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2005年05月05日(木)
映画「夏の庭」について(8)

僕たちは、初めて葬式に最初から最後まで参加した。
最初から最後まで泣きとおしだった。
知っている人が死ぬなんてこんなに悲しいことだとは思わなかった。
さあ、これからおじいさんを火葬しようというとき、
おじいさんの元のお嫁さんがやってきた。
僕たちは気がつかなかったけど、
後から考えると、僕たちがサッカーをしているとき
おじいさんはおばあさん所に正装して訪ねていったのだと思う。
おじいさんはそれで安心してしまったんだろうか。
おばあさんは今は呆けた感じは全然ない。
おじいさんの遺体に向かい、
「ご苦労様でした」
と頭を下げた。
おじいさんは小さな白い箱に収まった。
それを、例の意地悪二人組がはやし立てる。
ひとりはいつものようにずーとビデオを回している。
そのとき葬儀屋のおっちゃん(笑福亭鶴瓶)が怒った。
「人の死というもんは神聖なもんなんや。囃すもんとチャう。」
ビデオの男の子は恥ずかしそうにビデオを隠す。
そうして僕たちの夏は終わった。


この場面は私の一番好きな場面だ。
おじいさんは自分の人生にとりあえず落とし前をつけて
死んでいったに違いない。
あの燕尾服の正装はそのことを表わしている。
鶴瓶が子供を諭す言葉も大好きだ。

20歳を過ぎても私の周りには死んだ人がいなかったのだが、
その後約10年間で親類だけでも
私の母や祖母を合わせて5人が立て続けに死んでいった。
この映画を見たのはそれが一段落付いたころである。
日本人は韓国人のように人前で大声で泣いたりしない。
気丈に振舞えば振舞うほど周りの人は
当事者の気持ちを「察して」立派だったという評価を下す。
どうしてそうなってしまうのか良く分からないけど、
私も、とんでもない寂しいところで急に涙が出てきてしようがなかった。
だからこそ、葬式で肉親が泣いているのを目撃したりすると胸が潰れる。
ただ、後で話題になるのは、
本人はあそこまで生きたんだから本望だとか、
若いのにかわいそうね、とかいうことで、
死後天国に行くだろうとか、ぜんぜん話題に上らない。
日本人は「生きているときにどれだけ満足したか」が
死ぬとき幸せだったかどうかの基準になるみたいだ。
しかも「終わりよければすべて良し」の場合が多々ある。
このおじいさんもきっとその部類に入る。
おじいさんはいい死に方をした。
三人組は結果的にそれを助けた。
三人組はそんなことも含めて「死とは神聖なもの」だと学んだ。
観客の私たちはそのことに救いを覚える。

以下次号。



2005年05月04日(水)
映画「夏の庭」について(7)

おじいさんは優しかった。
おじいさんはすっかり元気になった。
河辺はかぎっ子であったけど、
おじいさんから何の知恵を教わったのか元気になっていったし、
木山も「家庭の事情」はあったけど、(すみません忘れた)
なんとなく元気になっていった。
僕たちはおじいさんの死ぬところを見たい、
だなんていう当初の目的をすっかり忘れていた。
僕たちの楽しみはほかにもある。
今はサッカーに夢中だ。
その日も校庭で僕らはサッカーをやっていた。
僕たちは気がつかなかったけど、
おじいさんは燕尾服を着て、
よたよたとサッカー場の上の土手を歩いていった。
それからしばらく経って、
僕はいつものようにコスモス揺れる庭からおじいさんの家の中に入る。
おじいさんは寝ていた。ように思えた。
動かない。
川辺も山下も来る。
木山「おじいさん……死んでいる……」
僕たちは逃げだした。
おじいさんの表情なんて見ている余裕はなかった。
なく余裕もなかった。
何がなんだか分からなかった。


