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2005年04月10日(日)
本多勝一「事実とは何か」について(10)

最初の取材だけはOさんがついて来てくれた。

60年安保のころのことを知っている人でまだ大学に残っている人は限られている。私たちは経済学部の名物教授、A氏のところに赴いた。

その取材の前に私は60年安保のことを少しは学習して行ったのであろうか。今思い出して、どうしても何か本を読んだという記憶がない。高校生のときに松本清張のノンフィクションを読んだ記憶があった。その本の中では、安保条約を強行採決する国会議事録が採録してあった。それを読むと採決の瞬間は議場が騒然として、議事録にも載っていないのであった。果たしてこれで採決といえるのか、高校生の私は日本の最高議決機関である国会というものに初めて不信感を覚えたのではあった。しかしそれ以上のことを私は知らない。

A氏はマルクス経済学の雄であった。
A氏は、珍しくも60年安保を取材しに来た大学新聞の記者に対して、今から思うとアポなしの突撃取材だったのにもかかわらず、非常に丁寧に応じてくれた。おそらく、当時どれだけ学習会がどのくらいの頻度で開かれたか、デモ行進がどれくらい行われたか、特に強行採決のあとでは、学生と労働者が共同でデモを行って画期的であった、というようなことを話されたのだと思う。安保自体の危険性の説明もあったかもしれないが、私の頭を素通りしていっただろう。

私は安保反対のデモ行進は国会周辺だけで行われていたと思っていた。こんな田舎(失礼)でも、そんな動きがあり、学生と大人が共同してそういうことをしていたということにまず驚いた。当時はまだ、浅間山荘事件や、内ゲバの記憶が生々しいときであった。学生運動というのは「怖く、世間から孤立している」というイメージが一般的であった。「当時の安保闘争は、本当に国民的な大闘争だった。」とA氏は言った。

Oさんは、当時学生だった人で今もこの町に住んでいる人はいないか、教授に聞いた。今から思うと最も適切な人にその質問をしたのだろうと思う。A氏は明らかに当時の反対闘争にかかわっていた人なので、反対闘争の学生の中心人物の動向をちゃんと把握していた。「今県庁に勤めているB君は当時の学生自治会の委員長だった人で、当時のことを話せると思うよ。」

私たちは教授に感謝して、研究室を離れた。O先輩は次は私だけで取材を命じた。
以下次号。



2005年04月09日(土)
本多勝一「事実とは何か」について(9)

初めての取材、そして記事を書いたときのことを書こうと思う。

私は新聞会では最初文化部に所属した。
文化部の企画会議でのこと。大学から五分ほど離れたところにあるアパートの部室での会議である。先輩は二人。新入生は私とあともう一人ほどいたか。

先輩Оさん(♂)はは国文学二回生で、文学青年で、文章を書きたいということだけで、新聞会に入ってきていた。「透徹」という言葉があることをこの先輩から初めて教わった(後に大学講師に)。先輩Sさん(♀)は国史三回生。非常にかわいらしい人で、この女性の存在がなかったら、私がこの妖しげな部屋に入っていったかどうか心許無い。「○○くぅん」と泣きそうな感じで人の名前をよぶのが特徴的であった。もっとも最初の新歓コンパの中で、すでに彼氏がいることが判明するのではあったが。(後にその人と結婚)

S「くまくぅん、何かやりたい企画ある?」
私「別にないです。」
O「じゃあ、この前から始まった新企画「歴史発掘」をすればいい。」
私「……」
S「それがいいわ。くまくぅん、歴史好きだといっていたし。」
O「次はわが大学の60年安保をするのでよろしく。」
私「はあ。60年安保で何を取材するんですか。」
O「60年安保で、うちの大学ではどういう動きがあったか、当時の関係者から話を聞くんだよ。」
私「……」
O「大丈夫。足で書けば何とかなるって。」

まあ、だいたい企画会議というのはこんな風に強権的に決まっていくものなのであった。
しかし、大学入りたての私にいくら文化的な記事とはいえ、「60年安保」とは。

「足で書く」とはジャーナリズム用語である。今でもそうであるが、記者クラブで発表された情報をそのまま記事にする記者が多い。それに対して、真のジャーナリストは、自ら足を運び、たくさん事実を掴んで、その中からどれだけ本質に関係することを選び取って記事にするのかが「よい記事」の基準なのだと、私は一応「学習会」で学んでいたのではあった。記事は机の上で生まれるのではない。現場をどれだけ歩くか、にかかっている。

