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2005年04月24日(日)
本多勝一「事実とは何か」について(19)

生協(大学生協)とはなんだろうか。
というところからわたしたちは何度も記事にした。
そうでないと、
ほかの大学では当たり前のことが、
ほかの大学を経験していない、当大学の学生にとっては
何も分からないからである。

生協の原則は出資、運営、消費が
同じ大学の学生、ならびに教職員であるということ、
よって、学食でこういうメニューがほしい、
こんな値段で作ってほしい、というようなことも、
各学部の代表委員たちが集まる代表委員会で話し合うことが出来る。
書店や購買部も今よりは充実することが出来るし、
何より本を割引で買える。

また、学生教職員の生活を守ることを目的としているので、
その時々の大学問題(学費値上げ闘争)などにも
心強い団体が現れることを意味しているだろう。
何しろ、生協は財政基盤がしっかりしている。
そして、自治会よりもシビアに方針を作っていくので、
「生協は民主主義の学校である」という期待もあった。

わたしたちは全国の生協の情報をしっかりと伝えていき、
場合によってはほかの大学に行き生協ルポを行った。

問題が二つあった。
生協設立には学生の全体が生協を強く望む必要があった。
各教室には必ず生協の代表委員を持たなくてはならない。
そのためには学生の生協理解と支持が最低必要条件であった。
もうひとつ、どういう生協を作っていくのか、
学生会館の青写真に生協を入れる場合、
その方針を一本化する必要があった。

そこで大きな問題があった。
学生の生協設立運動が分裂していたのである。




2005年04月23日(土)
本多勝一「事実とは何か」について(18)

「事実とは何か」という本は、
私の大学時代を決定したといってもいいのですが、
今になってこれらの出来事を書くのは、
とどのつまり、私に今人生の転機が来ていて、
昔を振り返って、
自分の出発点を確かめたかったからに他ならない。
のだろうな。と、書いてみてそう思います。

わたし昨日をもって22年間勤めていた職場を辞めました。
22年間の仕事のことについては、
またいつか書くことがあるのかもしれませんが、
とりあえず、
今はフリーで、これからの生活を模索している状態です。

人によったら、
「あなたの考え方はあまりにも青臭い」といわれるかもしれません。
それに対してわたしは
「ほめ言葉として受け取っておきましょう。」と応えるでしょう。
うん、それはほめ言葉です。
「まだ青春だね」と(意識すると)聞こえます、

過去を振り返って何か見つかるものがあるのだろか。
自分の「青臭さ」を再確認しながら、
見つけていきたい。

さて、生協設立運動である。
これは私が大学に入る一年前から始まり、
私が四回生の時に決着が付くという、
まさに大学時代、を代表する、大きな「大学問題」で、
もっとも記事化された事柄であった。

私の大学は国立大学なのに生協がなかった。
学食には業者が入り、書店は存在しなかった。
学生のことを思えば、生協を設立するのが一番理想的に姿ではあった。
そういうときに学生会館設立構想が持ち上がる。
箱が出来る。
このとき青写真に生協を入れるかどうかが決定的であった。




2005年04月19日(火)
本多勝一「事実とは何か」について(17)

「美人コンクール発言事件」はいまや全学生の知るところとなる。
その後何回か大学祭実行委員会が開かれたが、某サークルは欠席したまま。
それがまた「糾弾」の対象となるであった。

わが大学新聞は沈黙を守っていた。
わたしは女性問題に疎く、
付け焼刃の学習では到底歯が立たないことを感じていた。
安易に記事にすると、われわれも「糾弾」の対象になってしまう。
一回だけ、先輩がエッセイの装いを持って、この「現象」にコメントしてくれた。
たぶんそのことを免罪符にして、
わたしは編集長の仕事を果たした、と思ったのかもしれない。

