道院長の書きたい放題

2005年01月27日(木) ◇NHK会長辞任に思う

■「ヨシナガチャン、NHKおかしいよ!」。何年前からでしょうか、作山先生との会話の中で私が言い出したのは…。

「だってさ、テレビ、ラジオでやたら茨城の紹介が多いんだョ。事件ならともかく、全国に市町村がどれくらいあるか分からないけれども、突出して多い。絶対、誰かNHKと特別のコネクションがある奴がいるんだよ。さもなければ、ディレクターの誰かが茨城出身なんだよ」。こんな調子でした。

ところがこれが図星だったようで、先日の道院長研修会に出席の折り、高松往きのバスの中で作山先生がこう言いました。「シンチャンがNHKの事、おかしいおかしいって言ってたけど、あれはさ、分かった!海老沢会長が茨城県出身だったんだョ…」。私は即座に、「ガッテン!」したのでした。

■昨日、辞任しましたが、その会見もどうだったでしょうねー。やたら自分の実績、功績をひけらかして、最後にやっと謝罪しました。まあ視聴者には、「さもありなん…」と、かえって説得性?を与えましたかね…。

氏はNHKの政治部記者出身だそうです。有識者の批判の中に「その割りには自分の周りの状況(受信料不払いの増大)を冷静に判断できなかった」というものがありました。

■讀賣新聞の渡辺恒夫氏も政治部記者出身ですね。中曽根康弘氏が、確か…総理大臣の頃、讀賣にまったくおかしい社説が載りました。ちょっと内容は覚えていないんですが、中曽根氏擁護の度があまりにひどく過ぎている、と感じられるものでした。

で、公平性を欠いた報道に怒りを覚え、同社に電話して、論説委員の誰だかに抗議したことがあります。若かった?ので、血気が盛んだったのでしょうかね。

■それはさておき、両氏の経歴が政治部出身という共通項が面白いです。二人の生き様を見ていると、記者として活動中、政治家とパイプ=癒着と表現しても良いものが出来、「公平性」というジャーナリストの一番大切な魂を喪失してしまった、接するうちに政治家の悪いところを体現してしまった、と映ります。

会長と主筆は現役であり、ジャーナリストの最高峰ですからね。最高の規範=公平性を示さなければなりません。

■記者であっても、例えば政治家を志すのは、それは自由なことです。気が合って交際するのも許されるでしょう。しかし気を付けないといけないのは、政治家/権力の側は常にジャーナリストを篭絡しようと企んでいる、と肝に銘じるべきです。

ミイラ取りがミイラになった…。権力を批判すべき者が「正義無き(権)力を振るう」。その点で、私は両氏に好感を持てません。



2005年01月24日(月) ◆(4)弘前市も卍!?だった…。

■「青森県の弘前市のマーク=市章が“卍”だそうです」と、道場の拳士から聞いて驚きました。先週、出張に言った際に知ったそうです。不明を恥じて、いささかショックを受けました。

今日、HPで確認ましたら、やはり卍でした。それで、さっそく弘前市に電話をかけて色々と質問しました。総務課の職員が親切に応答してくれました。

私が少林寺拳法の道院長と名乗ると、卍に関する質問は少林寺サンのマーク変更に伴い何件かマスコミからありました、と言いました。

■弘前市が市のマークを卍にしたのは大変古いようです。明治33年、日本で初の「市」が十数市誕生した際に、津軽藩の家紋であった卍を用いることになった、と言います。徳島の蜂須賀家の家紋も卍です。

開祖は卍が入った鎧を持っていた。――作山先生談。

私も先生の居間にあった鎧は見て知っていましたが、その印が卍であったことは気付きませんでした…。

「卍のマークはどのような意味があるのですか?」

「(何かの資料によると)私心を捨てて人の為に尽くす、という意味があるようです」

なるほど、これは仏教の精神ですね。布施(施捨…という言葉はなかったですか…。注:喜捨でした)の心から出たものでしょう。つまり、卍は精神性を宿しているマークなのです。

