霞的迷想



広瀬春乃

2002年02月27日(水)

 広瀬麻仁の五歳年下の従姉妹。ただし、年齢のわりには大人びて見える外見をしている。(老け顔ではない)年の離れた兄が二人(九つ上と、六つ上)いたため、自然の成り行きで歳以上の装いをこなすようになった模様。
 その一方、「空の器」の性質として「モノ」を寄せやすく、世間的には「病弱」で通していたため、他人に接する機会が少なく、人見知りの傾向がある。幼少期のトラウマから、急激な轟音を苦手とする。
 龍舞連戯の使い手で、伯父である双龍舞道場の現道場主からは双龍舞連戯の継承者として見込まれている。
 父親に関連するごたごたで、故郷にとどまっていては命に関わる事態に陥ったので、伯父によって江戸へと放たれる。建前としては、双龍舞拳法の筆頭継承者候補、広瀬麻仁を捜索していることになっているのだが……


空の器

2002年02月14日(木)

 「空の器」は壊れやすいという。
 「空の器」は空であるが故に陽でもなく陰でもなく、善でもなければ悪でもない。「空の器」は空であるが故にあらゆる力を収めることができるが、壊れやすいが故に依り代としては相応しくない。何故なら「空の器」の自我は、身の内に降りたモノの力に食いつぶされてしまうからである。

 「龍の器」は龍脈の氣を受け世界を導く定めを持つ者。荒々しき龍の力を受けるためにその器は頑強で、しなやかであり、龍の氣を受ける前から壊しがたいものである。
 「空の器」は龍脈の氣を受けるには足らず、その力を注ぐとき器は破裂し、大地と大気を破壊する。身に過ぎる力を注がれた場合も同様である。

 しかしながら、「空の器」は、己を鍛えることによって、法具に頼らずしてあらゆる属性となりうる可能性を秘めている。「空の器」は己を食いつぶされないためにも自らを鍛錬せねばならない。

 広瀬春乃が「双龍舞連戯」を学んできたのも、「空の器」としての素質を両親に案じられたため。「モノ」に依り憑かれやすく体の丈夫ではない彼女には、最も相応しい術であった。しかし彼女はその奥義を究めるより遥か前に、伊達藩を去らねばならなかった……


双龍舞

2002年02月13日(水)

 伝播の過程で「双龍武」または「闘龍武」などと呼ばれることにもなるが、「双龍舞」が正しい。その始まりから「表」「裏」対の技を持ち、共に戦う様が龍神の舞であるかのように美しく見えることからこの名が付いたと言われる。

 「龍」の名を持つことから、「独眼竜」政宗の時代、伊達藩に請われ、道場を開くに至るが、それまでは個人から個人へと密やかに受け継がれてきた幻の武術。一般に広がっているのは「双龍舞剣技」と称される剣術だが、基本形は徒手格闘の「双龍舞拳法」。それに、武器にこだわらない空型の「双龍舞連戯」この三つを総して「双龍舞」と呼ぶ。内、「双龍舞拳法」には原型を最も正しく継承している「真双龍舞拳法」という型が存在する。

 「双龍舞剣技」は二刀流の型で、表裏全ての奥義を究めた者がその正統な継承者として認められる。また、「双龍舞連戯」も表裏の奥義を継承する者はただ一人とされ、「剣技」「連戯」併せて「双龍」とする説と、それぞれただ一人をもって二人の連携と感じさせる、素早く、且つ幻惑的な動きから「双龍」とする説がある。

 「双龍舞拳法」のみが表裏を分かっており、伊達藩に構えた道場では表の技のみを伝えている。裏の技が何処に流れたのかは定かではない。

 「双龍舞」の正統な継承者とは、「剣技」「連戯」の総ての技を学び、且つ「真双龍舞拳法」の表裏いずれかの奥義を修得した者とされる。「双龍舞」の基本が拳法とされる所以である。

 広瀬麻仁が身に着けているのは「真双龍舞拳法・表」。嫡子のいない叔父夫婦に次期継承者として見込まれるも、師範として一つの土地に縛られる前に、世の中について見聞を広めたいと願い出て放浪の旅に出る。

 旅先で知り合った、人を「あんあん」呼ばわりする小憎らしいガキ(笑)がよもや「真双龍舞拳法・裏」の使い手だとは夢にも思わなかったらしい。


判りやすいシュミ

2002年02月04日(月)

……してるよナァって、最近特に思います。

 刃霧が好きで、茜が好きで、クライブが好きで、まぁ、想像の範疇内に好みの「キャラクター」って限られてはきていたのだけど。
よりにもよって「アーク」シリーズ1好きなキャラがセヴィルになるとは、今の今まで思っていなかったということなんだけどね。

 何処か、歪んでてまともじゃないんだけど、絶対、メインを張るようなガラじゃないんだけど、かっこよくて憧れる生き様……って、結局自分がなりたい延長上なんかい(爆)!

 私はナンバーツーに憧れます。
 「〜の右腕」とか、「〜の参謀役」とか、いいですよねぇ
 そんなことを思うのは、彼らが、信念とか、全てを懸けて信頼する相手とか、自分にはないものを持っているせいでしょうか。

 計画のためには自分の犠牲をも厭わない、といえば銀英のベルベルことオーベルシュタインもそうですが。流石にベルベルのファンというわけではありませんでしたが、今にして思えばかっこええなぁ……と。
 対セヴィル戦の後、彼の死に様(死んでるんですよね? あれって)にノックアウトされてみて、対刃霧戦のラストシーンを連想して、やっぱり、「憧れ」の種類が違うのかなぁなどと考えてしまいました。
 何でかって、かなり「似非」入ってますけど、普段の自分が無意識に選ぶ立場が、「助言者」なんですよね。誰かがいて、その誰かに選択肢を教える。その選択をしたときの反応の可能性をあげてみせる……そんなことを、気が付くとしたがっている。
 私は誰かの片腕になりたいのかな? いやいや……(−−;


 ところで、話は変わりますが。

 昔のビデオを整理していたところ、私が某アーティストにはまるきっかけになった曲のカットが目に入りました。
 私の母はFM局から送られてきたポラロイド写真を見て、「私」とそのバンドのギタリストのツーショット写真かと思ったそうですが……確かに。化粧の仕方に気を配れば、わたしは、あの頃の、かのボーカリストそっくり(の写真写り)になることができそうでした。
私はそのボーカリストのファンだったんですが!?←しかも、顔から入った。
 私が彼に憧れたのは、自己の投影が最も行いやすい容姿をそこに見いだしてしまったためでしょうか。どうでしょうか。

 めっきり彼らの曲も聴かなくなりましたが、未だに、カラオケに行って私が一番「巧い」といわれるのは彼らの曲を歌ったときです。今は好きな女性アーティストの曲ばかり聴いて、しょっちゅう口ずさんでもいるというのに……


 私が「憧れ」の種類に悩んでしまうのは、そういった経験があるからなのですが。そこから一番簡単に導き出される仮説には、「私は自分の性別を時々忘れがちである」ということがあげられるのです。

 好きだと思う物はこんなにわかりやすいのに、それが「どう」好きなのかになると混乱してしまうのは、「いつも」ではなく「時々」失念している自分の性別に対する認識に起因しているのかも知れませんね。

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