ぶつぶつ日記
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2004年12月24日(金) |
クリスマスに、心温まるはなしを |
クリスマスですね。 地味〜に職場です(笑)。 イラクより、心温まるはなしが送られてきました。 荒廃した国の中でも、イラクの人たちはがんばっています。 それをどう手助けしたら良いのか。 果たして、それは軍を送ることなのか。 色々考える年の瀬です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (TUP速報)より転記
ドナ・マルハーン 少年たちとウサギ 2004年12月15日
お友達の皆さんへ、
その少年たちに会いに私が訪ねていったとき、私に最大の喜びを与えてくれたのは、 そこで目にしたことばかりではなかった。そこで目にしなかったことも、このうえな い喜びを与えてくれた。
私が目にしなかったのは、その少年たちの多くの姿だった!
6人が学校に行っており、2人が仕事につき、その他の者は自分の家族と生活してい て、今ここにいないという。
訪ねた家に残っていた少年たちも、ほとんど見分けがつかないほどだった――その子 たちは落ち着いていて、口数は少なくて、内気だった。
そして、裏庭には3羽のかわいいペットのウサギがいた、しかも生きていて、傷跡も なく、両耳もなくなっていない。
私は、気絶するほどびっくりした。
12ヶ月前のこの少年たちは、戦争で荒廃したバグダッドの道路に寝泊りする、汚れ て、暴力的で、盗みを働く、薬物中毒のストリートチルドレンだった。
それが今、なんと言えばいいのか、ペットのウサギを飼っている普通の子供たちと全 く違わなくなっていた。
数ヶ月前に私がバグダッドを離れたとき、私が目にした変貌は、今や完了していたの だ。それは奇跡だった。
私たちがこの「少年たち」を見つけたときは、20名ぐらいで集団を組み、焼け落ちた ビルの地下でごみの中で眠り、生きるために泥棒や物乞いをするという野良犬生活を していた。
9歳から19歳までの若さで、家を出た事情はさまざまだった。戦争で両親を殺された 者もいたし、家を壊され、混乱状態のなかで、家族と離れ離れになった子もいた。片 親の家庭で、子供を養えなくなった母親に、窮余の策として物乞いに出された者もい たし、貧困から逃げ出してきた子もいた。侵略以前にもう機能しなくなった孤児院か ら出てきた者もいた。彼らは、食べ物などを探し求めて街路をさまよっていたのだ。
この少年たちに取り組むことが、「我が家―イラク」の最初のプロジェクトだった。 ウズマとヘレンとケビン・ゴードンと私がこの子達のシェルターを開設した。そし て、何人かのすばらしいイラク人たちや、時折立ち寄ってくれる様々なボランティア の人たちの協力も受けながら、彼らの無秩序な毎日の生活に対応してきた。
毎日が、肉体的、感情的、精神的な戦いだった。この活動過多の少年たちは、お互い を攻撃し、薬物でハイになり、路上で喧嘩をし、「重病」になり、新しい靴を要求 し、その新しい靴を売り、さらに新しい靴を要求し――シェルター内では毎日、外部 の路上の混沌を反映するような一大ドラマが展開されていた。
私たちにたくさんの要求をぶつけてきたけれど、この子たちがいつでも最も望んでい たものは抱きしめられることだった。
彼らは、一対一で体のことに気配りされたり、思いやりを受けたりすることに飢えて いた。たくさんの遊戯をした、拍手ゲームや、本の読み聞かせや、蛇とはしごや、お 絵かきなど、そしてただ一緒に座っている時間。ここから癒しが始まる(訳注:蛇と はしご すごろく遊びの一種で、蛇の頭に来ると尾まで戻り、はしごの下に来ると上 まで前進できる)。
私たちは、疲労困憊の極致にいたったとき、何かを突破できたことに気づき始めた ――園芸の仕事につく子供たちがあらわれ、靴磨きの用具箱を求める子供たちがでて き、幾人かが穏やかになり互いに刃物で渡り合うようなまねをしなくなった。生き抜 くために戦わなくてもいいと理解したとき、彼らは始めてリラックスし再び子供らし く振舞うようになった。
彼らの行動が改善するにつれ、私たちは、この子たちを荒くれたバグダッド市内の環 境から、ぜひよそに連れ出したいと思うようになった。おりよく、家を持っていてス トリートチルドレンを援助できるが、その対象の子供たちがまだいないイラク人のグ ループが現れた。
私たちはこの組織と提携し、郊外の大きな家と責任を持って面倒をみてくれるイラク 人スタッフに順次この子たちをあずけていった。
子供たちの行動は、急速に改善の度を増していった――スポーツを始め、美術やコン ピューターなどにも取り組みだした。5分とじっとしていられないと私が思っていた 子供たちが、今や学校に通っていて、しかも学校が好きだという。
そして、最高のニュース――家族の再結合ができている。これこそが、このプロジェ クトを始めたときの最終目標だったのだ!
