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2005年06月14日(火)
DVD『クエスチョン』は70点

DVD『クエスチョン』亀井淳監督 藤田悟
案外拾いものであった。『夫婦の性』シリーズ第一作らしい。登場人物5人のみ。超低予算映画ではあるが、本来夫婦の行動範囲なんてそんなものであるから物足りなさは無い。

新婚夫婦。しかし妻は処女。決して妻の体には触れないという契約で結婚したらしい。けれど夫は、妻があまりにも「いい女」だし、限界が来ている。妻も決して夫が嫌いなわけではない。ただ、妻にはトラウマがある。妻は母親が間男をくわえては一晩過ごす。そが耐えれなかった。『あのときの声』を聞くのも自分が発するのも『怖い』。

女は『クイズマニア』である。夫婦の寝室は問いを発する夫と答える妻のやり取りでいつも眠りについていた。ただ、このままではだめだと二人は気がついていた。

男と女の関係は『駆け引き』である。そのことが良く分かる作品。
(05.4.29記入)



2005年06月13日(月)
「ロード・オブ・ザ・リング王の帰還SEE」は85点(長文)

『ロード・オブ・ザ・リング王の帰還スペシャル・エクステンデット・エディション』
『王の帰還』に至って初めて10分間の休憩時間がはいる。こんな経験は昔水島プラザ(今は無い)で『七人の侍』を観て以降である。

さすがに50分も未公開シーンがあると、初めて映画を観たように興奮する。評判のサルマンの最期の場面は興ざめであった。ローハンの王セオデンの返事は原作とは違い、好戦的になっていて、私の思いとは違っていた。やはり彼はホビット庄で殺されるべきであった。

特別版三部作を三週間続けてみて、見えてくるものは確かにあった。それはおもに四点である。

一点目。ギムリとレゴラスの友情の成立である。最初の場面はどちらも喧嘩腰であったが、『二つの塔』でライバルになり、黒門の戦いの前には『二つの民族を離れて友達として死ねるのなら本望』ということにまでなるのである。特別版はこの推移を実にこまやかに描いている。

二点目。アラゴルンの王としての成長物語であること。特別版では、彼の立場と能力、そして姫との恋物語が非常に丁寧に出てくる。その中で、彼が王位を欲しがっているわけではないこと、『世界』のために王に「なる」ことを決意する経緯が良く分かる。最終版、彼は見事に『王』になる。たとえば、幽霊軍団に「王の権威と寛大さ」を示すほうを優先した場面、未公開シーンにある黒門の戦いでの直前に示した彼の決断も、まさに「王としての最適の決断」であったろう。最後の戴冠式での白い花の舞う意味なんて感涙ものである。

三点目。一番の問題点であった、人間側の行動原理がいまいち不明確であったところがかなり分かりやすくなったこと。ボロミアは単なるゴンドール代表ではなかった。オスギリアスでの演説、父親への評価など(未公開シーン)をみると、聡明な人間だった。だからこそ、指輪の誘いの威力と、デネソール候のボロミアへの期待振りと落胆が推察できる。またデネソール候も『王の帰還』では新たなシーンの追加がいくつもあって、彼の不可解な行動の意味もまあ分かるようになった。要は彼はことの推移が見えすぎて『世界はどうせ変わらないのだから何をしても仕方ない』病にかかっただけなのである。別の言葉でいえば悲観主義という。しかし公開版ではそこまでは分からない。時間の問題もあっただろうが、何とかならなかったのか。

四点目。これが一番重要なのであるが、『指輪とはなにか』『灰色港とはなにか』について、私はやっと仮説らしきものをたてることが出来た。あらかじめ断っておくと、これはほかの可能性も充分あることも分かった上で「私好みの仮説」であるので、他の可能性があるといって批判してくださっても受け付けません。(根本的な間違いが在れば別ですが)
この物語は善が悪を滅ぼす物語ではないのである。だからこそ、フロドは最後で指輪を破壊するのを止めたのである。指輪とは何だろうか。私は例えば、こういう『別の物語』を考えてみる。