映画「エコエコアザラク」の最初の監督をした
佐藤嗣麻子が言っていたのですが、
映画で世界共通のテーマが三つあるという。
ひとつは「愛」。恋愛ものは必ずありますね。
ひとつは「性」。そういえば、世界共通していますわな。
ひとつは「死」。このテーマの映画で名作といわれるものが、
本当に山ほどある。
「夏の庭」もそのひとつだ、と思う。
こうやって三人組は初めて本当の人間の死に向き合う。

人の死というのは、いつであっても衝撃的である。
時には人の生き方さえ変えてしまう。
今回の福知山線の犠牲者も、生存者も、
いったい生死の分かれ目はなんだったのか、生存者は
運命というものに対峙する人生が始まるのだろう。
残された者にとっては、
後悔の日々や怒りの日々が始まるのかもしれない。

ただ、死に行く人にとっては残された人たちの
人生は重要なことなのだろうか。
それぞれの人生にはそれぞれの意味があるには違いないのだが。
おじいさんは幸せだったんだろうか。
子供たちのおせっかいは意味があったんだろうか。
私はとりあえず、そのことだけでも知りたいと思う。
次号で少し展開したい。



2005年05月03日(火)
映画「夏の庭」について(6)

おじいさんからは昔の住所を聞いて、
ぼくたちは元の奥さんを探し始めた。
どうしてこんなことをするんだろう。
だって悲しいじゃないか。
確かに人を殺したのは悪いことなのかもしれないけど、
兵士でもないのに殺したといっていた、
元の奥さんみたいな女の人も殺したのかもしれない。でも、
そのためにおじいさんとお嫁さんが別れるなんて悲しすぎる。
おじいさんがそのためにずっと一人でいるなんて寂しすぎる。
微かな手がかりを数珠繋がりにして、
僕らはおばあさんの居所を突き止めた。
おばあさん(淡島千景)は老人ホームにいた。
おじいさんのことなんてぜんぜん覚えていなかった。
僕たちはがっかりする。でもおじいさんをがっかりさせちゃいけない。
僕たちはコスモスの種を買った花屋のおばあさんに
おじいさんの元妻の代わりをやってくれと頼む。
そう僕らはあの庭にコスモスの種を植えたんだ。今はずいぶん育っている。
おじいさんと元妻(の身代わり)の対面の日、
僕らはどきどきしながらおじいさんの家に庭から入っていくと、
おじいさんとおばあさんが楽しそうに世間話している。
聞けば、身代わりということはすぐに分かったそうだ。
おじいさんは怒っていなかった。優しかった。
コスモスが咲いた。庭いっぱいに
、緑の海にピンクの花を無数に泳がせている。


今日は憲法の日。
去年までは祝日も仕事なので行けなかったのだが、今年は行く。
引きこもりの家族を見守ってきた斉藤学さんの講演
松元ヒロのパフォーマンス、
テオ・アンゲロプロスの映画の一シーンを思わせるような詩の朗読、
力強い主催者の挨拶、
そうか、今年で明治憲法が存在した58年を超えるんだ、現憲法は。
いろんなことを考える。

松元ヒロの風刺コントは良かった。
最近はライブにお客も来るようになったし、
有名人も来るようになったので、マスコミの人も来るらしい。
マスコミの人の感想は
「面白いんだけど、うちじゃやれないな」
確かに小泉や民主党や実在人間をこき下ろすけど、
お笑いなんだから、面白いんだったら扱ってやれよ、と思う。
集会のパンフに、ホームページに書いている日記風の文章の抜粋があった
http://www.winterdesign.net/hiropon/html/weekly/010808.html
その中で、韓国人芸人との交流のくだりで、
「余計なお世話だ」と言ってしまうところからは友情は生まれない、
といっていた。その通りだと思う。