しかし、はたして60年安保とは何か、その本質も知らないような男に、「よい記事」は書けるのであろうか。

以下次号。



2005年04月08日(金)
本多勝一「事実とは何か」について(8)

大学の授業の内容など、今では覚えているはずもないが、いくつかは鮮明に覚えている言葉があるものだ。

教養学部、日本史の授業だったと思う。
「私は漫画はあまり読まないが、白土三平の「カムイ伝」だけは面白いと思う。この漫画は江戸時代初期の身分の構造が非常によく描かれている。物事というのは上から見るよりも下から見たほうが、その全体像が良く分かるものだ。武士の側から見た歴史は型にはまって、整然としているように見えるけど、これを支配されている側から見ると、その悲惨さやダイナミックな動きが良くつかめる。白土三平は、それを百姓から見るのではなく、それよりも更に差別されている「えた・非人」から見たところに独創性があった。
支配されている側から物事を見ると、その世界の本質がつかめる、ということはジャーナリストの本多勝一も言っている。」

ここの話には本多勝一だけでなく、私の大好きな白土三平の「カムイ伝」まで出てくる。だからいまだにこの話を覚えているのである。当時大学生になって初めてカムイ伝に出会った。あの二十一巻の大長編を何度読んだか覚えていない。

非人の身分から実力による飛躍を求めて忍者になり、そこでも絶望して抜け人になったカムイと、百姓の身分からよりよき生活を求めて苦戦を強いられる庄助と、武士同士の権力争いから剣の道を学び、やがて庄助たちに共感して城の城主までなるが、江戸幕府という大きな政府に敗北してしまう竜の進と、商売の才覚によって身分を越えた力をもとうとする夢屋と、その他女性、子供、動物さまざまな人間たちが入り乱れる大河ドラマである。
大学の講師がこの漫画の魅力をアカデミズムの面から証明してくれたような気がして大変嬉しかった覚えがある。そして本多勝一の説も歴史家が評価してくれていた、と嬉しかった。

そうなのだ。だから「支配される側に立つ」ということは、「本質を掴む」ということなのだ。

しかし「現場」では、そうそう理屈通りにはいかない。

以下次号。



2005年04月07日(木)
本多勝一「事実とは何か」について(7)

「真実」という言葉で思い出すもの。
いまや、だいたいのあらすじも、作者の名前すら覚えていないのだが、その小説の冒頭に掲げられたこの詩だけは、いつでも諳んじる事が出来る。

「巡礼」北原白秋作
真実一路の道なれど
真実
鈴をふり思い出す

小説「真実一路」である。

私の人生において、何度となくこの詩がふと沸いて出てきた。
あるときは共感を持って。あるときは疑問を持って。
共感は「鈴をふり思い出す」点で。
疑問は「巡礼」がなぜ「真実一路の道」なのか。
この場合の巡礼は言うまでもなく、四国48寺を巡り、自分の足で歩きとおしているお遍路さんを言うのであろう。(車で寺参りをする観光客のことではない)この巡礼の場合、たとえ毎日歩きとおしても、たいていは半年から一年はかかるという。彼らの道の何が真実一路なのか、実は私はずっと分からないでいた。小説の中身も、巡礼とはまるで関係のない、悩み通しの「成長物語」であり、私の好きな「次郎物語」や「しろばんば」みたいな成長小説のすっきりしたところがなく、私は好きになれなかった。

ただいえるのはこの場合の「真実」は「事実」でもなければ、「真理」でもない。あえて言うとすれば、「誠実」ということであろうか。

「真実」という言葉は「情緒に訴えるもの」というのは、確かにいえていると思う。論文などでは使うべきではないし、ルポルタージュでは確かに使うべき言葉ではない。肝に銘じておこう。



2005年04月06日(水)
本多勝一「事実とは何か」について(6)