<パロディ「ロード・オブ・ザ・ペンダント」>
「近未来、地球は大きな岐路にたたされていた。地球温暖化によるオゾン層の破壊、核兵器テロはいよいよ先鋭化、人口爆発による食料問題は天変地異の続発により待ったなしのところまで来ていた。二つの陣営が対立していた。一方は、文明をそのまま残し、地球の拠点に都市ドームを造り、しかも、権力を集中化し、テロ問題、気候問題、食料問題を少数精鋭による人類の存続の方向で解決しようという勢力。ただ、その『力』を得るために、一人の権力者が必要であった。そしてその一人の権力者は全世界を一手に収める『力のシステム』を手中に収めた。地球規模で、電子を一点コントロールするシステムである。いったん創ってしまうとのシステムは電子の性質そのものを変えてしまうため、もはやどんな改変も効かない(あっ、突っ込みいれないで^^;)。ただ、過去において、このシステムを作動しようとして、パスワードソフトがあいて勢力の手に落ちてしまうという事件がおきた。幸いにもエージェントの活躍により、盗んだ男は殺されたのであるが、ソフトは行方知れずになる。実はそのソフトはペンダントの形をしていたため、一人の少女の手にわたり、10年にわたり見つけることが出来なかった。少女は美しい女性に変わっていた。権力者の相手側の勢力である、自然主義者、平和主義者、知識人たちの同盟組織「エルロンド」は失われたソフトを発見する。エルロンドの会議が開かれた。現在情勢がまず語られる。権力者は最近になり、再び勢力を盛り返していた。失われたソフトが再生できるかもしれないという噂が広まり、『生き残りのために』システム稼動を前に軍事、経済のあらゆる力が彼のもとに集中しようとしていた。システムの作動は時間の問題である。そうなるとこの壊れゆく地球は一部を除いて、反対勢力を全て抹殺する戦争を起こそうとしているため緑の無い荒廃の世界に変わっていくだろう。多くの人たちも死んでいくに違いない。あのシステムを、われわれの管理下に置き、民主的に運営し、権力者たちをいざというときに『脅す』手段として保存することは出来ないか。平和主義者のボロミアは提案する。知識人のガンダルフは『一点に集中した権力は必ず堕落することが歴史的に明らかになっている。ソフトの民主的管理など無理である。』と反対する。しかももう時間は無い。しかもあのシステムを管理しても、気候問題が解決する展望は無い。ひとつだけ展望が在るとすれば、あのシステムをコントロールするのではなくて、全面開放するやり方である。そうすれば、権力者の力は無力になる。オゾン層の破壊も、オゾンを生み出す電気装置が無くなるのだから、長い間には解決するだろう。もちろんそれはありとあらゆる文明機器が使えないことを意味していた。しかも、それを実現するためには相手の本部の中枢部にはいり、システムを稼動した上でそういう設定をしなくてはならない。もっとも難しい作戦であるし、秘密裡に行わなくてはならない。しかもシステム稼動まであと一週間という情報も聞こえていた。会議は沈黙した。そのときひとつの声が聞こえた。「私が行きます。」あの美しい女性であった。………ありとあらゆる陽動作戦が行われた。美しい女性であることが幸いしてか、彼女はシステム作動装置の前にくることが出来た。あとはシステムを作動した上で『全面解除』すればいい。彼女はぼろぼろになった自分の体を動かそうとして、ためらった。「私にそんなことをする権利があるというの?いまにも最新医療機器で一人の患者が助かろうとしているかもしれない。多くの失業者が溢れるだろう。それよりも普通の家庭の普通の団欒は明日からは無くなる。」彼女は最後の最後で「とりあえずコントロール責任者は私がなろう」と決心する。ところが、それを動かそうとした直前、彼女を案内して来た元システム作成助手ゴラム(作成者の教授はすでに死亡)は、そのシステムを壊そうとしているのだ勘違いして、システム自体の愛情から(つまりシステムおたくだったのでしょう)ソフトを奪おうとする。その時点でボタンのかけ間違いがはいる。システムは全面開放された。世界は救われたが、世界は原始時代に戻り、もはや戻ることはかなわない。地球の歴史は新しい時代にはいる。彼女はそれを行ってしまった責任感から、やがて静かに狂っていくのであった。」


つまりこれが私の解釈である。『灰色港』は『死』のイメージであるが、フロドの場合は、最も両方の勢力の魅力を知ってしまった者として狂っていったのだと見たほうがいいのだろう。

