暦通りの3連休に心躍るはずだったのが、体調崩して臥せっていた。2日半寝続けた(金曜は欠勤してた)後の昼下がり、さすがに体も心もそろそろ動きたいと言い出したので、とりあえず洗濯と掃除から始める。一通り片付くと、残ったのは新聞の山。・・・半年分。・・・6紙、半年分。
それは確かに「山」と形容するのがふさわしい。本棚の半分が占拠された後は、机の下のスペースに放り投げていたら、やがてドンドンはみ出してきて居間の中央まで侵食し、もうどうにもこうにも手を付けられなくなっていた。どうしてそこまで放っておいたのかというと、その山の中には、自分が書いた記事がところどころ含まれているからで、いつかはそれらを選り抜いてスクラップするんだと心に決めてはやウンヶ月、ずっと手付かずだった。
今日片付けてしまおうと奮い立ったのは、この数日寝てばかりだったぶんだけエネルギーが余っていたからだろう。もはや、その山から自分が書いた瑣末な記事まで取り出すことは無理とあきらめ、主要なものだけ選り抜いたあとは、片っ端からヒモで縛っていった。何時間かかったかは忘れた。
その成果を披露するならば、まずはチラシ類が3束。これはさほどでもない。新聞のついでに雑誌も片付けた。ジャンプだとかマガジンだとか週刊文春だとかそういった奴ら。いい年してジャンプ。・・・ともかくこいつらが4束。そして一番の元凶、新聞紙が、ひい、ふう、みい、・・・23束。置く場所もないので、とりあえず居間の壁際に5〜6束ずつ何列かに積み上げてみた。
律儀に巻尺を持ち出してその容積を量ってみると、縦1m、横1.2メートル、奥行き25cmだった。計算してみると、0.3㎥だ。たいしたことねえなと思われるかもしれないが、たいしたことなくはないのである。部屋が狭い。物言わぬ新聞の群れが、壁際からプレッシャーをかけてくる。
今住んでいる西宮市では、雑誌・チラシの回収日は月2回、新聞紙はなんとたった1回。いっぺんにゴミに出したら近所でよからぬ噂が立ちそうでとても実行できないが、半分くらいは出したい。それでも突如ゴミ捨て場に現れる十数束の(=6紙×3ヶ月分の)古新聞だ。チリ紙交換に出したなら、箱ティッシュ1パックくらいはもらえるのではないだろうか。とにかく来月始めの回収日に出さないと、冗談でなく新聞紙に埋もれて暮らすことになる。
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ところで、これらの新聞紙をきちっと読んでいるかというと、そりゃあ全部読んでいるわけないのだ。じゃあそんなに購読する必要もないだろうと言われると、いや、うん、たまには読むんです。実を言うと、契約の際に気を大きくして、1年間だとか2年間だとかにしてしまい、あぁー、なんかもうそのままでいいやという心持。きちっと毎朝起きて朝刊に目を通し、毎晩帰宅して夕刊に目を通す。いつかそんな習慣が根付けばよいと思うのだけれど、最初の半年でダメだったから未来永劫ダメな気もする。
それはそれとして、自分が書いた記事のスクラップはしっかりやりたいと思う。周囲を見渡してみると、新聞記者のうち、入社1〜2年目の新人の大多数が、スクラップをやっている。ベテランにでもなると、書く記事書く記事残しておく気にもならない、もしくは過去のことにかまってなどいられないのだろうか、あまりやっているようには見えない。いずれにせよ、ようやく私はこの腐れた半年にけりをつけ、新聞紙の山を整理して、自分の書いた記事をまとめて眺めることができるようになったのだ。今後は習慣化したい。
で、眺めていると、とてもおもしろいことに気づいた。なんとはなしに、この1ヶ月に書いたものと、それ以上前に書いたものとに分けて、2冊にスクラップしていったのだが、4−7月に書いた記事の量より、8−9月で書いた記事の量のほうが多いのだ。びっくりした。そういえばしばらく前、俺はぜんぜん仕事してないと思い悩んでいた頃があったのを思い出した。
その頃よりはマシになっているのかもしれない。ただ、もっと書けるし、書かねばと思う。休み明けに出さねばならない原稿は、まだ下書きすらできていないし、書きますといっていた原稿はずっと手付かずだし、先を思うと休暇中なのに気が重いのは、今も変わらない。ただ、1冊目のスクラップがスカスカなのに比べ、2冊目が量も質も向上してるのには、少しホッとする。
直属の上司はとうに気づいているだろうが、何も言わない。
「取材頑張ってんだね。いつも職場にいねえじゃん」。職場の喫煙所でぼんやり煙草を吸っていると、近くに机を並べている先輩がやってきて、そう言う。もしかしてカマかけられてるのかと疑いつつ、「いや、まぁ、ぼちぼちっすよ」と応える。毎日外で取材を頑張ってるならば、もっと記事書けるだろうなぁと思う。何やってんだろ、俺。いつ指摘されるんだろう。指摘されてみたところで、何か変わるんだろうか。自分でスケジュールを自由に埋められることは、つまり、自分で自分を律しなければならないわけで。きつい。
ここのところ、新聞記者たちの「伝説」を読んでいて、あこがれを抱きながら同時に気分が沈んでいる。ナベツネは、ただのバカではなくて、かつて凄腕の記者だったことを、魚住昭の「渡邊恒雄 メディアと権力」で知る。日経や朝日や毎日に、凄腕の職人たちがいて、文字通り死力を尽くして働いていたことを、杉山隆男の「メディアの興亡」で知る。で、時代は違えど同じ舞台に立つ俺は、いったい何をしているのだろうかと悩む。