私は子供たちの何人かに会えなくて残念だったが、理由を知って、それでよかったの だと満足した。
15歳のアーメドは家族のもとに戻った一人だが、この日私が来ると聞いて、私に会い にこの家に来てくれていた。これには心を打たれたし、ほんとうに嬉しかった。以前 にバグダッドを発ったとき、この子はとくに私になついていたからだ。彼は信じられ ないほど成長していた。数インチも背が高くなり、わずかに口ひげも生え、少し恥ず かしげにはにかんでいた。
アーメドが最も攻撃的な子供の一人だっだことを思えばすごいことだ――人間であろ うとなかろうと、見るもの何でも引き裂き、切りつけ、燃やし、破壊して大混乱を起 こしていた。
実際のところ、アーメドという名の子供はたくさんいたので、このこのむちゃくちゃ な暴力への評判から、「悪魔のアーメド」と名づけていた。
ところがこの日、彼がみんなと一緒に私を裏庭に案内してくれて、庭をあちこち歩き 回っている、毛がふさふさしているペットのウサギ3羽を見せてくれたのだ。信じら れなかった――ウサギは、一年前にはぶら下げられたり、毛をむしられたり、耳無し にされたりしていたのに。
アーメドが、1羽をゆっくりと持ち上げ抱きよせて、やさしく頭をたたいてやってい るのを見て、彼の変化は本物だと理解した。彼は目にも、私が今まで見たこともない 優しさを見せていた。
私はほんとうに誇らしく思い、彼にそう言った。身の周りに、こんなに暴力がたえな いのに、その中であなたは、自分の中に優しさを見いだし、それを他者に分け与える ようになった。その決意を私は誇りに思うと――そう、ウサギと私に。
彼の変貌は、愛の奇跡なのだ。
皆さんの巡礼者
ドナより
追伸:本編は美しい私の盟友ウズマ・バシールにささげます。彼女が私たちとこの子 供たちを引き合わせてくれ、彼らに愛情を注いでくれた方です。いえ、もちろん、彼 らは皆さんのことも気遣っています。それに、まだ私たちの写真を持っていてくれて ます。あの子たちは実にうまくやっています。皆さんも誇りに思いましょう!
追追伸:下の画像は、美術室での優しい新アーメドと他の子供たちの写真です。
追追追伸:「愛こそ革命だ」
(翻訳 福永克紀/TUP)
原文:The boys and the rabbits URL: http://groups.yahoo.com/group/ThePilgrim/message/139
大学院の合格通知書が届いたので、 ようやく、両親に、来年から大学院に行くことを話した。 色々書類が届いていたりしたので、 もしかしたら、母がうすうす気がついていたかもしれないが、 カイロ行くにしろなんにしろ、 いつもいつも、父にとっては寝耳に水(^^;)。 何たる親不孝ものか、と思う。
それでも、 「そんなことをしようと思うのは、この家では(親戚中では)、 お前くらいなものだから、しっかり勉強しろ。」 というお言葉をいただき。 実は、払い捨てになってしまうかもしれない 今回受かった大学院の入学金の一部までいただいてしまい。 元気で、現役の親のありがたみを、 ひしひしと感じているのであった。
大学院の後、実は博士課程まで進みたいと思っているのだが、 それはまだ話せない親不孝者としては、 深く頭をたれるのみ。
もうちょっと、元気でいてね、お父さん、お母さん。 なんとか、親孝行できるようになるまで、 健康でいてください。
2004年12月21日(火) |
自分が死んだ後のことーその2 |
今のところ、結婚する意志はなく、 子供は欲しいと思うが、それも刻々とタイムリミットが近づいているし、 自分勝手な理由で、子供に父親がいないのはどうかなあなどと思うと、 現実的な話しではない。
どうやって死ぬのかなあと思うと、想像もつかないが、 死んだ後まで、誰かに面倒をかけるのは嫌だなと思う。 骨がお墓に入っていて。 でも、魂はそこにいるんだろうか?と考える時、 あんな所に魂がいたら、それこそさびしいじゃないの、と思う。 イスラム教徒にとっては、体は最後の審判の時に必要なものだけど、 日本人の私にとっては、結構どうでも良い。
つい先日、知り合いのお父様が亡くなって、 本人の意思で、遺体を献体されたと聞いた。 家族がいても、そういう生き方(死に方?)もあるんだなと思った。
