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2004年05月06日(木)
「折り梅」松井久子監督 原田美枝子 吉行和子

「折り梅」松井久子監督 は90点
前作「ユキエ」では、夫婦愛に焦点を絞って描いていたが、どちらかというと二人とも芯の強い人であまり悩んでいなかった。一方で「長いお別れをしているだけなのよ」というセリフから分かるように別離の物語であった。
今回の登場人物たちは思い悩み、試行錯誤し、精一杯介護保険を使い、そして最後には「共に生きていく」所で終る。非常に良かった。日本のアルツハイマー介護の到達点(ヘルパー、グループホーム、デイケア)も見えるし、吉行和子と原田美枝子の演技合戦(どちらも負けていない。私は引き分けと見た。一方では二人があまりにも凄いため、他の演技者の荒がみえる。)も見応えがある。
最後の終り方が「甘い」かどうかは私は判断が付かないが、私はあの描き方しかなかったように思う。「アルツハイマーになってもなお、東美展に入賞するような才能が花開く。(事実にもとずいているらしい)」人間とは凄いものだ、と率直に思わせるような映画である。そう思わせるだけでこの映画は凄いのである。04.01鑑賞



2004年05月05日(水)
「最後の恋、初めての恋」は65点

「最後の恋、初めての恋」
あまりにも定番な展開。最初のナレーションが最後に少し変わるのも予想範囲内。しかも説得力なし。ドン・シエ「至福のとき」とは一風変わった役柄をきちんと説得力もって演じている。心なしか太ったかな。ただ…あとで死んでしまう彼女の表情がひどく心に残る。幸薄い女の表情とはこういうものか、と思わせる。結局中国の役者に支えられて少しは見ることの出来る作品になっている。04.01鑑賞



2004年05月04日(火)
「タイムライン」は70点

「タイムライン」
強引な展開を半日の物語にしてぐいぐいと次々と見させる展開はなかなかなもの。冒頭のジオラマによる「歴史の説明」はもっとゆっくりやって欲しかった。考古学を上手いこと話の中に取りいれている。私としては好みにはあっている。04.01鑑賞



2004年05月03日(月)
「半落ち」は60点

「半落ち」佐々部清監督 寺尾聡 柴田恭兵 伊原剛志 国村隼 
日本人の演技というのはなにも喋らないで表情だけで読ませる、というのがここまで出来るのだ、というのを示した作品。ただし「空白の二日間」の意味が私にはどうしても分からなかった。だって…。まあいいや。決して今年のベストテンには残らない作品でした。04.01鑑賞



2004年05月02日(日)
「イン・アメリカ」は75点

「イン・アメリカ」
家族の一人を喪失し、家族が再生するまでの物語。最近多いこの展開ではあるが、全て違う物語になるというのは、やはり「幸せは単純だけど、悲しみの種類は星の数ほどある」という事なのだろうか。
二人の姉妹がいい。10歳と12歳。死の意味がが分かる前と分かったあと。良くある話ではあるが、子役に食われた作品でした。



2004年05月01日(土)
「月曜日のユカ」は80点

「月曜日のユカ」中平康監督 制作60年代
スタイリッシュなオープニング、所々の遊び心。純情で無知で可愛くて悪魔的な女、加賀まり子。今この役をやれる女性は一人もいない。ホントにいない。これは時代のせいなのか。確かに現代で、公的娼婦はいないから、その親から育った娘はいない。ユカのような価値観を現代にそのまま持ちこむ事は難しいだろう。しかしここで現れた「男と女の勘違い」は現代にも通用する事ではないだろうか。となるとこのような作品をつくらず、このような新人女優を例えば高校生の中から発掘していないのは、現代のプロデューサーの怠慢なのではないだろうか。反対に言えば、加賀まり子とはまさしく稀有の女優だったのだ。それを写し取った中平康もまた。



2004年03月01日(月)
光州全州釜山への旅(2-2)

シュウは嵐をやり過ごしたあと、命を削って三日かけてカナの海岸線にたどり着く。ナムジは星と太陽とわずかな島影を見て正確にカヤに着き、さらに都まで送り届けてくれた。6人居た乗員は4人に減っていた。
贈答用の絹・塩は全て流され、わずかにくす玉が一つ残ったのみで、シュウに王族への謁見が許されるはずもなく、くす玉を売って言葉を覚え、機会を狙う。
王族へ近づく唯一の道は兵士となって手柄を立てる事だと教えられ、西の国への遠征のための兵士群に入る。遠征の中でシュウはヨッサムという同じ年の少年に出逢う。

