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2004年12月30日(木)
「古代の百済・加耶と日本」 韓国文化院監修 

「古代の百済・加耶と日本」[古代の日本と韓国]シリーズ3 韓国文化院監修 
古代の加耶と日本は非常に密接した関係にあった。百済はそれに少し遅れるが、飛鳥文化ひいては大和朝廷の確立時期に決定的な影響を及ぼしたのは、今では常識の部類に入るだろう。

しかし、それが具体的にどういう関係であったのかはまだ「藪の中」ではある。また、それに関しての分かりやすいテキストは非常に少ない。ひとえに、韓国側の資料がまだまだ乏しい事から来ていると私は思う。そういう意味で、韓国文化院が主催したこの連続講演会の記録は貴重である。ほとんどが今から15年ほど前の記録であり、今では古くなったデータもあるかも知れず、それは不満ではあるが、韓国の第一人者の講演を聞くと言う意味では貴重なシリーズであると思う。

倭の王の弟と、高麗の大加耶の王と金官加耶の王の三人が加耶連合の議決権を持っていたかもしれないと言う記述には、非常に興味を持った。資料の信憑性も、年代も明かになってはいないそうだが、いかにもありそうなことではある。ここには私がこの数年に訪れた金海、釜山福泉洞遺跡、公州の武寧王の遺品解説の記述もある。非常に参考になった。



2004年12月29日(水)
「まほろばの疾風」 熊谷達也

「まほろばの疾風」集英社文庫 熊谷達也
八世紀末の東北蝦夷対大和朝廷との闘い。この題材ではすでに高橋克彦の長編傑作「火炎」がある。ところが、同じアテルイを主人公にしながら、まったく違う小説になっている事にまず驚く。登場人物たちの性格、立場、性別どころか、住む環境、闘う動機付け、全て違っており、同じところを探すのが困難、というよりか、同じところが結局文献に残っている資料部分なのだろうと思えた。高橋の著作も非常によかったが、考古学が趣味の私にとっては、こっちのほうがよりリアルである。確かに、当時の蝦夷達の生活はアイヌ民族のそれとあまり変わらなかっただろう。だとすると、最初から東北連合国家があり、アテルイはその首長の息子であったとする高橋の著作には少し無理があっただろう。モレをアテルイの懐刀ではなく、いち村を統率する大巫女で、女性であるとして、話を面白くしている。アテルイの少年場面などは熊谷のアイヌ取材、東北動物取材が活きた独壇場。想像部分と歴史的材料をうまくとりこんで、なかなか小説になり難い古代をうまく料理している。



2004年12月28日(火)
「The MANZAI 2」 あさのあつこ

「The MANZAI 2」カラフル文庫 あさのあつこ
1巻の続編。今度は書き下ろしである。1巻は中学生群像を描いて魅力的であったが、今度は瀬田君と秋本君、そして美少女萩本にスポットライトが当たっていて、三角関係はそれなりに解決してしまったが、変に納まりが付いてしまって、私には魅力半減であった。もうこれ以上の続巻は無いだろう。



2004年12月27日(月)
「レディ・ジョーカー(下)」高村薫

「レディ・ジョーカー(下)」毎日新聞社 高村薫
高村薫は仕事の描写を大切にする作家である。新聞記者たちのいったん事件が起きたときの独特の空気の描写やネタ元との付きあい方、大手企業社長の分刻みのスケジュールを適確にこなし判断していく様子、刑事たちの独特な仕事の内容についてはすでに前々作、前作で充分描かれたが、今回はとくに「行確」が執拗に描かれる。しかし、この作品の中でもっとも重要な役割を持った人間達の、その仕事内容がほとんど書かれていない。総会屋と政治家の仕事である。その事は何を意味するのだろうか。読者それぞれが考える事なのだろう。