ずーと笑いっぱなしのライブがこのときだけは静まり返った。
「ネルソンさん人を殺しましたか」(講談社)の話を紹介したときだ。
ベトナム戦争でベトコンを殺した元兵士が、
アメリカに帰って精神病になってルンペンになる。
お金のために、小学校で戦争の話をするけど、
どうしてもあの体験だけは話せなかった。
帰ろうとして一人の少女が手を上げる。
「ネルソンさんは人を殺しましたか」
ネルソンは葛藤の末、「yes」と答える。目を開ける事ができない。
そのとき腰の辺りに暖かいものが触れる。
その少女が腰に抱きついて言うのだ。
「かわいそうね。ネルソンさん。」
ネルソンさんはそのとき帰還以来の初めての涙を滂沱の如く流す。

三国連太郎のおじいさんもおそらく三人組に救われたのだろう。
今同じ悲劇がイラクで起こっている。

以下次号。















2005年05月02日(月)
映画「夏の庭」について(5)

おじいさん「私には妻がいた。しかしそれは復員して帰ってからまでだ。そのあと別れた。聞けば、ほかの人とすでに結婚して子供も出来ている。幸せに暮らしていればいいのだが。」
木山「どうして別れたの」
おじいさんは戸惑う。おそらくまだ誰にも話したことがなかったのだろう。しかし、この台風の雰囲気がおじいさんに何かを呼び起こしたのかもしれない。おじいさんは話し出す。戦争に行っていたときのことを。そのとき、おじいさんは人を殺したんだ。敵という名前で呼ばれている人を。それは怪談話より恐ろしい話であった。山下はぶるぶる震えだす。
おじいさん「私は妻にいった。もうこれ以上一緒に暮らせない。」
木山「奥さんには戦争のこといったの」
おじいさん「いわない。あれはどうしても納得できないでいたようだ。」
木山「奥さんに会いたいの。」
おじいさんは困ったように小さく笑う。「そうじゃな。会って謝りたいかもしれない……」
木山「僕たちが探してきてあげる!」


会話は相当違っているかもしれません。まあ、だいたいこのような話だったと思います。

思いもかけず、戦争の話が出てきました。おじいさは、ずっとこの話を自分のうちの中にためて一人で暮らしてきたのでしょうか。ありえる話だと思います。おじいさんは戦争末期に召集されたのでしょう。戦争の世代というのは一年違えば、ぜんぜん人生に与える影響が変わります。戦争の召集される前の世代、戦争末期に招集された世代、戦争の初期から召集された世代、もうそのころは招集されなかった世代。

されなかった人たちは戦争に協力した人たちがほとんど。知識人のえらいさん、村のえらいさんたち。永井荷風、河上肇なんかは例外中の例外である。

戦争中期の人たちも同様であるが、彼らは青春時代は、戦前の時代である。大正時代の自由な雰囲気を少し知っている。だからいくつかの試練がある。丸山真男は初期に特高警察に連れて行かれたのが、大きな試練であった。

戦争末期の人たち。もうすでに戦争に反対する手段は何一つ残っていない。加藤周一は、死んでいくようなきもちで1941.12.8を迎えたという。特攻に行った人たちも多かったに違いない。昨日たまたま、友人のHPを見ていたら、1945年8月26日、つまり敗戦後数日たって元特攻の教官が郷里の村の墓の横に自爆していったという歴史的事実を掘り起こしていたのを見た。自分の生家の屋根すれすれに飛んで生き、少しアクロバット飛行をしてみせ、そして田んぼの中まっさかさまに落ちていった。

戦争の世代というのは良く分からないが、「死」と隣り合わせの世代なのだろう。それと比べると、戦争に直接行く直前で終わった世代の話はまだなぜか明るい。というのも私の父親がそれだった。呉の海軍教習所にいって8月15日を迎える。子供のころ、毎日毎日そのときの話が出てくる。要は苦労話である。子供は同じ話が出てくるとうんざりするけど、大人には分からない。

さて、いまは平和な時代なのだろうか。
それとも召集される前の時代なのだろうか。
以下次号。



2005年05月01日(日)
映画「夏の庭」について(4)

