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2005年03月21日(月)
「流星ワゴン」 重松清

「流星ワゴン」講談社文庫 重松清
男はいま「死んでもいいや」と思っている。息子は中学高受験に失敗、公立校に入ったとたん家庭内暴力を振るうようになる。妻は家に寄り付かなくなり、離婚届を突きつける。ずっと仲の悪かった父親はいま危篤状態だ。その彼のところにするするとワゴン車が寄ってきた。「遅かったね。早く乗ってよ。ずっと待っていたんだから。」

人に『やり直し』は効くのだろうか。昔は気がつかなった「人生の分岐点」に行くことができたら。あるいは父親と仲直りはできるのだろうか、もしも今自分と同じ年の父親が現れ、対等に口がきけるのだとしたら。

小説なので、その『もし』を実現してみせる。しかし、現実は厳しいことも良く知っているので、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』みたいに簡単に過去を変えたりはしない。そして重松清が選んだ過去とは、本当に一見なんでも無いようなある一日が三回であった。「ああ、そうなんだろうなあ」と思う。人生に『やり直し』は効かない。でも人間は『やり直し』をすることが出来るのである。



2005年03月20日(日)
「旬のスケッチブック」俵万智

「旬のスケッチブック」角川文庫 俵万智
92年発行。やがて97年に「優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる」と詠んで『チョコレート革命』を宣言する以前の万智さんがここに居る。旬の食材をもとに月イチのエッセイを書き、その原稿を最初に読ませるのはまだ両親だそうだ。嫁入り前の感受性豊かな娘がここに居る。

でも私、優等生の万智さん好きです。特にこの頃の万智さんは、教師の仕事を辞めて文筆活動一本に絞った頃。自分と、自分の周りの日常と、短歌と、永遠とも見える一瞬について、真摯に人生を賭けて取り組んでいる様がまぶしい。この読みものはあくまで軽いのですが、でも一時の彼女を記録する貴重なオリジナル文庫です。



2005年03月19日(土)
「夕凪の街桜の国」こうの史代

「夕凪の街桜の国」双葉社 こうの史代
一度読み通したあと、知らず知らずのうちにもう一度読み返していた。それで終わらずに、次には好きな場面をじっくり何度もながめていた。ーーいつのまにか時間が過ぎていた。

原爆は体だけではなく、心の中にまで入って苦しめていく。それを昭和20年代の話だけでなく、現代の東京に住む若者にまで続く話として描いたことで画期的である。未来に続く話、広島に限定されない広がり。しかし、それだけではない。

「原爆スラム」の建物群が懐かしく感じるのはなぜなんだろう。銭湯の女性の背中に残る傷跡、絶対に「あの時」の話をしない町の人々、それらが痛ましくも懐かしく感じるのはなぜなんだろう。告発型の原爆漫画とは違い生活の臭いの漂う漫画が静かに私の胸にしみていく。

大切な、大切な物語に出会わせてくれてありがとう。



2005年03月18日(金)
「柔らかな頬(下)」桐野夏生

人生はさまざまな可能性に満ちている。多くのものを失いながら、幾つかのものを得ていくしかないのだろう。

桐野夏生の描く女性は『OUT』にしても、なぜこうも孤独で強いのだろう。カスミの娘を探す旅は必然的に自分を探す旅になる。カスミは捨てたはずの故郷に帰っていく。捨てられた親はいったいどのような人生を送ったのだろうか。そのことを知ることは、おそらくカスミのこれからの人生を予言することにもなるのだろう。

石山の人生は私には最も共感できるものであった。ヒモになるような才能は何一つ無い私なのではあるが。

内海の最期に見る夢(真実?)が鮮烈である。『だも私を救えない』文庫の帯を飾るこの叫びは、カスミのものであると同時に内海のものでもあるだろう。でも私は思う。内海は最後の最後で自分で自分を救ったのだ。いや、ごめんなさい。救ってはいない。救ってなどはいない。ただ内海は初めて『人生の意味』を見出したのだ。



2005年03月17日(木)
「柔らかな頬(上)」桐野夏生

「柔らかな頬(上)」文春文庫 桐野夏生
北海道の故郷をカスミは捨てた。東京に出たきり、親には何一つ連絡していない。

「右の頬には真っ暗な海が発する大量の水の気配、左の頬からはこれも暗い原野の大いなる荒涼が感じられた。カスミはその両方から逃げなくてはならない、と必死に走った。」カスミは何から逃げたのだろうか。果たして逃げおおせたのだろうか。

カスミのデザイナーになる夢は奇妙に歪められ、版下工場の経営者と結婚し、二児を設け、生活に追われる。やがて愛人の北海道の別荘で娘が行方不明になる。事件は解決しない。娘の捜索がカスミの全てになる。

カスミは東京で何を得て、何を失ったのか。愛人との逢瀬で何を得ようとしたのか。娘の捜索の中で何か得るものはあるのだろうか。

並行してあと二人の男の人生が描かれる。カスミの愛人だった石川がヒモになっていく人生と、ガンで余命いくばくも無い元刑事の内海の人生である。この二人の名前は果たして偶然なのだろうか。内海の中にある「水」、石川の中にある「原野」の意味。カスミはこの二つから逃れようとして、逆にこの二人に近づいていってしまっている。のだろうか

物語はミステリーというよりか、『人生の意味』というひとつの暗い森の中に分け入って行っているように思える。森の出口は当然示されてはいない。



2005年03月16日(水)
「暮らしてわかった!年収100万円生活術」横田濱夫

「暮らしてわかった!年収100万円生活術」講談社+α文庫 横田濱夫
会社なんか辞めてしまえっ!たとえ年収100万の生活になったとしても俺は生きてけるぜっ、きっと、たぶん、おそらく……。果たして生きていけるかどうか、この本を紐解いてみた。