長い旅になった。将軍たちは馬という乗り物にのって軽々と山を越え、村村で村長絶ちの歓待を受け、朝は遅くまで寝ているのに対して、千人はいる徒隊は日が昇るとすぐ雑煮を食べて腹を満たし日が沈むまで歩きとおすのだ。日が沈むと料理当番にまわされ肉片を焼き雑煮を煮るか狩猟隊にかりだされ、猪、鹿、穴熊を狩るか、どちらかであった。
途中の景色はこれがあれほど苦労してきた海のかなたのクニなのかと思うほど自分の育った山々と似ていた。低く連なる山波、大きな河と芦原、沼、そして田んぼ。しかし違うところもあった。山々にはわれらのクニにあった栗の木や、樫の木、ヒイの木、楠、がほとんど見られない。
「どうしてこんなに松の木が多いのだろう」
広葉樹林がいかにシュウたちの村に恵みを与えていたかまではシュウの知識では気づく術もなかったが、この景色気に入らなかった。第一暑さを癒す木陰や沸き水が見つからない。こういう山には果たして統べる神々なんているのだろうか、とヨッサムに言わせれば「要らないおせっかい」をしてみる。
「けれども感心している事もあるんだぜ」とシュウは行進をしながらヨッサムに話し掛ける。行進中のおしゃべりは厳禁だが、それは分隊長の居るときだけの話だ。武器の替わりに薪を作るための重い鉄斧を抱えながら辛さを紛らわすには取り止めのないお喋りしか彼らには残されてはいなかった。
「なけりゃ、こまるわい。そろそろそれを言わないとおらぁおめぇを殴るところだぜ。」
「これがホントにあの10軒の村の人たちだけでつくった田んぼなんだろうか。」
ヨッサムはシュウがあまりにも当たり前の事を言うので眼を丸くした。
「それだけかあ」気のない返事だ。
「いや、カヤの都の近くならともかく、こんな遠くはなれた田舎でも、たった10軒で見渡すような田んぼがつくれるのに驚いているんだ。」
「シュウのところはそうじゃないのか」
「ああ、10軒がつくる田んぼは村の中の散らばっている。河と溝と畦は共同でつくるけど、田んぼは水を引けて同時に水はけのいいところに限られているから飛び飛びになるんだ。」
「それは当たり前だ。でも土を慣れさせれば大丈夫じゃないか。」
「そんなに人手が居ないよ。一枚の田んぼはここの田んぼの半分くらいの広さしかないけど、家族総出でせいぜい4枚までが精一杯だ」
「それじゃ歩いて40歩くらいしかないじゃないか」
「ああ、だからたった10軒で歩いて100歩を10回以上、いやそのもう1回100歩を10回以上あるようなこの広さが凄いと思っているんだ。」
「そんなにおめぇたちの村は働かないのか。」
「そうじゃない。これが鉄の力なんだと思う。」
「鉄の力?」
「ああ、この鉄の斧さ。」
「このなんのために運んでいるのかテンで分からない重たいもんかア」
「これが鍬になれば、10人の働き手が40人の働き手になる。あんなに苦労して少しづつ田んぼを広げていたのがあっという間に出来る。木と鉄では圧倒的な違いがある。」
「ふぅぅん」
頭では分かっていたが、それがどういう意味を持つのかシュウはやっと実感できた気がした。それはつまり同じだけ働いているのに、米が四倍以上出来ることを意味する。つまりそれだけの貯蓄が出来る。それをもっと活用したなら…。シュウは改めても自らの使命に誇りと厳しさを感じた。
「それに鉄だと一撃で敵をやっつける事が出来るしな。けれども下っぱには回ってこないのが難点だな。」
ヨッサムはひとりごちていた。

60日も歩いた頃だろうか。シュウは不思議な光景を見た。巨大な岩が点点と宙に浮いている原っぱだった。一つの岩はほとんど一つの家ほどもあった。しかも四角なまるで
「ミコ様が祭りのときに上がって祈る岩によく似ている。」
ところがそれが一つ二つではない。ざっと見ただけでも20。いや、山の上のほうにも見えるからいくつあるのか見当も付かない。大きな岩が転がっているのではない。よく見ると岩の下で細長い岩が支えていた。その日は風の強い日であったが、もつろんびくともしない。岩の下は二本足のところもあれば、4本足のところもあった。岩の形も四角とは限らず、まんまるい物もあれば、大きいの小さいのいろいろだった。まるで4本足か二本足の岩の怪物がやってきてその原っぱで休んでいるように見えた。
「これはなんだ」シュウはヨッサムに聞いたがヨッサムも知らなかった。
「それは墓だ。」そばに居た老兵士が教えてくたれた。
「誰の墓なんですか」
「わしも知らん。誰が建てたのかも分からない。そもそもこんな岩誰も立てかけることは出来ない。神の仕業かも知れん。」
確かに岩は転がせば運んでくる事は出来るかもしれない。しかし二本足か4本足の岩の上に巨大な岩を載せるのは、どんな事をしても無理なように思えた。周りに村はない。枯れ木が独楽鼠のように転がっていった。
夜が来た。霧が灰のように降りてきた。寒さに眼を覚ますとシュウは平らに切り開いた岩の上に居た。明かに昼間に見た墓の上である。月は出ているが、霧が全ての世界に幕を下ろしていた。シュウは茫然と横たわっていたが、ふと頭の上に人の気配がした。飛びあがって声を発すると目の前に異様な風体の男が居た。逃げようとしたが、岩の下は奈落に続いているみたいで飛び降りる事は叶わない。「誰だ」返事はない。助けを呼ぶ。返事はない。
男は黙ってシュウを見ていた。きめ細かい太陽色の絹の着物に鹿の角の冠をかぶり顔全面を熊のように髭で蔽い、鼻は低く、唇は犬のように赤く、眼は狼のように鋭くシュウを見据えていた。右手に金属の被せものをした杖、左手に鈴のようなものを持ち、首からはまあるい鏡をかけ、服の至るところからは鐘やらなんかのマジナイ物を垂らしていた。風体や顔は似ても似つかないのに雰囲気はミコさまに似ていた。男が声を発した。冥界から届いてくるような低い声であった。
「東のクニから来た王子よ」王子という意味は分からないがシュウは黙っていた。
「名前はなんという」
「シュウだ」
「シュウ王子よ。そなたをここに呼んだのは我が一族の「秘」を授けるが為じゃ」
シュウはもう怖がっていなかった。短時間で環境になれるのはシュウの能力であった。肝が座っているともいう。
「私は王子ではない。ここに呼ばれた覚えもない。「ヒ」とはなんだ。」
「我が一族に代々伝わるウタじゃ。明日の事もクニの事も分からない。決して自らの利益にはならない。よって我が一族が絶えることを防ぐ事は出来んかったが、しかしずーとずーと先の世界が見えるのじゃ。」
男はシュウの最後の疑問にだけ応えた。しかしシュウにとっては言っている言葉は分かったが言っている意味は分からなかった。
「それガなんだというのだ」
「そなたがこのウタの伝承者なのじゃ。それはもう何百年も前に決まっている。」
「冗談ではない。私はそんな事のために来たのではない。そんなわけのわからない事に関わっている閑はない。私は明日の私のクニのために来たのだ。」
「そなたに断る自由はない。」
その言葉は、シュウの反論があらかじめ決まっているかのように即座に出された。シュウは急に戸惑った。
「なぜ私なのだ。私は単なる村の気象予報士の息子で長の息子でもない。ましてや王子でもない。そして私がここに来たのは偶然だ。」
「我らはこの村を追われた。我らは争いを好まなかった。ウタは争いに勝つための道を示してはいなかった。しかし生きる道を示していた。我らはウタの通り海を渡る道を選んだ。やがてその末裔がここに来てわれらがウタは循環する。ウタは言う。海を渡り王子がやってくる。王子は東のクニに平和の王国を築くだろう、と。」
「私は王子ではない」
「王子の意味は知らない。しかし私は蘇った。そなたが王子である証拠じゃ。」
そういうと男は杖を大きく1回岩に突き立てた。
左手の鈴をならすと、腰にぶら下げていた5つから6つの鐘がいっせいに唸り出した。
ウタではない。まして音楽でもないとシュウは思った。音は風の声に似ていた。いや風そのものだ。シュウは暗闇の中、洞穴の寝所で眼を覚ました。「へんな夢を見た。」
シュウはひとりごちた。もう一度寝ようとすると左手がなにかを握っているのに気が付いた。青銅で出来ている鈴であった。