よくも生えたり、庭の草。すべて小学生より背の高い草ばかり。
けれども、草を刈って片付けると、あらまあ不思議、
だだっ広い庭になりました。
そこにおじいさんがスイカを切って出してくれる。
そのスイカの美味しそうなこと。
ある日山下が魚を持ってきた。彼の家は魚屋なのだ。
魚をさばいて見せる山下。
あるいは、おじいさんはふすまの張り方なんか教えてくれる。
そうこうするうちに、おじいさんも元気になるし、
部屋もきれいになる。そうこうするうちに夏休み。
ある日美人の女先生(戸田菜穂)に出会う。先生に告げ口されたと思って緊張する三人組。けれども先生は意外にもほめてくれた。「おじいさんのところで草刈とか、いろいろ手伝いしているんですってね。感心ね。」女子生徒が好意的に告げ口してくれたのだ。複雑な心境の三人組であった。
あるときおじいちゃんから、昔の話を聞く。それは台風が来ていたとき、薄暗い部屋の中で、ずっと封印していた話を聞く。
おじいさん「結婚していたけど別れた。」
木山「どうして」
おじいさん「それはな……」


初めて人の死んだことに出会ったのはいつだったのだろう。
小学生のころ、近所のポロ借家に「髭のおっちゃん」が住んでいた。
何をしている人かわからない。いつもぶらぶらしていた。今思うとやくざの成れの果てか、奥さんに死に別れた一人やもめだったのか。
ある日家に帰ると、突然葬式をしていた。聞くとあのおじさんが死んだのだという。葬式には行かなかったが、知り合いの人がいまはもう世の中にはいないのだというのはなんか不思議な感覚だった。近所の私より10歳近く年下のやっくんだけは、このおっちゃんになついていて、ずーと泣き通し。しばらく塞いでいたらしい。
もうひとつは中学校入学式の日に、母方の祖母が死んだ。これは葬式に行った。真新しい制服を着て、初めて焼香などをした。「入学式にいけなくてごめんね」私の母親は憔悴しきった顔でつぶやいた。印象的だったのはその日の朝、ご飯を食べているときに、しきりと家の屋根の上でカラスが鳴いたのだ。「縁起が悪いわねえ」と母親はいやな顔をした。それまでずーと祖母の看病をしてきて、危ないことを知っていたのだが、そのひは私の入学式だったので家にいたのである。しかし、そのとき電話が鳴る。電話に出て帰ってきたときの母の顔はくしゃくしゃになっていた。……私は祖母には一回も会った事がない。だから死んで葬式に行ってもぜんぜん実感はわかなかった。ただし、あの母親の顔だけは忘れることが出来ない。
人が死ぬということはどういうことなのだろう。
中学生の私はまだ実感がわかないでいた。
以下次号。



2005年04月30日(土)
映画「夏の庭」について(3)

おじいさん(名優三国連太郎)の監視が始まった。おじいさんの家は本当にぼろ屋だ。庭は草でほとんどジャングルのようだ。窓の隙間からおじいさんを見る。夏なのにコタツに入っている。寝ているのか死んでいるのか分からない。部屋はごみだらけ。
山下「死んでいるのかなあ」
そのときごそごそと動き出した。外に出るようだ。あとをつけていく。子供としてはものすごい緊張感。結局おじいさんが買ったのは、近くのスーパーでお弁当だった。お弁当を二個かって、元きた道を戻っていくおじいさん。
河辺「どうして二個買っていくか分かった。おじいさんはあれを夜食べて、明日の朝もう一個食べるんだ。」
おじいさんの監視はずーと続く。同級生のいたずらっ子にとがめられる。ひとりは、いつもお父さんに買ってもらった最新鋭のビデオカメラを撮っているイソギンチャクだ。「へんなことをして、先生に言いつけてやる。」三人組みは少し不安になる。でもやめなかった。
ついに木山君が見つかってしまった。どう言い訳したのか覚えていないのだが、それをきっかけに、三人組とおじいさんは仲良しになる。おじいさんはある日、3人組に言うのだ。「庭の草を刈れ」三人組みは「どうして僕たちがこんなことをしなくちゃいけないんだよお」といいながら草を刈り始める。それは本当に重労働であった。