■さて問題はここからです。先ほど“不明を恥じる”と書きましたが、皆さんも知っていましたか? 青森県の拳士は当然知ってたでしょう。公共の…県庁所在地のある市ですからね。我々に例えるなら、横浜市のマークが卍だったくらいの事実です。しかし、あまりに一般的には知られていなかったような…。

余談ですが、青森県と秋田県は秀吉の時代に起きた津軽地方の所有問題(アバウトです)を遠因にし、あまり仲が良くない、と司馬遼太郎氏が何かの本に書いています。 

少林寺拳法を遡ること五十数年も前から、同じ卍のマークを使っていた市がこのように知られていなかったことに引き比べ、我々は卍で日本制覇?を成し遂げていたのは事実のようです。弘前市はその証明なのです。もう一つ、卍が日本では公共関係で使用されていた意義も大きい…。

さらに担当者は、これまでマークがハーケンクロイツと同じようで気に入らないとか、変えろとか、市民から言われたことは無く、先輩方からも聞いていない、と言いました。

■本当に惜しかったですね。無念の思いが再燃してきます。あと一歩のところまで来てたんです。卍がただ単に地図でお寺を示すマークなのではなく、平和の意味を持つシンボルであることを世界公認にできるまで…。

これが少林寺拳法で達せられたら素晴らしかったですね。歴史的な偉業となりました。地団駄踏んでいます…。

注:弘前市には現在、市町村合併の問題があり、もし新市が誕生する場合、市章をどうするかは未定との事です。

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この書きたい放題をアップした直後、ある道院長の方が

「…私も弘前市のホームページ見ましたが、りんごのマークは今回のソーエンと似てませんか?添付資料見てみて下さい。(もうきずかれているとは思いますが)」

とメールして下さいました。下はその返信です。記録してきます。

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似てる?似てない?  投稿者:あつみ♂  投稿日: 1月24日(月)16時39分50秒

◆只今、ある道院長の方が「書きたい放題」を読んで下さり、弘前市の、別の新しいシンボルマークを転送して下さいました。私も見たことは見たのですが、双円の“アイデア”と瓜二つ?とは気付きませんでした。

これはあまりにもアイデアが似過ぎている…。それは人間ですから、アイデアが似てしまうことはあるでしょう。しかし元々が卍の市章でしたから、ちょっと…どうでしょうねー。

卍が極まって双円のリンゴになったのかなー。

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回答が… 投稿者:あつみ♂  投稿日: 1月24日(月)17時39分19秒

◆○○先生、こんばんは、知財法人に質問しましたら、双円のデザインは巷にあり、双円だけでは一概に類似とはならない、我々は盾と共に用いています、という見解のようです(要約です)。

送付して頂いたアドレスによると、真言宗の某派でも採用されているようですが、…この問題は知財法人の公的な説明=見解を待ちましょうか…。

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↑さらに追加します。





2005年01月20日(木) ◆(3)もうひとつの考え方

■「書きたい放題」並びに掲示板で、一月九日以降、卍、新マークについて論じて来ました。皮肉?なことに、私はこれをきっかけとして、卍の教義、卍への想い、卍の存在について、以前より深い理解を得られたようで、なにか不思議な法縁を感じています…。

しかし…、「親孝行、したい時には親は無し」ならぬ、「卍の教義、解かった時には胸寂し」となってしまいました。←あまり上手くありませんね。

以下に述べることは、新マーク制定以前には分からなかったことです。ですから大きいことは言えません。しかし十日間の思考を経て辿り着いた考えを、もうひとつの考え方として記録しておきます。

■少林寺拳法は「拳禅一如」「力愛不二」の法門、と開祖・宗道臣先生は説かれました。二つのうちで、思想的な特徴を強く表すのが後者であることは論を待たないでしょう。

力と愛は不二一体であり、力だけではダメ、愛だけでもダメなのです。「正義」となるので分かり辛いですが、「力無き正義(愛)は無力であり、正義(愛)なき力は暴力である」なのです。開祖は直感でこれを捉えられたようです。もちろん教範できちんと説明されています。

■『慈悲/中村元著』の中に慈悲の心を説いて、「自ら悪い行いをせず、他の人にもさせてはならない」とあります。これは一見、倫理を説いているようですが、実は人類が平和を得る原則をも教えている、と考えます。

