ぶつぶつ日記
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2004年03月16日(火) 奪わないで

スペインに住んでいる友人は、出勤に車を使っているからと、
列車テロの話は、比較的身に染みていなかったのだけれど、
午後から出張がある時とか、
少なくとも、爆破された列車の時間帯近くに、
アトーチャ駅の中を、のこのこと歩いていることも
皆無ではないと、昨日電話で聞いた。

奪わないで、と思う。
私の大事な人を、勝手に奪わないで、と思う。
しかも、国の末端で極普通に生きている人を、
国と国、思想と思想の戦いで、
勝手に奪わないで、と思う。

でも、大切な人を突然奪われて、
涙を流している人が、
いつも地球のどこかにいる。
自分が死ぬよりも、もっと辛いこと。
愛している人の、喪失。


2004年03月15日(月) スイーツ

お使い物を買いに銀座のデパートの地下に行ったら、
あまりにもよりどりみどりで、くらくらしてしまった。
すばらしい、スイーツの品々。
世の中、甘く出来ているのはお菓子くらいなもので、
その他のものは、ますます世知辛い。
そして、そのスイーツもあまりに多すぎると、
見ているうちにだんだん胸焼けしてくる。

スペインに住む友達の会社の同僚の人も、
テロに巻き込まれて入院したというのを聞いていたので、
死傷者も増えているし、会った事もない人だがなんだか気になっていた。
昨日電話で聞いてみたら、もう仕事に出てきているとのこと。
でも、同じ車両に乗っていたその人の近所の女性は、
即死だったそうだ・・・・。
職場の前で、デモがあったから参加してきたと友達は言っていた。
犯人がどうこう、というよりも、
国民はアスナール率いる政府が、自分たちのために
うそをついたことを責めていたそうである。
うそ、というのは、政府があくまでETAのせいにしていたことを指す。
最初から、今までのETAのやり方とは違っていると誰もが思っていたし、
ETAの高官が関与を否定していたにも関わらず、
政府はETAの関与といい続けた。
日本のNHKに当るような1チャンネルなんて、ETAと明言していたそうである。
なぜなら、イスラム勢力であるよりも、
この場合はETAの方が、日曜日に行われる総選挙にとって、
影響が少ないから。

でも、残念ながら、国民は昔ほど無知蒙昧じゃない。
情報操作をしようとしても、自分たちの国、「正規の」報道以外からも、
どんどん情報を得られる。
インターネットというのは、弱者の武器になりえるものだ。
今回も、スペイン国民はネットで情報を集め、
自国政府とマスコミに、疑いの目を向けた。

こういうのを見ると、良識とか良心とか、
そんなものを信じるのがちゃんちゃら甘いことなんだと、
思わざるを得ない。
テロの規模が大きかろうが小さかろうが、
いや、むしろ大きかったからこそ、
スペイン政府は、自分たちの立場を守るために、
やっきとなって、事実を捻じ曲げようとした。
今回は、それがうまく行かなかったけれど、
一体いくつの「真実」が、捻じ曲げられた事実なのか考える時、
薄ら寒さを覚える。
誰が死のうが傷つこうが、何人死のうが、
一般人の死なんかよりも、国の、いや自分の立場の方が、
全然重い。
そして、そういう人たちが、普通に国のトップに立っている。
私たち国民は、政治家の「良心」や「良識」を鵜呑みにしてはいけない。
常に、斜めの視線を持つ訓練が必要であると思う。


2004年03月14日(日) 置いてけぼり(^^;)

今日は大学の「同級生」の卒業式でした。
去年一年、毎月一回会って、
一緒に卒論を書いてきた仲間です。
私以外の3人は無事卒業。
私だけ、凡ミスなので、卒業できませんでした。
なんとも言っているけど、単位が足りなくて(^^;)。
やっぱり、一緒に卒業したかったな〜。
でも、誰とも一緒じゃなく、
中途半端な時期に卒業になるのも、
なんだか自分っぽい気もします。
なんかね、大事なところが抜けてるから(爆)。

