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2005年03月31日(木)
DVD「24」第3シーズンは70点

第3シーズンは細菌兵器のテロをめぐるCTU(テロ対策室)とテロ組織と、大統領たちとの24時間の物語。やっと見終えることができました。

実にアメリカらしい作品。決してヨーロッパやましてや日本では作りえない作品。なぜなら、ここにはアメリカの世界でも特異な家族観、正義観、仕事観が現れているからである。

80年代から、アメリカ映画に、何かにせよ家族を大切にする場面が増えてくる。詳しくはアメリカ社会学を研究している学者に聞くしかないが、アメリカのグローバリゼーション戦略が始まったころに機を同一してるような気がする。つまり個人がグローバリズムの中で、会社からも社会からもどんどん切り離されていく中で、唯一アメリカ人がアイデンテティを求められるところが「家族」になったのである。よって、家族は仕事よりも優先される。例外はあるが、そのとき主人公には必ず悲劇が訪れる。しかし日本ではまだ事情が違う。「ぽっぽや」を見よ。彼の死は幸せだったのではないか。ところでアメリカでは、その「家族」と拮抗関係にあるのが「正義」である。第3シーズンでは、アメリカ人は家族を選ぶのか、正義を選ぶのか、鋭く問われる作品になった。詳しく書くとネタバレになるので書けないが、第3シーズン最後にジャックが初めて見せるむせび泣きは、いろんな解釈ができるだろうと思う。思うにこのシリーズはこれで最後にすべきであった。次のシリーズが始まっているらしいが、蛇足でないことを祈るしかない。



2005年03月30日(水)
「理由」は80点

まず最初に宮部みゆきの原作を読んだときの私の感想です。(02年記す)

宮部みゆきは常に実験精神に溢れた作品を発表する。今回はルポルタージュ文学の体裁を借りて、高級マンション一家4人殺人事件の全貌を描こうとしている。いわば『証言』だけでひとつの物語を綴ろうというのである。その意図は成功したのだろうか。

ここには約7つの家族が映し出される。全て犯罪や殺人事件とは縁の無さそうな『普通』の家族であるが、全てそれでも何らかの鬱積、すれ違い、将来への危険な種を抱え込んだ家族達である。それらの家族の中にいる人々が少しずつ事件に絡んでくる。少し考えればあたりまえなのだが、『事件』にはありとあらゆる人々がいろいろな形で絡んでいる。被害者と容疑者だけではなく、事件の目撃者、間接的な容疑者、間接的な被害者、それらの人の家族、事件は完結し!もそれらの人々はずっとそのあとも生きていく。事件の前に長い歴史があり、事件の後こそ家族は闘いを始める。或いは何も変わらない。そういう小説は今まであまりなかった。その意味で宮部みゆきの実験は意味が有るだろう。

ただ『占有屋』の仕組みの説明は少しくどすぎたきらいがあるし、そのほかにも重複する場面があったりして分かりにくい。あと二割がたスリムにすればよかったかもしれない。

以上が原作の感想です。次に映画の感想。

「理由」大林宣彦監督
荒川一家四人殺人事件。その事件の関係者の証言と回想を連ね、紡ぐことによって事件の内容を追っていく。

宮部みゆきの原作を読んだときは、彼女には珍しく失敗作だと思っていた。ルポルタージュの体裁を持っていて、証言だけで長編小説を作っていくと言う「仕掛け」(彼女の長編小説は必ず仕掛けがある。そこが彼女のエンターテイメント性を保障している。)はいいのだが、「占有屋」の説明で、くどくなりすぎて肝心の犯人像に行き着く前で疲れてしまうのである。

私は勘違いしていた。この作品は、現代の象徴とも言える犯人を描くことが主眼なのではなかったのだ。映画を見てはっきり分かった。どうしてあんなにたくさんの人物を登場させる必要があったのか。単に犯人を一時かくまっただけの宿屋のことが主要登場人物になるのはなぜか。容疑者の石田さんの親の歴史まで「ルポ」されるのはなぜか。そのことが分からなかったのは、私の原作の「読み」が足りなかったのかもしれない。しかしそれ以上に映画の出来が良かったのだ。原作の冗長さをうまいこと切り捨て、100人以上にも及ぶ登場人物をほぼ原作通りに登場させてなお、作品は分散しないで見事にまとまっているように私には思えた。なぜか。