大戦後間もなく始まった少林寺拳法。開祖はあるいは、ヒトラーが回した裏卍=暴力を表卍=愛の力で元に戻そう、とお考えになられたのではないでしょうか…。卍にこだわることに大きな意義を感じられた、と推測します…。

表卍は慈悲=愛を、裏卍は理知=力を表す時、少林寺拳法の拳士は卍をシンボルマークとして、平和への積極的な貢献を胸に表明していたのです。

■考えてみれば、イスラム教文化圏の中にあるインドネシア連盟が卍を着ける意義は大変大きいことでした。元々仏教文化圏である我々は問題ありません。後はキリスト教文化圏ですが、これとて日本ではキリスト教系大学、高校でさして問題なかったのです。

世界の国々の拳士が卍を胸に着ける意義は、異文化を認め合う世界の現出であり、それは開祖の目指されたものです。世界平和の一助になる(なった?)と確信します。誤解されると困りますので申し添えしますが、新マークに変えた意図も同様な願いからでしょう…。

卍の方法論を取った場合、障害となるのは欧米、ユダヤ系団体、商標問題…?

■今回の全国研修では初めて中国側から取材陣を招いた、と総裁・宗由貴サンが言われていました。中国の「少林寺」商標登録にかんがみ、「少林寺拳法」を「シャオリンスー・チェンホワ」と読むのではなく、「ショウリンジケンポウ」と発音して掲載してもらう、などの区別する為の配慮が働いたようです(的を射てなければすみません)。

このように中国側との対応については、過去も現在も満点に近いと言えるでしょう。しかし教義に関わる卍について、例えばユダヤ系団体などへ、組織として同様な配慮=働きかけを示して来たでしょうか…。

答えは、(きっと)否でしょう。繰り返しますが、私は今回、これに気付きました。

■書きたい放題(1)に、ある海外拳士が初めて卍を見た時、カギ十字に見えた、と書きましたが続きがあります。現在は卍を理解している、違和感は無い、とのことでした。作山先生も以前ユダヤ系アメリカ人と話しをした時、卍の形は嫌いだけれども意味は理解出来る、と言われたそうです。

欧米人は極めて個人主義であり、しかし同時に個を尊重する人達です。ですから嫌いではあるが、卍とハーケンクロイツは違うということ。卍の存在を尊重できる民族と信じます。

■昨日の掲示板に私はこう書きました。

「『>複数のユダヤ系団体からの抗議・要求の結果…マイクロソフト社の文字フォント(一部のソフト)から、裏卍・カギ十字・ダビデの星(三角形を上下交互の重ねたマーク)が削除され、重要な事項として発表されました。』

注:上は道場の拳士がどこかの記事をコピーして書き込んだものです。下はそれに対する私の回答。

①ユダヤ系団体といえども、卍と裏卍は異なると認識している、と考えられる。

②したがってマイクロソフト社としては、表には出ないが仏教団体にも配慮している、と考えられる。「重要な事項」の中身は深いようです。

つまり、卍とハーケンクロイツ(残念ですが裏卍はそうなってしまうようです)は違うことを証明している記事なのです。混同されているんではなくて、区別されているんですよ。

◇マークを統一する前に、これらユダヤ系団体と真剣に交渉して来たのでしょうか。

我々少林寺拳法の実績、活動、卍の正しい教義…。彼等に訴え、説得を試みたのでしょうか。

彼等が(少林寺拳法を)認めれば、卍を世界で着けることは可能だったのではないでしょうかね。

つまり、マイクロソフト社に抗議をしたユダヤ系団体こそ、急所の位置だったのです。」

■組織として一端動き出してしまった現在、難しいものがあるかもしれません、しかし、つい最近打ち出された政府の方針である「ゆとり教育(の是非は置きます)」でさえ、再検討の動きがあります。

残念ながら、組織全体での議論を尽くしたとは言い難い新マーク。もう少し拳士の声に耳を傾けてもらいたいですね。例えば、差し障りがない場所では、卍の胸マークを併用しても良いのではないでしょうか…。

「TUNAMI」が世界標準になりましたが、愛を表す「MANJI」もそうなりたかったですね。



2005年01月17日(月) ◆(2)愚公山を移す/ゴチャゴチャでは…?