2004年02月29日(日)
光州全州釜山への旅(2)

まさか、原稿用紙20枚以上になっているとは思わなかった。
シユウの物語は明日になります。
12月1日(月)
寝坊した。10時から8時まで寝ていた。さすがに疲れていたのか。さっさと降りて
フロントを見るとおじさんが寝ている。鍵を置いて外へ出る。外は霧だ。自動車が
ひっきりなしに通る。光州の朝が始っていた。日本みたいな風景だが、信号は玉が四
つ合った。
バスセンターに行き、今日は郊外バスに乗って支石墓を見に行く。コンチュ行きの切
符を買う。グズグスしているとバスに乗り遅れてしまった。次は9:20分発。30
分時間があるので近くで朝食を食べることにする。食堂のおじさんにコムルタンがな
いかと聞くとないという。腹が弱っているので何か辛くないものがほしいというと、
マンドゥパフ゛というのを教えてくれた。要するにギョーザご飯である。どのガイド
ブックにも載っていないこういうのがほしかったのである。韓国式に倣い、水ギョー
ザの汁の中にご飯を入れる。韓国ではたいていのご飯類はこのようにして「混ぜて」食
べる。たいていの食事が汁物とキムチなどの副菜で終わる。古代食みたいで面白い。
ギョーザご飯はおいしかった。

バスに乗った時点で昨日泊まったモーテルに手帳を忘れたことに気がつく。一日目の
日記の大半を書いた手帳である。仕方ない。後でとりに行こう。

バスはしばらく霧の中を走る。路線バスなのに高速に乗った。よっぽど高速料金が安
いのだろうか。霧が晴れると快晴。田舎道を走る。アスファルト道路が泥をかぶりゴ
ミゴミしているのはどのアジアでも同じだ。日本だけが道路もいつも清潔で特別なの
だろうか。川のそばに町や村があるのは日本と同じだ。低い山々を縫うように畑や田
んぼが作られている。日本と変わらぬ風景。

コンチュ(高敞)は路線バスといいながら、二駅目の終点にある。一時間のバス旅で
あった。バスセンターからタクシーで10分ほど行った所に、世界遺産登録遺跡コ
チャン巨石墳墓はある。支石墓(ドルメン)ともいう。コチャン郡は朝鮮半島、およ
び東北アジアでもっとも支石墓が密集している地域らしい。その数約2000基。
B.C.4〜5世紀の遺跡らしい。そして私が訪れた竹林(ジュッリム)里、上甲
(サンガップ)里の支石墓群は東西約1.7キロの範囲に447基が分布。(しかし
調査以前に破壊された数を併せると1000基前後)支石墓とはその漢字が示す如
く、支石がある墓である。福岡に在るような小さなものではなく、小は1m未満から
大は5m以上の高さ、テーブル式等幾つかのパターンに別れる。私は事務所でパンフ
と簡易日本語説明機を借りて散策に出かけた。

梅山村のドルメン。四角に綺麗に割った石を四つの支石が支えている。あるいは河の
流れにそって小さな石が並んでいる。階級差はやはりあったのだろうか。丘の上に登
る。ここから河や四方の村が見渡せる。巨大支石墓は3つ綺麗に並んでいた。明確な
人の意思。そしてこの石に土を被せるとそのまま古墳になる。原っぱにも無数の支石
墓がある。こんなにも密集しているのが今一つ分からない。一つ一つの墓は相当の労
力がないと作れないと思う。調子が悪くてレンタル説明機の説明はよく分からなかっ
たのだが、もっとも大きい140トンの石を運ぶのに、1200人の動員が必要だっ
たといっていたような。大仕事であるのと同時に、それだけの人を動員できるだけの
階級がこの頃すでに存在していたという事なのだ。私はひときわ大きいテーブル式の
石に登ってみた。もちろん回りに人がいない事を確かめてである。私はやはりこの岩
の上でなんらかの祭りをしたと思う。そしてひときわ大きいと、「私が一番高いぞ」
という気持ちにもなる。そういう「気持ち」(=階級差)はきっとあったろう。この
頃は青銅器時代である。鉄器で石を加工する事は出来ない。説明によると、巨石の割
れ目に木の楔を打ちつけ、水を注ぎつづけ、木が膨らみその力によって割っていたら
しい。原っぱに面した松の山がその石の採石場だったらしい。そこへ登っていくと松
の木の影から一人の青年が現れた。

