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2004年08月07日(土)
玉島の「玉」について04.04.24

玉島の「玉」について
4月24日、玉島西爽亭(旧柚木家旧宅)において、玉島という地名の由来の石「玉島の『玉』」の12年ぶりの公開と、それにまつわる講演を聞いてきました。「玉島」の地名の由来は二つあるそうです。一つは奈良時代編集「万葉集」の「ぬばたまの夜はあけぬらし玉の浦にあさりする鶴なきわたるなり」に由来するのではないかという説。ひとつは鎌倉時代安貞年中(1227-1228)今の乙島依佐山の麓より出土したと伝えられる「玉」から玉島になったという説です。

講演は郷土史家の古城氏。「玉」にまつわる四つの文献を詳しく説明していた。残念ながら遅れて入ったことと、古城氏の言葉があまり聞き取れなかったため、文献資料にまつわる話は私にはできない。今回私がこの話に興味を持ったのは玉島の「玉」が柚木家代々「家宝」として伝えられてきていて、一般には公開されていない「出土品」だという事実なのです。文献批判は郷土史家に任せるとして、考古学的遺物としてのこの「玉」に興味を持ったのです。「玉」といってまず思い浮かべたのは、中国上海故宮で見た「玉」です。中国紀元前の王室では代々白い石を宝として代々大切に扱っていました。玉島は古くからの港なので、もしかしたら中国の宝が玉島に長い間落ちていたのではないか、と思ったのです。しかし、実際「玉」を見るとそれは確かに見事に磨きぬかれた石の球体なのですが、白い石ではなく薄ねずみ色、あるいは薄黄色の普通の石なのです。(石の材質は不明)。多宝塔の石がたまたま落ちていたといわれても私は不思議とは思わなかった、そういう石でした。中国伝来ではないかという私が考えた可能性は低そうです。でも、この石を見ることができたのは非常に貴重でした。なにしろ家宝中の家宝なので今度いつ公開されるか分からないのです。デジカメで写真も取りました。もし写真を転送してほしいという方がおられたらご連絡ください。



2004年08月06日(金)
造山古墳周辺の遺跡を巡る04.03.13

造山古墳周辺の遺跡を巡る  04.03.13
今回の「古代吉備を語る会」は私がこの会に参加し始めて、初めての吉備中枢部の探索です。しかも弥生墳丘墓が二つも含まれている。なにがなんでも参加しました。出宮さんの熱のこもった倭国大王陵説を聞き、非常に充実した会になりました。

先ず行ったのは雲山鳥打(くもやまとりうち)墳丘墓。山陽高速そばの山の上の道無き道を踏み分けいくと、かすかに盛り上がっているところがそうだそうです。昔一人で探してみてとうとう見つけられなかった墳丘墓です。 やっと出合う事が出来て大変嬉しい。ここに三基の墳丘墓があったそうです。竪穴式で木郭、下には円礫を敷き、朱を撒いていたらしい。造り自体は私が去年12月に釜山の博物館で見た古墳群のそれに非常によく似ている。特に見晴らしのいい丘の上に複数作るところが似ています。弥生後期後半の墓で大陸の影響化にあった墓らしい。特殊器台、特殊壷が出ている。場所は高松城を見下ろす高台にあり、水攻めのときの陣地にもなったみたいで、破壊が著しいらしい。しかし、反対に言えばこの見晴らしの良さは、高松城一帯の平野を生産基盤にしていた共同体のリーダーの墓だったということも出来るかもしれない。墓はいずれも北枕だったそうだ。これも大陸の影響か。

次ぎに行ったのは、鯉食(こいくい)神社墳丘墓です。神社の下がそのまま弥生墳丘墓なのです。ここには何回も来ています。ここから直弧紋の破片土器が採取されたと聞き、私も見つけられないかと何度も歩き回ったものです。1916年、拝殿改築時に南北に細長い竪穴式石室が2基並んで見つかったとのこと。向木見型の特殊器台と特殊壷、高杯などが採取されている。弥生時代後期後半、築造順は楯築→雲山鳥打→鯉食神社、らしい。鯉食は楯築の一~二代あとの墓なのか。楯築、雲山は見晴らしいのいい丘の上なので、まだ墓を作る理由が分かるのですが、鯉食は古い住宅地の一角に作られています。場所が楯築、雲山のちょうど中間地に当たるので、何か意味があるのかと聞いたところ、それよりもどの墳丘墓も日差山の主要な尾根筋の先端に作られていることを重視したほうが良いとの指摘をうけた。その先端から見渡せる辺りが、その墓がリーダーとして影響力を持っていた地域なのでしょう。確かに鯉食もその周りの家を取り除けば、丘の上でした。