学習会のレポートの二編目のことを書いておきたいと思う。

「事実と『真実』と心理と本質」
真実とは何か。
ベトナム戦争での例。取材中に記者が殺された。生き残った記者は解放戦線(北ベトナム)がやったのだという。ハノイ放送は「サイゴン政府軍(南ベトナム)がやった」のだという。こういうとき「真実はどちらか」という表現がとられることが多い。
真実とは「正確な事実」に過ぎないのではないか。
以下、いろんな辞典を調べてみて、真実は他国の言葉には存在しない。真理ならある。哲学辞典によると真理はそれぞれの立場により違う。キリスト教の真理、スコラ哲学の真理、佐藤栄作の真理、殺し屋の真理、殺される側の真理……。
そうか!「真実」は必ず「事実」または「真理」に分解してしまうのだ。
ただ、どういうときに真実を使うのだろうか。
「真実」とは、事実または真理を、より情緒的に訴えるときに有効な単語なのである。
ベトナムの事件はある記者が「正確な事実」を調べ上げた結果、解放戦線が記者を誤って(米兵と思って)攻撃したと分かったとする。この事実を、記者が「ベトコンの無差別攻撃」と書いた場合、この記者は「事実」を書いたとしても、大きな過ちを犯していることになる。一方で米軍が意図的な無差別攻撃を連日限りなく続けている事実との比重から考えても誤っているが、それ以上に、ベトナムの国土を米軍が侵略しているという「本質」の上に立った記事ではないから。
真実という日本語はルポから避けたほうが良い。
ルポに関しては次のように言うことができます。
「事実によって本質を描く。」

この文章は1969年のものですが、「ベトナム」を「イラク」に置き換えたら、あたかも現在のことを言っているような気がします。
日本のジャーナリストは、日本の青年やジャーナリストがイラクで殺されたとき、果たして「事実によって本質を描いた」でしょうか。


私は先に大学に「真実みたいなもの」を求めて入ってきたといいました。されは「真理」と言い換えたほうがよかっのでしょう。まっこと、まだまだ私も修行が足りない(^^;)

もっとも、本多勝一はベトナム戦争という究極の現場に立って自分の立場を不動のものとしました。しかし、しがない大学生の新聞つくりはいろいろと悩むことになります。



2005年04月05日(火)
本多勝一「事実とは何か」について(5)

昨日は興が入ってずいぶん長い文章を書いてしまった。この文章の目的の第一は、映画評書評が溜まるまでの「時間稼ぎ」である。第二はあくまで「事実とは何か」をめぐっての私の感想である。読者にも、私自身にもそのことを再確認しておきたいと思う。

「客観的事実などは意味がない」のは間違いなくそうだと思うのだが、事実そのものの検証は記者の最低限の仕事ではある。私は記者ではないし、この文章はルポでもないのではあるが、だんだんと私が書いた文章にウソがないか、気になりだした。私自身は覚えていることを正直に書いているつもりなのではあるが、たとえば当時文化会サークル棟に「白ヘル」がいたかどうかはっきり覚えていないし、ましてやあの建物の中に(怖くて)一度しか入ったことがないので、この事柄は非常にあいまいであることを断らなくてはいけない。本当は、今あの大学に戻って関係者の話を聞いて「裏を取る」のが記者としての勤めだと思うのではあるが、もちろんそんなことはできはし

結局、この文章は回想録の域を出ないものなのだ。えっ、そんなことは分かっていた?
私は「事実」をめぐる話なのでできるだけ正確に書きたかったのではあるが、仕方ない。私の大学名は伏せておきたいと思いますし、一部団体名が出てきますが、これら団体名はフィクションであると一応思っておいてください。

私の大学生活四年間は「新聞」にどっぷり使った四年間でした。私がこの大学に入学したのは大学移転のすぐあとで、周りは田んぼだらけでした。私の交通手段は最初の一年間は自転車。その後はカブでした。カブで10分くらい走らせた更に田舎に私の下宿(下宿代一万円)はあり、その下宿と大学構内と新聞会部室と活版印刷所。それと時々本屋と喫茶店。それの往復が私の四年間でした。

しかし私はその中で、何かを選択し、何かを表現し、そして失敗していったのです。ジャーナリストとして、そして社会に生きるものとして大切なことは、その閉じられた世界でも充分に学んだはずです。そのことをもしかしたら振り返ることができるかもしれない。

さて、この調子だとこの本についての話題はいつ終わるか分からない様相を呈してきました。




2005年04月04日(月)
本多勝一「事実とは何か」について(4)

