おぎそんの日記
おぎそん



 ストレスはeeのところに

久しぶりに、ボランティアしました。
とゆーか、たぶん3年ぶりくらい。

偉そうなことはいえないけど、それでもいろいろと人が集まるもの(行事とか)にはトラブルが付き物というか。関わっている人の業の深さや、恨み辛み妬みだったり、思いの深さであったり。

当然のことなんだけど、全くもって(というのは言い過ぎかもしれないけど)立場が違う人がある目的のために共同作業をする。
そりゃ、上手くいかないよな。
なにせ「臨機応変に」ってまかり通っちゃうという時点で。
・・・どっかで見たような光景ですけど。

とはいえ、それぞれのボランティアは(基本的に)真面目にやってるしそれって凄くもったいない気がする。
「なんとかして」といわれたら”なんとかしてしまう”って能力だし。
指示待ちをしないといけないところもあるけれども、でもそのボランティアの立場だと限られたことしかできないって不満(改善点を思いつく)があると、ステップアップしていくのかな、とも。

それぞれができる範囲で、という「まやかし」はもう通用はしない。
じゃあ、それに対して何処まで腹をくくることができるのか、がボランティアと実行委員みたいなものの境目になるのかもしれない。
なーんてことをコッソリ思ってました。

だって!だって!!
おぎそんの分担がいつの間にか変わってるんだものっ!
いつの間にか「いない」ことになってるんだものっ(で、代わりの仕事をやる、と)!

もぉ〜。

すべてを名前入りでシフトを組むべき(某委員会とか、某事務局とか)だとは全く思いませんけど(ある程度は必要だとは思うけど)。
でもさ〜〜。

いい年こいた大人たちが一つのことだけぞろぞろついていったり、手持ち無沙汰のときに何もしないってのはどうかなーと思うんですよね。
たぶん、人数の割り振りがキチンと考えてないからなんだけど、せっかくの人手がもったいないなぁ〜と思わされる一幕もあり。
片付けのときに、戦時中の配給 若しくは レミングの行進 さながらの光景を見せられた日にゃなんだかなぁ〜と思わざるを得ないというか。
まぁ、こういう反省点は出ないに一票。

外野の視点を入れると「アレもこれも」となって案山子の如く身動きが取れなくなるのは事実だと思うから、考慮に入れないのも「あり」だな、と思うようになったおぎそんは最近”なげやり”入ってる気がしなくもない。

まっ、たまにはヤサグレってことにしておきましょう。

おぎそんは、純粋無垢なこき使われる(少しは考えたほうがいいと思う)ボランティアの皆様を応援しています!

2005年08月13日(土)



 星の配置図

8月13日(土)〜19日(金)のあなたの運勢


四角い釘。丸い穴。はまりません。今週、なんとかして不可能事を成し遂げなければなりません。というか、あなたはそう思っています。厳しい注文があなたに突きつけられました。でも、あなたの時間やエネルギー、そして資金は限られています。いま必要なのは賢明かつ明晰な思考です。でも、けたたましい混乱の中で、あなたはまともに考えることができません。もう何でもいいから、最も早く気分を楽にしてくれる方法を採用したい気分です。
今すぐに実行する必要のないものは、徹底的に排除してください。先延ばしにしましょう。言い逃れをしてください。数日もしたら、問題はひとりでに解決の方向に向かうでしょうから。


・・・。なんだかロクな来週じゃないな。
気になるっちゃあ、気になるし。まぁ転ばぬ先の杖ってことで。

結局は、非常事態に備えておけばいいんだよっ。

起きなきゃいいんだけどね。

2005年08月12日(金)



 信念を持つ、ということ

夏期講習もなんとか前半が終了。
年を重ねるごとに(今年で6年目って・・・)どんどんしんどくなるのは、年のせいだけじゃない気がするこのごろ。
だんだん、おぎそんと生徒たちの年齢が乖離していくってことも大きな要因だと思います。
もちろん、こっちはお金をもらっているわけで弱音を吐くわけにはいかないのですがでもねぇ・・・。

そんな折、気にはなっていたのですが「夜回り先生」こと、水谷修氏の公演を聞きに出かけてきました。
去年、いきなりブレイク(という言い方も変なんだけど)した彼の作品を一作も読んでいなかったのですが、教育業界に”あだ花の如く”関係していることもあり聞いてきました。