わたしはこの糾弾会がどのような決着を持ったのかを覚えていない。
(おそらく某サークルは女子学生の会が望む総括文を
嫌々ながら書かされたのだと思う)
ということは、わたしは最後まで「関わらなかった」ということなのだろう。
「それは賢明な判断だった」と誰かは言うかもしれない。
しかし、今だから言うが、あれは間違っていた。

新聞会は何の立場に立って書くのだろうか。
自分たちの思想を広げるためか。違う。(広げる思想もないが)
「当局」(大学経営者=文部省)か。もちろん違う。
自治会である以上、大学の全学生のために、
学生の立場に立った新聞つくりをしていかなければならなかった。
今起こっている糾弾会は本当はどういうことなのか、
学生たちは関心を持っていただろうし、
新聞会はそのことに応える義務があっただろう。

編集部に、編集長たる私に「勇気」と「覚悟」が足りなかった。

理論的な未熟はあったかもしれないが、
「足で書け」ば、
少なくとも事実関係で後ろ指差されることはなかっただろう、
と今になれば思う。
そうはいっても、あらゆる記事には「主張」(事実を選択するものさし)が
あるのだから、そこを突かれたら、後は理論対決になる。

あれは「糾弾」に値する発言ではなかった、
と、誠実にいっただろう。
それはおそらく全学生の支持するところだっただろうと思う。
理論の泥沼に入ることを避けて、世論対決にもっていくという戦略をとれば、
何とかなったかもしれない。

新聞会の「故意の無作為」に
あのときの某サークルに対し、
あのときの全学生に対し、
いまさらながら「ごめんなさい」とわたしは謝るだろう。

時機を逸せず、勇気をもって判断を下す、
それは本当に難しい。
そのとき大事なのは、やはり
われわれはどういう立場に立つか、ということなのだろう。
もうひとつそのいい例がある。
生協設立運動である。

以下次号。
(さすがになんか「総括文書」を書いたような疲れが(^^;)
次号更新は23日にさせてください。)



2005年04月18日(月)
本多勝一「事実とは何か」について(16)

昨日の取材は今日の記事になっていました。
やはり予想とおりの記事になっていました。

それはともかく、

わたしはあの時やはり3回生だったみたいです。
しかも新聞会の編集長になっていました。
優秀だったからではなくて、
三回生で残っていたのが私とあと数えるくらいだったから(^^;)
編集長としてこの事態に判断を下さなくてはならなかったが、
わたしは迷っていました。

よって相談役になっていた、四回生の先輩に聞くと、
彼もことは慎重に対処すべきだということでした。
問題は三つ。
体育系サークルの「美人コンクール」発言は、
女性を外見だけで評価し、
それを商品的価値にまで定着させてきた現代の女性差別構造に
「つながる発言」として「感心できたものではない。」こと。
しかしながら、
大学祭を盛り上げようという善意から発言されたことで、
「罵声を浴びるほどのことではない」ということ。
しかしながら、新聞会として下手に反対などすると、
今まで敵対関係にある大学祭実行委員会や女子学生の会から、
「いちゃもん」をつけられる可能性が高いこと。

わたしの態度は結局「事態を見守ろう」ということでした。

しかし、事態は非常に大きくなっていきました。
次の大学祭実行委員会は
体育系サークルの「糾弾会」に性格が一変し、
きちんとした「文書」で「総括文」を提出せよ、となり
体育系サークルは多勢に無勢
前回の発言は撤回したにもかかわらず、許してもらえず、
何も言えず帰っていったのである。