すでに、母とは脳死になったら臓器を寄付するということを 約束しあっているが、それに追加。 私が死んだら、献体してくれと言っておこう (順番的には、私が先に死なないのだろうが、一応)。
人体の不思議展に飾られちゃったらどうしよう(笑)。
2004年12月20日(月) |
自分の死んだあとのことーその1 |
学のない母であるが、時折よく切れる包丁のように 核心をつくことがある。 例えば、良い人で通っていた親戚のおじさんが亡くなった時、 そのおじさんの生前の発言と用意が元で、 家族がつかみ合いの喧嘩になってしまったのを見て、 「本当に良い人か、本当によくできた人か、人は死なないと 本当の所はわからないのよ。」 と、当時高校生くらいだった私に言ったものだ。
そして、職場の現在の状態を見ていて、 時折その言葉を思い出す。 本当に良い経営者は、自分の死後の準備を 早い段階からしているというが、 本当に、亡くなって数年たって、 その経営者がはやして本当に良い経営者だったか、 真価が下る。 それは、後継者選びに成功したかどうか、という点で。
飛ぶ鳥後を濁さず、とは少し意味が違うかもしれないが、 死んだら、それで、ハイお終いよ、とならないところが、 怖い所である。
2004年12月12日(日) |
共通語の記憶のかけら |
マンナ、というお菓子をご存知だろうか。 乳幼児が食べるビスケットみたいなお菓子なので、 小さいお子さんがいるお宅ではおなじみだろうし、 最近はお目にかかっていなくても、 私たち年代でも、口にしていたことがあるものである。 このマンナの名前だが、 旧約聖書で、砂漠をさまようモーゼたちが 飢えに苦しんでいた時、 モーゼの訴えに答えた神が、 イスラエル人に与えたパンのような、 不思議で滋養のある食べ物の名前から来ている。
ちなみにアラビア語の女の子の名前で「ミンナ」と言うのがあるが、 意味は「贈り物」。 この言葉の語源となっているのは、 ヘブライ語と発音も同じ「マンナ」で、与える、授ける、親切にする・・・ と、旧約聖書の話を髣髴とさせる意味となっている。
アラビア語とヘブライ語は兄弟言語なので、 似ている言葉があるのは大して不思議ではない。 けれども、時々、東と西、北と南、 文化も歴史も宗教も違う地域で、 似たような言葉が、似たような意味で使われていることがあり、 ちょっとびっくりすることがある。 昨日、ハワイを特集する番組を見ていたら、 「マナ」という言葉が紹介されていた。 ハワイ語の「マナ」とは、超自然の力、エネルギー、魂を意味するそうだ。 その時に、「へえ、マンナみたいだなあ。」と思った。
神話や創世記が、場所や時を越え、 似たような話が多いのは、 私たちの深層心理かにあるものが、 人類として共通しているからだ・・・という説がある。 言葉ももしかして同じようなことがあるのかな。 それとも、バビロンの塔で、神の怒りに撃たれ、 それぞれの言葉を持たなければならなくなった人間の、 数少ない、共通言語のかけらが、 そこかしこに、こっそり、散らばっているのかも知れない。
クリスマスも近いし、 そんな荒唐無稽なことも、想像してみる。
日曜日、銀座に行ったら、すごいことになってました、 シャネルが(^^;)。 イトーヨーカドーかダイエーかって言うくらい、 人が入ってましたよ。
最近の銀座は、どんどん超高級ブティックができていて、 すごいなーと思います。 そして、こんな店が、こんなところに店を構えられるくらい、 売れてしまうってのが、またすごい・・・。
どうなってんのよ、日本の景気。 悪いんじゃなかったんですか。
正直、皆様お金ありますねーと思うのでした。
わたし? もちろん、入りもしませんでしたよ。 そんなご身分じゃありませんもの(苦笑)。 大体、シャネルもヴィトンも大して好きじゃないし。 だったら、他に素敵って思うものは、 色々あるしねー。
今日は、とある試験の二次だったのだが、 一昨日、そんなことをぶっ飛ばすような ショックなことが起こって、顔面真っ青!! やめてくれ、この時期!!! と、叫びたかったのだが、 なんとか、終わった・・・・。 結果は、、、、しらん、もー。
おかげで、胃腸の調子が悪いよ、全く。
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