ぶつぶつ日記
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2005年10月15日(土) |
親の「もの」ではない |
実の祖父に性的虐待を受けていた女性の精神被害に対して 賠償請求の判決が出ましたね。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051014-00000013-yom-soci
これはとても極端な例ですが、 子供というものは、親(今回の場合は祖父になりますが)が 好きにできる「もの」ではないんですよね。
子供は、親の庇護下にあります。 でも、だからといって、親が好き勝手にできるわけじゃない。 庇護することと親の好き勝手にできるってのは、 違いますからね。 その境界線が、理解できない人も多いんですよね・・・。 暴力的なだけじゃなく、良かれと思っていることでも、 子供にとっては、強要という意味では変わりなかったりするし・・・。 難しいですけど。
とあるテレビ番組を見ていたら、 世界には活火山が600いくつかあるそうで、 そのうちの108が日本にあると言っていた。 煩悩と一緒ってのがまたすごいが、 6活火山に一つは日本にあるというのが、怖い。 活火山の中に国があるようなもの? これじゃ、そこかしこに温泉が出て当然よねーと、 草津の山奥で、温泉につかりながら思ったものです。
パキスタンでも地震があって・・・。 救援がだいぶ遅れているらしいですね。 カシミール地方というのは、インドとパキスタンの衝突地帯で、 色々あってなかなか救援も難しいのだろうなとは思うのですが、 こういう災害にあっても、国どうりの利害や対立が影響してしまうのは、 なんともいただけないものです。
人間の煩悩と一緒で、国の利害や対決っていうのも、 そう簡単にはなくならないものなのでしょうね。
ちょっと間が開いてしまいました。 今日は、日帰りで金沢へ。 学会に参加してきました。 メインは学会より、兼六園と晩御飯だったかも(笑)。
今週からまたしっかり書きますね。
日清カップヌードルの一連のCMを作っている人たちは、 すごい勇気のある人たちで、 そして、それを作らせている日清と言う会社も、 すごい会社だなと思う。
http://www.nissinfoods.co.jp/product/cm/ 以前から、この一連のコマーシャルには注目していた。 今回、出演しているのは、イランに住むアフガン難民の子供たち。 異国の地で、不自由な難民生活をしている子供たちだが、 向ける笑顔は屈託がない。
アフリカの少年兵を思わせる黒人の少年のCMも印象深かった。 彼のように、銃を置き、女の子とカップラーメンを食べることが、 この世にありえないほどの贅沢である少年兵は、世の中に一体何人いるだろう?
一番最初に作られたCMでは、borderは一気に消えた。 でも、作っている人たちは、現実を見て、色々考えたんだと思う。 http://www.nissinfoods.co.jp/product/cm/show_cm.html?cm_type=B&cm_id=106 で消えるborderは、たったの2個だけ・・・・。 日清のサイトに書かれていたことばが、とても胸にしみる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 今回のCMは、前二作のように何千人で1本のBORDERを一気に消してしまう、というストーリーではありません。むしろ、いたるところに引かれてしまったBORDERを人々は仕方ないものと受け止めていて、CMの最後に消えるBORDERもたったの『カップ2個分』だけです。「世界に広がる怒りや悲しみを消し去るのは決して簡単ではない。でも、まずは足元のBORDERを消すことから始めよう。」という思いを込め、『希望篇』と名付けました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そう、まず足元にあるborderから消していこう。 いつか、全てのborderが消える日まで。
2005年09月27日(火) |
大人になれない・・・・ |
冷静に話すって本当に難しい。 相手は、わからないのだから、 噛んで含んだように説明しないとならないのはわかっているが、 それも毎回だし、もともと短気だし、 付き合いも長いし、ついついいらいらしてしまう。
どういえばいいんでしょうね? どう言えば、出来るようになるんでしょうか。
って、でもなあ、子育ての話じゃないからなあ。 相手は大人だし。
叱っちゃだめ!ってのもわかっているけど、 気がつくと叱ってます・・・。
良いのか、それで。 お互いに、それで良いのか??? 全く持ってよくないと思うんですけどねえ・・・。 そんなことを思ってるのも、自分だけなんだろうか・・・・。
