ、郵政問題意外は自民党と同じ政策だと思っていいのでしょう。

新党日本
これも同様です。

でも田中康夫は何か違うのではないかといろいろ探しました。
こういうのがありました。
「新党日本」代表と信州・長野県知事の兼務に関する知事会見(2005年8月23日)

その中でこういっていました。

最初の高島さんのご質問で憲法に関してということであります。私は昨日のテレビでも申し上げましたが小泉さんが命をかけるといっていた拉致被害者の問題に関して一日千秋の思いで待たれているご高齢の方々に対して命をかけるといった問題今どうなっているのか、そうして、常任理事国の問題も果たしてどこへ行ってしまったのかそもそも政権与党が憲法改正試案をお示しになりながら残念ながら主たる争点にもなさっていないということです。今行うことはやはり郵政民営化というもののあり方が羊頭狗肉、空洞化しているということを、あるいは同様の空洞化がないのか、そして日本という国は果たしてどこの国なのか、私のような考えのものが日本を他の国になってしまって良いものなのかと思う。ということは大きな問題でこうした観点から正にこのことこそは皆さんがここで投票に行って憲法の問題もこの後に議論されていくことだと思います。昨日の毎日新聞の中でなぜか長野県で配布される段には載っていませんでしたがネット上および昨日の夕刊に載っているのでですね、

要は
憲法のことなど問題ではないってことです。
自民党が憲法問題を争点からずらしていると批判するなら、
少しでも自らの憲法問題の見解を述べるべきです。
まあ、そんなことは全然気にしていないのでしょう。