長編の利点であるし、高村薫の小説の利点でもあるのだが、いろんな読み方が可能だろうと思う。社会的事件発生のメカニズムとその発生源への考察、大企業の危機管理のあり方、男たちの誇りのあり様とその失意のあり様、幾つかの隠れた愛の形、そして私は本流から外れているかもしれないが、「頭のいい人間の思考回路はどうなっているのか」二人の人間をモデルに随分と興味深く読んだ。社長の城山恭介とその警護実はスパイを担わされている合田雄一郎警部補。そのこなしている仕事量と考えている事のギャップ。圧巻は合田がレディ・ジョーカーの巧妙な合図の白い布に気が付いた下りだ。「長年ちどりで鍛えてきた目は、何かに焦点を合わせる目ではなく、耐えず視界全部をひとまとめにして捉えているせいで、目に映っている風景の範囲内に変化があるとすぐ分かる」とはいってもたまたまの昨日の風景のほんの小さな違いに普通気が付くだろうか。この記憶力、人間技ではない、と思うのは私だけだろうか。

ラストの数ページは最近の長編の中でも白眉であった。このラストだけは文庫版「全面改稿」でも変えて欲しく無い。



2004年12月26日(日)
「ウエンカムイの爪」 熊谷達也

「ウエンカムイの爪」集英社文庫 熊谷達也
同じくまの名前を持つ私ではあるが、くまの生態はよく知らなかった。寝た振りや、無視が効くのだというように思っていた。いったん人間を襲うと決めた熊にはそういうものは効かない。とくにヒグマは今本州に出没しているツキノワグマとは全然違い、危険である。そういう未知の世界の実態を教えてくれる教養小説の一面と、それでも熊に魅せられていく主人公たちの心の奥を探る小説である。「アイヌ神謡集」を読んだばかりの私には、いい熊のキムンカムイ、悪い熊のウエンカムイの違いがよく分かる。しかしどちらも神なのだ。ゆめゆめ容易には近づけない。導入の緊張と中盤のたるみ、そして後半部の盛り上がりで、一気に読ませてもらった。処女長編とは思えない上手さではある。題材が面白いだけに、気になる直木賞作家が出てきた。



2004年12月25日(土)
「妖奇切断譜」貫井徳郎

「妖奇切断譜」講談社文庫 貫井徳郎
残念である。本の1/4の段階で結末の半分が見え、1/2の段階で8割方見えてしまった。そういった目で読んでいくと、随所に物語をわざと複雑にするためだけの工夫が見えてくる。そして共感を覚えない登場人物たち。久しぶりに失敗作に出会った。まあ、そういうこともあるでしょう。貫井徳郎はエンターテイメント作家なのだから、この1冊で彼に失望するなんてことは、もちろん無い。



2004年12月24日(金)
「だれが本を殺すのか(下)」佐野眞一

「だれが本を殺すのか(下)」新潮文庫 佐野眞一
今年になっての最新情報も載せた「本コロ」の完全版である。最終章には「本の復活を感じさせる小さな予兆」という題も付けられている。しかし私の感じたのは、前巻とはうって変わって、本の将来に対する「暗い予兆」である。なぜそう感じたのか。この巻には、書評や電子出版、自費出版、コミック、雑誌、最新の書店や出版会の動向など一通りの「状況」については述べられてはいる。しかし、そこで必死に頑張っている「人々」の動向はほとんど無かったからだろうと思う。私は流通業界の端に身を置くものとして、どうしようもない消費不況は確かにあるが、結局それを打ち破る最大のカギは「人の力」である事を日々実感している。私には、まだまだ取材すべき事が残っているように思えた。



2004年12月23日(木)
「南の島に雪が振る」 加東大介

「南の島に雪が振る」知恵の森文庫 加東大介
加東大介といえば「七人の侍」の名参謀役が有名であるが、私にはそれよりも山中貞夫監督の「人情紙風船」(S12年)における縛徒役を思い出してしまう。この映画は日本映画が誇る大傑作で、私には生涯邦画ベスト10に残りうる作品である。当時の前進座総出演で、その関係で加東も出ている。加東があまりにも若かったので、ちょい役ながら覚えていたのである。山中監督はこの直後に徴兵され、還らぬ人となった。そしてその6年後、加東は2回目の徴兵を受け、ニューギニアに向う。時代はそういう時代だった。たかが、芸人ふぜい、いつ死んでもおかしくは無かったのである。