この映画の主人公はたびたび登場するマンションの管理者岸部一徳でもなければ、犯人や容疑者でもない。冒頭荒川地域の歴史を写真でつづっているが、主人公はだんだん都市化していく中でついに出来上がったツインタワーみたいな地上高くそびえるマンションという「隣が誰が住んでいるか、分からない地域」であり、何度も何度も登場する宿屋や容疑者の住んでいる「これから失われる下町」なのだ。そしてその中での「人のつながり」というあいまいな何かなのである。そういう意味で主人公はすべて普通の「人たち」になるのかもしれない。ほとんどの役者がスッピンで登場しているのも「客寄せ」のためではない。

普通の人たちを緊張感をもって描くというのは山田洋次が得意とするところではあるが、山田洋次はあくまで普通の人たちの個別のドラマに関心があった。しかし、この作品は「時代」そのものに関心がある。その中の普遍的な人のつながりに関心があるのだろう。印象的な場面はいくつかある。弟が姉とその赤ちゃんと「深刻な相談」をしながら散歩している。そこへ大山のぶよ演じる近所のおばちゃんがやってきて「まあ、若い夫婦ねえ。お散歩?」と聞いてくる。「ええ、赤ちゃんにあせもがあるので医者に見せに行くところなんです。」と弟が応えるのである。この二人は「リリィシュシュのすべて」で共演をした細山田隆人と伊藤歩である。あるいは宿屋の姑(菅井きん)がいつの間にか家出から帰ってきた嫁がギョーザをつくっているのを見て、「いやだいやだ。わたしゃ脂っこいものは苦手なんだよ」とこぼす。やがて「深刻な場面」のとき姑は孫から「口の端にギョーザの皮がついているよ」と指摘される。場内が爆笑した瞬間である。犯人に殺されたおばあちゃんは「介護施設」で葬式を終える。そのときは涙が出てきて困った。印象的な場面は人それぞれで違うだろう。エンディングの歌は、この作品のテーマをそのまま歌詞にしたもの。蛇足であった。

この作品は確かに筋を追おうとしたら分かりにくいのかもしれない。主要登場人物がいないからだけでなく、時制が行ったりきたりするからである。私は原作を読んでいたので全く違和感なく、しかも原作になかった犯人が殺人を犯す直接の動機まで台詞の中で言っているので実に分かりやすかった。しかし、あれはあくまで直接の動機である。人はいろんな解釈ができるだろう。分からなかった人はもう一度見てもらいたい。まだ見ていない人はぜひそのことを踏まえた上で見てもらいたい。見ごたえがありました。





2005年03月29日(火)
「闇の歯車」 藤沢周平

「闇の歯車」講談社文庫 藤沢周平
藤沢周平氏は28歳の愛妻をガンで看取ったとき、自分の人生もいっしょに終わったと思ったのだという。しかし乳児がいたので死ぬことも出来ず、屈折した想いを小説にぶつけていった。氏は優しいので、自分の思いをストレートに出すことはせず、エンターテイメント小説として読ませる工夫を怠らなかった。氏の初期の作品群には、闇の中に自ら落ちていきたい想いと、市井の人々が希望や小さな幸せを抱えながら必死に生きていく様と、読ませる工夫に満ちたサスペンスや仕掛けが、いつも緊張感をもって同居していた。その時々でどちらかに比重は傾くのだけど。

この作品は、自らの想いを闇の歯車として動く四人に投影している。藤沢作品の中でも『重たさ』は際立っているだろう。特に武士の伊黒がいっしょにかけ落ちをした妻を見取る場面に私は胸が潰れた。「四半刻ほど、伊黒は凝然と死者の顔を見まもった。心の中に、私は悔やんではおりません、という静江の声が鳴りひびいた。そして伊黒は、その声とひびきあう自分の歔欷の声を聞いていた。」声無き声で啜り泣く伊黒の姿が氏の姿に重なる。



2005年03月28日(月)
「高原好日」 加藤周一

「高原好日」信濃毎日新聞社 加藤周一
加藤周一氏は少年の頃、すなわち日中戦争前から現在に至るまで、ずーと夏は信州浅間山麓の追分村で夏を過ごしている。そこであった友人との語らいの日々、それをいくらか記録することは、戦前戦後の良心的な知識人の側面史にもなるだろうし、未完に終わっている氏の『羊の歌』の続編にもなるだろうと思う。

