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2004年11月18日(木)
「トリコロールに燃えて」は80点

「トリコロールに燃えて」ジョン・ダイガン監督・脚本 シャーリーズ・セロン ペネロペ・クルス スチュアート・タウンゼント
奔放で美しい上流階級の娘、英国の労働者階級の男、スペイン内戦を逃れてきた娘、よくある男女三角関係の物語。しかしそれだけではない。1930年代のパリ、芸術が花咲き、スペイン内戦に義勇軍が馳参じる、40年代の欧州、ドイツがパリに進駐し、レジスタンスが闘われる。久しぶりの欧州歴史大河ドラマ。しかし、それだけではなかった。

「モンスター」の撮影直後にすぐこの映画をとったとは思えないほど、シャーリーズ・セロンの肌は白く、金髪は美しく、奔放で活発で魅了される。(最初の頃の裸は下腹がまだ出ている。しかしそれもいやらしくて私的にはよかった。後半は見事なプロポーションを保つ。)とくに最初の登場場面、生真面目な貧乏学生を一発で虜にするだけの輝きを放っていた。ずーとシャロン嬢の顔を見ているだけで、至福の2時間は過ぎ去った。というようなミーハー的意見だけを言い放てばいいような作品だと思っていたら、いい意味で期待を裏切られた。ひとつは享楽のパリとレジスタンス運動の対比が見事で、近年に無い歴史ドラマを作っている事。ひとつはシャーリーズ・セロンが、ひと皮剥けて、見事な本格女優として登場している事。

美しい彼女はペルソナ(仮面)を幾つか使い分ける。男と男を渡り歩く享楽的な彼女、あるときは女優、あるときは女流カメラマンとして芸術界で活躍する彼女、上流階級の娘としての彼女、ナチスの将校の恋人としてうまく世渡りをしている彼女。幾つかの仮面が何回か剥げるときがある。一人の孤独な女性として。愛を知り始めた女性として。それを無理無く演じわけたシャーリーズ・セロンはもはやカメレオン女優などではなく、見事なアカデミー主演女優であった。再終盤の彼女の表情など、なにも喋らなくても、私には言いたいことは全て伝わってきた。えっ、伝わってこない?あそこが一番分かりにくい?残念だ。歴史を勉強しよう。最後の彼女の手紙をもう一度思い返そう。運命とはなにか。人生とはなにか。じっくりと考えてみよう。素晴らしい映画であった。

しかし、一つだけ疑問がある。冒頭の場面、彼女が貰った占いとは「運命が見えない。それはあなたが34歳になるときである。(つまり1945年)」というものだったと思っていた。つまりわたしは、45年彼女に生死は別に何事かが起こるのだと理解していた。しかし、映画をしばらく見ていると彼女はそのようには理解していなかった事が分かる。彼女は「34歳以降はこの世にはいないのだ」と思っていたようである。誕生日を極端に嫌い、運命論者であると恋人に告白している事から間違いは無いだろう。これは私の勘違いだったのだろうか。それとも「字幕のミス」なのだろうか。ちなみに字幕は戸田奈津子嬢である。しかし、この部分はこの映画の「肝」といっていいところ。ミスなら許されない。他のひとの意見を聞きたいところです。



2004年11月17日(水)
「隠し剣鬼の爪」は75点 

「隠し剣鬼の爪」山田洋次監督 永瀬正敏 松たか子 小沢征悦 
不満である。力作であるし、心地いい感動も与えてくれるだけに、画龍点晴を欠く、永瀬、松、両者のたった一つの演技に不満である。
永瀬の場合は堀家老に激しく詰め寄る場面。普通なら死を覚悟しての詰めよりでなければならないはず。しかし永瀬の場合、まるで現代のサラリーマンが常務に詰め寄るように無防備だ。「たそがれ」のヒロインの現代的だったのはよかった。彼女の場合はそれなりに女性ということもあり、リアルだった。しかし、宗蔵は跡取り息子である。あのような言葉は吐いてはいけない。吐くときには今にも鬼の爪を使うような迫力が欲しかった。結局永瀬には子の役は無理だったのかしれない。松の場合、彼女の質素で可憐で顔を隠しながら笑う場面など、まさに花のある女優、魅力があったが、しかし、一番の見所は嫁入り先の商家で、ボロボロにされ、納戸でねかされている場面であろう。ここが相当悲惨に描かれていないと、宗蔵がたえを救いだすことにリアルさが無くなり、物語自体が成立しなくなる。しかし質素な身なりはしているがたえは丸々健康そうで、しかも清潔そうで、死にそうな雰囲気は無いのだ。まつはせめて10〜20キロ減量して欲しかった。せめて宗蔵におぶわされたとき、「おら、くさぐねぇべか」ぐらいは言って欲しかった。原作ではトイレも行かせて貰えず、たれ流しだったはず。
監督の気持ちはよく分かる。前はしがない貧乏父さんにエールを送り、次ぎは若者にエールを送りたかった。上司に対して少しはうっぷんをハラしたかった。
ずっと前に鬼の爪は読んでいたのに、あの隠し剣の使い方、なかなか見事であった。ひとえに名優緒形拳の存在感によるところが大きい。