一人、置いてけぼりの春なのですが、
めげずにがんばろう。


2004年03月13日(土) 届かない声

スペインのテロの犯人については、
なんだか通常よりももっと、玉虫色になっている気がする。
と言うのも、スペイン政府自体はどうも、
犯人にETAが絡んでいたほうが、どうも都合がいいような感じで、
クルアーンと起爆装置が乗った車の発見も、
「コーランは誰でも買える=絶対的物的証拠ではない。」
というように、妙に冷静に受け止めている。
こういうのを見ると、本当にやりきれない。
殺された人たちの命ってなんだろう。
誰に殺されたか。
それすら、政治家や一部の人間が
自分の立場を守るために、
改ざんしたりお茶を濁したりする。
正義って何のためにある言葉かなと、思う。

そんな中で、どちらかと言うと(いや、完全に、か)、
イスラムよりの人間として、
もし、東京で同じようなテロがあった場合、
そして、私の家族や知り合いがそれに巻き込まれた場合、
私は、イスラムを憎むようになるのか、考えた。
多分、いや、絶対に、自分自身が被害に遭い、
怪我をしたり、そしてそのために障害をおったり、
死んだりした場合は、憎まないような気がする。
因果応報ではないけれど、
自分自身がイスラムというものをある一定評価している部分があり、
それがその結果なのだとしたら、
それこそが、マーシャアッラー(神が望みたもうたこと)。
そういう気がする。

家族や友人知人が被害に遭った場合、
これは私にはよくわからない。
もしかしたら、憎むようになるかも知れない。
やっぱり憎めないかもしれない。
60%くらいの気持ちで、
それでもやっぱり、イスラム=悪という風には
思えないだろうなと想像する自分がいる。
そんな時、私はどうするだろう。
家族や、知人に、イスラムは悪くないんだと、
言い続けるのだろうか。
イスラムや、全てのムスリムを憎むようになってしまった人を、
説得しようとするだろうか。
理解してもらえるように、言葉を尽くすのだろうか。

多分、私にはそれもできない。
憎むことで、悲しみを紛らわせようとする人に、
私にはかける言葉もないだろう。
「違うんだよ、本当のイスラムは、違うんだよ!」
という届かない声を抱えて、
私は、彼らから離れていくしかないような気がする。
声が、届くとは思えないし、
届かなくても、仕方ないと思うから。

そして、
「違うんだよ、本当のイスラムは、違うんだよ!」
という声は、当のムスリムにすら、届かない。


2004年03月12日(金) テロです

スペインで大きなテロがありましたね〜・・・。
犯行声明が出ているようないないような、
スペイン政府はETA(バスク祖国と自由)の犯行の可能性も
捨ててはいないみたいですが、
今までのETAのやり方とはだいぶ違うし、
アルカーイダの犯行声明や物的証拠から、
イスラム勢力の犯行、ということになるような気がします。

私自身は、テロは間違った。負の方法である、という風に思います。
パレスチナに住んでいるパレスチナ人の若者の自爆テロは、
テロ、というよりは抵抗運動だと思うので、
良くない、でもどうしたら止められるか?
と考える難しい問題ではありますが、
その他の場所で、イスラムの名において行われるテロは、
間違った方法以外の何者でもない。
普通の非ムスリムよりはムスリムに近いところにいる人間としては、
怒鳴り散らしたい気持ちに、毎回なります。
自分たちで、自分の首を絞めてどうすんだ!
という風に。

しかしながら、うがった見方をすると、
アルカーイダという組織は、どんな組織なんじゃい?
と、ついついアラブ人たちと同じように
「陰謀説」なるものが頭をもたげてしまうのも、
アラブ好きだからなのでしょう。
一体、あれだけの組織力、統率、資金、計画を、
アメリカのCIAにかぎつけられることもなく、
これだけコンスタントに行える組織って、
一体どんな組織なんだろうか。
ビン・ラーディンのカリスマだけでは指揮できないし、
アフガンへの攻撃で、かなりの幹部が死亡しているはずです。
それでもなお、これだけのことをやってしまえる組織。
じゃあ、アメリカがあれだけ大騒ぎしている、
テロとの戦いの成果って、一体どこにあるのかなと。

力と力の戦い。
力を持たないものは、対抗処置として手段を選ばない。
それがテロなのだとしても、
やはり、それはとってはいけない手段だと思います。
でも同時に、力でテロを抑えつけようとして、
成果をあげたことってあるんでしょうか。
そう考えると、テロ対策も過渡期に来ていると思えるのですが、
世の中は、ますます力で物事を解決しようとする
傾向に流れていっているような気がします。
そうして、その力同士のぶつかり合いで、
命を落とすのは、普通に生活している人々。
やはり、やりきれない思いのみが、残ります。


