おぎそんの日記
おぎそん



 as sonn as

感謝の気持ちは思ったときに述べる。
いつ言えなくなるかわからないから。
相手が居るかわからないから。

したいことはできる限りそのときにする。
先延ばしにして後悔するのは嫌だから。
したいことはいつまでも待っていてはくれないから。

最近、とみにそう思う。

2005年09月23日(金)



 くるねるところ すむところ

ママの単純さは暴力的。
佐知子の言葉を思い出す。

そうだ。
わたしには柔軟性がない。
迷って選択肢を増やすと、混乱するだけだ。
見えている一本道を歩くしかない。

その道が行き止まりなら引き返すかもしれないけれど、今、立ち止まるわけにはいかない。
止まったら、歩く勇気が失せていく。

そんな気がする。


「くるねるところ すむところ」平 安寿子(文芸春秋)

2005年09月12日(月)



 ヌルい仕事してんじゃねーよ

ぬるい仕事しているのを見るのが嫌なのだ。
自分自身の言動を振り返れば人のことは言えないとは思うのだけれども、それでもなんというか人を不快にさせるレベルの仕事っていかがなものかとある意味感心してしまう>もちろん皮肉


そりゃ、たかが(この言い方はホントは嫌いなのだ)バイトの仕事にカッカとしてもしょうがないよなんて意見があるのは十分すぎるほどわかっている。自分が望んでいる(接客であったり、仕事に取り組む意識の)レベルでないことに怒るということは、他人に対して甘えがあるのだと思う。
他人に期待をしすぎる、というか。

でも、忌憚なく言わせてもらえば、お金をもらっていようがいなかろうが「与えられた仕事に報いる」ことに誠実に向き合うというのはボクにとって譲れないラインなのだ。
そこが果たされていないところに腹が立つ(何度も繰り返すが、自分勝手な想いだと承知しながら、だ)。


お金をもらう仕事のほうがはっきりしている。
そのお金の分だけ働く、という「プロ」はいる。
それはそれでプロ意識なんだろう。(ただ、何処でその対価を判断するのか、その判断に妥当性はあるのか、などの論議はあるがとりあえず)
でも、それじゃなんだか嫌なのだ。


ボクが思うのはお金がもらえなくてももらえても「やってしまう」人が「プロ」なのだと思う。
その対価に惑わされることなく、その状況においてどうすればベストを尽くせるのか。その場限りでない、先を見据えた状況判断。
これを「やってしまう」人にどうしても、情が湧く。
その人を信じたいと思う。
結局、見合った対価でなくとも自分の中で達成感があるというか、満足感(まぁこれも、自己満足かどうかの判断をどうするのか、がつきまとうけれども)があって”武士は食わねど高楊枝”が好きなのだ。

対価は人が決めるもの。
せめて、せっかく自分が取り組むものだからこそいいものにしたい、相手によく思ってもらいたい、助けになりたい。
いくら傲慢だ、と非難されようとも基準は自分が決めるのだ。
自分が今居る場所で、どうしたらその矜持(誇り、でもいい)をもったままでいれるのかがボクの判断基準なのだ。

2005年09月08日(木)



 海になりたい青

最近、過剰に自分を卑下してた。

逃げ道を作っておくためだ。

うまくいかなくなった時に、ほら、言ったでしょ?もう駄目なんだって、言ったでしょ?とケツをまくるためだった。


きちとんと物事に正対しないとできる後悔も中途半端になる。
どこかに言い訳が入り込む余地があるからだ。
自分を甘やかすからだ。

やるなら、やって後悔をしたい、とやっと素直に思えるようになった。
残された時間はあまりにも少ないからだ。
日々が納得のいくようすごせることなんてそうそうに、ない。
だから、自分がやることによって変えることができることは貴重なのだ。


甲子園の高校野球児のように、その”思いの強さ”だけが「永遠の夏」として刻まれるのもいいかもしれないが、もう十分すぎるほどの年月が経ってしまった。
だからこそ、それとは違うやり方で挑むしかない。

青は、青になりたいが如く海に近づくが。
望んでいた海になったら、きっとその青ではいられない。
変わるしか、変わり続けるしかないのだ。

青い鳥を捕まえても、青い鳥じゃないのかもしれない。
でも、捕まえようとしたのは自分の意思。誰の命令でもない。
だから、自分が納得のいくことをするしかないのだ。
その結果を人のせいにせず、自分が責任を取るために。

いい年をこいて、人のせいにするなんて格好悪い。
結局は、自分の本質が「いい格好しい」なんだと認識せざるを得ないけれども。

2005年09月02日(金)
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