次の日からは、ほぼ連日
女子学生の会からのアジビラ、アジ演説、で
この某サークルはずーと「糾弾」されていったのです。

わたしはこの事態を記事に出来ませんでした。
はたしてそれでよかったのだろうか。
以下次号。



2005年04月17日(日)
閑話休題「本物の記者の取材にあう」

今日は地元記者の取材にたまたま出遭ったのでそのことを書く。

とはいっても地元の商店街の活性化企画、朝市でぼんやりしていたら、インタビューを受けただけなのだが。

記者「○○新聞のものですが、ちょっと取材させてもらっていいですか。」
わたし「いいですよ」(わざとそっけなく応える)
記者はまず住所(町名地名まで聞いてきた)名前のフルネーム、年齢、職業を聞く。(私はさすがプロだなあ、と感心する。確かに新聞の声としてはこれは必要なのだが、インタビューのあとではそのあたりに答えるのは尻込みしてしまうものなのである。)
記者「今回は何度目ですか。」
わたし「初めてです。」
記者「なぜここに来ようと思ったのですか。」
わたし「盛況だという評判を聞いて。FMラジオでしていたものですから。」
記者「来てみてどうでした。」
わたし「人多いですね。」
(もっと突っ込んだ質問をしろ、と心の中で思う。)
記者「この商店街は久しぶりに来られたんですか。」
わたし「(確かにめったに来ないので)そうです。」
記者「久しぶりの商店街歩いてみてどうでしたか。」
わたし「まだ充分歩いていないので分かりません。」
記者「商店街を活性化させようというこういう催しは続いてほしいですか。」
わたし「(そりゃあ商店街が寂れるのを賛成するはずがないでしょうが)もちろんです。毎月してほしいですね。」
記者「ありがとうございました。」

この間約五分もかからなかっただろうか。
明らかな誘導尋問である。
アンケートでもないんだけから、暇そうにしている男を捕まえて、もっと聞くことがあっただろうに。商店街での思い出とか引き出せば、もっといいインタビューになったはずだ。はじめからほしい答えを引き出すため、機械的にしたインタビューである。おそらく取材などしなくてもあらかじめ彼の頭には記事が出来ていたのだろう。そしてそれは商工会議所を喜ばすための記事である。庶民のための記事ではない。

この新聞社はわたしが就職活動のときに「振られた」ところである。しかしその「エリート」がこういう取材をするのである。わたしはげんなりした。




2005年04月16日(土)
本多勝一「事実とは何か」について(15)

今女子学生の会がどのようなことをいったのかを思い出すことが出来ない。
おそらく当時の私は女性差別のことについて、
ほとんど知識を持ち合わせていなかったし、
女子学生の会自体に対する反発もあったのだろう、
彼女のいうことが心の中を素通りしていった。
ただ最後のほうになって、
彼女が泣き出したのだけはびっくりしたのを覚えている。
自らの発言に感極まり、泣くとは。

私は、理屈でなく、感情が会議を支配しだしたことに気がついた。

「君たち○○サークルの発言は明白な差別発言である。
きちんとした反省の言葉がない以上、この会議はこれ以上続けることが出来ない。
これ以上の議題は次回に持ち越す。」
P議長はそのように会議を打ち切った。
私はその間、ずっと貝のように押し黙っていた。
私は「たかだか」美人コンテストをしたいといっただけで、
ここまで罵声を浴びるこの体育会系のサークルに同情をしていた。
はたして私は援護の発言をしなくて良かったのだろうか。
ただ、大学祭の教室が決まっていなかった。
私は次の会議にも出席しなくてはならないことを知っていた。

以下次号。



2005年04月15日(金)
本多勝一「事実とは何か」について(14)

ついに一日休んでしまいました。
そもそもこのコーナーは新しいネタを仕入れるまでの「時間稼ぎ」なので、
毎日30分書いたら、途中でも何でも書くのをやめようと思っていたのですが、
やはり悲しい性、ひと通りのまとまりにならないと止めれないですね。
なんやかんや言っても、誤字脱字多くても(^^;)私筆不精のため、
書くのに時間かかるんです。
でもこのテーマ、今勢いに任せて書かないと、書けないような気がするので、
がんばって書きます。

構想としては、
この「美人コンクール糾弾事件」のあとは
閑話休題をして、
「生協設立運動」を語って終わろうかと思っています。
もちろんすべて「事実とは何か」に関連した話です。