なるほど、体験者ならではの実感や生活の知恵は溢れている。しかしこの本の一番の売りは第四章にある『年収100万一人暮らしの支出内訳』案であろう。月83000円で済ませるために、住宅費35000円、公共料金10000万円、保険2000円、食費24000円、こずかい6000円、貯蓄6000円、で計算している。一つ一つの数字は確かに根拠があるだろう。しかし年金の重要性を言っている割にはこの中に入っていなかったり、車は持たないという設定にしては交通費を計上していなかったりしていて、この試案は穴だらけであるとしか思えない。

私は100万は無理だ。しかし120万なら何とかなるかなと思った。



2005年03月15日(火)
「きみに読む物語」は80点

「きみに読む物語」ニック・カサヴェデス監督
一目惚れ、恋に落ちるときの駆け引き、なんらかの障害に傷つく恋人たち、再会燃え上がる情熱、この人に決めるかどうかという時の逡巡と決意、老いた後の「恋の継続」はありえるかということの課題、……。いわゆる「恋」に関するたいていのテーマをごっちゃ煮にしてるのだけど、あまりにもうまく処理されているので、素直にのめりこむことができる。いろんなところで共感する自分がいる。
撮影があまりにも美しい。特に雨の使い方。冒頭の鳥と後半の鳥の使い方。本来スペクタルの戦争場面をあっさり終わらせた処理。編集も脚本もすばらしい。見事に騙される映画ではある。
今回の邦題は久しぶりに良い邦題であった。



2005年03月14日(月)
「オペラ座の怪人」は60点

「オペラ座の怪人」
映像も、美術も、凝っていてすばらしいと思う。役者も吹き替えなしですばらしい声量を持っておりよく揃えたものだと思う。しかし、何の感慨も沸かない。ファントムの嘆きもクリスティーヌの葛藤も、何の共感も覚えない。
おそらく、舞台で見るのと映画で見るのとは同じものを見ても違うのだと思う。舞台では生の役者が生の声を聞かせるのだから、「音楽の天使」といわれてもすんなり受け入れることができるのだろう。映画では単なるわがまま男に主体性のない女にしか見えない。



2005年03月13日(日)
DVD「ヘブンアンドアース天地英雄」は75点

「ヘブンアンドアース天地英雄」
フー・ピン監督 チアン・ウエン 中井貴一 ジャッキー・チャオ
一般的に中国韓国の歴史映画で日本人が出てくるときはたいてい悪役である。しかもこの映画のような娯楽大作のときは間違いなく悪役である。しかし、この作品は違った。主演は確かに中井貴一ではなく、チアンであろうが、中井貴一は最後まで、主演と見まがうほどに「いい役」で出ている。時は中国唐の時代、確かに最近発掘された「井真成」の例もあるように、時の遣隋使、遣唐使は中国政府の中では重用されたものも多かったのであろう。外国の「客」「臣?」として一定の尊敬も集めたのだろうと思う。しかし、娯楽映画でこの日本人の扱いはやはり感動ものである。

さて、作品自体は、最後はSFでチャンチャンとなるのであるが、それがなかったらよくできた歴史活劇であった。演技者もなかなか魅力あった。しかし、なぜ将軍の娘があんなに危険な旅に就いて行かなければならないのか、そこのところの説得力はいまいち。

中井貴一は結局武官の道を選んだのね。文官の道ならあんな死に方をしなくてすんだのに。



2005年03月12日(土)
『ローレライ』は60点

『ローレライ』樋口真祠監督 福井春敏原作

物語の鍵を握るのは堤真一が演じる上級将校なのだが、この人の行動が私には理解不能だったため、結局私は何の感慨も起こらなかった。

その他の役者は良くがんばっていると思う。役所広司は当然として、ヒロインにしても日本語ができる外国人をよくもってこれたなあ、と騙されたし、脇役の石黒賢、ピエール瀧が案外存在感あり。妻夫木に関しては、演出が悪いのだが、あまりにも現代の若者という感じがする。

登場人物たちは何の疑問も感じず「原子爆弾」という言葉を使っているが、あの時、その言葉を正確に理解できた人間は大本営ぐらいではなかったのか。

一応潜水艦映画としての定石は守っているのではあるが、あまりにもテンポよく進みすぎるので、緊張感は削がれる。

余談ではあるが、冒頭、堤真一が「罪と罰」に言及して、「ラスコーリニコフは老婆を殺した直後から罪の意識にさいなまれ……」といっていたと思うが、私の解釈は違う。彼は物語の中一貫して殺人を犯すに至った自分の理論を捨ててはいない。だからそのあと「本当に殺したかったのは自分なんだ」と言ったとしても、それは自殺を意味しない。物語の最後、ラスコーリニコフはその理論を捨てず、同時にソーニャと愛の生活を始めると言う困難な道を選ぶのである。原作者が「罪と罰」を引き合いに出したのは間違っていると私は思う。もっといえば、ラスコーリニコフが殺人のあと、後悔したのは、老婆を殺したからではなく、弾みでもう一人、老婆の親類の娘を殺したからである。しかもその娘がソーニャに面影が似ていた。よってラスコーリニコフがソーニャを愛すると言うのは、複雑で、もしかしたらあの娘への贖罪の気持ちがあったのかもしれない。堤真一は確かにラスコーリニコフの理論をそのまま援用して行動を起こしたのではあるが、作戦に齟齬をきたしたからといってすぐ自殺するようでは、「罪と罰」を読みきったとはいえないだろう。それが、「大本営切手の秀才」だと?そういう設定自体ですでに私の気持ちはさめていた。もちろんこんな見方をする人はほとんどいないだろうなあ(^^;)