この先やっていく自信が無いだとか、怒られてばかりだとか、あせる気持ちが止まらないだとか、そういったのは新人の誰もが通る道だとしても。自分が今立っている環境は、はたして単に新人特有のものなのか、とても怪しい。とすれば、「半年ではなく10ヶ月くらい立って初めて周りを見渡せるようになる」だとか、「なんだかんだいって慣れるのに1年はかかる」だとか周囲から聞かされるアドバイスは、自分に通じるのか、とても怪しい。
働き出してそろそろ半年を迎えるにあたり、ぶっちゃけて言うと、「こんなものか」という感覚はすでにつかめてる、という気がする。自分に何が求められていて、それをかなえるために何をどのようにすればいいのかということは、もう理解している、という気がする。それなのにまだうまくやれないのは、やはりまだ新人だからなのか、それとも俺はダメだという最終通告を待たざるを得ないのか。実際、かなりのところ、真剣に考える。
学生ならばまだ、「あいつはダメな奴だ」という言葉が、一つのキャラクターとして認知されもするだろう。ただ、社会人として、それは・・・。
気概もなく、根性もなく、あやふやな目標だけを抱えて、最低限のことを果たすのにきゅうきゅうとしている。そんな俺を見て何も言わない上司が怖いし、やるべきことが分かっているのにその通りに動かない自分が、なによりも恐ろしく、ふがいない。自分は果たして不相応な仕事に就いてしまったのだろうか。この先で、うまく歯車が回りだすのか。あぁ、こういうのはやはり、新人特有の悩みだろうか。数年後に今の日記を読み返して、「あの頃は・・・」なんて言える自分がいれば、何も言うことはないのだけれど。
少なくとも今の自分は、社会人であって社会人ではないだろう。学生時代に身に付けた「学生の貌」は、今も自分を縛り付けている。先日夏季休暇で東京に戻った際にしたことは、学生時代の再生産とでも言ったらよいだろうか。寝てばっかいたのも、酒を飲んでばっかいたのも、そして約束をすっぽかしたりしてたのも、当時のダメな自分のまま。別に「社会人の貌」なんて欲しくもないのだけれど、芯から変わらなければ、立ち行かない気がする。そして、今もっとも自分に必要だと思われるその「貌」を、もっとも手に入れにくい環境にいるのではとも思う。
というようにゴチャゴチャ考えられるのも、学生でもなく社会人にもなれないでいる今のうちだけの気がするから、ここにこうして書き残しておこう。平日の昼間にブラブラしてる学生を見て向かっ腹を立てるのも、学生時代を懐かしんで物思いにふけるのも、今のうちだけに違いない。なんだかんだ言って、ある程度の時間を経験すると何も感じなくなってしまうだろうから。ただ、問題は、昔に思いをはせたり、悩んで立ち止まるだけのゆとりがあることだろう。がむしゃらになるまで求められていない、そしてがむしゃらになれない自分は、無事学生から社会人になれるのか、大きな疑問が残る。
いつもいつも苦悩する日記ばかりなので、たまにはお気楽に。
これまでは履歴書などの趣味の欄に読書と書くのははばかられたのだけど、最近は意識して週に2冊は読んでいるので、まぁ趣味=読書と小さく言ってみても良いかと思う。仕事柄新聞は一種の義務として読んでいるが、あんなもの読んでる時間はどうしても気が休まらない。電車で移動する時や喫茶店にいる時に、どっぷり本の世界に浸るのを楽しみにしている。
だいたいまぁ週末とか、職場を出て外を回っている時間の合間とかに、書店に寄ってぶらぶら本を探す。まずは新刊コーナーを一回りして、時間があれば各棚も周ってみたりする。知人が言っていたが、書店をぶらぶらしていると1冊くらいは惹かれる本に出会うものだ。タイトルと装丁でとりあえず気になったものを手に取る。目次を見てパラパラめくって、雰囲気をつかむ。それを繰り返すと、1冊か2冊、そのとき読みたいなと思うものに出会う。
そういう行為を繰り返して気づいたのだが、千円近く払って買う本というのは、けっこう最後まで読むものだ。払った分だけ元を取ろうという気持ちが働いているのかもしれない。もしくは、じっくり時間をかけて選ぶ分、ハズレが少ないのかもしれない。ただ、経験上、ブックオフとか新古書店で百円で買う本は、手元に置いてみてもまったく目を通さないことが多々あることから、どれだけその本に投資したかが読む意欲に関係するのかもしれない。
最近読んだ本を眺めてみると、小説やノンフィクションが多い。必要に駆られ経済の解説本とかマニュアル本とか、何かの知識を求めるために読む本というのもあるが、あまりそういうのは好きじゃない。自分が読書に求めているものは、単なる知識ではなく、著者の物の考え方やら雰囲気やら、なにか漠然としたモノで、それに没頭したいから買って読むんだろうと思う。
近頃の書店は洒落た処が多くて、蔵書が多く、広々と配置されている。喫茶店が併設された処なんかもある。案外楽しめるもんですよ。秋の夜長に備えて、どうぞお試しあれ。・・・しかし最近思うのは、週2冊のペースで読んでいったとして、1年で100冊しか読めないということ。人が一生に読む本なんて、多くても10000冊かそこら。近くの小さな公共図書館の蔵書数に遠く及ばない。じっくり選んで、良い本にめぐり合いたいもんです。
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