ひとつだけ、あの映画で守らなければいけないという決定的な『価値観』があったと思う。『友愛』である。レゴラスとギムリ、ガンダルフと旅の仲間たちアラゴルンとエルロンド、エオウェンとメリー、ピピンとメリー、旅の仲間とフドロたち、そして何といってもフロドとサム。あの火山口で、いったん落ちそうになったフドロが自分の意志でサムの手を握ったとき、指輪がそれで絶望したように溶岩の中に溶けていったのは決して偶然ではない。もし世界が原始時代に戻ったとしても、友愛だけは続いていくだろう。ここで気がつく。先に私が妄想したエピソードとは、実は「中つ国」前史だったのではないか。
長文失礼しました。
(05.04.30記入)



2005年06月12日(日)
「ロード・オブ・ザ・リング二つの塔SEE」は80点

『ロード・オブ・ザ・リング二つの塔スペシャル・エクステンデッド・エディション』
正直いって40分も未公開シーンが増えたとは思えなかった。エントの水のシーン、エルフのレゴラスが峡谷の戦い前夜あせりを顕わにするところ、ギムリとレゴラスとの成果合戦の結果がつくところ、ゴンゴールでのファミリア兄弟の仲の良さと、父親との葛藤くらいしか気がつかなかった。ほぼ15分たらずである。ということはあとは全て完全に物語の中に溶け込んでいる「追加部分」ということになるのだろう。
一部二部あわせて今回もう一度観て気がつくのは、人間族、ホビット族、エルフ族、ドワーフ族の「中つ国」の中での「対立と連帯」である。違う民族が同じ「世界」の中で、同時に存在し、領土を持っていることを認め合い、(エルフ語が頻繁に出てくる。このエルフ語をそれらしく『創って』しまった映画はすごい。物語はほぼ人間語で進められる。)、やがて反発から友愛に変わっていくことを物語の横糸として今回特別版はみごとに浮き上がらせている。
あと『二つの塔』で特筆すべきは、『エルム峡谷の戦い』の見事さである。三部作全体を観たあとだから分かる。『王の帰還』のデアンノール野の戦いよりも、こちらのほうがよっぽど優れている。「300人対10000人」という小人数対多人数の構図だけなら、『王の帰還』でも繰り返し描かれた。しかし、戦いが始まるのが夕方、終わるのが朝方という時間的緊迫感と、ほぼ城の前後のみでの戦いという空間的緊迫感とでほかの映画の追随を許さない名戦闘場面になった。戦いが始まるまでの緊張感と終わってからの解放感は『七人の侍』さえ連想される。(05.04.28記入)



2005年06月11日(土)
「ロード・オブ・ザ・リング旅の仲間SEE」は80点

「ロード・オブ・ザ・リング/旅の仲間スペシャル・エクステンデッド・エディション」長い題名だなあ。
マニアックな映像の追加だけが前宣伝されてあったので、全部見終わってから感想を述べようかと思っていたのだが、さにあらず、全体的に作品自体が豊かになるような追加が多く、長いぶん、非常に充実した鑑賞をすることが出来た。
このバージョンの劇場公開は日本だけ。だそうだ。岡山県ではMOVIX倉敷のみ。しかも三部作を一週間交代で上映するという駆け足上映。第一部、もう時間ないですが、薦めします。レイトショウも8時からやってくれているので、何とか仕事帰りでも見ることが出来ます。4/16からは「二つの塔」。レイトショウもやはりやっています。
さて、あらためて第一部を見て、この作品が持つ世界観に驚かされた。エルフ、ドワーフ、人間、ホビット、の各種族の性格付けが良く分かるようになっているし、ガブリエルの豹変したときの台詞から、エルフが「唯一の指輪」を手にした場合、世界がどうなるか、想像できることに気がついた。(「民には尊敬と絶望を」)。ボロミアが単なる指輪に心奪われた人間という単純な描写になっていない。アラゴルンの心の迷いも更に分かりやすくなっている。
改めて、「指輪とはなんだったのだろうか」という大きな問いが発せられた見事な導入編であった。単なる善悪の対決ではない。最も力の弱いものが世界を変える物語。いろいろな見方が出来る。
(05.04.14記入)



2005年06月10日(金)
「ひとまず走れ!」は50点

「ひとまず走れ!」

[監 督] チョ・ウィソク [第1作]
[出 演] ソン・スンホン   → ソンファン
   イ・ボムス     → ジヒョン 刑事
   クォン・サンウ   → ウソプ
   キム・ヨンジュン  → ジノン