2004年11月16日(火)
「笑の大学」は50点

「笑の大学」星護監督 三谷幸喜原作・脚本 役所弘司 
客はこの作品に笑うために来ているのである。くすくす笑いは出ていたが、ついには大笑いは無いままで終った。中途半端な感動なんて要らない。残念ながら失敗作である。



2004年11月15日(月)
「コラテラル」は70点

ロザンゼルスのタクシー運転手・マックス(ジェイミー・フ
ォックス)は、ある日ヴィンセント(トム・クルーズ)という
客を乗せる。法外な前金を払う彼にマックスは気をよくしたが、
ヴィンセントは一晩で5人の殺害を計画している殺し屋だった
のだ……。

 トム・クルーズがこれまでに演じたことのなかった“完全
ヒール(悪役)”にチャレンジする意欲作。監督は『ヒート』
『ラスト・オブ・モヒカン』のマイケル・マン

「コラテラル」というのは、巻き込まれるという意味だったのか。

出自の事情はあるものの、冷徹で非常に優秀な(ゴルゴ13ほど
ではない)殺し屋の内面に共感する人はたぶんいるだろうけど、
(女性は理屈抜きに共感するのだろうか)、それはよほどの偏
屈だと思う。常識人なら、やはりタクシーの運ちゃんに共感す
るだろう。よって、彼がどれだけリアルに描けているかは、こ
の作品の成功の大きな要素だと思うが、さすがにマイケルマン、
そつなく作っている。だから殺し屋のあの一言が心に残り、運
ちゃんがこれからどういう人生を送るか想像がつくのである。

しかし、そうであっても、どうもしっくりこなかった。たぶん
一番の悪役に決着がついていないからだと思う。勧善懲悪の物
語ではないと分かってはいるんだけど……。



2004年11月14日(日)
「エクソシストビギニングは60点

「エクソシストビギニング」
 神に失望し、信仰を捨てたメリン神父(ステラン・スカルズゲー
ルド)は、考古学者としてアフリカに派遣される。歴史にあるはず
のない教会が土中から発掘されたため、その調査を依頼されたのだ。
だが彼が現地に赴いてから、次々と怪奇な事件が起き始める。メリ
ンはそこに“悪魔”の介入を察するのだが……。

 ホラー映画に燦然と輝く名作『エクソシスト』の恐るべき前史。
ジョン・フランハイマー死やポール・シュレイダーの降板など、次
々と監督が代わり、最終的に『クリフハンガー』のレニー・ハーリ
ンが監督を手掛けた。撮影はヴィットリオ・ストラーロ。


前作は科学が敗れた後メリー神父がやってきた。それと娘を思う母親の気持ちが丁寧につくられてあり、いい作品だった。今回のメインは一度ある事情で信仰を無くしたメリー神父がまた信仰を取り戻すまでを描く。一度無くしたものを取り戻したとき力は倍化されているというのは容易に想像がつく事ではある。それはいい。しかし神父はなぜ信仰を取り戻したのだろうか。そこのところが私には今ひとつ分からなかった。それとあのどんでん返し。少しは伏線あったのかしら。無かったとしたら、失敗作といってよいでしょう。



2004年11月13日(土)
「シークレット・ウィンドウ」は70点

「シークレット・ウィンドウ」ジョニー・デップ
くそ−悔しい。ミステリーが好きなのに、映画半分の時点で、ネタを暴く事が出来なかった。
あんなにも伏線を張っているのに。
(前半までに五つ以上はあります。)
せめて、ネタがばれる10分前に分かったのが救いか。
これ以上言うとネタばらしになるので言わないが、
スティーブンキングらしく、デップらしい作品である。
終りの一言はなかなか良かった。




2004年11月12日(金)
「ナイトメア−・ビフォア・クリスマス」は70点

「ナイトメア−・ビフォア・クリスマス」ティム・バートン
ハロウィンの国のかぼちゃの王ジャックは、ハロウィンを成功させてもどこか物足りない。ひょんなことからクリスマスの国に迷いこみ、ジャックはクリスマスをハロウィンの国でお膳立てする事を思いつく。
同作品上映前にある短編「ヴィンセント」「フランケンウィニー」で、ティム・バートンの気持ちは充分に伝わる。そして本篇では一気にめくるめく色彩の世界に入っていく。「後もう少しで(クリスマスの国の事が)分かるんだけどなあ」と唄うジャックの気持ち、それはすなわち、「後もう少しでハロウィンの国の事が分かるのだけどなあ」という私の気持ちにも重なる。バートンの気持ちは分かるが、やはりお互いの国は理解しあうという事は無いのだ。ただ、理解しがたい事を目の前にして、わくわくすると言う気持ち、それだけは理解する。映像は素晴らしい。93年製作というと、ディズニーの快進撃が始まった頃だろうか。異端の作家、ティムの心意気が伺える快作。



