みのるの「野球日記」
==すいません、ちょっと宣伝です==

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*ツイッター始めました
@mino8989 です。

2003年11月28日(金) スピードガン

 今さらですが、神宮大会の話。

 昨日今日と、スカイAで放送された神宮大会のビデオを見ている。そこで、かなりびっくりしたことがひとつ。
 スカイAの中継には、投手の球速が表示されているのだが、私がスコアブックにメモしていた数字とかなり違う。たとえば、東北vs済美。この試合、ネット裏で見ていた私の前には、名電の偵察部隊がスピードガン片手にダルビッシュの球速をチェックしていた。私は1球1球覗き込み、スコアブックに記入。名電のガンでは、私が見た限り、140キロ台が1球もなかった。
 ところが…、スカイAの中継を見ると、ダルビッシュは初回から140キロ台を連発。私のメモと最大で6キロもの差があった。これには驚き。
 この日のダルビッシュは球場で見る限り、まったくスピードがなく……済美打線の餌食となっていた。私は名電のガンで数字を確認していたので、「135キロ」など表示されると、「あ〜、やっぱり不調なんだよなぁ」と思っていたのだが、テレビで見るとガンはおよそ5キロ増し。いや、「増し」という表現が正しいかは分からない。名電のガンが、出なさ過ぎたのかもしれない。

 試合後、済美の選手は、「さすが甲子園準優勝ピッチャーです。スピードも速いし、スライダーも切れるし」と一様に誉めまくっていたが……。「んなこといって、7点も取ったじゃん!」「135キロだよ、そんなに速くなかったでしょう!」と心の中で突っ込みを入れていた。ん〜、でも、済美の選手がダルビッシュを「よいしょ」していたわけじゃないだろうし、体感で「スピードが速い」と感じたのだろう。

 スピードガンは球場の設置場所によって、かなり数字が変わるというが、6キロの差には本当にびっくり。
 名電の偵察部隊は、ダルビッシュをどのように感じていたのだろうか。「135キロじゃ、大したことない」か…? でも、ガンが低く出たことで、「打てる」という気持ちになれば、それもまた好結果かな。

 先日、取材で東京・国立にある桐朋高校へ。秋は日大三を完封で下すなど、密かに注目を浴びつつある林投手に取材。話の中で、「うちはスピードガンがないんですよ。いまスピードガンが欲しくて欲しくて(笑)。先生にもお願いしてるんですけど」と冗談交じりに話していた。
 じつは桐朋は新チームになったとき、「イマトニックアーム」という器具を購入。これは前田幸長を擁し、福岡第一が全国制覇を果たしたときの監督・今任氏が開発したもので、最近結構流行っている。浦和学院やマリナーズも使っているらしい。で、この「イマトニックアーム」が2万7千円ほどする。桐朋はこれを数本購入。林曰く、「あれを買うなら、スピードガンが欲しかったです……。自分がいまどのくらいのスピードを出しているのか、知りたいですよ」
 野球部顧問の田中監督に林の話を伝えると、「わざと買ってないんですよ」とニヤリ。「スピードガンを買うと、その数字ばかり気にしちゃって、良くないと思うんですよね」
 
 いや、でも、林の気持ちもよく分かる。自分も、いま一番欲しいものは「スピードガン」なもので(笑)。いくらぐらいするのでしょうか?

 スピードガンといえば…、どこの高校の偵察部隊かは忘れてしまったが、アベレージ120キロ後半くらいの投手を計っていたとき、突然「155キロ」という数字が出て、スピードガン担当(Aクン)がかなり驚いていた。
 そのカラクリはこう。ピッチャーがモーションに入ったとき、Aクンはまだガンを準備しておらず、リリースするかしないかの瞬間に、ガンを急いでピッチャーに向けた。そして、ガンに表示された数字は「155キロ」。「お〜!すげぇ〜!」と隣にいた配球表記入係クンに興奮気味に見せていた。この投手、一応、「MAX155キロ」ってことで良いのかな・・・?!

 そんなわけで、スピードガンってかなり曖昧……。
 スカイAのスピードガンは、かなり出ていたような気がする……。



2003年11月24日(月) 同じ舞台へ 〜トヨタ自動車・川岸強〜

 2年前の明治神宮大会。大学の部・決勝戦(駒沢大vs城西大)が行われた11月19日は、偶然にもドラフト会議当日だった。
 駒沢大の優勝が決まったあと、2回戦からの3試合すべてで先発の役目を果たした川岸強(4年)のもとへ行った。
 川岸は桐蔭学園の投手兼外野手として、夏の甲子園に出場している。そのとき、ショートを守っていたのが平野恵一(東海大ーオリックス)、エースが浅井良(法政大ー阪神)だった。
 
 神宮大会決勝当日。平野と浅井はすでに、自由枠でのプロ入りが決まっていた。そして川岸は、トヨタ自動車への入社が決まっていた。一方はプロへ、一方は社会人へ。高校時代の仲間が違う道を歩む。
「悔しさも羨ましさもありますけど……でも一緒にやっていた仲間ですから、頑張って欲しいですよ」
 川岸は笑顔を交えながら、ふたりのことを話した。悔しさよりも、仲間を応援する気持ちの方が強いと感じた。
 それでも川岸は最後に言った。
「2年後、自分もドラフトで指名されるような選手になって、絶対にふたりと同じ舞台に立ちますよ。負けてられないですよ」

 あれから2年。今年も11月19日に行われたドラフト会議で、川岸は中日の7巡目で指名を受けた。自由枠で進んだ桐蔭学園の仲間と比べ、順位は低い。それでも、2年前の誓いどおり、仲間と同じ世界へ入ることができた。平野、浅井ともプロ入り2年間は、1軍半の日々。川岸は彼らを見て、プロの厳しさを身に染みて感じていると思う。右サイドから繰り出すキレのあるストレートとスライダー。高校時代からマウンド上で躍動するフォームはいまも変わらない。プロで活躍する姿を、楽しみにしたい。
 