と、いうわけで

事件は、
祭り全体を象徴する企画について、
何かないか、と実行委員会の議長が言ったときに起こった。

ところで、この議長P氏は、
どんぶり太って外見はどこかの土建屋のおっさんみたいではあるが、
弁は立つ。5回生だとか、7回生だとかのうわさ。
あるときは実行委員会の議長、ある時は三里塚の集会に行っていたといううわさもある、いわば、大学の主(ぬし)である。

その議長の提案に対して、
体育会系のどこかのスポーツサークルの男が、
全く軽い調子で、
「この大学祭はなんか暗いんだよね。もっと一般受けする企画が必要なんではないの。
たとえば美人コンクールなんていいと思うけど。
ミス早稲だとかよく話題になるじゃない。あれと同じように、
優勝者は話題になるんじゃないかな。」
と提案した。

最初に発言したのは議長P氏だったと思う。
「つまり君は女性の外見を大学祭の宣伝媒体にしようというんだね。」
体育会系の男は真面目な提案をまぜっかえされたと思ったのか、
むきになって反論する。
「難しいことは分かんないけど、そういう風に暗く考えるから池なんじゃないのかな。」
そのとき女性が発言を始めた。
女子学生の会からの発言だった。
以下次号。




2005年04月13日(水)
本多勝一「事実とは何か」について(13)

昨日は、どういう立場に立つのか「選択」するのは、
「決意」であると書いた。
少しかっこをつけすぎていたと一日経って反省。
決意というほど決意していなかったと思う。
「感性」という言い方もあったかもしれない。
要はこういう選択の場合、
しばしば理屈では決めれないということを言いたかったのだ。
最も適切な言い方をすると(分かりにくいが)
その人個人の「倫理観」によって、選択するのである。

どういう立場に立つのか、
非常に難しい例がある。
というか、人生ではそういうことのほうが多いのでは、
とその後20年以上たってみて思う。

そういう例の一つ
「美人コンクール糾弾事件」について
書こうと思う。

私は二回生だったのか、三回生だったのか、
どうも思い出せない。
ただいえるのは、事件が起きたとき、
私はその場に居合わせたこと、
まだ相談できる先輩がいたこと、である。

時は秋のは入り口、
教養学部○○番教室において、
例年のごとく、大学祭実行委員会が開かれていた。
各サークルが大学祭での企画を持ち寄り、
使える教室などを調整したり、
補助が必要なサークルはその申請をしたり、
大学祭全体を象徴する企画を立てたりする会議なのである。

私たち新聞会は過去において大学祭実行委員会やその他の組織に
学外に追い出された経緯があるので、
出来ることなら参加したくない会議なのではあるが、
毎年、大学祭には記念講演をしているので大きな教室はぜひ確保しなければならない。
お金はあるから補助の申請はしない、また立場上できない。
まあとにかくしぶしぶ出て、早く終わればいいなという会議なのではあった。

事件は、
祭り全体を象徴する企画について、
何かないか、と実行委員会の議長が言ったときに起こった。

以下次号。



2005年04月12日(火)
本多勝一「事実とは何か」について(12)

私は初めての記事を書いた。
私の大学では1960年の5月から6月にかけて、
学生や教授たちは何をしてどのような思いであったのか、
説明ではなく、事実でもって表現しなくてはならない。
つまり、インタビューの内容でそれをすべて表現しなくてはならない。

私は何度も書き直しを命じられたはずだ。
しかしすでにインタビューは終わっている。
新入生に再インタビューの申し込みは酷だと先輩は判断したのであろう、
文章的な誤りは直しが何回も出たが、
文化部のOKは出た。
しかし、編集会議でのOKが必要である。

編集長や次期編集長はやはり根本的なところを突いてきた。
「安保とはどういうものかなのか、これでは分からない。」
書いている本人が分かっていないのだから当然といえば当然であろう。
しかし、それを地の文で説明しようとすると、
半分くらい説明だけの記事になることを先輩たちは分かったのであろう、
私は本来聞くべきだったそのあたりのことは何一つ取材ノートに書き留めていなかった。一言二言の直しが入って、
結局、強行採決をした政府に対し、
「このままでは日本の民主主義がだめになる」という危機感で、
安保反対のデモの波が広がった、
というような「歴史発掘」になったのである。