なぜ新聞会の部室が大学の構外にあったのでしょうか。それこそ、世の中の「対立」のひとつの例がそこにありました。

私は本多勝一の言葉に感動したのですが、大学の中では「支配される側に立つ」というような抽象的な言葉では片が付かない様な事が山ほどありました。

私はどういう立場に立てばいいのか。
そのことが私の前に立ちはだかっていました。

その前に新聞会とは自治組織だったといいました。このあたりの事情を説明するのは大変なのですが、これからの展開に必要みたいなので説明します。そのころ私の大学には教養学部などの学部自治会のほかに、五大自治会というものがありました。文化会と体育会。(役割は分かりますね。文科系サークル、体育系サークルを統括する役割です。)そして我らが新聞会。そして、大学祭実行委員会と女子学生の会です。新聞会は大学新聞を発行します。大学祭実行委員会は、年一回の大学祭を統括し、補助金を与えます。女子学生の会は……うーむ、どうしてこれが全学生に責任を持つ自治組織になったのか私にはわかりません。今で言うジェンダーをテーマにやっていたとは思うのですが……。これらの運営はすべて学生が行います。これは学生が当局から勝ち取った成果なのでしょう。それはそれでいいのです。自治組織という錦の御旗があるとどういうことができるか。新入生が入学する前に、自治会の会費を請求する手紙を送ることができるのです。つまりこれらの自治会は新入生たちが何やなんやら分からんうちに金をふんだくり、財政基盤を持った団体なのです。よって新聞会は新聞を作って「売りつけ」なくても良かったのです。新聞ができたら教養学部の前で配りまくっていました。年間100万近くはお金が入ってきていたような気がします。年11回ほど発行し、アパートの部屋代を払うとそれは飛んでいく金ではありました。不思議なことに誰も、金を横領しようなどとは考えなかったし、疑われたこともなかったのです。それは他団体に対しても同じでした。そういう意味ではあのころどの学生も清らかでした。もちろん私たちは新聞上で、会計報告はしましたし、年間方針も出しました。しかし非常にいい加減だったのは、私がいた四年間のうち、一度も外部監査は導入しませんでしたし、やろうやろうといいながら、大会を開くことができませんでした。あれで果たして自治組織だといえたのかどうかは今でも大きな疑問です。そのあたりの事情は他の五大自治会も同じでした。

そんな「自治組織」だったのです。学生らしい自主性と潔癖さ、そしていい加減なところが混じった組織でした。

新聞会は当初文化サークル棟の中に部室があったそうです。しかし、先輩の言うにはそこを暴力でもって追われたとのことでした。当時文化会の中には大学祭実行委員会の部室もあり、女子学生の会の部屋もあり、彼らが白ヘルたちの影響を受けていく中で、新聞会は独自の財政基盤もあることだし、「イデオロギー的に対立」していたのです。そういう意味では新聞会が追われるのは必然だったのでしょう。構外のアパートに部室を構えたのはそういうことです。

今から考えるとそういう「対立」の中に自分を置くというのは非常にしんどいことだったはずです。そういう事情がはっきり分からなくても、空気を察して、だんだんと敬遠していく手もあったのではないか。今になって思うとそんなことも思うのですが、どうも当時はそういうことはぜんぜん考えなかったみたいです。

これを書いて初めて分かったのですが、
私はいろいろ悩みながら新聞会に残ることをその一年後二年後に決めたと思っていたのですが、どうやら

最初の日にすでに「選択」していたみたいです

本多勝一の言う「支配される側に立つ」ということが「真実」なのかどうか私には今も分かりません。明日以降検証してみたいと思います。ただ、私は明らかに1979年4月のこの日、「ある立場」を選んだのです。





2005年04月03日(日)
本多勝一「事実とは何か」について(3)

新聞会の部室は大学の中にはありませんでした。(もう20年以上前の話です。今はどうなっているのかぜんぜん知りません。そのことをまず断っておきます。)
大学から五分くらい歩いたところの普通のアパートの一室に部室はあったのです。私は「新歓説明会」のあと、数人の新入生とともにそこに連れて行かれました。あまり違和感を覚えなかったはずです。それまでにすでに「大学とは変なところだ」というカルチャーショックを充分受けていたせいかもしれません。入るとそこは「部室」そのものでした。一部屋六畳の空間の中、左脇には本棚があり、いろんな本とともに、「78年総括」やら、「文化部」やら背表紙のあるファイルがはみ出しながら雑然と並べてあり、長机をはさんで、先輩の編集部員たち6人ほどがニコニコしながら座っていた。そいう雰囲気の中でおもむろに「定例の学習会」が始まり、その日はジャーナリズム論のバイブルというべき(私はもちろん知らなかった)本多勝一の本を読んでいたというわけです。

「ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません」

その意見に私は「反論する余地」を持ちませんでした。彼の文章のどこに反論できるというのでしょう。そうやって見ると初めて、そのころ起こっていた中越紛争、あるいは世の中の対立の「謎解き」ができるような気がしたのです。私は大学に「何か真実みたいなもの」を求めて入っていったのだろうと思います。研究室は「国史」にはいるつもりでした。歴史が好きでしたし、歴史的事実を探し出すことで真実に近づける、そんな期待を抱いていたのかもしれません。しかし、私はこの学習会でそういうものは幻想であることを突きつけられたのです。