そして前方後円墳体制がひかれて非常に初期の段階の古墳、矢部瓢箪塚(やべひょうたんづか)古墳に初めて行きました。全長47m。前方部が撥型に開いています。日差山の尾根筋で、真東に楯築、あるいは女男岩墳丘墓、その向こうに吉備の中山、または雲山鳥打、鯉食も見渡せる、いわば扇の要の位置にある前方後円墳です。特殊器台型埴輪や、特殊壷型埴輪の破片が採取されている。吉備の前方後円墳で、埴輪が出てきたのはこの古墳が初めてらしい。吉備の特殊器台が大和に移り、埴輪になって戻ってくるまで若干のタイムラグがあったことを示す貴重な例らしい。つまり埴輪は大和で発明されたということなのでしょうか。それはともかくここからの眺めは素晴らしかった。

今回楯築へ行かなかったのは残念でしたが、まさしく弥生時代後期、吉備の国が「クニ」として発展した時の主要人物たちの墓に今回は行った、という気がしています。そのとき吉備の中山は聖なる山だったかもしれないが、実際の墓はその真西の日差山に弥生、古墳時代にかけてずっと大小作られているのは注目すべきではないか。日差山とは何か、もうちょっと考えていくべきカナ、とも思いました。

そして昼食休憩をはさんで造山古墳へ。
一般に考古学者というものは事実以外の「推測」は言わないものですが、おそらく個人的に相当の確信があるのでしょう。珍しくこの会の主催者岡山教育委員会の出宮氏が自ら講師を買って出たと思ったら、「造山古墳は倭国大王陵か?」説明文章には教科書を書き変えそうな「衝撃的な」タイトルが付いていました。しかし根拠は「なるほど」と思えるようなものばかりでした。私は支持します。

吉備に住む私たちでも一般に造山が日本第4位の規模を誇る墓だったぐらいは知っています。少し考古学に詳しいものは築造時期には日本で一番大きい規模であったことも知っています。しかし、それはいずれも当時の吉備地域が倭国の中で大きな役割を持っていたという証拠以外の何者をも示してはいなかったのです。しかし出宮氏は造山は「吉備の大王」の墓としてはその質量とも域を超えているというのです。「倭国の大王」とする以外はない、というのです。当時、倭国の都は明かに大和にありました。しかしその後なんらかのごたごたがあって一時期都が河内に移ります。出宮氏は造山がその過渡期を引きうけたいわば中継ぎ投手の役割を引き受けたのだろうというのです。当時倭国は都は大和にあったとはいえ、大和は各国の連合組織的役割を持っていただけでした。というのが最近の定説になりつつあります。それは、私の言う「大陸とは一線を画して倭国が平和的に統一国家をつくった。」ということにつながります。今回のいわば「吉備倭国遷都」が証明されれば、私の「論」も補強される事に成ります。出宮氏ガンバレ。

出宮氏の根拠は以下の通りです。
●この時期(5C前半)の「記紀」において「吉備」の群像の記載頻度は大伴氏、物部氏を凌いでいる。
●周濠はないが、塚域を伴っていたという証拠が見つかった。田んぼの地割りに一部塚域の線が残っているのてある。これは吉備地域の前方後円墳にはない作り方だそうだ。その「跡」だという畦道を歩きました。
●様々なかたちの埴輪が出土。石棺は阿蘇から持ってきている。九州との繋がりはこれが「大王陵」である証拠。
●吉備の従来の大形前方後円墳には見られない陪塚、あるいは時代が下って「幕僚」の墓も付随していて、吉備の王としての域を超えている。
●その時期の吉備の最大の墓、金蔵山古墳より全長で2.12倍の大きさ。各差が大きすぎる。
●造山古墳の位置は明かに風水観に基づく「王陵の地」の地形にある。
その他にもあったかもしれない。花嵐さん補足があればお願いします。
「万年野党でもときには与党になる事がある」とは一時の「社会党」を「例」にした出宮氏の説明の言葉でした。

さて、王の墓がある以上は、当然都も吉備に遷都してきたと考えなければ、作る主体がありません。その事を質問すると、出宮氏は少し言葉を濁しました。大王が吉備出身ということで墓だけここに作ったという考えも持っているようです。しかし私はそれではこんな大きな墓はそれこそ作れないと思います。そうすると出宮氏は風水の観点から、後円部をまっすぐ伸ばした津寺辺りが都候補地としては怪しいと教えてくれました。はてさてみなさん、「世紀の大発見」目指して掘ってみますか?

