ぶつぶつ日記
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もやもやしていたものが、 意外なところから噴火し、 結果、現在は大変静かな状態です。 そう、冷め切った、と言いましょうか。 こうなると、もう結構動じません。 何せ溶岩固まってますから。
最近、名作の内容を訳した(?)本が売れているという。 内容をとりあえず把握できればいいということなのかも知れないけど、 本好きから見ると、なんだそれ?って言う気になる。 もちろん、それらの本を読んで、 これを読んでみたいなーと思う人もいるだろう。 でも、そういう人は少ないんじゃないかなあ。
私は、実は夏目漱石が苦手である。 どうも、あの文体に乗っていけないのだ。 森鴎外は難しかったけど、 でも、読むのが苦痛になることはなかった。 三島も好き。 そして、泉鏡花も大好き。 ハリポタは興味がないけど、 指輪物語は読んでみたいな。 ボルヘスの本はいつも気になって、 エッセイでも公演集でも小説でも、 ハードカバーで高いけど、やっぱり買ってしまう。 ちなみに、澁澤龍彦の本は、文庫も全部、 買えるだけのハードカバー、 それなのに、全集も買ってしまった(笑)。 軽い本も結構好きで、 最近では、ジェイン・アン・クランツという人の ロマンチックサスペンスがお気に入り。 でも、同年代の日本人女性の小説やエッセイには、 あんまり食指が動かないのは、なんでだろうな?
皆が面白いというからといって、 自分にはちっとも面白くない本もある。 でも、あんまり読んでいる人はいなくても、 自分には絶対はずせない本もある。 それは、一冊一冊、 自分が読んでいかなければ、わからないこと。 百聞は一読にしかず。 最後まで読んで、そして判断しよう。 人ではなく、自分の感性で。
2004年02月06日(金) |
ただいま、もやもや中 |
いや、もやもやしてないことの方が少ないんだけど@仕事。 日本語関係の仕事を辞めるつもりはないし、 大学卒業後どうしたいかも決めているので、 大体のロードマップは出来ているけど・・・。 細部でもやもやする。 こんなことをするために、ここで仕事をしてるわけじゃないよなー、とか。 こんな時間、もったいない、授業をしたい、とか。
本日も、もやってます。
自衛隊が派遣されるサマワでは、 日本人が来ることによって生み出される(であろう)雇用に、 ものすごい期待が集まっていると言う。 実際は、数十人程度しか雇用されないらしいが、 そんなことは、現地の人の耳には入っていない。
ふと気がつくと、日本人である私たちでも、 一体自衛隊がイラクで何をやるのか、 漠然としたことしか知らないのだ。 インフラの整備? 水道、学校、病院??????
はっきりしない、はっきり出来ないのだろうか? こんなんだもの、イラクの人が勘違いしても、 仕方ないよな。
行くのは、いっているのは、軍隊です。 軍隊は、やがて出て行くのが前提です。 そんなことから生み出される雇用は、 いくらたくさんあったとしても、 一過性のもので、回るサダカにはなっていかない。 つまり、産業としては育たないでしょう。
いい勘違い(=雇用が増える)が、 悪い勘違い(=日本もイラクを占領して自由にしたい)に、 変わらなければいいのですが。
カイロに住んでいた日本人は数多いが、 ナイルの渡しを使って、ザマレックまで行っていた日本人は、 そうそういないんじゃないかと思う(笑)。 大体、住んでいたエリアによるだろうし、 大型バスも敬遠するような日本人もそれなりにいるし、 それが、渡し舟ですけん。
その存在に最初に気がついたのは、 ザマレックに住んでいる駐在ファミリーにバイオリンを教えに行っていた Hねーさんだった。 そして、おっとりした性格の割りに、かなりチャレンジャーな彼女は、 早速それに乗ってザマレックまで行ってみた。 確か、当時でロッバ・ギネー(25ピアストル)だったかノッス・ギネー(50ピアストル)だったか・・・。 ムスタシファー・アグーザの前から、ザマレックまで、 混雑する道路で揉め事の多いタクシーに乗るよりも、 早くて快適だったので、 私たちも、ザマレックに日中行くときには、 それを利用するようになった。
