凪の日々



■引きこもり専業主婦の子育て愚痴日記■

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2006年09月14日(木) 恐怖体験

久々に怖い金縛りにあった。

金縛りに怖いも怖くないもあるのか、という話もあるかもしれないけれど、基本的に金縛りは心と体の疲れ方のバランスが崩れた時になるものだ、と私は思っているので、それに伴って何か見えたとしても、目は開いているのかもしれないけれど、脳は寝ていて、脳の中で映像を結んでいるのもが視覚にも見えていると錯覚しているのだ、と考えている。
だから、特に金縛りにあっても気にしないし、翌朝も覚えていない事が多い。

昨夜の金縛りは怖かった。
寝ていて、いきなり眩しい光が一瞬目に刺さって目が覚めた。
てっきり、子供が懐中電灯で遊んでいて、その光が横切った時、私の目に入ったのだと思った。
まさしくそんな感じだったので、「あぁもう!」と心の中で怒りつつも、金縛りにあった状態だったので動けなかった。

金縛りを解く技はまず目を見開く。
次にとにかく手か足を動かす。
それでも解けない時は体全体に力を入れて起き上がる。の順。
ちなみに仰向けで寝ているとかかりやすく解けにくい。
横向きだと力を入れたとたん体が倒れる事があり、その瞬間解けるので、以前は横向きでしか眠れなかった。

昨夜は横向きに寝ていた。
目を見開くと、目の前の暗がりに、片膝を立てて私の顔の前に座り込んでいる黒い影がある。
てっきり、懐中電灯をいたずらした子供がしまった!と思って私を覗き込んでいるのだと思っていた。
でも私の目の前は締め切った襖。
襖と私の間に人が座り込むスペースがあるわけがない。
よく考えなくても子供達が夜中起きて暗がりに懐中電灯を探し出して遊ぶはずないよなぁ。
この時点で、あぁ今回の金縛りは手ごわいかなぁと思った。
私はかなり深く寝ぼけているな、と。

金縛りなら解けば済む。
目の前の影も消える。
幸い今夜は横向きで寝ている。解けやすい体勢だ。
懇親の力を上側の肩に込め、思いっきり動かそうとする。
しかし今夜の金縛りは手ごわくてなかなか解けない。
もうこうなったら起き上がってやる、とにかく動かないと…ともがき、なんとかガバッと起き上がることが出来た。
見ると時刻は11時前。
9時半に子供達を寝かすべく一緒に寝て一時間ちょっとか。
このまま起きていてスポーツニュースでも見ようかと思ったが、なんだかしんどくてそんな気にもならず、水を飲んでついでにトイレに行ってまた寝た。

翌朝も鮮明にこの金縛りを覚えていた。
いきなり眩しくて(光が痛くて)目が覚めた所から始まる金縛りって初めてだなぁ。
座り込んでいた人影はなんだかひどく慌しいというか、落ち着かないざわざわした感じがしたなぁ。
でも目が覚めたとき、襖はやっぱりきっちり閉まっていて、人が座るスペースは無かったし。

考えていて、段々疑問に思ってきた。
と、同時にじわじわと怖くなってきた。
……あれって、本当に夢だったんだよね?
っていうか、霊体験の方がまだ怖くないよね?

あの光が本当に懐中電灯だったら?
たまたま部屋をぐるりと照らしたその光が私の顔に当たったのだとしたら?
座り込んだ影が、本当に「しまった!」と思って私の様子を見ていたのだとしたら?

金縛りで体が動かなかったのは幸いだったのか?


とりあえず、今夜から戸締りをしっかりして寝ようと思う。
どうか霊体験でありますように。


2006年09月12日(火)

今月はお彼岸。
だけど、お彼岸に墓参りに帰省した事が一度も無い。
というか、「お彼岸に墓参り」という発想が夫に無いように見える。
結婚してから一度も提案してきた事はないし、私が提案しても「なんで?」とか「忙しいし」とまったく気乗りじゃないのでもう私も言わなくなった。


夫の生家の墓は坂道を上り詰めた畑の道沿いにぽつんとある。
私有地に墓を建てる事って今も出来るんだっけ?
共同墓地が普通だと思うので、とても奇妙に思える。
何が奇妙って、夫の生家の地域もちゃんと共同墓地があるから。
今年の夏、夫の従兄弟の初盆で、初めて共同墓地に行った。
結婚して何年も経つのに、そういえば親戚の墓に参るのは初めてだ。
自分の家の墓すら、私が「墓参り行かないと」と言わないと、夫は行こうとしない。
そういう当たり前の事にまったく関心がない非常識な人間というか、信仰心が欠落した人というか、人間として莫迦な男だと思う。
大好きな叔父さんが無くなった時は散々落ち込んでいたくせに、その後墓参りなんか一度もした事ない人だ。

私は信心深い祖母に育てられたので、仏壇のある家にお邪魔した時は、まず仏壇にお参りするのが当たり前だと思っている。
だから、夫は実家に戻った時にご仏壇にお参りをしない、というのが信じられない。
その家の核、総ての根源、そこにまず挨拶してから一息つくものだ。
信仰とか、宗教とかじゃなく、DNAの螺旋の過去に繋がる者達に、その先に繋がっている我々が、先人の苦労や喜びやあらゆるものに思いを馳せその苦労を偲び労い感謝するのは当然の事だと思う。
「ご先祖様へ感謝の心」というとなんか仏壇かなんかの安っぽいキャッチコピーみたいだけれど、それは忘れてはいけないものだと思う。
「有難い」というのは「有るのが難しい」という意味だ。
有るのが難しいのに有る。それはとても感謝しなきゃいけない事だ。
その気持ちは忘れてはいけないと思う。

そういう部分も、人間として、夫を信頼できない原因の一つになっているんだろうと思う。


共同墓地には墓石の他に土神様を祭る石がどの墓にもあった。
夫の家の墓にもあったけど、何せ夫の家の墓しか見た事が無かったので、夫の家だけの事かと思っていた。
農業主体のこの地域では、昔から土神様を祭るらしい。そうなのか。

夫の家は弟夫婦が次いで立派に農業を続けている。
弟さんは土に感謝し、天気に感謝し、親に、地域の人たちに、自分の周りの総てに感謝し、繋がりを大事にして頑張って生きていて、とても偉いと思う。
天地がひっくり返っても、夫に農業は次げなかっただろう。
0と1の組み合わせで総てが始まり総てが終わる無機質な世界が夫に最適の世界だと確かに思う。





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