時間を教えてくれという。私は携帯の時間を示した。それから会話集を介在して幾つ
かのやりとりがあった。どうやら彼は「エレクトロニックエンジニア」らしい。(ど
こかの工員かも。)私が日本人だと分かると、幾つかの単語を示してしきりに日本語
の発音を確かめる。これはほとんどの韓国人がそういう反応を示す。私たちは道端で
会ったアメリカ人に会話を習おうとするだろうか。彼の聞いてくるのは「どこから来
てどこへ行くの」「どうやって食事するの」「仕事は」食事(シクサ)の事をしきり
に聞くのでどこかへつれていかれるのか警戒したのだが、どういうことはない、日本
語の練習だった。取りとめのない話を30分くらいして、事務所でタクシーを呼んで
もらって別れた。

光州バスセンターに戻ると2時過ぎだった。私はともかく手帳を探しに昨日のモーテ
ルに戻った。受付ではおじさんが昼寝をしていた。私は会話集巻末の簡易辞書を駆使
してともかく、「忘れた」「ノート」「行く」「探す」等の単語を並べて示したが、
おじさんはなぜかいい顔をしない。何度もペけ印を出す。私は一目昨日の部屋に行け
ばいいのだが、どうしても行かせてくれない。「大事」「大切」の単語を示してねば
ること10数分、ついにおじさんは私をつれていってごみ箱をあさってくれた。なん
と昨日の部屋のごみがその中に確かにあった。しかし私の手帳はなかった。そこまで
してくれた以上私には何も言うことはない。私は無理を言った旅人として迷惑を掛け
た事と精一杯の感謝の気持ちを態度で示してモーテルを離れた。私の一日目の記録は
その日のうちに急遽思い出したまま書きとめたメモがもとになっている。


そのあとタクシーで5.18墓地に行った。光州に来た以上必ずここは行きたいと
思っていたのだ。韓国はほんのつい最近まで軍事独裁政権下にあった国である。第二
次世界大戦後の南北分断、1960年以降の軍事政権下のあと1980年の光州事件
でそれは頂点に達する。民主化運動を軍隊を使って弾圧しようとして、運動と関係な
い市民も含めて多大な犠牲者を出したのが光州事件である。今は完全に当時の政府の
処置は誤りとされ、犠牲者の墓地は「国立」として整備されている。長期軍事独裁政
権を武力に拠らず、民主化運動で覆した韓国の運動の雰囲気を少しだけでも味わいた
かった。バスセンターの観光案内所に行くと「光州広域市5.18宣揚課」が作った
カラー24Pに渡る日本語無料パンフがある。

5.18墓地に行くと20才、17才、15才等の墓が目立った。全員1980年5
月18日前後に死んでいる。17才、15才は明かに「巻き込まれ型」の死亡であ
る。体験館でドキュメントビデオを少しだけ見る。若者が大集会を起こし、そして整
然とデモをしている。そしてその通りの向こうから戦車がやってくる。この墓地の入
り口に立ったとき、受けつけのガイドの人が目ざとく見つけて暮れて幾つか説明して
くれた。なんと彼女は日本語が出来る。さすが国立墓地である。彼女の説明による
と、「光州は金大中の生まれ故郷。当時でも民主化運動のもっとも激しく象徴的な都
市でした。チョン・ド・ファン大統領はここを潰せば、全国の運動は下火になると踏
んだのでしょう。」この事件に関わったチョン・ドファンとロ・テウ両元大統領が囚
人服姿で法廷に並ぶ映像も見た。(日本でも「元首相」のこういう映像がながれても
決しておかしくはない国なのだが)ドファンは終身刑、テウは18年の刑が下った。
「でも今は釈放されて悪い事をしています。」「親戚にお金をまわして、自分は財産
を持っていないと税金逃れをしたり…」ガイドの人とはバス乗り場でもいっしょにな
り、いろいろと話を聞いた。光州という土地ガらか、元大統領に対する目は冷たい。

バスの乗り降りで失敗をしながら、繁華街に着いた。一度食べたいと思っていた無等
どじょう専門店があったので寄ってみる。まるで粉のようにどじょうがすりつぶされ
ており、臭みもまったくなく、これで滋養がいっぱいだと思うと少しありがたみあ
り。

2日目の宿は繁華街の近くにした。モーテルっぽいので少しためらったが、「部屋あ
る?」「ネー(はい)」「オンドルバンある?」ここでいろいろ言ってきた。てっき
りないのかと思って帰りかけると「オンドルバンあるよ」と言ってきた。うーむ、な
ににこだわっていたのか全然分からない。「キーある?」と事前に鍵の単語を覚えて
いたにもかかわらず、いざというときには言葉を出すタイミングを逸する。しかしア
ジェンマ(おばさん)は少しも動ぜず、鍵を持って部屋に案内してくれた。布団が最
初から敷いてある。布団がカラフルだ。床暖房でぽかぽか温かい。非常にきれいな部
屋だった。もっと場末の部屋を想像していただけに意外。これで25000Wは安
い。(風呂は付いておらずシャワーだったが)