私はそれはそれで大切な事実だと今でも思っている。
しかし「本質」はそれだけではなかったろう、
安保自体が持つ危険性に対して、
戦後初めてそして最大の民衆エネルギーが対峙した、
それは歴史的な瞬間だったのではある。

事実でもって本質を描く、それは
取材しているときにすでに本質を掴んでいなければ、
描き得ないものなのである。
私は闇雲に突っ込んで「本質」の端を少しかすっただけなのである。

この場合、「支配する側」に立つのか、
「支配される側」に立つのか、
それが問われていたある意味「分かりやすい例」であった。
もちろん記事の内容は支配される側に立たなくてはならない。
そういう広い観点で現代史を見なくてはならない、
新入生には「難しい例」ではあったが、
自分はこっちの側に立つのだと「選択」すれば、
後は学習すれば書く事のできる記事ではあった。
しかしその「選択」は学習によってなされるのではない。
決意、によってなされるのである。

以下次号。



2005年04月11日(月)
本多勝一「事実とは何か」について(11)

「エー!僕だけで取材に行くんですか。ムリです。」
などというような口答えはしなかった。
私は素直な新入生だった。

私は県庁に赴いた。
そのころ、○○県の県庁はまだ全体が木造の平屋、ぼろくて広い建物
反対に言えば、歴史的な由緒ある建物であった。
一般的には産業の中心に県庁はあるものであるが、
この県はなぜか県庁所在地には文化的な建物しかなかった。、
歴代の政治家たちに何らかのこだわりがあったのかも知れない。

複雑な木造の廊下を歩いて、何も知らない新入生の私は、
うけつけでB氏を呼んでもらったのであるが、
電話に出たB氏は突然やってきた得体の知れない学生を訝しがり、
今忙しいので後で連絡するといって、
私たちの連絡先を聞いてあってくれなかった。
(今から考えると当然といえば当然であろう。)
私はすごすごと戻っていったのであるが、
やがて会ってもいいという連絡が来る。
もしかしらA教授に私たちの新聞会が怪しいものではないと
聞いたのかかも知れない。

20年前の学生は当然ながら、スーツを着た中年のおじさんであった。
私はおそらく用意してきた質問を機械的にしていったのだろうと思う。
中年おじさんは当時を懐かしむようにいろいろと話してくれたのだと思うが、
今ではほとんど覚えていない。
ただ、なぜ60年安保闘争を始めたのかと聞いたとき、
次のように言ったことは、私が書いた記事の中心的な言葉になったし、
生涯忘れることの出来ないものでもあった。
「私は安保問題の難しいことは良く分からなかった。
けれどもあの国会の強行採決を知って、
このままでは、日本の民主主義はだめになるかもしれない。
ただ、その危機感だけで、集会を準備したし、
デモもやっていったんだと思う。」
突然目の前の中年おじさんが、私たち学生の仲間に見えた。

それは当時の自覚的な学生たちの正直な言葉だっただろう。
そしてそれは当時としてはすでに(そして今も)
失われつつある言葉だったろう。
私はそのインタビューという「事実」を採取することに成功したのである。

全国闘争と組織の関係、集会とデモの関係、
そんなことのイメージをぜんぜん持っていなかった私は、
聴くべき言葉をずいぶん逃していたと思う。
私はもう少し突っ込んで、たとえば次のような質問も
してみるべきだったかもしれない。
「あの当時のことを思い出してみて、
現在の日本や学生に対して、何か思うことはありますか。」
過去の歴史から現代を照射する、
そういう試みも面白かったかもしれない。

しかし、まあ何とか私の「初めての取材」は終わった。
次は私の「初めての記事」である。

以下次号。