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2005年01月09日(日)
「アルバイト探偵」大沢在昌

「アルバイト探偵」講談社文庫 大沢在昌
高校生、冴木隆の親父は探偵。しかし、この探偵、事件が起きないと動き出さない。しかも、女好きする良い男。しかも、どうやら前身はいろいろな修羅場をくぐってきた男らしい。ただ、隆にとってはあくまでもぐうたら中年男だ。本当は実の父ではないという噂もちらほら。ときどき父親を手伝いアルバイトするのだが、隆もなかなか探偵家業が様になっていて、なかなかもてるのではある。

まずはキャラクターが楽しい。深刻な事件を高校生の目から描いていて、「事件」と「日常」がうまいこと混じっている。本当はどちらに転ぶ事も出来るはずだ。国際的な大陰謀事件に転ぶ事も出来れば、下町ハードボイルドに徹底する手もある。シリーズ最初のこの短編集はそのどちらにも行かないところでうまいこと留まっている。その軽さをとりあえず楽しんだ。



2005年01月08日(土)
「私が彼を殺した」東野圭吾

「私が彼を殺した」講談社文庫 東野圭吾
久しぶりの東野圭吾「本格推理小説」体験であった。別に暇をもてあましているわけではないが、たまたまポッカリと時間が出来たので、まさかこれで1日潰すような愚かな真似はすまいと思いながら読み始めたのではあったが…。甘く見ていた。本当に1日を潰してしまうとは!

それもこれも、途中まで自分の推理にある程度の自信が出来たからいけないのである。この作品は犯人当ての「本格」である。アガサ・クリスティみたいに最終盤では容疑者全員が集まり、加賀刑事という「名探偵」が謎解きをして最後は「犯人はあなただ」と言って終る。後は解説を読んで「答合わせ」をするのだ。クリスティの場合は容疑者が相当数居る。しかし、この作品の場合はほんの数人。時間をかけて随分と丹念に読んでいった。私は分かった気になっていた。

この文庫には前回の「どちらかが彼女を殺した」と同様、「袋とじ解説」なるものが付いている。だから立ち読みでは犯人は分からない。今回初めて気が付いたのだが、前回同様、西上心太という解説者なのだが、後扉の紹介文にはこの解説者の名前はない。というとなると、この解説者は実在の人物ではなく東野圭吾の分身なのだ。まったくもって回った作品である。トリックもまったくもって回っていやがる。ええ、その通り。推理は当たりませんでした。




2005年01月07日(金)
「ありがと」ダ・ヴィンチブックス

「ありがと」ダ・ヴィンチブックス
当代有名女流作家12人による、少しだけ良い事を見つけることの出来た女性たちの物語。「有名女流作家」といったが、実は私その誰の作品も今回初めて読んだのである。物語の扉裏には彼女たちの紹介がある。芥川賞作家あり、日本推理作家協会賞あり。みんな、そうそうたるメンバーなのである。しかし私は気に入った作家を徹底的に読むタイプの読み手なので寡聞にして知らなかったのである。今回気に入った物語は三つ。

「モノレールねこ」加納朋子。10年前、携帯メールが発達していなかった頃、小学六年の二人が実物の猫を通して小さな手紙のやり取りをする。相手の事はなにも知らない。「聞いておどろけ、なんと百点だ。」「え、ほんと?すごいじゃない。」「ウソだぴょーん。」もちろん野良猫が介在するのだから、これだけの会話に何日もかかる。しかし、いまだ会った事も無いメル友を持った事のある人は了解するだろうが、なんとも心温まる物語なのである。もちろん小説なので、ひとつの悲劇とひとつのあっとおどろく展開もある。しかしそれは付け足しである。

「光の毛布」中山可穂。好きあっている二人の恋愛関係が壊れていく物語。彼女が転職して設計事務所に勤めたからだ。小さな会社なので、24時間働くような生活が続く。男はそれが我慢できない。女はそんな一昔前のような男の事を嫌いになれない。男も嫌いになれない。そして二人は別れる。しかし、ラスト読者は少し感動するだろう。失っても人は全てを失うわけではない。

「届いた絵本」光原百合。別居している親を持つ女の子は自分の中でどのようにその事を消化しているのだろうか。この女の子は賢すぎるのかもしれない。父親のプレゼントはあまり意味が無かったのかもしれない。けれども私はその賢さを愛する。