さっそく一杯飲みに出かける。うろうろしている間に、中学生、高校生、若者がたむ
ろしている通りに出る。これがガイドの女性が言っていた「日本の原宿みたいなとこ
ろ」なんだな、と思う。8時過ぎているのに君たちの親は怒らないのか、と自分の国
のことは棚に上げて思う。写真の付いた専門店が目に止まった。ポっサムの専門店ら
しい。入ってみると板敷きの間に案内された。一人で食べに来ているのは私だけだ。
一番安いポっサムは17000Wだった。半人前もあるよ、と教えてくれてそを頼
む。ついでにビールも頼む。今回の旅ではじめて飲むビールだ。(OBビール)出て
きた白菜ポっサムはとても一人では食べきれそうにない量の半人前だった。白菜と味
噌と分厚い蒸し豚が12枚ほど。蒸し豚が柔らかくかつ微妙に味付けがされてある。
包んで食べると確かに美味しい。ビールも美味しかった。しめて13000W。

12月2日(火)
朝が来た。三日間たまっていた(大)をする。すこぶる快調。やはりキムチは凄い。
博物館が開く9時まで、朝の散歩をする。道庁前の5.18広場は今は単なるロータ
リーでしかない。しかし1980.5.18はここは人でぎっしり埋まっていたの
だ。身の危険を感じながらも数万の人たちが集まるという事はどういう事なのだろう
か。それから光州川に沿ってしばらく歩く。1929年の光州独立学生運動の記念碑
があるという公園に行ってみる。

そこは公園ではなかった。記念館があった。ソウルパコダ公園から始まった3.1独
立運動と並び、戦前の「日帝」に対する反対運動としては画期をなす独立運動だっ
た。大きな特徴は高校生の運動として始まった事である。ここは日本のガイドブック
には決して出ていない場所であった。しかし一応ここも光州の観光コースになってい
るのだろう、資料はあまり充実しているとはいい難かったが、日本語、中国語併記の
説明書も置いてあった。安重根記念館、独立運動記念館等、韓国にはいたる所に日本
帝国主義と闘って死んでいった人々を顕彰する施設がある。「闘った」人々を顕彰す
るのは社会主義国特有の事ではない。

そのあと光州国立博物館にいってみた。私が興味あるのはせいぜい百済時代までなの
で、この博物館の1/6を見ればことが済む。それでも一時間ぐらいかかってしまっ
た。

石器時代(BC.4500〜BC.3000)の石斧や石刀も、無紋土器鉢(BC.
3000−1500)もなんて薄いのだろう。しかも鉢は弥生時代の土器に似てい
る。こちらの青銅器時代は弥生時代初期に当たる。全て石剣、石斧は「磨製」であ
る。農耕文化である。漁労具などは弥生時代と同じ。大谷里遺跡(BC.4−3)独
特の八珠鈴が出土。初期鉄器時代(BC.2−1)。銭がすでにあった。原三国時
代。土器もバラェティに富み、鉄器も豊富に出てきている。武器類、鉋、鑿、斧、
釜、針、ナイフ全て鉄で作られていた。墓に日本とは違う円筒(円筒埴輪?)が出土
していた。

11時15分発の高速バスにのって全州にいった。バスターミナルで観光案内所を見つけ
るのに戸惑ったが、親切な切符もぎりのおっちゃんに案内されたどり着く。今回気が
付いたのだが、光州にせよ、全州にせよ、案内所や主要公共施設には必ず日本語が出
来る受け付けがいた。ソウルと違い普通の店では日本語は通じない。たぶんワールド
カップの影響だろう。そういえば、光州も全州もカップの会場だった。あれから2年、
めったに日本人はこないだろうに、職を失うことなくちゃんと働いているところがい
いですね。さて、その観光案内所で、宿として韓屋生活体験館というのを紹介され
る。韓屋の伝統家屋のオンドル部屋に安く泊まれるというのだ。(朝食付きで50000
W。)願ってもないけど、昨日泊まった宿みたいに決まった言葉だけ喋ればいいわけ
ではない。まあ、あたってくだけろ。タクシーで着いたのはちょっと勘違いして付属
施設の伝統酒博物館。オフィスの人に案内してもらいそこから10mほど離れた宿泊施
設の事務所につれていかれる。ちょっと困ったがなんとか部屋が取れた。部屋は昨日
より小さいけど、さすがに遥かに趣がある。「朝食は8時集合」「鍵はこれ」「シャ
ワーとトイレはこっち」と必要な事だけ聞いてあとは自由だ。あっ「鍵の開け方(南
京錠だった)と、何時までに帰ればいいのか聞くのを忘れた」でも事務所のお姉ちゃ
んは旅館の伯母さんより頭の回転も早いし、英語も少し出来るので、なんとか通じる
のだ。

荷物を置いて韓屋の町並みを見て歩いた。思えばこの旅で初めて一般の観光客みたい
な事をした。李朝時代の韓屋を保存してあるという事で、一般市民が住みながらの保
存は倉敷の町並み保存の方法によく似ている。黒い瓦は朝鮮半島では珍しいのだろ
う。小高い丘から眺めると、まさに倉敷の町並みを眺めているみたいだった。夕方街
中に出る。この小さな地方都市に、シネマコンプレックスがなんと4軒、名画座が1
軒固まっている。全州は年1回映画祭があるそうだが、若者が多い街になっていた。

全州といえばビビンバ。盛味堂のビビンバを食べる。味はソウルのそれとはあまり変
わらないが(値段はソウルより1000−2000高い。)、なんと副菜が12品目
もついた。「食は全州に在り」これは味の上手さよりも副菜の多さなのか。

