●●● 俺色アストリンゼン
DiaryINDEX|will
2008年03月22日(土) |
にいさん夜明け前の巻 |
わからないことを聞けば何でも教えてくれて、親切なにいさんではあったが、ちょっとくだけた話をするということはまるでなかった。 一緒にいる時間は誰よりも長いのだから、そんな機会はいくらでもあったにもかかわらず、そのほとんどは業務に関する話であり、そうでなければ「大学でどんな勉強をしたか」とか、何とも堅い感じだった。 何しろにいさんは自分がバリバリの院卒なので、そんなアカデミックなネタが大好きなのだが、大学時代まるで勉強しなかったバカ学生だった私にはそれはむしろ身を切られるような話題であり、ヘタに何かしらの固有名詞を出したが最後、ここぞとばかりに食いついてこられそうで恐ろしく、つい無口になってしまうのだ。
思い返せばそんな頃は、にいさんが近づいてきて私の側で話をしていると、猛烈な眠気におそわれたものだった。 にいさんの話がとりたてて退屈だったわけではない。にいさんが側にいると、緊張のあまり持てるエネルギーをすべて吸い取られてしまうのだ。地の底に引きずり込まれるような眠気はそのせいだった。
しかし見ていると、私以外の人とは必ずしもそんなお堅い雰囲気を醸し出しているわけでもないのだ。 席を並べている男性社員とは露骨に2ちゃんねるの話で盛り上がって楽しげにしているし、役付きの皆さんとも臆せず打ち解けて私生活の話なんかしている。 独身男性につきものの、自分を異性としてアプローチしてくることがまるでないのは、面倒がなくて有難かったものの、どこか不思議で、何より物足りない感じは否めなかった。私にだって2 ちゃんねるの話を振ってくれてもいーじゃないか。
後になってその頃のことをにいさんに聞いたことがある。 「あーそれはね」答えは明快だった。
「俺はいつもそうなの。気になるネーちゃんには初めは素っ気なくする。でもってある日突然満を持して『眠れる牡部分』を一気に全開にするわけ、それが俺のデフォ」
そして何事もないまま、会社は年末の長期休暇に突入し、2008年、年が明けるとともに、にいさんはその獰猛な『眠れる牡部分』を突如として爆発させたのだった。
3月になったことでもあるし、そろそろ私の新恋人、にいさんを紹介したいと思う。
去年の暮れ、入ったばかりの会社ににいさんはいた。翻訳者として月の残業が100hにもなっていた彼を、会社が何とかすべく助っ人となる人材を募集し、引っかかってきたのが私だったというわけだ。 きょうからこの人の下で仕事してもらいます、とマネージャーに引き合わされたにいさんは、かなり異形であるばかりか、おたく的な特徴をいやというほど備えており、言っては何だがこれは女の子に縁がないだろうなーと思わずにはいられないタイプのひとだった。
過去の経験もあり、それでも私は、変わった人には結構耐性があった。 にいさんはどうしようもなく変人だったが、心の中に余計なもののないひとであることはすぐにわかった。自分がどんなに忙しくても、わからないことがあって声をかけると決して嫌な顔をすることなく懇切丁寧に教えてくれるし、手持ちの役に立つと思われるツールをこれでもかと私に提供してくれたりと、不慣れな私を何かと気にかけてくれた。シンプルに親切で、まさにお兄さんみたいな素朴なあたたかさがあった。
何より彼は、いち翻訳者としてとんでもない高みに上りつめているひとだった。 彼が手がけた過去仕事の一部を、参考にと手渡されたのを見た時、あまりの格調高さに嫉妬する気にもなれなかった。 「原文の日本語にいっさいひきずられることなく、英文として独立した文章を構築する」というにいさんの孤高の覚悟がひしひしと伝わってきて、プリントアウトされたそれを手にして、ひたすら泣けた。 留学経験の長さやTOEICのハイスコアを誇っていても、こういう肝心なことができず、魂のこもらない訳を平気で提出する輩というのはびっくりするほど多いものなのだ。 実際彼はお客さんからも、「○○さんでお願いします」とわざわざ名指しで仕事を依頼されることが多く、彼の仕事は
「○○(にいさんの名字)品質」
とまで呼ばれて動かぬ評価を勝ち得ているのだと、入社してほどなく私は社員のひとりから耳打ちされていた。
そんな彼が、翻訳者として彼の前では赤ん坊にも等しい私を見下すことなく、対等に扱ってくれようとする。申し訳ないのと同時に、ああやっぱりなと思うのだった。 それまでいた会社で、私は無能な人間にさんざんえらそうにされて苦しめられており、「能のないやつほどえらそうにしたがるものだ」ということを身をもって知っていた。 ホントに凄い奴には余裕があるのだ。 ほどなく私は心の中でひそかに彼を「神」と呼ぶようになった。この男のために私の平日のすべてを捧げようと決心し、これまでにないほど私は仕事に驀進するようになった。だがこの時点でまさか私がこいつと恋に落ちることになろうとは、本当に、ただのひとっかけらも思っていなかった。
|