いやあ、おじいさんの境遇、ちょっと他人事じゃあないです。支障があるので、詳細な描写はしませんが(^^;)今の私の境遇も同じようなものです。この前、家に閉じこもってばかりじゃだめだと、車をとりに一時間半ばかし歩きました。一週間前にはちょうど若葉が芽吹きだしたばかりだったはずだというのに、色こそまだ明るいものの、葉の大きさはもうすっかり成人です。ナガミヒナゲシはあちこちに咲いて橙色の点描を作り、教習所の八重桜は満開でした。もっと外に出なくちゃ、と思ったものでした。

おじいさんのすんでいるところの撮影は、神戸須磨区で行われたそうです。今年の冬、ちょっと思い立つことがあり、神戸須磨区舞の五色台古墳を見てきました。あの周りを歩いていると、この40年間ぐらいに建てられた、住宅地みたいで、閑静なたたずまいです。坂が多くて、路地が入り組んで、もしかしたら私は映画のロケ地を歩いていたのかもしれません。94年公開ですから、もちろん神戸大震災がある少し前の時期の撮影でした。

以下次号。



2005年04月29日(金)
映画「夏の庭」について(2)

最近の「連載」を読み返してみて、
改めて、誤字・脱字、間違いの多いのを知りました。
すみませんでした。
一つ一つの訂正はしませんが、
大きな間違いをひとつだけ。
四国の巡礼は「48」の寺を歩くわけではなく、「88」でした。
その他、いろいろ間違えている気もします(^^;)
支障のある間違いは直していく所存ですので、
ご指摘をいただくとありがたいです。

ところで、
「夏の庭」はたった一回のみ見ただけなので、
私の記憶は間違いだらけかもしれませんが、
比較的良く覚えているほうなので、
あらすじ(ピンク)を載せていきます。
地の部分は私の感想です。
相当脱線する予定です(^^;)

夏の始まり、いつもの小学生(5年くらい)の三人組が
塀の前で話し合っている。
木山(主人公各、かわいい)、河辺(チビでメガネ)、山下(でぶっちょ)
山下が葬式にいった話をする。興奮している。
でも死体をきちんと見たわけではない。
木山「なあ、人は死んだらどうなるんだろう」
河辺「僕時々想像してみて、怖くて仕方なくなることがある。」
といいながら、河辺は塀の上に登る。落っこちたら死ぬかもしれない。
本当に落っこちそうになる。
川辺「人が死ぬところを見てみたくないか。」
彼が言うにはこうである。近所のあばら家に、今にも死にそうな老人が住んでいる。彼を見張っていれば、彼は必ずもうすぐ死ぬだろう。そのとき僕たちは人が死ぬところを見ることが出来る。相談はまとまった。


私も小学生のころ、
突然「僕も死ぬのだ」と気がついて怖くて仕方なかった。
死ぬのはあと何十年も先のことだとは分かるのだが、
(事故や病気で死ぬなんて事は少しも考えなかった)
それでも怖かった。何十年なんてあっという間に過ぎ去る気がしていた。
そんなこと考えるのはたいてい学校からの帰り道だ。一人。
私はなんかの結論が付いただろうか。
付かなかった。ただ、「怖い感情」が通り過ぎていくのを待つしかなかった。
当たり前だ。これは哲学の大問題なのだから。
これが解決したら宗教はいらなくなる。それはともかく、
親にもいえない。(言っても仕方なかっただろう)
言える友達はたぶんいなかった。
この映画の場合、3人組というのが良かったのだ。
中学生なら一人の親友に打ち明けて、
そこから違う物語が発展していっただろう。
小学生だとその他大勢の友達に言うしかない。
あはは、といって終わりだ。
3人組だから話を煮詰めることが出来たのである。