さて、ここで次ぎの日の午前中に見た博物館なのだが、全州国立博物館の見聞記を書
いておきたい。この次ぎに載る「シュウの物語」に関連しているからである。光州博
物館も全州博物館も、もっと充実したパンフがあるかと思っていたのだが、300円
ほどの簡単なものしかなかったのはがっかり。ただ、全州のほうが古代でいくらか充
実していた。特に青銅器時代のシャーマンを再現した人形があるのはびっくり。どこ
の遺跡かは分からなかった。ここの祭祀長はひげづらの男である。体にいろんな青銅
器を身にまとっている。 パンフにはハングルの文章の間に粗文鏡、剣把形銅器、竿
頭鈴、銅鐸などの漢字がちりばめられている。ここの銅鐸は服に五つも六つも吊り下
げる事の出来るいわば鐘を鳴らすための銅鐸である。この文化の特徴は、無文土器、
狭い住居、支石墓、石棺墓、階級差。この「男」のシャーマンの元、あの支石墓が作
られたのである。初期鉄器文化(BC.1−紀元前後)は平野部川辺に広がっている
らしい。牛、馬、豚を飼っていたらしい。農業生産力深まる。住居は長方形の竪穴。
黒色磨製土器、精文鏡など出土。原三国文化(紀元−3AC.)は部族国家である。
鉄器を使い、登り釜、方形あるいは長方形の竪穴住居、占骨、周溝墓。そして伽耶の
文化の特徴は小国の連合組織で大きな国を作ろうとはしなかった、しかし鉄の生産と
対外貿易では大きな力を持っていたらしい。やがて新羅に滅ぼされるが、それは古墳
時代。シュウは百済が起き始めた頃、伽耶が連合組織として充実していた頃の話であ
るのだろう。

韓国二日目
   600    缶コーヒー
  1000    卵カステラけれども甘い餡いり
  3500    マントゥバブ
  6800    バス(往復)
 12000    タクシー(往復)
  1000    解説機
  5500    ソルロタン
 11000    みやげ
 13000    白菜ボッサム ビール
  5000    どじょう汁
 10000    タクシー
 25000    宿賃       計94400

韓国三日目
 14200    タクシー
   400    光州博物館
  9100    本
  7100    全州行きバス
  3000    キンパブ 水
 50000    韓屋生活体験館
  8000    どじょう汁(全州)副菜が11品目も付いた
  4000    カフェモカ(立派な喫茶店。味は普通。)
 11000    ビビンバブ 焼酎
 19000    本           計125800






2004年02月28日(土)
再始動します。 光州全州釜山への旅(1)

しばらく休んでいました
その間にもどんどん文章は出来上がっています。
在庫を整理する意味でも再開したいと思います。
これは去年の年末の旅です。
実は(1)(2)はあるのですが、(3)はまだできていません。
小説つきなので、遅いのです。
気ままに待っていてください。

11月29日(土)
11月29日深夜倉敷から博多行きへの深夜バスに乗り込んだ。高速バスは初めての経験。明朝7:05に駅に着き、8:00までに港に行かなければならない。「なお、交通事情で遅れた場合はご了承ください」というアナウンス。そうか、そういう場合は考えていなかった。もう遅い。途中大きな事故が起こらないことを祈るばかりだ。

今度で韓国に行くのは6度目だ。一回目はソウル滞在。市内を巡り歩き、安重根記念館やらともかく市内を歩いた。二回目再びソウルへ。板門店を一日かけていく。三回目、高速バスに乗り、百済の都扶余に行ってみる。三回目にして初めて考古学が旅の大きなテーマになる。四回目、職場の仲間を案内するという名目で「観光地でない韓国」を歩く。一日かけて鉄道に乗り日本との抗日運動を展示してある国立独立記念館に行く。五回目、初めての船旅。博多からセマウル号で釜山へ。市立博物館やチャガルチ市場、古代任那の都加那の国(現在の金海)に市外バスに乗っていってみる。慶州にも行った。

今回の旅の目的は三つある。ひとつはまだ行っていない地域、光州、全州に行くこと。光州では1980年の光州事件の跡、そして韓国の民主化運動の影を少しでも感じること。光州市郊外の支石墓(世界遺産登録)、あるいは光州全州の博物館をめぐって全羅北道の馬韓、弁韓、そして百済の古代の姿を見て、日本のそれと比較したい。ひとつは今回宿を決めずに出発する。初めて韓式旅館に泊まることに挑戦したい。こういう旅が出来れば、一泊3000円クラスの宿に泊まる旅が出来るので格安で旅が出来るし、オンドル部屋(布団敷きで床暖房がついている部屋)に泊まれば韓国の生活にも触れることになるだろう。ついでに節約旅行にも挑戦したい。29日深夜から5日早朝にかけて七日間(実質五日間)を七万ですごしてみようと思う。今回船(高速艇ビートル号)、深夜バスともに往復割引のチケットを入手するのに成功した。よって船代20000円、バス代12400円。韓国内は37000円で過ごせばいいわけだ。出来ると思う。

そしてもうひとつの目的。今回一人の男の子を旅の道連れにすることにした。その男の子の名前はシュウという。私が長いこと暖めている弥生時代を舞台にした小説の主人公(の予定)である。全体の構想はまだあって無きが如しで、まるで今回の旅のようだ。そして小説として成り立つのかさえ保証の限りではない。昔ジブリの「思い出ぽろぽろ」というアニメがあったのをご存知だろうか。都会育ちの女性が自分の生き方を探して農家に労働体験をしに行く。その彼女が旅の道連れのようにして持っていったのが、小学校時代の自分の「思い出」だった。作品はリアルな絵柄の現実の彼女とマンガチックな思い出の彼女が平行して進む。今回のレポートもそのようになるかもしれない。よってずいぶん長いものになるだろう。話もずいぶんあちこちするかもしれない。興味ないところは飛ばして読んでもらいたい。(私としてはすべて韓国を理解するために必要なことだと思っているし、小説の材料だとも思っている)