2005年01月06日(木)
「ミシェル城館の人第1部争乱の時代」 堀田善衛

「ミシェル城館の人第1部争乱の時代」集英社文庫 堀田善衛
ミシェル・エーケム・モンテニュー(1532−1592)の生きた時代は、カトリックとプロテスタントの対立が激化し、国を巻き込んでの宗教戦争に突入した時代である。いち商人から2代かけて帯剣貴族になった父親を持ち、西南フランスギュイエンヌ地域のモンテニュー村の城館に生まれたミシェルの、これは伝記小説である。とはいっても、私はモンテニューその人をほとんど知らない。もちろん『随想緑』は読んだ事も無い。ならば、なぜこの本を紐解いたかというと堀田善衛の作品だからである。彼が書く以上、現代日本に住む私になんらかの刺激を与えるだろうという期待があるからである。正直なところ、第1部を読んだ限りではまだ分からない。しかし面白い。

堀田善衛の意識はまるで16世紀のフランスに実際に居るかのように自由に漂う。文章は評伝のようであって、実はそうではない。論文ではない。堀田善衛が見て語った糞尿にまみれて臭い16世紀のパリの街そのものであり、堀田が読みこなしていったミシェルの著作や、当時の知識人の著作そのものなのだ。よって読者である我々も堀田を旅先案内人にして16世紀のフランスを旅して回ることができるのである。なかなか楽しい。

世は争乱の時代である。ミシェルとて、時代が要請する決断の時をやがて迫られるであろう。しかし当時ミシェルは「納得できないときには<未決のまま>にする」という態度をとる。「ほんとうにそれでいいの?」と私は不満である。第2部に至り、「われわれのミシェル」は思想家として羽ばたくだろう。そのとき彼はどういう決断をするのだろう。今から楽しみだ。



2005年01月05日(水)
「うまい!と言われる文章の技術」 轡田隆史

「うまい!と言われる文章の技術」知的生き方文庫 轡田隆史

書評の書き方を学ぶためだとしたら、この本はうってつけかもしれない。句読点の付け方、文章を削るときのポイント、「書きだしにテーマのオーム返しはしない」、借り物の引用より自分の体験を、等々。なるほどなるほどの世界である。しかし、私は書評のために買ったのではない。多くの人もそうだろう。「いつかは自分史を。」「いつかは小説を」「会社でのレポートのため」いろんな「本当」の理由がきっとあるはずだ。そして、そのための文章教室としては少しずつこの本の記述では足りない事を、読者は読む前に覚悟しておいたほうがいいだろうと思う。小文の書き方としては参考になるが、長文の書き方としては不足が目立つ「文章読本」である。

さすが長年文章教室で教えてきただけあり、小論文、書評のような小文の作り方で、大事な事は書かれてあるように思える。推敲とかの技術的なことだけではない。「心構え」を中心に置いている所がこのほんのいいところであろう。「なぜ」を大切にしよう、とかいうのはその代表例だ。

ただ、私は分からなくなる。この人は誰のために文章教室を開いているのだろう。ここのある心構えや技術は基本的には、新聞記者として、あるいは論説委員としての著者のキャリアの復習でしかない。しかし、新聞記者入門として書いていないのは、「取材」の項がすっぽり抜けている事からも明かではある。いったいこの本を買うような人間はなにを期待して買うのだろう。そのところがこの本の最初から最後まででひとつも明かにしていない。それはつまり、私は「なぜ」この本を買ったのだろう、ということに繋がるだろう。







2005年01月04日(火)
「12色物語」 坂口尚

「12色物語」講談社漫画文庫 坂口尚

12の「色」から触発された、坂口尚の短編集である。東欧、南欧、アメリカ、そして日本、と舞台は次々と変わる。扱う人間のタイプも実に様々。しかしまぎれも無く坂口尚しか描けないマンガの世界。アシスタントを使わない一本一本の線が、12の物語全体を通じて「生きる意味」を語る。
今回特に印象に残ったのは次ぎの5作品。この人の描く老人はどうしてこうも味わい深いのだろう。緑色の森が見事な生命賛歌になっている「朝凪」。最後から2ページ目のガラクタばかりの絵に見事にテーマが集約される「紫の炎」。父から貰った万年筆で少年は一本の線を描く。少年から大人へ。一本の線は大いなるボルガ河の紺色につながっていく。「万年筆」。才能の無いバイオリニストの物語。けれども彼はほかに道を見つけることが出来ない。この歳になってやっとこの作品の深さが見えてきた。寒く白い決意への道。「雪の道」「おれ、ときどき考えるんだ。太古の植物や恐竜が、地層の中で石炭や石油になったように、人間も圧縮され長い年月のすえ何か明確な有用なものになれたらってね…。」そう呟く男と、人生と山に迷いこんだ女子高生は果たして真っ黒い夜の中になにかを見つけることが出来たのだろうか。「夜の結晶」。