以下次号。



2005年04月28日(木)
新連載 映画「夏の庭」について

一日お休みしました。
現在、おそろしく暇があるはずなのですが、
だから更新が必ず出来るというわけではないのですね。
今度こそ30分以上かけまいと決心しながら、
PCの前に座ったのに、
書き出すまでに一時間以上かけてしまいました。(^^;)
映画夏の庭について調べていたのです。

夏の庭  1994年作品
毎日映画コンクール・日本映画優秀賞
キネマ旬報ベストテン第5位
監督 ................ 相米慎二 
脚本 ................  田中陽造
原作 ................  湯本香樹実

傳法喜八 ................  三國連太郎
木山諄 ................  坂田直樹
河辺 ................  王泰貴
山下勇志 ................  牧野憲一

実はまだほとかんど「ストック」が出来ていません。
よってしばらく「時間稼ぎ」が必要なのですが、
次に何をしようかと思ったとき、
「堅い話」が続いたので映画にしようと思ったのです。
昔の映画がいいな、出来たらみんなが知らないような映画なら、
あらすじを載せるだけでも、時間稼ぎできるな(^^;)
心に残った映画はたくさんあるけど、
なぜかビデオが出回っていない映画というのはそうはない。
この作品、レンタルで見たことないので、
ビデオ化されていないのだと思っていました。
ところがネットで調べたらビデオ化されているんですね。
相米慎二監督(故人)のほかの作品「セーラー服と機関銃」「お引越し」「あゝ春」「風花」などと比べて、 目立ってはいないのですが、まがう事なき、(私の中では)代表作とも言っていいほど大傑作です。
出来たら皆さん、レンタル屋で探してみてください。
もしあったなら、私にメールください。
私の住んでる近くなら、ぜひもう一度見たいと真剣に思っています。

この作品は、私の記憶では、自治労の毎年行っている
「市制を考える会」の第一回の集会で、
オープニングイベントとして特別上映された作品でした。
よって私の周りでも見ている人はほとんどいません。
でも私は毎年の映画上映の中でこの作品がベストだと思っています。
(毎年山田洋次を迎えるなどして「たそがれ清兵衛」などいいチョイスをしているのですが)
この作品は「死ぬということはどういうことなんだろう」ということを
扱った作品です。
といったところで書き出してから30分経ちました。

以下次号。



2005年04月26日(火)
本多勝一「事実とは何か」について(21)

大学教授会が、生協設立に賛意を表し、運動に参加したのである。
今思えば、
ここが分岐点だった。

と、昨日書いたわけですが、
なんか締め切りに追われる漫画家の気持ちが分かってきました。
確かに分岐点だったのでしょうが、
じゃあ何が出来たのか、
お前(<わたし)は何をしたのか、
それより、今現在、当初の予定をしないで
これを書いているお前はどうなんだ、
と、なんだか落ち込むようなことばかりが浮かんできて、
吾妻ひでお「失踪日記」じゃないですが、
失踪したくなるようなことばかりです。
今日はいい天気です。しっかり運動しなくちゃ(^^;)

それはともかく、

教授会は味方であると同時に冷ややかな観察者であった。
学館の出来るぎりぎりの時期に生協に賛意を表わしたのは
彼らの大人としての判断だったのだろう。
学生としてはそれを最大限宣伝すべきだった。
ともかく圧倒的多数の学生を巻き込み、
学生の過半数を出席させて、生協設立準備大会を成功させるか、
圧倒的多数の生協出資予定者の名簿を約半年で作るべきであった。
そういうことさえも思いつかないか、考えても実行できないでいた
学生の見識というのは
あまり「自主管理・自主運営」を言っている人たちを笑えないのであった。
新聞会としては、
そういう「主張」さえ書かなかった。
教授たちを巻き込んでのインタビュー特集、
今が正念場だという学生への煽り、
そんな企画をどうして立ち上げなかったのか。