2004年03月11日(木) ファッション・ヘジャブーヘジャブ考その2−

ファッション・ヘジャブというのは、
カイロに在住したことのある日本人がよく使う言葉です。
欧米人がこういう言葉を使うかは知りません。
親もあんまり宗教的に厳しくない、
まじめーーーなムスリマとは言いがたい、
むしろ流行に敏感な子なのに、ヘジャーブをかぶっている子。
そんなイメージしょうか。

エジプト(特にカイロやアレキサンドリアの大都市)というのは
宗教的な生活といわゆるヨーロッパナイズされたものが結構共存関係にあって、
ヘジャーブ姿のおばちゃんが、ジーンズの娘さんと歩いていたり、
髪の毛を赤く染めたお母さんとヘジャーブ姿の娘が歩いていたりします。
もちろん、強制もあります。
特に、公立の中高でヘジャーブの強制があり、
それが原因で集団ヒステリーが起こったのではないかと、
騒がれたことがありました。
でも、日本だって着たくもない制服を無理に着せられますよね。
そして、こういう子たちは、学校を出た後、
ヘジャーブを脱ぎ捨てたりします。

それで、ファッション・ヘジャーブ。
ヘジャーブ論争の火付け役になったフランスのムスリマ姉妹の写真を、
どこかで見ているとわかりやすいのですが・・・・。
彼女たち、とってもおしゃれじゃなかったですか?
私が見た写真は、お姉さんの方はサーモンがかったオレンジ色のヘジャーブ、
そしてゆったりしたジャケットも同じ色でした。
妹さんの方は、ダークな基調の柄物のブラウス、
そしてその中の一色と同じようなグレーがかったブルーのヘジャーブをしていました。
彼女たちは、決して髪を見せません。
でも、だからと言って、おしゃれをしていないわけじゃない。
むしろ、どうしたらきれいにヘジャーブをまとめられるか、
服とのコーディネートもかなり考えている。
こういう子たち、カイロにもとても多いです。
あと、ぴったりしたブラックジーンズをはいていても、
ベルサーチ調のスカーフで、きっちり髪を覆っている子とか。
私の知り合いが見た子は、すらりとした足をミニスカートからだし、
でもヘジャーブだったそうです。
ここまで来ると、何か勘違いって感じですけど(笑)。

強制されて、いやなもの・・・と思っている子もいるでしょう。
それはどこの世界でも制服に感じるものと共通点があります。
それよりももっと重いものではありますが。
でも、そうではなくて、ヘジャーブに一種のステイタスを感じる
若いムスリマも多くなってきているのです。
どうして、そう思うようになったのか。
次回は、アメリカに育ったあるムスリマの話を紹介します。


2004年03月10日(水) ヘジャブ考−その1

最近、エジプトの不屈のフェミニスト、サダーウィが
日本の新聞社とのインタビューで、
フランス政府が法的にヘジャーブを禁止していることを評価し、
「ヘジャブを着用しなければならないという宗教的抑圧からこそ女性は解放されるべきだ」
と、ヘジャブ自体を否定する発言をしている。
彼女の、不屈の精神や活動は尊敬するけれど、
どうも、今一昔前のフェミニズムの呪縛から
彼女自身が解放されていないような気が、この意見からはする。
それはもちろん、彼女の置かれている現状(イスラム過激派からの死刑宣告、
エジプト政府からの弾圧もあり、エジプトにいる場合はほぼ軟禁状態)を
考慮しなければならないだろう。
しかし、彼女のがんじがらめの状況の周りで、
世界や意識は明らかに変化してきている。

ブルカを脱いだアフガンの女性たちは、ではなぜスカーフははずさないのか。
かぶる必要のない西洋社会の中で、そしてその国で生まれ育った少女たちは
どうしてそこまでヘジャーブにこだわるのか。

宗教的規範、古臭い社会的な慣例、頭の固い大人たちの押し付け・・・。
我慢してヘジャーブをかぶる女性たち・・・というイメージは、
結局半分くらいのことしか表していない。
そういう女性もいる、でも、そうではなく自ら望んで髪を覆う女性もいる。

ヘジャブ(ムスリマがかぶるベールのこと)に関しては、
この日記でも何度か取りあえげているけれど、
再度、このことについて考えてみたい。
それは、イメージとアイデンティティと
個人の自由のせめぎあいのもんだいであるから。




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