坂口尚の代表作を挙げよ、といわれると私は迷うことなくこの本を挙げるだろう。彼の真価は短編の中の一コマの絵の中でこそ輝く。この本は出来たら原稿と同寸の大判で復刊して欲しい。

24年前、手塚治虫の「ブッダ」が連載されていた「希望の友」が廃刊になり、新たに「コミックトム」という雑誌が創刊され、坂口尚のこの「色」からイメージされる様々なジャンルの連作短編が始まったとき、本屋の立ち読みではあるが「熱心な読者」として私は何度も何度もこの短編を読み返していた。当時、大なり小なりアシスタントを使ってのマンガが溢れかえっている中で、ここだけは背景の一本一本が作者自身が引いており、作者の詩情が一本一本に注ぎこまれている、これこそ本当のマンガだ、まだ若かった私はその純粋さを驚き「支持」していたのであろう。私は一筋の望みをもって書いたこの作品へのラブレターが当選し、その後描かれる長編「石の花」の主人公らしき男の肖像が書かれてある自筆色紙が届いた。流れるように描かれる一本の線が髪や顔の輪郭をつくっていた。いまだ私の宝物である。今回漫画文庫に入っていることを今更ながらに知り、急いで買い求めたのであった。



2005年01月03日(月)
「雑草にも名前がある」 草野双人

「雑草にも名前がある」文春文庫  草野双人
残念!雑草の事のみ書いている本ならよかったのに。扱っている草花は私の好きなものばかりだ。犬の子の尻尾という意味のエノコログサ、夕方にならないと咲かない宵待草、実はオオマツヨイグサ、中国からの渡来種で実際上海郊外で見たことのあるヒガンバナ、万葉集に「糞カズラ絶ゆることなく宮仕えせよ」とうたわれたヘクソカズラ、真夏の夜の妖艶舞カラスウリ、「その小さな青い花が、空の色を受けとめる鏡のようで、大自然と呼応しながら希望を抱いて賢明に生きる、けなげな姿」と著者が見事に説明したオオイヌノフグリ、「女郎花の花にふれゆく袖口の黄に染まりつつ山はしたしき」と歌われたオミナエシ、「雑草の中ではいちばんの美人」と著者も言うし、私もそう思うネジバナ、雑草の代名詞厄介物というイメージだが、他家受粉でしか結実しないという弱点も持っているヤブカラシ、多くの人は名前は知らないが姿だけはよく知っている、原爆の落ちた広島の街に異常発生したというヒメムカシヨモギ、春の七草の本当のホトケノザであるコオニタラビコ、刺身のつまにもならず役に立たないという意味で犬の名前が付くイヌタデ(しかし本当は下痢、皮膚病に効くそうだ)、山を歩くと必ず出会うが名前を知らなかったヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)、等々。しかし、作者はそれだけを書いて良しとはしなかった。
 関根正二、阿仏尼、生田春月等々、歴史の中に埋もれ、雑草のようにたくましく生きた人々のエピソードを一章につき一人紹介する。どんな人が登場するかは、分からない。そういう人たちの話が全然面白くなかったわけではない。しかし私のこの本に求めていたのは、そういうものではないのだ。ほとんどの人がそうであろう。