結局当局が勝手に学館に生協を想定していない青写真を作り、
生協設立の運動は潰えてしまう。

「昔は大学新聞を作っている人たちといえば、
その大学の最も理論派といわれるような人たちだったんだけど、
君たちを見ているとなんだか悲しくなってくるよ」
ある教授からそんなことを言われたことがある。
そんなことを言っても、
われわれとしては新聞つくりになんかの憧れを持って集まった
素人の集まりなのだから困る、というのがそのときの感想なのであったが、
やはりその言葉は忘れることがいまだに出来ていない。

あのときの反省を私はこの22年間活かすことが出来たのだろうか。
恥ずかしい限りである。
仕事をしている一日の約12時間(以上)は、
そのことを全く忘れなくてはいけないような状況がずっと続いてきた。
別にだからといってしっかり仕事をすることは
人間として恥ずべき事ではないけど
(むしろそれを全うするのは素晴らしきことだけど)
もういいやと思う。
「昔の初心を思い出したい」
今はしきりとそういうことを思っている。、


振り返って現代、
ただの経済部記者だった斉藤貴男が「不偏不党」「客観報道」から離れ、
旺盛なルポ活動をしている。
小田実、鶴見俊輔以外は対外的な活動をほとんどしてこなかった
9人の知識人たちが「9条の会」を作り、
その想いは燎原の火のように広がっている。
こんな人も出てくるほど、現代はいよいよ、
時を逸してしまっては、「あとで後悔する」というよな時代になってきた。
いや、突然変わってはいない。
加藤周一の言葉を借りれば、
「なし崩し的に」これからも変わっていくのだろう。
しかし、22年前と比べるとぜんぜん状況が違うというは、
その通りなのだ。(この場では到底展開することが出来ない)

本多勝一の「事実とは何か」は
私の大学時代に大きな影響を与えた。
しかし、すべてを与えたわけではもちろんない。
どんな影響を与えたのかを、
私はこの拙文でやっと書けたような気がしている。

以上。



2005年04月25日(月)
本多勝一「事実とは何か」について(20)

大学の生協設立運動は分裂していた。

例によって、文化会、大学祭実行委員会、女子学生の会は
生協施設を含めて、作る予定の学生会館を
学生の「自主管理・自主運営」にすべきだと主張していた。
すでに東大安田講堂のそういう闘争が破綻してから10年以上経ったあとなのではあるが、彼らはそういう意味では「保守的」であった。
しかし、自主運営はいいとして、自主管理の中身はといえば、
鍵は学生が持つのだ、というぐらいのイメージしか持っていないのであった。
大きな建物の管理には専門家が必要であるし、
窓ガラスが割れたときはどのように保障するのか
ということ自体も答えられないのではある。
しかし彼らには一定の力があった。

新聞会を含めてわたしたち有志が集まった「作る会」のメンバーは、
大学生協連合会自体の援助を得て、
「現実的な」青写真を用意していた。
しかしわれわれ有志の数は少なく、
勢力は二分していたか、もしくはわれわれのほうが不利であった。

そして圧倒的多数の学生の中では、
「そういう運動には関わりたくない」という雰囲気が蔓延していた。
当時は(今は知らない)学生運動の残滓が残っていて、
親や知り合いから言われていたのだろうか、
「運動」にだけは関わるなよ、といわれて、
そういう親に反発するような学生はほとんどいなかった。
いわゆる「学生運動」は良くも悪くも「輝き」が失せていたのではある。

そういう中で何度か、二つの勢力と当局が学生会館の構想について話し合いを持つ。
わたしたちは、青写真決定まで一年を数えるような状況になっても
何の打開策ももてないでいた。
そこに大きな味方が現れる。
大学教授会が、生協設立に賛意を表し、運動に参加したのである。
大学の先生たちはいわば、生協とは何か、身をもって知っている人たちである。
学生時代、そしてほかの大学にいたころ、その恩恵にあずかっていたのだから。
今思えば、
ここが分岐点だった。

以下次号。