あらすじには、「ある日,学校の帰り道,血だらけになった泥棒が数十億のドル束と一緒に目の前に降ってくる。右往左往した三人は,単純思考システムで「ひとまず逃げて, あとで考えよう」と決定する。一方, 新参刑事ジヒョン。警報システムが作動した金融業者の家で捜査を始めるが,上部が事件をうやむやにしようとする動きを見て,「ひとまず, こっそりと捜査しよう」と決心する。」とあるが、映画を見る限りでは、「ひとまず」というあたりがあいまいで、いまひとつ狙いが分からなかった。俳優が元気に走る映画で、そいう作品なのかなと思っていた。たぶん韓国の映画館では笑いに包まれたのではあろうが、日本のそれではくすりともしなかった。

まあ、あまり期待しなかったので、こんなもんでしょう。私の期待はひとつでもせりふがわかること。韓国の風俗で発見があることであった。「クレゴ〜」はひとつ覚えた。韓国の高校生で、HPの持ち方が、専門的であることや、クラスの五分の一が受験組みであとは落ちこぼれという構造などが参考になった。ジヒョン刑事役のイ・ボムスがなかなか個性的で良かった。
(05.04.04記入)



2005年06月09日(木)
「アビエイター」は50点

「アビエイター」マーチン・スコセッシ監督ディカプリオ主演
久しぶりに半分以上夢の中の作品になった。こういう作品は「つまらなかったのだ」と判断するようにしている。ただ彼の監督した飛行機映画は見てみたい気がする。DVDにはなっていないのかな。



2005年06月08日(水)
「ロングエンゲージメント」は70点

「ロングエンゲージメント」
ジャン=ピエール・ジュネ監督 オドレイ・トトゥ ギャスバー・ウリエル

これ「泣ける恋愛映画」なの?そう思ってみると最後まで違和感持ったまま見てしまうかも。これは欧州得意の大戦争叙事詩なのである。最近の戦争映画に負けない悲惨な場面が続く。雨の中の塹壕。迫り来る砲弾。「調達の鬼」の存在。無謀な突撃。それを婚約者を探す「執念の鬼」と化した若い女性を縦糸にして描いていく。私は泣けなかった。しかし、戦争映画としては出色のでき。
ジュディ・フォスターが久しぶりに出演し、しかも熱演しているのに、キャストとしては低く扱われていた。不満である。



2005年06月07日(火)
98映画ノートから「踊る大走査線」

98.12.19 東宝
「踊る大走査線」
本広克行監督  君塚良一脚本 織田裕二 深津絵理 水野美紀 いかりや長介   柳葉敏郎 小泉京子 ユースケサンタマリア

TVドラマの延長戦のドラマならていねいに作った娯楽劇だが、これを映画だというならとんだ子供だまし映画である。ほころびが目立ちすぎる。偶然が2つ以上重なるのは、主人公のクライマックス部分だけでいい。小泉京子の指定場所と犯人の指定場所が同時刻同時間。3つの事件が3日間同時並行で進む。結局3つとも関係なかったことがわかる。しかし、一つの事件を説明するためのあと二つの事件であることは明らか。誘拐犯人がいくら子供の犯行であったってTVも見ていなかったなんて。細部をリアルにとってこそ大きな嘘をつけるものだ。こういう映画に「金を出しても惜しくなかった」なんて言う感想が飛び出るのが不思議だ。


《現在の感想》
まさかこの映画が大ヒットをかますなんて、この時点では想像だにしなかった。ここに書いてあるように、いくら娯楽作品だからといって、大きなうそをつくためには小さなリアリティを無数に重ねないといけないのは映画の常識だと思う。全然なっていない。

もちろん「事件は会議室で起きているんじゃない。現場でおきているんだ。」というテーマは共感した。しかしテーマがよければいいってもんじゃないだろ、という気持ちでこの感想を書いたのだが、世の若者はこの程度の映像でオッケーなんだ、ということが分かりがっかり。この程度の映像に1000円から1800円も出す人の気が知れない。そういいながら私は「2」も見たのである。やはり同じ感想であった。そしてこれもヒットしたのが不思議でならなかった。