手漕ぎの小さな船に人が集まると、 おじさんがえっちらおっちらと船を出す。 ザマレック側の船着場は、彼の自宅になっていた。 川の土手の木立の中に、電気も水道もない掘っ立て小屋があり、 私たち客は、船頭のおじちゃんの奥さんが料理を作っている前などを通り、 ザマレックの通りに出るのだった。 小屋のすぐそばは、カイロでも高級なエリア。 そして、東京で言ったら隅田川のようなナイルの水を汲んで、 全てに(料理にも!)使っているらしき生活に、 衛生的に寒々としたものを覚える反面、 この対比こそが、カイロの面白さなんだと感じた。
しかし、やがてアグーザ側の土手が整備され始め、 いつの間にか、私たちが愛用していた船着場はどこかに行ってしまった。 渡し舟に乗らなくなると、ザマレックのそのエリアに行くこともなくなった (メインからは少し外れたところだったので)。 船を漕いで人を運んで、細々と生活していた家族は、 どうなったのかなと思いながら、 日々は過ぎて行き、それを確かめる術は、今はもうない。 たくさんの彼らのような家族が、押し寄せる時代の流れとともに、 どこかに、ひっそりと消えていったのだろう。 ナイルの渡しは多分、今日も減り続けている。
お風呂上りについていたテレビでは、 熊本の女子高生が、駅から家のある対岸まで、 おじいちゃん船頭のこぐ渡し舟で帰っていっていた。 駅に着くと、女子高生は対岸のおじいちゃん船頭に向かって手を振る。 そうすると、おじいちゃん船頭が、えっちらおっちらと、 こちらに向かって船を漕いでくるのだ。 昔は、その列車の線の駅全てに渡し舟があったが、 今では、そこだけになってしまったと言う。 毎日渋谷に行くことよりも、 毎日渡し舟で家まで帰る事の方が、 なんだかかっこよくて、 きっと都会に出てきてからも自慢できるよ、と、 その女子高校生に言いたかった。
2004年01月28日(水) |
普通にあるものが、なくなると想像してみると・・・ |
私は、婦人科系発癌リスクの高いグループに所属している(^^;)。 年齢、未婚、出産経験なし、という例のあれ。 全てあてはまってしまっている。 去年くらいから、時折産婦人科に行って検査などをしているが、 子宮に関する検査は、もちろん産婦人科。 でも、もう1つの重要な部分、乳癌の検査は、 外科、もしくは数少ない専門の病院に行かなくてはならなくて、 結構めんどくさい。 幸い、この間の仕事の健康診断で、おっぱい触診をしてもらったところ、 マンモグラフィー(おっぱいを板でぎゅ〜っとはさんで撮影するもの)の 必要は全くないようだったが・・・
ある記事を見ていたら、 日本と言うのは、先進国ぶっている割には、 いろんなことに選択の幅が少ない国なんだな、と思うことがあった。 選択の幅が少ないと言うか、縦割り社会というか・・・。 ちょっと違う分野同士が、連携することがまだまだ少ない。 乳癌手術に関しても、然り。
大体、乳房を切り取らない乳がん手術と言うのも、 割と最近知られるようになったことで、 今でも、乳房温存をまず考えてくれる医者を探すのが 意外に難しいと言う話を聞いたことがある。 こんな状態だから、乳がんを摘出し、同時に乳房を再建してくれるような 病院を探すのは至難の業。 命に関わる病気のはずなのに、 ものすごい順番待ちをしなければいけないらしい。 ちなみに、欧米では5−7割の患者が、 摘出手術と同時に乳房再建を行う、「同時再建」を選ぶと言う。 裏を返せば、それだけの数の病院が、 同時再建を行える準備が整っていると言うことだ。
命を取るか、ある部分を取るか。 もちろん、100%に近い人が、命を選ぶ、それは間違いない。 でも、その後で、なくなった部位を意識した時、 仕方なかった、とさっぱり割り切れる人はそう多くはないのではないだろうか。 まだまだ日本の医療界では、 そういう患者のそのメンタリティーが無視されているような気がしてならない。 ましてや、女性の乳房である。 男性に置き換えて考えてみたら、 そりゃ、大事なものを半分にぶった切られたのと、同じようなものじゃないの?