■今回の新マークへの移行について、感想ではなくて意見も述べておきます。この件についてはM先生、G先生の掲示板にも発言していますので、また道院生も発言していますので、いずれまとめます。

一週間、この問題を作山先生と共に思考してきました。二人の現在の結論では、「シンボル」「マーク」「シンボルマーク」、この違いがゴッチャになっている、と考えるに至りました。(本部においても?)整理されていないようです。

まずシンボルとは、象徴です。必ずしも形ではなく、存在や教えも含まれます。そして有機質=意味を持っています。

対して、マークは印であり記号です。簡単に違いなどを認識できる印。極めて無機質です。

シンボルマークとは象徴を任意的にデザインしたもの。マークが意味を持って来ます。

■道場の祭壇の上に、今回頂いた新マークを飾ってみますと、上の違いがはっきりします。

本尊の達磨は大きな卍を背にし、両翼には表、裏卍を刺繍したドン帳用の幕。その上の壁、向かって左に開祖の肖像画、向かって右には金色の開祖のお言葉の色紙。その真中に盾と双円の新マークを置きますと、卍=双円?という(私の道場での)位置関係になります。

本尊の達磨と卍に合掌し、上の双円にも合掌をすると、…思います。うーん、双円は卍かな…?

卍が円成して円になる…。しかしイコールではないような…。本部のHPでは発展形である、と書かれ意味も述べられています。

言葉使いでは“マーク”ということです。それなら無機質に、例えば、YとGを組み合わせて「ヨミウリジャイアンツ」となるようなものでしたら良かったのです。さしずめ少林寺拳法ならSとKでしょうか…?

■しかし新マークは意味付けされており、“シンボルマーク”なのです。すると先ほどの件、卍と双円をどう位置付けるか、ということになり、拳士の心の中で葛藤が生じます。

シンボルマークが二つになれば混乱し、一つということなら双円が卍?ということになります。古い拳士=開祖世代?ほどそうなるのではないかなー。

ですので私の意見としては、マークなら、マークに徹した無機質のマークであって欲しかった、と思うのです。有機質にしない方が良かったのです。

■世に仏教関係の寺院、団体は数あれど、これほど卍を見事に説明し、堂々と胸に着けた団体が過去にあるでしょうか。

開祖の卍に対する見解=思いを少林寺拳法と共に、もっと世界にアピールし続けるべきではなかったでしょうか。世界三大宗教(イスラム教、キリスト教、仏教。音順)のうち、問題はキリスト教文化圏、主に欧米でしょう。イスラム教文化圏であるインドネシア連盟は問題無いのですから…。

当面、これらの国々については各国のマークを認め、ないしロゴマークに統一し、卍の正しい意味を、そうですね徳川幕府を倒した薩摩、長州に習って、三百年間は粘り強く試みたら=布教したら良かったのではないでしょうか。

その使命感を我々に与えて欲しかったです。



2005年01月12日(水) ◆(1)歴史的日を記す/新マーク決定

 新年明けましておめでとうございます。長らく休止していましたが、書きたい放題を再開します。皆様、本年もよろしくお願いします。

■昨日(注:十一日執筆時)は、道院長研修会が本山ではなく高松で行われました。飛行機のパックツアー利用で出かけましてわりと早い時間の帰宅でしたが、やはり疲れました。

今回は少林寺拳法のシンボル「卍」に代わり、新マークが発表されるという歴史的な研修会で、期待半分、(気に入らなかったらどうするという)不安半分の気持ちを持った参加でした。

実は不安の種がもうひとつありまして、それはホテルの事情により作山先生との部屋がダブル(ベッド)ということで、エキストラベットが入らなかったらどうしよう、というものでした。幸いツインの部屋が取れ、ホッとしました…。

■ともかく、会場となった全日空ホテルの大広間には約二千名の道院長、支部長が集まり大変な盛況。立派なホテルにそぐわないパイプ椅子まで持ち出されている始末で、これに腰掛けた人達は四時間の苦行?となったことでしょう…。