感想。
うーん。
・・・うーん。
・・・・・・うーん。

なんつーか、横田力教授(現在は某C大学で教鞭を取ってることも判明)の言い草になるんだけど「全員がアナタみたいにスーパーマンじゃないんですよ?」ってところに尽きるのかなぁ・・・。
いや、彼が実際に子どもたちのために行動していることは凄く評価されることなんでしょう。おぎそんも正直に脱帽です、としか言えません。

でも、と思うのです。

果たして、すべての教員が彼のように行動「すべき」なのでしょうか?
そこに疑問がつのるのです。

さいたまプロ教師の会(このネーミングですでに失笑モノなのですが)の諏訪某氏が「水谷は聖者だ」と揶揄する気もわからなくないのです(って、ここから出てきたのかな)。

とはいえ。
おぎそんが思うに「そこまでの覚悟があるのか」ってことが問われているのではないか、と。

ものすっごく偏見で言いますね。
おぎそんが思うに、さいたまプロ教師の会が言ってることは単なる「逃げ」なんです。だから、水谷氏のような存在が出てくるともう勝ち目が無いからそういう「スーパーマンにパンピー(って、なんて表現だ)が勝てるわけ無いじゃないですか!」っていう言動に走るんです。

自分たちの方策が上手くいかない→自分たちが悪い、とは口が裂けても言えない→相手(生徒)が悪いんだ

という凄く子どもじみた(生徒―全員じゃないのは当然ですから―にとっても失礼な話ですね)考えを持っておいでだと思います。

別に、教師は聖職だなんて思ってませんけど(この考えが蔓延していることもやりにくい要因だとは思うのですけど)、どーしてそこに抗わないんでしょう?
教員にとっては毎年同じような生徒であっても、その生徒たちは環境によって変性していきます(マクロとミクロな話がごっちゃになりがちだけど)。それに対して、毎年「誠実に」向き合っていくことが教員の最低限の礼儀だと思うのです。
自分を棚上げして相手にすべての責任を負わすことくらい恥ずべきことはない、と勝手に思うのです。

ぜいぜいっ。
話がずれました。

で。
水谷氏の「子どもたちを取り巻く環境をよくしたい」ってところは全くもってイイことと言いたいのですが。
言いたいんです。

でも。
なんだか、水谷氏が過激派なんです(>表現が大げさ)!
詳しいことは割愛するんですが、「うーん。それを言ってしまったら何もかもできないなぁ」というか、子どもたちが見ることのできる番組は「プロジェクトX」>でも やらせか「金八先生」だけになるなぁと思うんですよ。

おぎそんが思うに、子どもたちって大人たちに反発して「何か」をしたがるわけでしょ?それをどう先に手を廻してやらせないかってことよりも、何かをしたときに彼らにどう対処してもらう(まぁ、落とし前のつけ方)ってことが大人のすべきことだと思うんです。

それがどうも、彼の主張では「ある程度の年齢までは見守って、自己責任へシフト」って聞こえるんです(おぎそんの拙い要約だから誤解が多分にある、ごめんなさい)。
じゃあ、どこで失敗を経験させるんですか?と、聞きたい。

この辺は、NPOの学校づくりにも共通しますね。
「子どもたちが勉強したくなるまで、待つんです。強制でやらせてなんの意味があるんですか」っていう、アレ。

でも、その判断は誰がするんですか?
彼/彼女がしたいときに、する。その理念はすばらしい。

でも、必要なときに必要なもの(考え方・能力・技術など)が備わっていないかもしれない。
誰が責任を取るんだ?困ったときにだけ、個人の自己責任にするのか?
それこそ、「大人の勝手」じゃないか。
押し付けられたほうはたまったもんじゃない。


水谷氏の「冬の寒い夜に外に居たい子どもなんてホントは何処にもいない」という経験から裏づけされた言葉は大変に重い。
誰も彼を貶めることはできないし、非難することなんてできない。

無自覚に彼を信奉する必要も無い。

ただただ、どうあるのか(ありたいのか・どう向き合うのか)を考えるべきなんだろう。

結局、サインにつられて(>やっぱりミーハー)購入してしまった彼の著作を読んでから判断はしたい、と想う。

2005年08月07日(日)
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