その後造山の2~3世代あとの小造山古墳、あるいは幕僚候補たる車山古墳跡を見て帰りました。今回も約14キロ、歩きに歩きました。



2004年08月05日(木)
彦崎貝塚確認調査現地説明会04.02.01

昨日の「光州水村里遺跡」は「公州水村里遺跡」の間違いでした。
お詫びして訂正します。

ついでに補足説明すると、
昨日の文章もこの文章も、
古代吉備メーリングリストに投稿したものです。
最近の私の旅レポートはほとんど考古学関係になっています。

彦崎貝塚確認調査現地説明会     04.02.01
2月11日は私は仕事のため、現地説明会があった事をいい事に一足早く彦崎貝塚に行って来ました。説明会文書にはこうあります。「彦崎貝塚は、JR彦崎駅から南に約300mの標高約5mの台地上にあります。S23.24年に東京大学理学部人類学教室によって発掘調査が実施されました。このときには約30体に及ぶ縄文前期の人骨と共に、土器を始めとした多量の遺物が出土しました。中でも縄文土器は山内清男博士によって瀬戸内地域を代表する基準資料として認定され、現在も広く知られています。」
羽島貝塚や、津雲貝塚は知っていたし、人骨が出た事で、有名な事は知っていたのですが、彦崎貝塚はそれに勝るとも劣らない貝塚であった事を今回はじめて知りました。東京大学の研究室深くに人骨が眠っていたのです。なんと妊婦の人骨も在り、胎児とセッとで出てきたようです。パネル展示、票本展示もされていて、今回地元の人もあまり知られなかった彦崎貝塚の全貌が分かる展覧会にもなっていたみたいです。
さて、今回の調査ではまさしく貝塚を掘っていました。これほどまでに「牡蛎」の貝のみでてくる貝塚いは珍しいそうです。(晩期はハイガイのみになる)その貝塚から今回は中期の人骨が前期にはない「土溝墓」から出土しました。また牡蛎の加工場と思われる焼成土も発見されています。香川のサヌカイトも多量に出土している事から、それらとの交換のための特産物だったのでしょうか。今回の調査でついには人の住んでいる跡は見つからなかったみたいです。しかし前期・中期・後期・晩期と一貫して縄文時代を住んでいるこの地域の人たちです。どこかに住んでいたところが在るはず。なぜか西日本の貝塚からは住居跡が見つかっていないらしい。私はふと沖縄みたいに洞穴に住んでいたのかと思い、聞いてみましたが、この近くに洞穴なんてないらしい。学芸員の方は16年度調査予定地の彦崎団地隣の辺りが怪しいと思っているみたいです。
ここだけで2時間もうろうろしていたのですが、終ってみると疑問が次々と出てきます。聞きそびれたのですが、弥生時代になるとこの貝塚は急速に寂れたみたいです。それは岡山の貝塚の特徴なのか。つまり人は吉備地域あるいは他の弥生村に集合していったのか。多量の動物遺体、植物種子は出てきているみたいだが、三内丸山みたいに栗などの栽培、あるいは稲の栽培の可能性は?前期で香川や近畿との交流は在ったみたいだが、岡山県内の貝塚同士の交流は?土偶など、精神世界を垣間見る資料の出土はないのか、ないのならなぜ出てこないのか。
考えてみれば縄文全時代に渡って遺物が在るというのは凄い事です。一万年近く永遠と人々はこの地域に住んでいたという事です。それほどまでに瀬戸内の海の幸と、児島の山の幸は豊富だったのか。人々はいったいどんな「伝説」を大事にしながら住んでいたのでしょう。
2月11日に行ったかたがいましたら、皆さんの感想も聞いてみたい。



2004年08月04日(水)
光州水村里遺跡見物記(04.01)