登壇する人の顔が良く見えないくらい広いので、計五つのスクリーンが用意され、「これって本当に研修?」というイベント的な雰囲気。しかし私にしてみれば、三十七年間慣れ親しんできた卍が廃止になるという記憶すべき一日だったのです。

この日の感想を一道院長として書き残しておきます…。

■総裁・宗由貴サンのお話しの中で、全国各地に赴きますと、最近は開祖を知らない道院長、支部長が増えていることを実感する、と言われていました。

このような情報は、横浜の根岸という一布教地点に根を張る私=一般道院長には分かりません。当然ですが、立場が違う執行部と私とは感覚的な、実際的な差が大きくあるように思えます。最近ではこのような差を「温度差」と表現します…。

例えば今回、二千名を集めて平坦な席に着かせますと、私達はスクリーンを必要とし、執行部は必要としません。また、こちら側からは頭=黒色しか目に映りませんが、向かい合った側からは顔=肌色が見えるようなものです。

中国などの人民大会場と比して、このような一体感がまるで欠如した会場の選定からして(たとえなんらかの制約があったにせよ)、現在の少林寺拳法の何かを象徴している、と思えてなりません…。

■以前、国際大会のシンボルマークを拳士から公募したことがありました。前例が無くはないのです。

いみじくも鈴木義孝代表が言われた「あなた方、一人一人がブランドなのです」の言葉…。なら、卍というブランドを一生懸命作ってきた我々が、今後、新マークのブランド力を高めて行くであろう我々が、なぜ誕生に一言の関与も許されなかったのでしょう。

講義をした大学教授は、拳士の『異文化適応能力/ICAPS』のアンケート調査を二十四万円払ってプロの業者に分析させた、少林寺拳法側に請求した、と打ち明けました。同様なことが出来た筈です。公募はともかく、拳士の好みや傾向を事前に調査できたでしょう。

■新マークについて

*綺麗ではあります。もう一色(青)を加えると五行の配色になりました。

*双円ということですが、円ではなくて楕円形になっているのでゼロに見えます。ゼロは空ですが、それより、私にはカギを閉じた形に調和を感じられません。

*禅門覚道のマークとして、もう少しスッキリしたものであって欲しかったです。

*これは作山先生が帰りしにポツリと言いましたが、「パワーが感じられない」ということです。卍は宇宙の実相を表しており、古代人が何かを気付いた形なのではないでしょうか。ピラミッドパワーなんて言葉もありますもんね。

*昨日(注:この項十二日記)少年部、一般部に新マークを見せ、感想を聞きました。どちらも賛否が大体半分くらいでした。古い拳士=拳歴二十年以上は卍の方が良いと答え、新しい拳士は良く分からない、と答えました。尚、今練習に来ている海外拳士(三級)は卍のマークを初めて見た時、カギ十字に見えた、と言いました。

賛――「色が綺麗」「丸が重なっているのが人間関係を表現していて良い」など。「良い」

否――「卍の方がスッキリしている」「マークの意味が分からない」など。「嫌だ」

■新井庸弘会長が最後の講話で「(ICAPS調査結果に基づいて)道院長は開放性が一般値より低い」と言われましたが、そう念押しされると、新しいマークの発表について異論を唱えにくいですね…。

――「ブランド」という、少林寺拳法におけるカタカナ文字の概念が結局分かりません。曹洞宗「永平寺」は八百年間法統を保ち続けました。

禅の根本はいかに悟りを目指し、いかに人間を教育するのか、という命題と真摯に向かい合い、それをひたすら実践して来たからでしょう。

神奈川では○動禅問題があり、彼らの道場にも行きましたし、調査活動にも協力しましたし、名称問題=商標問題の重要性は実感として理解しています。ただ最近の商標問題は、情報の質量が執行部と格段の違いがあるので分かりません。ですから、この部分の私の指摘は的を射てないかもしれません。

しかしこの日の感想として、以上のことを記しておきました。十人十色、まあ私の言い分も聞いて下さい。


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あつみ [MAIL]