おぎそんの日記
おぎそん



 place



降り始めた冷たい雨
窓のガラスは白く曇って
急ぎ足の人の中で
あなたは肩をぬらしているだろうか

同じことがうれしくて
そして悲しみはいつだって
どうしようもなくひとりずつだけど

もしもつかれ果て倒れるときには
その淋しさごと抱きしめてあげる
そして耳元でささやいてあげる
おかえり ここがあなたの場所
いつでもここがあなたの場所


もういいよと引きとめても
きっとあなたはドアを出て行く
夢がもはや力尽きて
むなしいだけの風だと知っていても

どうか忘れないでいて
たとえひとりきりになっても
ここにいる ここにいる いつも

世界のすべてにそむかれたならば
痛みより強く抱きしめてあげる
何ひとつさえも癒せないけれど
ただその背中を抱きしめてあげる
世界のどこにも居場所が無くても
凍える指先あたためてあげる
そして何度でもささやいてあげる
おかえり ここがあなたの場所
いつでもここがあなたの場所
私がいつもあなたの場所



by篠原美也子

2004年03月23日(火)



 罪は覆い隠そうとも・・・

いつかは顕れる・・・ってハムレット。
別におぎそんがなにかしでかしたというわけでなく、友人の近況を聞いた時にふっと浮かんだのですよ。

あー、東京に再進出してきた友人とご飯を食べながら会話をしていたのですが。

あたしさー、結局親も騙くらかして出てきたからさー
ん?
「でね、職場にもそう言っちゃったからさ、引っ込み付かなくて
おいおい
だから今年決まらないとやばいんだよね
・・・。

頑張れ、規恵。
よりによって何も「警察学校に入学する」って方便もどうかと思うしそれで騙される親・同僚・その他諸々もどうかと思いますが。少しは疑えよ!>とくに両親

おぎそんは、あとにひくに退けない規恵を養っているパトロンを応援しています!

2004年03月20日(土)



 読了

現実逃避のように>「ように」じゃなくて事実なんだが最近は本に逃げてる。
ブックオフで買いこんだものの未だに読んでない本をとりあえず片付けるべく順繰りに読んでいるのだけれども結構途中でほおりなげているものがあることに驚き。
あー、おぎそんって健忘症かも。

で、なんとか 天童荒太「遭難者の夢―家族狩り 第2部―」も終了。ついでに内館牧子「恋につける薬」も終了。ファミレスで2時間粘って 萩原浩「神様からひと言」も読了。
だんだんペースが上がってます。>あげてもしょうがない

人に言わせると「本はどんどん新刊が出るわけだし、一度読めば十分だよ」だって。おぎそんは未練があるというか、何度も同じ本を読み返してしまう。
山本文緒とか宮部みゆきとか。>「魔術はささやく」なんて3回も買いなおすほど読み返してる
言いたいことはわかるけどなんとなく嫌だな〜って思う。
それは勿論、人間関係とも同じこと。

知り合える人なんて限られてる。でも、次から次へと新しい出会いを求めてせっかく自分が「心地よい居場所」と感じる場所をキープしないのはもったいないともおもったり。>しかし、それは甘えとも言える


あ、おぎそん 荻原浩を久しぶりに読んでの感想というか意見。

荻原浩≒(近似値というか似てるってこと)重松清 を主張。
なんというか、どちらも地道に生きている(というと語弊あるんだけど)人を描いて、それに対するささやかな祈りがこめられているというか。
現状は変わらないかもしれないけれど生きていくその姿。ジャンルとして荻原はミステリー(エンターテイメント)、重松は脱ミステリー(てか直木賞作家)なんだけれども。(本人が望んでいるかわからないけれども、萩原は意識しているのか意識していないのか常にユーモアを折りこんでいるからこその哀しさが漂う)

荻原の主人公には「意地」という言葉がよく似合う。自分のための、自分を確認するための、自分の存在価値をはかるための意地。
一人ぼっちの戦いにも通じる。
「ハードボイルド・エッグ」「オロロ畑でつかまえて」「なかよし小鳩組」「誘拐ラプソディ」「神様からひと言」しかり。
そう考えると、彼の存在を知らしめた(って言っても一部の人に、ってことだけど)「噂」がかなり特異な地位を占めていることがわかる。

何らかの形での自己証明を投影する。人の捜索とか。
「小僧の神様」(志賀直哉だっけ?)の『神様』とダブらせた印象。自己の願望が引き起こすもの。
○◎●(一応、ネタバレをしないための伏字)がダブルミーニングであったように中身とパッケージの相違という皮肉さ。
最後の1行が泣かせ。「噂」を上手く引き継いだ展開。


と、好き勝手なことをメモったりしてました。
「あー、面白かった」ですませてもいいけど、作品から自分の読み取る部分から自分が何を考えているのがわかるって実は面白いなぁ、と。
自分が見たいところだけ見ようとして。
読書感想文って実は「感想」じゃなくて「自分が何を問題意識として持っているか」の確認なんだろうなーと思う。
今、もし「感想文書け」って言われても多分苦痛じゃないと思う。>出来はともかく
もっと早く気付けばよかった。

って、採用試験の論文とはまた違うんだが・・・。

2004年03月18日(木)



 伝えるべきことなんてない

伝えなきゃいけないものなんてないような気がする。
確か、文藝賞での評だったと思うけれど「文学を書く必然性がない、という自己言及性の自覚」というのをまだ覚えている。