場所を信州に限定しているため、氏にとって重要なサルトル、渡辺一夫は登場してこない。しかし、意外にも氏と丸山真男は若い頃から親交があり、ともに信州奥の秘湯まで旅をしていることも初めてこの本で知った。ここに出てくる人物は歴史上の人物も含めて60数人。信州では家族的な付き合いをしていることが多かったから、堀辰雄についての一章があるのは当然としても堀多恵子夫人についても一章が設けられており、「私はそこに静かに充実した密度の濃い人生を想像する」のである。この本はほかにも中村真一郎夫人佐岐えりぬ、朝吹登水子、立石芳枝、野上弥生子、辻邦生夫人辻佐保子、等々女性の登場が多い。フェミニストたる氏の面目躍如であろう。

しかし、一人だけ信州での生活での最も重要な人物についての記述がほとんど無い。(名前だけは出てくる)矢島翠である。彼女との出会いについて語られる日は、いったいやって来るのだろうか。



2005年03月27日(日)
「チェ・ゲバラモーターサイクル南米旅行日記」

「チェ・ゲバラモーターサイクル南米旅行日記」現代企画室 エルネスト・チェ・ゲバラ 棚橋加奈江訳
ラテンアメリカの革命家チェ・ゲバラが青年期1951年から52年にかけ、友人とともに故郷アルゼンチンを出発してチリ、ペルー、コロンビアを横断、超貧乏旅行をした記録である。この本を原作とした映画『モーターサイクルダイアリー』を見て、私は大いに感動した。有名革命家の前史というより、ある青年の素敵な破天慌の旅を記録してあり、社会に目覚める青年の一瞬が描かれており、今も昔も変わらないだろうラテンアメリカの素晴らしい自然が描かれてあったからである。私は早速この本を捜し求めて読んだ。

二人の医師の卵がほとんど無一文で旅をしたこと、それぞれの国で、庶民の善意やしたたかな話術でもって口糊をしのいだこと、チリを通る辺りから次第と社会の底辺に向けて、ラテンアメリカの歴史についての感想が多くなったこと、彼の学問の専門であるハンセン病施設の訪問を実行していること、などは映画と同じ。細部はいろいろと違ってはいるが、あの映画に流れる精神は同じであった。それは同時にあの旅が本物であった証でもある。私は改めて「貧乏旅行」への意欲がふつふつと沸いてきた。

同時に私はこの本で初めてチェ・ゲバラという人物を知り興味を覚えた。映画にもあったが、彼はハンセン病施設で誕生日を祝ってもらったときこのような挨拶をしている。「はっきりしない見せかけの国籍によってアメリカ(ラテンアメリカ諸国)が分けられているのは、全くうわべだけのことだと、この旅のあとでは前よりももっとはっきりと、考えています。」彼の演説に大きな拍手が起こったと彼は日記に書いてある。ラテンアメリカの統一。彼はキューバ革命だけの革命家ではなかったのだ。



2005年03月26日(土)
『パーフェクト・プラン』 柳原慧

『パーフェクト・プラン』宝島社文庫 柳原慧
なるほど確かに「身代金ゼロ!せしめる金は五億円」という誘拐の「パーフェクトプラン」に誘われてこのエンターテイメント小説を読みはじめたのではあるが、実はプランの顛末はこの小説の半分も行かないうちに決着がついてしまう。そしてその仕掛け自体も、よく考えればたいしたものではない。しかしこの小説の面白さは、半分まで読んだら最後まで読まないと収まりがつかない、話口の巧みさにあるのだろう。つまり久しぶりに「完徹」をしてしまったのである。(次の日が大変でした。歳だから気をつけないと。<私)



2005年03月25日(金)
「環境考古学への招待」 松井章

「環境考古学への招待」岩波新書 松井章
広島県中世の港町、草戸千軒遺跡から完全なサケの椎骨が出土した。「ああ、サケも食べていたんだ」と分かるだけなら私でもできる。著者は推理する。「このサケは地元からは獲れない。椎骨の大きさからすると、東北か北海道の一メートルクラスのものだ。縄文時代の加工方法(燻製・乾燥・冷凍)で山陰から来たものだろうか。しかしその加工法では硬くなった身を食べるために、石皿などで骨ごと叩いて柔らかくしないといけない。椎骨は残らない。このサケは瀬戸内海ルートで塩蔵によって保存されやってきたものである。柔らかい切り身として食卓にのったのだ。」ひとつの骨から、当時の交易ルート、保存方法まで推理するのである。

