おぎそんの日記
おぎそん



 stand/bear/endure/put up with

「偉いね」
ほんのたまーに、そんなことを言われたりする。

ボク自身の妙な我慢強さを評してのことだ。


自分でブレーキをかけてしまう(無意識のうちに?)癖。
いつからかはもう覚えていないけれども。

ボクが望むものと他人の望むものがかち合ってしまったときに、どうも”どーして○●をしたい(やりたい)から譲って!!”とはどうも言いにくいのだ。不思議なんだけれども。

多くを望んでも仕方がない、というのはあるのかもしれない。
願っても叶わないことが多いから、との諦めなのかもしれない。

でも、それじゃ淋しい、と自分のどこかで思ったりもする。

高瀬舟の題材であった 殺すべきだった/殺すべきではなかった の二元論のように。
人の意思、というのは 自分のやりたいことを押し通す/自分が望んでいてもそれを我慢する という二元論なのかもしれない(って、誰かの―宮部みゆき?―本の中で読んだ覚えがある)。

でも、もうボクが選んだことだから。
淋しくたって、結局は自分が招き入れていること。
それを誰かのせいにするのは見当違いだと思ったり。

もちろん、ボクにだって人並みに思うのだ。
あー遊びたいとか、衝動買いしちゃおうかなーとか、いろんな文句を言いたい!とか>今でも十分言っている、という話もあるけど
でも、それらを考えたときに。
ボクだけに及ぶ被害ならまだいいのだけれども、他人を巻き込むときの怖さ・恐れがある。
それがなんとなく嫌なのだ。

もちろん、そんなことはないよ〜と言ってくれる有難い人が居るのも承知だ。
でも、これはボクなりの矜持なのだ。たぶん、きっと・・・。

と、オチがなくなって困ってしまったのだけど、まぁそんな てーげーな感じで>明らかな逃げ、でしょう

2006年01月31日(火)



 アリガトウ

”来てくれて、ありがとう”

そう言われるだけで、すごく嬉しくなる。
自分が躊躇っていたけれども、やっぱりきてよかった〜と思えるからだ。

自分が受け入れられていること。
それを実感することは実はそんなに多くないんじゃないかな、と思う。

改めて、「友だちであること」ということを考える。

「アタシタチ、友だちだよねっ!」とまるで小学生の女の子みたいに>って偏見?、もう歳を重ねてしまった今は言えるはずもない。
だから、不安になってしまう。
考えすぎだよ、といわれたとしても。

ホントに友だちなのかな?
こんなことを言っても大丈夫かな?
そう思ってしまうのだ。

あんまり、人間関係を(正直なところ)上手く築けた、という実感がないのだ。
三者関係の世界において−大勢の中での自分という捉えをするということ−自分をとらえなおすこと。
って、移行対象>ライナスの毛布みたいな存在のことですなすら見つけれているのかな。
ちょっと不安・・・。

だからこそ。
何気ない一言に右往左往する。

前も書いたかな。
自分が聞きたいように、その言葉は放たれた人の想いとは関係なしに受け取ることができる。
もちろん、そこにはあまりある誤解も生まれるだろう。

でも、傷つくことも含めてこその言葉なんでしょう、きっと。
傷つけることだって、きっと今までしてきたし、これからもする。
それらを確信犯的に>故意犯と呼ぶべき、誤用ではなく正しい意味としてしてしまう。
許して、とも思うしでも、お互い様かなともチラッと思う。

そう、話す/話し合うことでしかわかりあうことはできない。
いくら誤解があってもきちんと理解をするための努力をしよう。
きちんと話をしたいと思う。


ちょっと遅くなったけど今年の抱負(目標)はこれでいくつもり。

2006年01月22日(日)



 STAY〜now I'm here〜

最近、自分の受け入れられる場所について考える。
自分がいたい場所、自分を受け入れられる場所。
それぞれは異なるのかもしれない。

あんまり顔は出さないけれども、たまに行くと「よく来たね〜」と微笑んでちょっと席をつめて自分を受け入れてくれる場所。

すごく、受け入れてくれる場所を貴重に思う。

今年は、お正月に(珍しく)実家に行ったのだけれども、高校時代の友人たちと6〜8年ぶりに飲んだ。
もう、繋がることはないのかな、とちょっと思っていただけに最初はコジンマリと3人で飲むはずだったのに。
友人が気を回して、「Nはどうよ?」「Tなら連絡取れるよ」「Kはどうかなぁ・・・」と膨れ上がった9人。

ホントにこういう、「今から飲むから来なよ」で駆けつけてくれる友人たちってありがたい。
余計な打算がないからこそありがたいと思う。

槇原敬之は「誰もが誰かの居場所になれる」(”Home Sweet Home”アルバム「Home Sweet Home」収録)と歌った。
ちょっとだけ実感した。
自分が受け入れられていない、と思う(錯覚、でもいいが)と次に何をしようか、という楽しいことはあまり考えることができない。
自己肯定感が低くなるからだ。
同じ道を歩いていても、顔をぐっと上げて歩くのと、ずっと下を向いて歩くのとでは気持ちはずいぶんと違う。

足元を見ていないと、転ぶよ!とも言うけれども、転んだとしても自分の心を引くものを、自分の知っている人に遭遇するチャンスをなくしてはいけないのだと思う。
気持ちが沈んでいるときの、自己憐憫に浸っていても進歩はない。

同じ限られた時間しかないのならば、服を明るい色に着替えて微笑みを顔に漂わせていたい。
たとえ、ノーテンキだねぇ、と言われたとしても自分の内心が全くの他人にわかってたまるか。
ネガティブな感情を他人に感染させてどうする。
せっかく関わりあえたのだから、きちんとフィードバックをしたいと思う。


いつも満たされない、と思っていても。
ちょっとだけ他人に対して心を配る(これぞ、心配 笑)ことで、自分にきっとはねかえってっくるんだと思う。
見返りを期待するのは愚かしいことだけれども、でも、それ(見返り)を期待することは別に悪いことじゃないと思うのだ。


他人に自分の気持ちはわかってもらえなくてもいい、とはわかるな、とは違う。ゴーマンかもしれないけれども無理に理解してもらおうなんて思わない。自分がわかって欲しい人にだけ受け入れられるならばそれだけで十分だと思う。

2006年01月12日(木)



 できること

ボクたちは純真でも真面目でもないけれども

ボクたちは誠実でも強くもないけれども

自分ができることをただただするだけ

できることをただするだけ

2006年01月11日(水)



 オメデトウ


いいことが起きなかったかもしれないけれど、とりあえずはオメデトウ。

とりあえずは言ってみよう、オメデトウ。

つらいことはあるけれど、なんだかんだと言っても日々は続いていくものだから、とりあえずはオメデトウ。

一回だけじゃぜんぜん足りないからオメデトウ。

今日も明日もオメデトウ。



少しでもいい年になることを夢見て、いきたいと思う。

「口にするだけじゃ意味がない」と思ってたけど、それはあまりにも不遜かもしれない。

だから、とりあえずは口に出してみよう。

言ってみよう。

”きっとよくなる”って。

うつむいてばかりじゃ辛い。

せめてもの、思いでいいから。

オメデトウ。
いい年にしようね。

2006年01月01日(日)
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