(シュウの物語承前)
シュウは今度倭国の一地域(現在の倉敷市)からクニの実力者である御巫様に見込まれて加那の国の使者に発つことになった。贈り名は「キビ彦」という。製鉄技術の導入、あるいは製鉄技術を持った人間を連れてくるというのが彼に与えられた密命である。時代は一世紀なのか、二世紀なのか、はたまた三世紀なのかはまだ明らかになっていない。(というかまだ決めていない^^;)話はシュウが玄界灘を渡るところから始るだろう。

11月30日(日)
朝が来た。バスは予定とおり7時についた。7時30分に中央埠頭について受付を済ませて船の乗り場に行くとビートル号はなんて小さい。一抹の不安がよぎる。不安は的中した。8:45博多港出発。15分もしないうちに船は大揺れに揺れた。いわゆる飛行機のエアポケットが常時3時間続くようなものだ。波は黒く生き物のようにうねる。これが玄界灘か。古代の船乗りたちはこの海を渡っていったというのだろうか。船の中の1/3の乗客たちは次々と備え付けの紙袋に吐いていた。私もすっかり船酔いして二回吐いた。船は奇跡のように無事釜山に着いた。なんと晴れである。常連客らしき女性が「今回の波は3mくらいだったかしら。前は5mあったし……。」えー!今回は台風が近づいているための「特別」ではないの?それじゃ、帰りもこのくらい揺れるかもしれないということ?かんべんしてよー。もう二度と高速艇には乗らないぞ。一日目にしてとんでもない旅発ちになった。

まず、35000円を両替した。正確な数字は忘れたが約370000Wになった。これ以内で韓国内を過ごせば目標達成である。

地下鉄に乗ると酔いがまだ収まっていないためか一種独特な匂いに気分が悪くなる。これがキムチで生活している人たちの匂いなのだろうか。(帰りに同じ地下鉄に乗ると全然匂わなかった。慣れとは恐ろしい。)地下鉄一号線最終駅まで行くと総合バスターミナルに接している。まずはうどんで腹ごしらえをして光州行きの切符を買う。今日は移動だけで一日が終わる予定である。ここの受付は簡単な日本語なら出来るので迷うことはない。「キョンジュ、イーチョン」で切符を買い、会話集を指差しながら、「バスはどこから発着しますか」と聞く。「四番乗り場はあっちです」と日本語で返ってきた。

ところで私は韓国語はほとんど出来ない。今までの旅は移動と買い物だけで用が済んだので「これ下さい」「ここまでお願いします」「ありがとう」「こんにちは」「いくらですか」だけで何とか用が済んでいた。後はハングル文字を見せればいいわけだ。しかし今回はもう少し複雑な会話が必要だろうということはわかっていた。今回の旅で大活躍したのは情報センター出版局の「旅の指差し会話帳韓国」と「食べる指差し会話帳韓国」、そしてJTBの「地球の歩き方韓国」である。基本会話はこれを見ながらしゃべる。あるいは指差す。それで多くの場面を切り抜けることが出来るだろう。とくに二冊目の「食べる」の付録でハングルから日本語を見つける簡単な単語帳があって、時間はかかるが複雑な会話のときずいぶん助けてもらう予定である。

さて、後はバスの前面に張ってある行き先確かめて乗るだけだ。高速バスは光州までノンストップだ。映画館もそうだが、韓国ではちょっとした切符はたいてい座席指定である。適当に座っていると怒られてしまった。途中サービスエリアで休憩がある。降りるときは出発の時間とバスの位置を確かめることが必要だ。運転手は一応出発前に数を数えてはいるが、置いてけぼりを食ったら大変なことになる。バスはまったく快適だった。テレビがついていて、無線で受信して昼のドラマをしている。7年前に初めて韓国に来たとき、CMが20年前の日本のCMみたいで飽きれたものであるが、今回久しぶりに見て、技術的には日本のものとは遜色ないまでに進歩しているのに気がついた。ただし、いわゆるエスプリはまだ足りない。途中の景色に日本とは違うところ(家の形、高層アパートの群れ、小さい古墳みたいな祖先墓etc)と、日本と同じところ(低い山々が連なり、川のそばに町があり、広い田んぼがあるetc)を見ながらうとうとしていると、4時間で光州についた。