1月6日、花嵐さんといっしょに百済時代の大発見が続いているという発掘現場に行ってきました。場所は韓国ソウルから高速バスで2時間と少しのところにある公州・水村里というところです。
日本ではまったくニュースになっていないということもあるので、おそらくこの発掘現場に来たのは、私森の熊と花嵐氏が日本人では初めてではないかと思います。行きかたは案外簡単。公州バスセンターからタクシーをチューターして、公山城前にある観光案内所に行き、そこで詳しい場所を聞いていきます。ここの案内所の人は日本語は出来ませんでしたが、電話で通訳を呼び出し、土地カンのある彼女がタクシー運転手に場所を教えるという形で(でも迷いましたが)なんとか行く事が出来ました。(一時間と少しのチューターで2000円少しで済みました。)
百済の古墳というのでてっきり公州の観光地・武寧王陵の近くかと思っていたら、意外にも川を隔てた反対方向。百済の城があったという公山城からも10分くらい行った水村理という村の道路沿いの小高い丘の斜面上にありました。円墳ではなく、斜面に竪穴式の墳墓がいくつかまとまっています。
行くと10数人の方(若い人が多かった)が発掘作業をしていました。ちゃんとカラーの報告書をつくっています。それを見ると(ハングル部分はさっぱり分かりませんが)漢字で「儀堂農工団地造成敷地内発掘調査」とありました。遺跡規模は4920㎡2003年9月からの発掘。筆談で少しだけ聞くと、450-500年の時代の遺跡らしい。(百済の公州遷都が475年なので、公州に都が出来る前の人たちの墓か、百済の王族の墓なのかも知れません)また我々が行った時は「ベルトが出土したよ(と聞こえた)」と教えてくれました。忙しい中、わけの分からん、韓国語もさっぱり出来ない見物人に親切に応対してくれて報告書まで無料でくれた発掘現場の方たちどうもありがとうございました。百済時代というのに、発掘現場ではほとんど墓意外は掘ったあとがありません。気候の関係なのか、広葉樹林が少ないからなのか、上に土がたまっていかないのでしょうか。年代の決め手はいったいなんだったのでしょうか。もっとわかった事はないのでしょうか。この墓はどういう形式なのでしょうか。出土物の名称はなんだったのでしょうか。疑問だけは山のようにもって帰りました。だれかあの報告書を解説してくれる人はいないでしょうか。
そのあと武寧王陵の見学をしました。7つの円墳からなる古墳群の一つが遷都後の百済で一番栄えた武寧の墓で、そばには資料館が建設されています。それを見ると水村理の墳墓とは明かに形態が違うという事が分かります。横穴式石室。中はドーム状で、見事にタイルで囲んでいます。そのなかに、様々な「お宝」がありました。ほぼ同じ時代なのに、水村里は相当みすぼらしい。この墓の形式がどうして日本に伝わらなかったのでしょう。
今回来て博物館が閉鎖されていたのには私的にはとても残念でした。今年の6月にはの新国立博物館が、武寧王陵の近くに建設される予定。その頃にはもっといいパンフも出来ているでしょう。





2004年08月03日(火)
『美術館の隣の動物園』(DVD)

『美術館の隣の動物園』(DVD)
発言内容:
最近TUTAYAが全国一律料金というのを始めて、おかげでDVDの値段が一挙に半額になり
、最近DVDを借りまくっています。その中でまだ未見のこのDVDをみると、『拾い物』だ
ったので、珍しくここに書き込みさせてもらいます。

監督はイ・ジョンヒャン、去年『おばあちゃんの家』でスタンダードな話なのに涙を誘
った少しだけ『何か』を持っている若手女流監督。これがデビュー作。
主演はシム・ウナ。まだ『8月のクリスマス』のイメージが変わっていないころの彼女
である。98年作品。

ひょんなことから10日間の共同生活を始めた男女。男は振られたばかり。女は片思い中
。女はシナリオ執筆中。片思いで恋の成就できそうにないのに業をつかせて男はシナリ
オに助言を始める。もちろん最後は現実の男女も恋の成就です。ラブシーンは簡単なフ
レンチキスまで。韓国の映画界もいい時代だった。

コメディ映画です。韓国の観客の反応は素晴しいことを私は知っているので、この程度
のコメディでもたぶん爆笑の渦だったのだろうなあ、と想像します。ヒットしたらしい
ですから。私がびっくりしたのがシム・ウナの体当たり演技です。化粧気なし、髪ぼさ
ぼさ、歯も磨かないという女の子を演じていて、その当否は別として実に一生懸命やっ
ています。彼女のプロ意識は本物です。ただ彼女はちょうど美しくなるときだったので
、どうも違和感がある。プロデューサーが強引にキャスティングしたらしい。私ももっ
とブスのほうがよかったと思う。