運命のいたずらで加東の部隊はアメリカ軍の総攻撃から免れる。戦意高揚、いや、生きる意欲高揚のために加東たちは芸を持った人たちを集め、「マクノワリ歌舞伎座」を創設する。余興ではない。毎日休まず公演を行うりっぱな「部隊」である。数々の感動的な「場面」がある。「生きる」とはどういう事なのか、「生き甲斐」とはなんなのか、そのエッセンスが淡々とした加東の文章の中に隠れている。

さすが、名エッセイスト沢村貞子の弟だけあり、文章は時にユーモラスで、臨場的で、無駄が無く、素晴らしい。隠れた名戦争文学である。この作品は一度東宝で映画化されたそうだが、「生きる」意味を見失っている現代、ぜひもう一度映画化してもらいたい。



2004年12月22日(水)
「雪明かり」藤沢周平

「雪明かり」講談社文庫 藤沢周平
再読である。しかしこみあげてくる想いはいつも切なく、愛しく、優しく、哀しい。市井ものと武家ものが交互に出てくる短編集。山田洋次監督の映画の原作となった表題作についてはどなたかに譲るとして、今回は2編の市井ものについて述べたい。

「恐喝」竹二郎はあの後、死んだのだろうか。なんとか生き永らえたのだろうか。ひとつ分かるのは、竹二郎が体を張った理由(わけ)は、決してあの心優しいおその嬢のためではなく、寺の後妻に行くと言う二つ上の従姉のためであったのだ。「あんなのと早く手を切らないといけないよ」姉とも愛しいともいえる人のなんでも無い一言が、男に一生一代の行動をとらせるきっかけになる事も、たしかにあるだろう。

「暁のひかり」目の前に、映画のように、早朝の河岸の景色が広がるような一編だった。少しづつ暁の光に包まれていく景色の中で、すさんでいた心は少しづつほぐれていく。市蔵だけではない。読者である私もそうだった。だからその後の市蔵を包む「せきりょう」も、我が身の事のように思う。

この短編集、全編に渡り「人が人のしあわせを願っている」。願うのほうの人は決してしあわせではないというのに。



2004年12月21日(火)
「上司は思いつきでものを言う」橋本治

「上司は思いつきでものを言う」集英社新書 橋本治
著者と編集者が次ぎの新書の企画で話し合った。「サラリーマンの切実な悩みを扱って、彼らに指針を与えて、ものすごく分かりやすい本とかは無いですかねえ」「言葉で言うのは簡単だけどね…」結論が出ない二人は河岸を変え、飲み屋に繰り出す。そこではサラリーマンがくだを巻いていた。「上のやつらは現場のことなんか全然分かっちゃいない」「どうしてあんな思いつきが通るんだよオ」それを聞いた著者は「上司は思いつきでしかものを言わないんだよ。それがひいてはこの日本経済の構造的な欠陥でもあるんだな」ととうとうと説明を始めた。「それ良いですよ。もっと喋ってください。あなたの喋りはそのままで本になりますよ。あとは私がテープ起こししますから…」というわけで著者は三日間にわけて思いつくまま話し始めた。……というこの本の成りたちかと私は思っていた。文章は話し言葉、なので。しかし、あとがきで著者は「パソコンを使わず、万年筆でこの原稿を埋めている」といっていた。よく考えたら、話し言葉は「桃尻娘」以来彼の「文章スタイル」ではあった。一見は分かりやすい。しかし彼は理詰め理詰めでこの本を書いている。だから読んだ人たちは、たぶんほとんどの人が「納得」させられるだろうと思う。あとで細かい異論に気が付く人も多いだろう。著者はしかしその事も承知で書いている。「よーく考える」(上司の立場に立って考える)より「ちょっと考える」(自分の立場に立って考える)です。もっと自由にこの事に書いてあることを自分なりに咀嚼していけば良いと思う。