病院もない、保険も利かない・・・。 術後の治療を続ける中で、 体は健康に戻ったはずなのに、 心が健康に戻らない女性がたくさんいる。 たかがおっぱい、されどおっぱい。 おっぱいに限らず、指でも足でも、目でも耳でも・・・・。 そんな贅沢!生きていればそれで良い! と思えるのは、そう簡単なことじゃないのかもしれない。 生きていかなくてはならないからこそ、 失われてしまったものに、執着するのかも。 せめて、入院費くらいは保険が利くようになればいいのにな、 などと思った朝なのだった。
子供の頃から、おやつと言う習慣のない子供だったので (家庭的にもなかったように思うが、それにしては兄のあの買い食い好きはなんだろう?)、 今も、間食の習慣がほとんどない。 大体、甘いものがあまり食べられない子供だったし、 お菓子よりもご飯が好きだったので、 お菓子を食べ過ぎてご飯が食べられない・・・なんていう状態は、 自分が嫌だったのだ。
どうも、両親の方針として、「量より質」と言うのがあった気がする。 おもちゃも、服も、めったやたらと買ってもらえたわけじゃなかった。 むしろ、必要以上のものは買ってもらえなかったけれど、 買う時には、そんじょそこらのものではダメで、 時間と電車賃をかけて、日本橋や銀座まで出かけるような家庭だった。
そんなわけではないだろうが、 我が家に時々登場するお菓子は、 かなりハイカラなものが多かった。 トップスのチョコレートケーキ、 モロゾフのプリン、 ユーハイムの砂糖がまぶしてあるケーキ、 そして、神田精養軒のチョコレート。 今ほどお菓子に種類もない時代で、 我が家のお使い物は、必ずこの神田精養軒のチョコレートとヌガーの詰め合わせ。 そんな時には、必ず一袋、私たちへのお土産もあった。 今もだけれど、私はキャンディーとかがあまり好きではなく、 ピーナッツ味のこのヌガーキャラメルもあまり好きじゃなかった。 でも、この袋にはチョコとヌガーが半分ずつ入っていて、 チョコレートだけ食べるのはダメ。 チョコとヌガーと1つずつ、それが約束だったので、 成長した後、チョコレートだけの袋が発売になったときには、 とてもうれしかったものだ。
もう1つ、大好きなチョコレート、それがハーシーズキスチョコ。 東北生まれの母が、なんでこんなチョコを知っていて、 そして、どこで買ってきていたか、今も確かではないけれど、 年に数回、ハーシーズのキスチョコが家にやってきた。 たまねぎみたいな、かわいい形。 なんというか、バター分が多いぱさぱさ食感と日本のチョコレートにはない味、 そして、銀紙を1つずつはがして行くのが素敵だった。
長じて、中東やヨーロッパに行くようになった時、 一番困らなかったのが、お肉について。 それらの地域では、比較的羊が好んで食べられる。 日本人の多くが苦手とするそれらの肉を、 私は最初から全く問題なく食べることが出来た。 というか、好きだったのだ、子供の時から。 これまた年に数回、極普通に羊の肉が食卓に乗るような家庭だった。 今みたいに、ラムなんてなくて、マトン。 マトンは成長した羊、ラムは子羊。 むろん、においが強いのはマトンで、だから日本人の羊肉のイメージはあまりよくないのだけれど、 これを普通に食べていた子供としては、 ラムなんてまー、なんて極上(笑)!
もちろん、こんなメニューたちは、特別なごちそう。 毎日食べるのは、どこの家庭の食卓にも見られるものだったが、 母の実家から送られてくる新鮮な生わかめや、 毎日笛を鳴らしながら来るお豆腐屋さん、 目で見て手にとって買えた八百屋の店先の野菜たち、 おでんの具だけを手作りしている店、 鳥専門の店で買うモツ、 一見物があふれかえっている現在に負けないほどの、 安価で豊富な食生活が、下町の商店街、 そして家庭の食卓には広がっていた。
最近、10代や20代の女性に、味覚障害の人が多いと言う。 そこまで行かなくても、 何でもかんでもマヨネーズをかけてしまう子供や、 主食をほとんど食べない女の子など、 食生活が壊れかけている家庭が多いみたいだ。
味覚も、子供のころに作られる。 贅沢じゃなくていい、極普通の食事。 むしろ、それを守ることが難しいのかもしれない。 でも、子供の時に作られた味覚や食習慣が、 今の私たちを作っている。 大量のポテトチップスよりも一粒のキスチョコを選ぶ私は、 ちょっと体重は大目だけれど、 コレステロールや中性脂肪とは、ほとんど縁がない。 旅先で、何を出されても、食べられないものもほとんどない(嫌いなものはもちろんあるけど)。 そんな私を作ってくれた両親に、感謝している。
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