2004年11月11日(木)
「モンスター」は80点

「モンスター」パティ・ジェンキンズ監督・脚本 シャーリーズ・セロン クリスティーナ・リッチ

シャーリーズ・セロンが13キロも体重を増やすという役作りをして、アメリカ初の女性連続殺人事件犯人として死刑になったアイリーン・ウォノースを演じる。

シャーリーズ・セロンはこの5年間、「ノイズ」というダメダメ映画でその美しさに魅了されて以来、ずっと私の「お気に入り」女優である。彼女が主演を張っているだけで、どんなダメ映画(例えば「レインディア・ゲーム」)でも満足して映画館を出る事が出来た。彼女は作品ごとに役柄どころか、髪型、髪の色まで変わる。しかし、その透き通るような肌は変わらず、ずーとそのアップ顔をスクリーンで観ることで私は至福の2時間を味わっていた。

と、いうわけで、この作品を観るには勇気が要った。この作品には、これでもか、と彼女のささくれだった肌がアップで出てくる。様変わりした顔、ぶよぶよの腹、下卑たセリフとガニ股で歩く姿、私には辛い体験だった。しかし、その辛さこそがプロデューサーとしてこの作品に情熱を燃やしたシャーリーズの狙いだったのだ。パンフで字幕翻訳者の松浦美奈が信じられない事を書いている。「美しいシャーリーズは美しくない女優がつかめたかもしれないチャンスを葬ってしまったとは思わないのだろうか?そんな事を言うのはヒガミなのかな。」これこそ女のヒガミとしか思えない。最初幼い主人公が女優を夢見ていたという告白が語られる。いろんな女の子はそういう夢をみるものだが、女優のシャーリーズはそれを実現した数少ない女性の一人である。しかしアイリーンは家庭環境の不幸もあり、正反対の道をたどる。一つ道が違うと、こういう風に同じ人間でも変わりうるのだと私たちはずーと1時間49分見せつけられる。これこそが映画の「力」である。その狙いも分からない字幕翻訳者の見識には失望した。

主人公アイリーンは確かに可哀想な部分はあるが、一方殺人に弁解の余地は無い。そして彼女の立ち振る舞いは彼女が嫌っていた自分を買う男たちの態度そのままだ。のぞけり、空威張りして、時々卑屈になる。彼女の環境をそのまま見せることは、80年代のレーガン政権が行ってきた弱いものを顧みない政策のツケを観る事にもなる。やはり彼女のアカデミー女優賞の受賞は本物だった。彼女のファンとして心からおめでとう、と言いたい。
もちろんこの2週間後、私は彼女が美しく復活しているに違いない「トリコロールなんとか」を観るのは言うまでもない。



2004年11月10日(水)
DVD「MUSA武士」は80点

DVD「MUSA武士」
明との国交回復に失敗した副師団が、元の部隊から明の姫を護りとおす事で成功に変えようとする物語。日本にはまったく知られていない歴史の一コマである。しかし、これが見事なエンターテイメント作品になっている。中国オールロケ(なのかな)を敢行して、さらには中国の役者を招聘し、チャン・ツィイーが代表格として姫様を演じる。韓国と中国の映画を通しての協力体制も新鮮。
なんといっても、一人一人の個性が実にくっきりと描かれている。儒教の人格者を体現する冒頭死んでしまう副師。それに仕えていた奴隷で槍の使い手(主人公格)、武士としての尊厳と自分の使命と自分の弱さの中で好演した将軍(主人公格)、気の強いが、しかし護ってあげたい魅力一杯のお姫様(主人公格)、副官、隊長、農民、敵の元の将軍、慰安婦の女性、新婚ほやほやの軽兵、通訳、漢民族の農民の女性、首長、高麗のお坊さん、ざっと思いだしただけでもこれだけの人物像がしっかり描かれてありそれぞれ「見せ場」を持っている。この手腕はちょっと日本には無い。凄い映画を観た。



2004年11月09日(火)
「永遠の片想い」は65点

「永遠の片想い」イ・ハン監督・脚本 チャ・テヒョン(猟奇的な彼女) ソン・ウンジュ(ラブストーリー) ムン・グニョン(ブラサー・フッド)
大親友女の子二人と一人の女の子の三角関係。難病ものでもある。
韓国映画はかならず「悲劇」で終る。もうそろそろ日本の観客はその「法則」に気が付くべきだろう。そうだと分かっていて「感動」する作品を私は評価する。この作品は「あともう一歩」だった。単なる難病ものではなく、どんでん返しが二つある。このサービス精神も韓国映画の特徴ではある。しかし一つは納得したが、一つはあざといと感じてしまった。
「ブラザー・フッド」で鮮烈な印象を残したムン・グニョンがなかなかの好演。