2005年01月02日(日)
「憲法九条、いまこそ旬」井上ひさし 梅原猛 大江健三郎 奥平康弘 小田実 加藤周一 澤地久枝 鶴見俊輔 三木睦子

「憲法九条、いまこそ旬」岩波ブックレット 井上ひさし 梅原猛 大江健三郎 奥平康弘 小田実 加藤周一 澤地久枝 鶴見俊輔 三木睦子
2004年7月24日に開催された「『九条の会』発足記念講演会」の講演記録。これは学習講演ではない。もちろん九条を巡る学習的な面が全然無いわけではない。(特に奥平氏、小田氏、加藤氏の講演)それ以上にこれは同時に発表された『アピール』と同様、「日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため一人ひとりができる、あらゆる努力をいますぐ始めること」その「呼びかけ」の記録集なのだ。
第1声が発せられて約半年、「九条の会」の願いは陵原の火のように広がっているかのようにみえる。しかし「改憲」の黒い染みはすでに日本全土に広がっているようにも感じる。まだまだ火の広がりは小さい。
澤地久枝は言う。「希望はやっぱり自分が努力してつくらなければ、どこからも降って来ません。まだ、私たちは絶望するには早すぎると私は思います。今日も頑張って立っているのですが、(澤地は心臓病で退院したばかり)あまり髪振り乱して頑張るという感じではなくて、ニコニコしながら、みんなでいい顔しながら、しかし、わたしたちは譲らないというところでは、鉄の意志、鋼の意志を失わずに、ご一緒にやっていきたいと思います。」



2005年01月01日(土)
あけおめ「デモクラシーの冒険」

新年明けましておめでとうございます
今年は個人的には転機の年になりそうですが、
ここに書いていくことは今のところ変わりそうにありません。

この前、このエンピツサイトから初めてメールが来ました。
大変嬉しかった。
私このサイトを加工して参加しやすいようにする方法知りませんので、
読んでくれている人も意見いいにくいとは思いますが、
気軽にメールくれると嬉しいです。
意見反論はさらに歓迎します。
「反論」大好きです。

「デモクラシーの冒険」集英社新書 かん尚中 テッサ・モーリス・スズキ
確か丸山真男が言ったのだと思うが、「民主主義とは制度の事ではなくて、間断無く話し合うという<運動>である。」だとすれば、民主主義について意見の違う二人が徹底討論するのも良いが、この二人のように比較的似た意見の知識人が徹底的に討論するのも、なんらかの成果が上がるのかもしれない。しかも、ふたりとも日本国籍やオーストラリア国籍の無い『ボーダー』な知識人である。国際的な視野に立ち、日本について考える事が出来る。

結果、幾つかの新鮮な視点を貰った。例えば「(現代は)個人と国家の中間に存在していた媒介項(労組や階級や地域というコミニュティ)が無くなってしまった。その意味では、なぜネオ・リベラリズムとネオ・ファシズムがうまく結合するのかが理解できます。」という指摘。個人が剥き出しの形で国家や企業と対峙してしまうと非常に危険なのである。

ただ、結果的にこの本で現代の民主主義の問題の主要な部分が網羅的に出ているとは到底思えない。世界分析も歴史的な学習も、そして実践的な提案も私は不充分だと思う。でもいいのだ。こういう本はあくまでも「考えるヒント」なのだから。



2004年12月31日(金)
『山田洋次の<世界>』 切通理作

『山田洋次の<世界>』ちくま新書 切通理作
映画『たそがれ清兵衛』への評価の中で、私の回りの者の多くは「世のリストラ父さんたちへの応援作品である」という感想を持っていた。確かに、派閥抗争の中で自分を殺してしまった余吾善右衛門に対し、清兵衛は大切な家族を護った、ように思える。しかし私は後になるほどあれがハッピイエンドとは思えなくなっていた。ひとつは清兵衛が実力で余吾に勝った訳ではないこと。余吾の刀が欄干に引っかかったのは自殺であるとしか思えない。ひとつは清兵衛はその三年後、企業戦士として戊辰戦争で戦死する、とナレーションで語られること。どうして世のお父さんはそんな作品で癒されるというのだろうか。しかし、それは私が「山田洋次は幸福に終る明るい作品しか描かない」というへんな偏見を持っていたため、歪んだ見方をしていたためだったのだ。

監督の作品を初期からずっと観ていくと、ハッピイエンドはおどろくほど少ない。『学校』シリーズはいつも厳しい社会に出ていく直前で終っている。寅さんにしても、本当の最後は不幸な「野たれ死」であったかもしれないが、その一歩手前でいつも終っていたのかもしれない。『人生の地獄』の中にある『ふとある幸せな時間』。その「リアルさ」にわれわれは癒され、元気を貰っていたのかもしれない。『家族』『故郷』を観れば更にはっきりする。

著者は子供の頃おじさんに「寅さんが男の中の男なんだよ。大きくなればきっとわかる。」といわれたそうだ。女性がいうのならともかく、医者をしているりっぱな大人がいうのである。若い人は「どうして風来坊が」と思うであろう。しかし人生も後半にかかった私などはこの言葉は「その通り!」と思うのだ。