ここにあるのは「偏見のすすめ」です。でもそういう風に世界を見ることで初めて私は「世界」を見る目を「開いた」ような気がしていました。「客観的事実というのはないんだ」。「支配される側に立つ」とはどういうことなのか。私は「ワクワク」していました。



2005年04月02日(土)
本多勝一「事実とは何か」について(2)

昨日の続きです。

この本はジャーナリスト論の短文を集めたものである。私が最初にせっしたのは未来社刊の単行本であった。しかし、学習会のレポートに出てきたのはそのうちの二編だったと思う。この本と同名の「事実とは何か」(「読書の友」1968)と「事実と『真実』と心理と本質」(日本機関紙協会『機関紙と宣伝』1969)である。よって主にこの二編の内容をまず紹介したいと思う。

「事実とは何か」
新聞社に就職して教えられたことに「報道に主観を入れるな」「客観的事実だけを報道せよ」がある。そのことは「その通り」ではあるが、本多勝一はベトナム戦争の取材で、そのことに違和感を抱くようになる。「客観的事実などというものは仮にあったとしても無意味な存在である。」「主観的事実こそ本当の事実である」。
つまり戦場には、無限の事実がある。砲弾の飛ぶ様子、兵士の戦う様子、その服装の色、顔の表情、草や木の土の色、土の粒子の大きさや層の様子、昆虫がいればその形態や生態、……私たちはこの中から選択をしなければならない。選択をすればすでに客観性は失われてしまいます。
そして、そうした主観的選択はより大きな主観を出すために、狭い主観を越えてなされるべきです。米兵が何か「良いこと」をしたとする。それは書いてもいい。それは巨大な悪の中の小善に過ぎないこと。小善のばからしさによって、むしろ巨大な悪を強く認識させることができます。警戒すべきは無意味な事実」を並べることです。戦場で自分の近くに落ちた砲弾の爆発の仕方よりも、嘆き叫ぶ民衆の声を記録するほうが意味ある事実の選択だと思う。
そしてその主観的事実を選ぶ目を支えるものは、やはり記者の広い意味でのイデオロギーであり、世界観である。
「ジャーナリストは、支配される側に立つ主観的事実をえぐり出すこと、極論すれば、ほとんどそれのみが本来の仕事だといえるかもしれません」


この最後の言葉にジャーナリスト論の「ジ」の字もかじったこのない私は痺れましたね。以下次号。



2005年04月01日(金)
本多勝一「事実とは何か」について(1)

ついに私のレビューのストックが切れてしまった。昨年の九月半ばにPCがクラッシュして11月より再開して五ヶ月。いやはやよく持ったと思う。読者の皆さんはご承知だと思うが、この日記毎日更新しているからといって、当然ながら私が毎日本を一冊読んでいるとか、毎日映画を見ているとしているわけではない。だいたい週映画2〜3本、本二冊くらいのペースであった。つい最近映画を見る本数、読了数とも一挙に少なくなったこともあり、しばらくは毎日アップができないような状態である。

ただ、最近になり、この日記に対して何人か読者を獲得したようなところもあって、しばらく「時間稼ぎのため」昔私が読んだ本や、映画について、取り留めもなく語っていこうと思う。とりとめのない文章ではあるが、普通の映画評や書評では書ききれないこもも、こういう形式なら書けるのではないかと期待している。

(なかなか本題に入りませんね。(^^;)それと、女性の日記にはその日その日の「気持ち」を赤裸々に書いているものが多いのだが、男性の日記にはそういうのは少ない。なぜかというと男は「テレ屋」が多いのである。少なくとも私はそうだ。自分を出したいのではあるが、照れくさくて出せない。だから評論という形で実は自分の気持ちを出しているのである。こういう形なら、もっと自分の気持ちをストレートに出すかもしれない。ご期待を。

ということでやっと本題です

本多勝一著「事実とは何か」
今手元にあるのは朝日文庫ではあるが、私が初めてこの本を手にしたのは、1979年4月某大学新聞会の部室の中でした。新入生として新聞会という「サークル」(と当時は思っていた。実際は自治組織)に入っての最初の学習会の本がこれだったのです。この本の内容が私の運命の約三分の一を決定付けたような気がしています。ここにはジャーナリストとしては「当然」にことが書かれてあるのですが、なぜかいまだに日本全体の「常識」にはなっていません。……というようなことを書き出すとものすごく長くなるので、今日はこの辺で。(^^;)また明日。