骨の推理は魚だけではない。動物・人間さまざまなものが対象になる。骨の切り口から当時の魚の料理方法を。馬の骨の葬り方から、殉死があったのではないか。骨の傷跡から当時の人々の『死』に対する思いを推理していく。あるいはトイレからさまざまな情報を手に入れる。垣間見える当時の庶民の暮らし。推理小説のようにわくわくするような『発見』の喜び。私が考古学が好きなのはこう言う一瞬の喜びに出会えるからなのである。この本は珍しくそういう『センス・オブ・ワンダー』に溢れた学術書になっている。



2005年03月24日(木)
「前夜創刊号」影書房

「前夜創刊号」影書房
「私たちは、戦争体制へと頽落していく日本社会の動きに抗し、思想的・文化的抵抗の新たな拠点を築く。」その志や、良し。本格的な思想雑誌の登場か。如かして、その内容は如何。残念ながら、これでどれほどの知識人を取り込むことが出来るのか、非常に心許無い。(この雑誌は明らかに知識人『のみ』を対象にしている)この雑誌の中心的論客である高橋哲哉氏のロングインタビューに『切れ』が無いからである。ロングインタビューという以上、高橋氏には現在の状況の大本になっている「地金」(高橋氏が何度も使用する氏の造語)についてこの際全面的に語って欲しかった。ここで語らないといったい何時語るというのだろうか。後編にわずかな望みをつなげたい。
唯一読み応えがあったのは、巻末の協力知識人総出演による『読書アンケート』である。



2005年03月23日(水)
「韓国人は、こう考えている」 小針進

「韓国人は、こう考えている」新潮新書 小針進
この新書の賞味期限はあと2年ほどであろう。お早めの御賞味を薦める。それというのも、韓国人の世代交代のスピードが速まって来ていると思えるからである。

ここには確かに、元外務省調査員らしく、さまざまなデータベースを基に最新情報を載せてある。その意味では今まで読んだ本の中で一番韓国の対日感、対米感、対北感を分かりやすく分析していると思う。ただ、この本の中でも書かれてあるが、韓国の世代は10年の間隔ぐらいで次々と考え方が変わってきている。この前韓国に行った時に30台の女性に聞いたのだが、「最近韓国でのイケメン俳優の台頭は、韓国の人たちの顔の好みが変わったということなのでしょうか。」彼女はまだハン・ソッキュやチェ・ミンスクが好みなのだろう、「変わったのです。私は違いますが」といったものである。本の性格上、一つ一つの世代の感情については踏み込んだ著者の意見は入っていない。あとは自分で体験して考えなさい、ということなのだろう。

ただ、この本は分かりやすい。これから韓国の人たちを見ていく上で、不易と流行、両者を見極める上で、ひとつの指針となるだろうと思う。

参考になったところ。

韓国のドラマは『デジタル世代』の主人公たちが強烈な『異議申し立て』を行うことによって、ストーリーが展開されている。

日韓関係の三つのアキレス腱。竹島問題、歴史教科書問題、従軍慰安婦問題。
日本のメディアは単発なこととしてしか見ないことでも、韓国のマスメディアは歴史的にとらえる。
日本大衆文化解放後は、「どらえもん」「クレヨンしんちゃん」「ポケットモンスター」「とっとこハム太郎」などは日本の作者名と製作会社が明記されており、子供たちも日本製だと認識しながら見ている。これは対日感に肯定的な影響があるだろう。



2005年03月22日(火)
「山背郷」 熊谷達也

「山背郷」集英社文庫 熊谷達也
一人の得がたい作家が誕生した。解説で池上冬樹氏がこの魅力的な短編群が生まれた経緯をるる述べているが、今回は氏の説に全面的に賛成する。熊谷達也はこの短編群でひと皮剥けたのだ。

熊谷達也のデビュー作「ウエンカムイの爪」は、フレッシュな面もあったが、中盤のたるみ等、まだまだという感じがあった。しかしこれは違った。描写の緻密さ、浮き上がる人物像、「失われた、自然と人間との関係・闘い」というテーマの普遍性、唸る事しばしば。たった四年ほどで作家というものはこれほどまでに成長するのだ、と嫉妬さえ覚えた。

特に私は『潜りさま』『メリィ』『川崎船』がお気に入り。