韓国ではジブリもこれも上映されていたが、「千と千尋」は大ヒットしたが、これは全然飛ばなかったらしい。思うに当然である。

つい懐かしくて長いこと番外編を続けてしまったが、ある程度ストックが出来たので、明日からは現在の「映画・読書・旅」をレポートしていきたいと思う。

節約生活に入ったので、映画はDVD、本は図書館で借りるのが多くなったのではあるが。



2005年06月06日(月)
98映画ノートから「始皇帝暗殺」

98.11.28 メルパ
「始皇帝暗殺」     
陳凱歌監督 日中仏米合作 コン・リー チャン・フォンイー リー・シュエチェン
徹底した時代考証、黒沢明を思わせる騎馬戦闘シーンのリアルさ、スピード感ある編集、コン・リーの趙姫、荊軻のチャン・フォンイー、始皇帝(秦王の政)のリー・シュエチェン、それぞれがすばらしい演技をした。もっとも彼らの主演作をあまり知らない私は、昔の人間がそのまま演じているかのようにも思えた。国の理想と実際の政治の問題。政策と人の命の問題。人質であれ、女であれ、自立した人間として育つ彼ら。暗殺者が善役に変わり、理想に燃えた為政者が専制君主になっていく様を一人の女性の立場から観た映画である。陳凱歌も政の実の父親という難しい役を堂々とした演技で見せていた。これぞ映画た。もう一度観たい映画である。

《現在の感想》
それまでの中国映画は、こんなすごい大作で、深い人間描写をみせなかった。よって私は度肝を抜かれたのではあるが、あの映像美はその後の中国映画ではほとんど誰でもできるスタンダードなものとなる。教育がしっかりしているのか、中国の風土が「色」に対すする感覚を研ぎ澄ませるのか、おそらく両方なのだろうが、ともかく色に関しては日本映画よりはるかに上を行く。

「始皇帝暗殺」は良かった。しかしチェン・カイコーそれ以降は「北京バイオリン」を一作作って、鳴かず飛ばす。どうしたんだろう。



2005年06月05日(日)
98映画ノートから「インド映画」

98.10.4 シネマクレール
「ボンベイ」
マニラトナム監督・脚本 A.R.ラフマーン音楽 ラージーブ・メーナン撮影
マニーシャー・コイララ/アラビンドスワーニ
 たとえようもなく甘美に描かれる階級を越えた二人の恋、そして都会で結ばれ、双子の子ももうけ、平和に過ごしていたインド第一の商業都市ボンベイで起こる宗教対立の大暴動、現実に92年12月から翌年1月にかけて起きたヒンズー教とイスラム教の宗教暴動を背景に、人間愛と寛容を謳いあげた史上屈指の問題作は、同時に歌と踊りがはじけるミュージカルでもある。社会性と娯楽性が、魅力的なシーンとせりふ、斬新なカメラワークと色彩で結びついた希有な傑作である。
 どうやって再現したのだと思われる圧倒的な暴動場面、主演女優の可憐さ、双子の兄弟の熱演、そしてインド映画の特徴である歌と踊り。すばらしいの一言だ。素晴らしい。


98.11.14 松竹
「ラジュー出世する 」
    シャー・ルク・カーン ジュヒー・チャーウラー ナー・ナー・パーテーカルアジア映画発掘団主催。
始め30分、インドの旅のスライド上映、カレー付き前売券、チャイや煎り豆の販売、インド雑貨の販売など、非常に頑張っている自主上映会であった。しかもただ一回の上映とはいえ、あの松竹をほぼ満杯にしてしまったことにただ敬服してしまう。
映画は表題作そのままの物語に歌と踊りが付き、美女が絡むという見事なマサラムービー。女の子が多かったが、手をたたきながら笑いこけていた。という私もそうであるが。良質な昭和30年代の日本喜劇映画のようであった。いや、歌と踊りと、決まりすぎるせりふで若干負けているかもしれない。

《現在の感想》
98年のあのインド映画の隆盛はいったいなんだったのだろうか。
現在はまったく上映されなくなった。しかし、インドではいまだもって世界一の映画製作国であり続けている。その中にはきっと「ボンベイ」みたいな稀有な傑作もあるはずなのだが、残念である。

あの映画はきっと、映画の見方が文化として定着しなかったせいなのだろう。あの国では、インド映画は歌と踊りが始まると、静かに見てはいけないのだそうだ。それはコンサート会場に似ている。もうみんなで踊って汗をかく。そのために映画館に来ているのだろう。

私と到底映画館では踊れない。でもまたあの映画を観てみたい。充分心躍りだすので。