DVDなので特典がいっぱい。特にシム・ウナと監督のインタビューは大変面白かった。
シム・ウナはプロデューサーになりたいなんていっている。彼女の上昇志向は本物です
。ただしそれは単に『成功したい』というだけだったのかもしれない。だから金持ちと
結婚するとさっさと引退したのでしょう。

監督は高校生の役でも出てきそうな女の子。といったら怒られるか……。しかし、助監
督経験が長かったこともあり、この作品で徹底的に『ダメ押し』をしたみたいです。こ
のオーソドックスな物語も、たくさんの小道具をきちんとエピソードの中にまとめてい
て、一つ一つのエピソードは心に残る。日常を大切にする作家です。

なかなかお薦めのDVDです。




2004年08月02日(月)
『キング・アーサー』は60点

『キング・アーサー』
 短評:いやー、見事に寝てしまった。
    気がつくとウォードと仲良くなっている(^^;)
    それまでにこの映画つまらないと私の脳が判断したのだと
    思うことにします。
    彼がランスロットだと、
    冒頭部分で誰か言っていましたっけ。
    彼だけずっと名前で呼ばれていなかったので、
    そこにこの物語の(よくわからんが)
    最大の見せ場があるのだとばかり思っていました。
    その他よくわからん話ばかり。
    あれだけの戦闘でサクソン民族の侵略は終わったんですか。
    キーラナイトレイ、ホラー映画に出ると映えるかもしれないと
    思っちゃいました。
    『アーサー王伝説』はいわば英語圏では
    『古事記』みたいな物語で、
    言わずももがな、の事柄が多すぎるのだと思います。
    でも最近の若者は教養がないから
    アマテラスとスサノオが姉弟だと知らない人がいるように、
    ランスロットは円卓の騎士だと知らない人がいるように、
    最低限の解説はしてほしいものだ。
    しかしそれを描くと『指輪物語』みたいになってしまうのか。
    ただ、テーマはわからん。
    アーサーのあの戦闘は単なる自己満足か。
    あれが『自由』のためなのか。
    ごめんなさい。ぐちぐちいってしまいした。
    全部きちんと見たわけではないのに(^^;)。





2004年08月01日(日)
『スチームボーイ』は50点

『スチームボーイ』
 短評:点が辛過ぎるだろうか。
    あの絵描きの努力に対して無情すぎるだろうか。
    いや、これでいいのだ。
    『ぼくは未来をあきらめない』って
    どういう未来なのか結局わからなかった。
    お父ちゃんはいったいどういう人だったの?
あのエンドクレジットは最大の謎だ。
    誰かあれを解説してくれー(T_T)




2004年07月31日(土)
『ウォルター少年と、夏の休日』は65点

『ウォルター少年と、夏の休日』
 短評:決して悪い話ではない。
    『ビッグ・フィッシュ』に感動した私はもっとこの話に
    高得点をつけてもいいような気がするのだが、
    『だめだ』ともう一人の私が言う。
    話があまりにもまとまりすぎている、という点がひとつ。
    冒険談の中身が私にはどうでもいいことであった、のがひとつ。
H・J・オスメント、M・ケイン、R・デュヴァルともに
    持ち味を出してそれはそれでよかった



2004年07月30日(金)
「白いカラス」は70点

「白いカラス」アンソニーホプキンス 
題材的にはもっと感動してもいいようなものだし、出演者の演技になんの不満もないのですが、なぜか何の心も動かされないのです。でもあとで本の少し、じわりとあのときの気持ちはこうだったのかと考えさせられるものがありました。よって少し評価は高めです。



2004年07月29日(木)
「ハリー・ポッター アズカバンの囚人」は60点

「ハリー・ポッター アズカバンの囚人」
3作続けて途中で寝てしまった。今回途中まで面白く見ていたので大丈夫だと思っていたのだが、ゲイリ-オールドマンの登場が遅すぎた。その直前で意識がなくなり、気が付いたときは狼男の変身のとき。よって一番大事な部分をおそらく見ていないことになる。何もいう事はありません。ただ、これほど続くという事はやはりこの映画は私には合わないということなのではないかと思います。(今ごろ気が付く私です)