音楽でもなんでもいいけれど一通りの表現は出尽くした(ように思える)。それなのに何故文章を書いたり音楽をしたりするのだろう。

自己表現という意味では小説を書く人が増えたりするとかストリートパフォーマンスをする人が増えるとかわかりやすい。
でも、そこに「何かを伝えたい」よりも「伝えることで誰かを救いたい」とか「何かを実現させたい」という思いがある人も居る。
そこに疑問を抱く。>傷のなめ合い、ということが必要であるかもしれないけれどそこに留まっていてもあまり意味がない

京極夏彦氏「嗤う伊右衛門」のように思いは受け取る側が決めること。それを制限する(というか自由な鑑賞を妨げ、作者の押し付けになりかねない)というのに「それは宗教では」とも感じる。

先日紹介させていただいた星野智幸氏に興味を持つのは彼の創作姿勢が文学の必然性を否定した上で出発しているように感じるからである。
そのため、前述したようなことも感じるしTHE BOOM「手紙」のような感情を言い当てていて妙だと思う。

2004年03月15日(月)



 残高

残念ながらお金の話じゃないんです。すみません。>本心なのか?

昨日の日記に書いた「give & take」なんですけど。

おぎそんって結構計算高いっていうか損得感情がどうもあるんですよ。
例えば、見知らぬ人に対して媚を売ってみたり。

那智丸なんかに言わせれば「別に売る必要もないのになんで?よくわからない」なんて言われるんですが。

2004年03月11日(木)



 確かな居場所

今日はどういうわけか生徒が早く帰っておぎそんも珍しく当日中に帰宅できるかな、と思ったら。

生徒がやってきました。

家出してきたの言葉と共に。

( ゚Д゚)ハァ?って感じなのですが話を聞くに。


他愛もない(勿論、「オトナ」の視点で見ればでですが)ことなのですが甚く傷ついた、とのことでプイっと出てきたようです。

今日なんか塾に行くまでに3人の警官と3台のパトカーに遭遇したおぎそんとしては「補導されなくてよかったね〜」なんですが中学1年生が出歩くにはちょっと(ちょっとでいいのか?)不自然な時間です。(0時)

本人も少し話をしたところで落ち付いて無事に帰宅となりました。



それにしても。
彼に塾が居場所として認知されているのは意外というか。
それは一時的な駆け込み寺としてでもいいのだけれども。
塾としてそこまで頼られるのは個人的には重いかな。もちろん、それこそ「駆け込み上等!」としてフリースペースとしての受け入れ態勢があるところが存在していることを見とおしての発言ですが。
なんというか、おぎそんってあまりに対等でない関係が好きじゃないんですよ。(ギブアンドテイクならともかく)
そこまで付き合う「義理」があるのかな?って感じです。


自分が安心できる場所を探すのは実は年齢を重ねても同じコトのような気がするこの頃。
ただ、日々に追われるが故の逃避とも言われるかもしれないけど。
自分が選んだことに文句をつけていちゃ話にならない。それが違うと思うのならば切り捨てることも、大事と思うのならば伝えることも自分が決める。


でも、中学生で家出(しかも自転車)って。
あまりに幼いなぁ。
おぎそんが家出っても小学生までしたよ。>ってしたのか

結局塾を出たのは普段より1時間近く遅い時間でした。嗚呼・・・。

2004年03月10日(水)



 もしかすると

現在、星野智幸氏「ロンリー・ハーツ・キラー」を読んでいるのですが。

もしかするともしかして、という予測なんですが。

この作品、物凄い作品なのかもしれません。

おぎそんの乏しい語彙では伝えきれないほどの魅力があります。

以前紹介させていただいた「ファンタジスタ」以上に世界観が反映され、自分の浅はかな考えが打破されてしまう危険性があります。

これこそ、他人の物語を生きる心地よさかもしれません。>どうも言いたいことが的を得ない

よかったら是非とも。

おぎそんは星野智幸氏を応援しています!

2004年03月03日(水)



 分かり合えなくてもいい

ついうっかり自分の弱みを晒したくなる時がある。

そんなときに「おぎそんのいうこと(考えていること)がよくわからないので会って話しませんか?」なんかと言われると萎えてしょうがない。

もちろん、一応社会的信用の上であちらさまが気を使っているのだと思うのだけれどもわからないことだってあって当然でしょ?とかあなたが理解することになんでおぎそんが協力しなきゃいけないのかとかついつい思ってしまう。

おぎそんは、逐一分かり合うなんてことに余り意味を見出せない。
基本的な部分がわかっていれば相手がどんなことをしていても、たぶんそのまま受け入れたいと思う。
相手を自分の尺度に当てはめることほど意味のないことはないと思うのだ。






でも、巨人ファンはダメだ。分かり合えない。

2004年03月02日(火)



 

嫌いな人(意地悪な人でも可)をとっちめるのは簡単。
善意(裏を返せばお節介)や気さく(裏を返せばなれなれしい)で近づいてくる人をやっちまうのは物凄くエネルギーが要る。>こっちが悪者になるからということもあるから
でも、そう考えてしまうのはたぶんおぎそんが捻くれているからなんだろうね。
もっと素直に人の意見を聞ければいいのに。
もっと自分を守ることだけに固執しなければいいのに。

2004年03月01日(月)
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