とりあえずバスセンター近くの旅館を探した。怪しいモーテルしかない。(韓国のモーテルはラブホテルを意味しない)探すのに疲れていた私は適当な一軒に決めた。「部屋ありますか」「あるよ」「いくらです」「モゴョモゴョ」まあ2,000〜3,000円だと思い、3000Wを渡すと怒られた。まだウオン計算に慣れていない私でした。部屋は25000W。普通のシングルと変わらない。(ダブルベッドに枕が二つあるのを除いて)その後食事に出かける。鍵は自分で持ち歩くシステムらしい。事前に光州市のHPからひろって印刷してあった「味の街」というページ(ハングル版)を見せて、タクシーの運ちゃんに「ここへ行きたい」と頼んだら、あっちこっちに行ったり、携帯で会社に聞いたり、はてはHPにある電話番号に電話してくれて、店の人が道路まで迎えに来てくれた。そこまでしてくれたのかとずいぶん恐縮してしまった。ところで韓国のタクシーの運ちゃんは本当に土地の場所を知らない。相当有名な観光地を言ってもなかなかわからなかったりする。日本語はおろか、英語もわからない、と見ておいたほうが無難である。ハングル表記の地図とその場所のハングル文字は必携である。(よってまず観光案内所でそれを手に入れる必要がある。ソウルなら「地球の歩き方」で十分。)さて、苦労して入った地元の人しか居ない様な食事屋。名物料理のサンバプを頼んで、ついでにマッコルリ(濁り酒)を頼んだら、何を間違えたか、いつまでたってもサンバプはこなかった。けれども実はそれで十分だった。最初次々と副菜がやってくるのでてっきりサンバプだと思って、「どうやって食べるのか」と聞いたら、店のおばさんは困ったような顔をして土瓶に合あった白い飲み物をお椀に注いで之を飲めという。白い飲み物はなんかの汁だと思っていた私は之が頼んだトンドン酒(マッコルリ)だとそのとき初めて知ったのでありました。そうなるとこの副菜はすべてトンドン酒についていたものだとわかる。なんと副菜十皿。いやーおいしかった。酒は全部飲みきれず。副菜も食べ切れなかった。それで恐る恐る勘定を聞くとなんと5000W(500円)。光州の芸術通りの店チャンモイ、お薦めです(^^;)
 韓国一日目
  地下鉄    800W
タクシー(2回)8500W
時刻表    5400W
高速バス  18700W
うどん    4000W
トンドン酒  5000W
宿代    25000W 計67400W
(以下シュウの物語)
イキの国の山々が海面に沈んでいく。とうとう一人になったとシュウは感じた。自分とつながりを持った人間がこれで一人も居なくなった。あとは自分だけで何もかも決めなければならない。
「おまえ何歳だ」それまで黙ってともに櫂を漕いでいた船頭のムナジが言った。
「14歳だ」
「そうか……。おまえのクニはどうやら人を試し鏃のように使うクニのようだな」
「ちがう。私には大きくて遠い使命がある。ためし鏃のために絹を五反も使うだろうか。」
ガハハハ、とムナジの背中が揺れた。盛り上がった筋肉がしゃべっているみたいだ。大人の身体、しかも最高級の身体だった。
「おまえにとっては絹五反は一生かかっても払えんものだろうが、クニにとっては単なる運試しの代償だ。おまえの使命とは何だ?」
「……それはいえない」
ふん、と肩を揺らしてムナジは空を仰いだ。
「どうやら天つ神はここで我らを試されるみたいだ。ツシマの国まで持たなかったな」
そういわれて行き先の空を眺めると、それまで島影のようだった黒い雲が見る見る半島ぐらいに大きくなっている。日はかんかんと照っているのだが、波が蛇のようにうねり出した。
「あと一刻の間、一生懸命漕げ!その後は櫂を仕舞って俺の指示に従え!」
ムナジがひときわ大きい声で言う。不思議なのだか、別に怖がってはいないようだ。ほかの五人の漕ぎ手はくるべきものがついに来たことを感じていた。シュウはアカネの最後の言葉をふと思った。「シュウは戻ってこない」
ただみんなの想像はあくまでも甘いものであったことがすぐにわかる。実際はるかに過酷だった。

海はいまや黒いまがつ神だった。目の前の黒い巨大な生き物が、すべてを飲み込むように近づく。あまりにも大きい。10歳のときの死んだ熊、12歳のときに倒した猪、そんなものはこの魔物の前では芥子粒だ。魔物を背中を我々は通り過ぎる。今回は許された。我々はただひたすら船にしがみつく。ひとつ通り過ぎるのに、天に上りそして死の国に落ちる。船頭は「口を開くぞ」と怒鳴る。魔物は白い口をあけて我らを飲み込む。船は驚くほど沈まない。いまや壺の中の食べ物は総て捨てられ、船の中に溜まった海水を掻き出す道具と化していた。もうだめだ、もう間に合わない。そういう瞬間がもう何度も、何度も、何度も、何度も続いていた。隣のナの国から来たという男はいつの間にか見えなくなった。「永遠(とわ)」というときが続いていた。
「これが我らが海ぞ。面白いだろう」
ムナジが筋肉を笑わせていた。
シュウは気が遠くなりかけていた。真横を黒緑の鱗を滑つかせて竜が通り過ぎた、と思った。



2004年01月29日(木)
「柿照」講談社 高村薫

「柿照」講談社 高村薫
この冬「マークスの山」を文庫版、単行本の順に読み、合田刑事シリーズにはまってしまった私である。

合田と森のコンビが、8月2日の電車で、偶然轢死事故を見るところからこの物語は始まる。女を弾みで電車の前に突き落としてしまった男。その男を亭主だという白いブラウスの女。合田は轢死した女を別れた妻貴代子ではないかと疑ったりしている。今回の合田は単行本版の合田の続きである。断じて文庫版の合田ではない。貴代子のことをこんなに女々しく思いつづけているのだから。

この作品は表面は犯罪小説ではあるがそう思って読むと消化不良を起すこと必死である。「罪と罰」を探る暑い暑い夏の数日間であり、自分自身の「暗い森」の中で「呼び止めるべき人の影」を見出す物語なのだ。「罪」というは、法律の条文に現れた事象のみを意味するのではない。「罪」の自覚無しには「罰」は現れない。なんて自分かってな「恋」だったのだろう。自分を追い詰めるだけの「仕事」だったのだろう。いわばそういう私にもある自分自身の「罪」を自覚するまでの物語。

実は私はこの作品をドフトエフスキーの「罪と罰」と並行して読み、読書ノートにまでとって読んだ。しかしそれてでもいまだにどう整理していいのか分からないでいる。今年100冊近く読んだ本の中でベスト3に残る作品になった。