みたいと思っていたトルコ映画「少女ヘジャル」を観た。 国なき民族クルド人、その立場は現在住居しているどの国でも 大変悪く、迫害されていると言っても過言ではない。 トルコでも、クルド語使用禁止だけでなく、さまざまな弾圧かにあり、 その結果過激な分離主義者(オジャラン氏はどうしてるんだろう?)の テロ活動が活発になって、 状況は厳しいものがあった(ある、かも)。
そんな中で作られたこの映画は、 クルド人に対するトルコ政府の政策緩和に 一石を投げたと言われている。 実際、トルコ国内で上映するまでに、 実に5ヶ月もかかっており、 監督本人も訴えられたそうだ。
ヨーロッパとも見まごうほどの高級住宅街、 そこに住む若い弁護士女性の家に、 貧しい身なりの老人が、幼い女の子を預けに来ることから 物語は始まる。 弁護士の家には、なにやら眼光鋭い男女がいて、 子供を預かるような雰囲気ではないが、 そこはそれ、何だかんだ言ってまだ古きよき人間関係が残っている国、 子供を置いて、老人は去る。 弁護士の家の前には、元判事の老人ルファトが1人で住んでいる。 息子は海外に行っている様で、そろそろ老人ホームに・・・ と言っては、通いの家政婦に止められたりしている。
実は、向かいの弁護士の家は、クルド人過激分離主義者の根城で、 子供が来たその晩、警察が突入。 有無を言わさず、大人は全員射殺。 子供だけが助かり、偶然ルファト宅に迷い込む。
あとは、想像の範囲内で、ルファト老人と子供の 心のふれあいストーリーなのだが、 実は、ルファトの家の家政婦がクルド人で、それを長年隠していたり、 ルファトと階下のおしゃれな老婦人の老いらくの恋なども絡み、 政治的な問題と、現代の高年齢化の問題などが、 うまく絡み合って物語りは進んでいく。
両親と兄弟をテロリスト一掃で殺されているらしいヘジャルの、 感情の波の表現がとてもリアルで、何度も泣かされた。 また、ヘジャルを預かるルファトのおたおたぶりの愛らしいこと! また、ヘジャルの親類が身を寄せたスラムと、 舞台となる高級住宅街の差が、現代のトルコの内政問題を、 かし痛烈に批判している。 そして実際、日々の悲惨なニュースを見ていたルファトが口にするのは、 「自分たちがこの国をこんなにしてしまった。」という自戒の念。 生きている現代トルコ史といえる75歳の年齢、 先人の責任というものを考えさせられるシーンであった。
最後の結末が、私の中では予想外だったが、 これまたなんとも、趣のある結末だった。 1人の子供の将来を案じる、何もかも異なる二人の老人。 彼らに共通しているのは、「この子を、幸せに・・・。」 という思いだけ。 だからこそ、彼らはヘジャルの意思を尊重し、 彼女の好きなようにさせるのだ。
世界にはヘジャルのような、そしてもっと悲惨な子供が たくさんいるんだよなあ。 彼ら全てが、幸せになることなんてないだろうけど、 でも、やはり、願わずにはいられない。
日本に仕事で来ているのは知っていたが、 忙しくてまだ会っていなかった友人に、 偶然彼女が現在働いている大学の前のコンビニで会った。 ヘジャブをかぶり、アラブ服(ロングコートのようなワンピースのような服)を着た人が目に入ったので、 さすが「TG大、アラブ人ね・・・。」と思っていたら、友人だった! 「レーケダ(なんで、そうなの?)」と思わず第一声。 だって、私が知っている彼女は、ごく普通の西洋服を着て、 ヘジャブをかぶっていない女性だったから。 話を聞くと、3年前からヘジャブ+アラブ服だそうだ。
フェミニストには理解しがたいものだろうが、 アラブ人女性やムスリマ(イスラム教徒女性)には、 根強い「ヘジャブ信仰」がある。 彼女たちの中には、ヘジャブをかぶる=女性としての完成形、 のように思っている人も多くて、 「いつかはヘジャブをかぶると思う(かぶりたい)。」 「でも、まだ早いから(人間的に未熟)。」 ということを、数人から実際に聞いたことがある。 上記の彼女は完全なインテリ女性、 独身時代、日本に留学し博士号を取っている。 だから、日本でヘジャブ+アラブ服を着たら、 どれだけ目立つか、そしてこのご時勢、 危険も伴う可能性があることを、 十分理解している。 でも、あえて、自分の意思でそれを貫いている。 実際に、私が茶化して、 「学生はアラビア語を勉強しているって気分になるね!(先生の服装をみて)。」と言ったら、 「学生のためじゃないよ、自分のためだよ。」と言っていた。
3年前、彼女に何があったんだろう。 状況を考えて、それが何であったか想像ができるが、 個人が特定できてしまうのでここには書かない。 問題が片付いた時、彼女の中でたぶんごく自然に、 「その時」が来たのだろう。 私は、こういう気持ちは、尊重すべきだし、 そうして身に着けているヘジャブを「女性の権利侵害」とは思えない。 女性の権利を侵害しているヘジャブは確かに存在する。 しかし、全てがそうだとくくれないのだ。 そして、ヘジャブのように目に見えるものだけが、 女性の権利を侵害するものではないと思う。
本当に恐ろしいのは、目に見えないものなのだ。
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