2003年11月19日(水) 金森敬之

 4ヶ月前の夏。東海大菅生の金森敬之は、西東京大会決勝のマウンドに上がっていた。対するは昨夏も苦杯をなめた日大三。金森はいつもと同じように淡々と投げた。130km後半のストレートと切れ味鋭いスライダー。そして、夏前に覚えたフォークボール。
 試合は1点を争う好ゲームに。中盤、金森のフォークが冴え、日大三を封じる。しかし、同点で迎えた8回裏。金森は1死三塁から佐々木にタイムリーを打たれ、勝ち越し点を許した。そして、そのまま試合を終わった。

 試合終了の瞬間、金森は9回裏に備え、一塁ベンチ前でキャッチボールをしていた。最後の打者がファーストゴロに打ち取られたのを見送ると、両膝に手をつき、しばらくの間、動かなかった。挨拶の列に加わったのは、一番最後。重い足取りで列に並び、挨拶を終えた。肩を落としながら、一塁側応援席に向う菅生の選手。だが、そこに金森の姿はなかった。
 金森は試合後の挨拶が終わると、そこにうずくまり、顔を伏せて泣いていた。いつまでも泣き続ける金森を迎えに行ったのは、横井監督だった。選手ではなく、横井監督が迎えに行った。金森は横井監督に抱かれるように、一塁側応援席の前へ向った。応援団の挨拶が終わったあとも、金森は泣いていた。

 あんなに泣く選手は初めて見た。閉会式が始まるまでの時間、延々と泣いていた。

「応援してくれる人たちのために、絶対に甲子園に行きたい」
 夏の大会前、金森はそう話していた。
 金森は大阪のオール羽曳野ボーイズから、東海大菅生へ入学してきた。中学3年のとき、横井監督がオール羽曳野の練習に訪れた。目的は、ある選手を菅生に誘うためだ。だが、その話は流れた。代わりに、菅生入学の話しがついたのが金森だった。
 横井監督はいう。
「中学時代は大した投手じゃなかったよ。でも、人間的に素晴らしいものがあった。顔は悪がきみたいな顔してるけど、ハートは強い」
 金森も中学時代を振り返る。
「エースじゃなかったんですよ。うちの代は強くなくて。1コ上は田辺さん(明徳義塾ー関大)がいて、1コ下にはダルビッシュ(東北)。自分の代だけが甲子園に出てないんですよ」

 横井監督は父親のような口調で金森のことを話す。
「あの子は背負っているものが違うんですよ。東京の選手とは野球にかける思いが違う。大阪からひとりで出てきて、甲子園に出られなければ、地元に帰れない。それくらいの思いで野球をやっているんです」
 大阪から東海大菅生の野球部に来たのは、金森が初めてだった。横井監督は冗談っぽくいう。
「大阪から来るというので、教員の中でも話題になっていたんですよ。どんな悪ガキなんだって、警戒していてね(笑)。でもあの子と実際接したら、誰もがあの子の優しさに魅かれますよ。人間的な魅力は本当に大きな子です」

 横井監督は、金森のことを「あの子は野球小僧なんですよ」とも表現した。
 うまくなりたい、勝ちたい……つねに追求していた。そういった金森の思いは、チームにも浸透した。
「大阪人特有の気質というんですか。そういうのがあの子にはあるんです。常に勝負をしているというか。気の強さを持っています」
 大人しかったというチームが、大阪出身の金森がいることで、チームが変わったという。

 
「甲子園に出て、色んな人に恩返しをしたい」
 金森の夢は叶わなかった。でも、プロ野球という、それ以上に大きな夢が今日叶った。大阪から遠く離れた札幌で野球をやる。
「金森の家は、おじいちゃんもおばあちゃんも健在でね。すごく寂しい思いをしてると思うんですよ」
 横井監督の言葉が思い出される。
 東京よりももっと遠い札幌。家族に雄姿を見せるには、プロ野球で活躍するしかない。
 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 

 東海大菅生には、金森の弟・基彰も1年生に在学中。もちろん野球部。大阪から東京へ。兄と同じ道を選んだ。
「基彰は上宮太子中に通っていたから、そのまま上宮太子で野球ができるんですよ。何もわざわざウチに来なくてもねぇ」
 冗談交じりに、横井監督は話していた。それでも、弟の存在は金森を大きく変えた。
「基彰が来てから、金森はすごく変わりました。人間的な成長がありましたね」
 金森本人もこう話す。
「弟が来たいというのは聞いていたんですけど、本当に来るとは思ってませんでしたよ(笑)。最初はやりづらかったですけど、いまは弟の前で無様な格好はできないと思って、やってます」

 弟は今秋の都大会で背番号14を着けてベンチ入りを果たした。兄の果たせなかった「甲子園」という夢は弟に託されている。



2003年11月18日(火) 睦合中

 明日行われるプロ野球ドラフト会議。同じ中学出身のふたりの選手が指名候補に上がっている。
 ひとりは横浜隼人高校の捕手、小宮山慎二。もうひとりは日大藤沢から日大、ホンダへ進んだ尾形佳紀。ともに、厚木市立睦合中の出身。小宮山は平塚シニア、尾形は軟式野球部で汗を流した。

 睦合中は「ムツアイ」中と読む。神奈川県には藤沢市にもムツアイ中があり、こちらは「六会中」と書く。
 今号の『野球小僧』で尾形の出身中学を「藤沢市立六会中」と記していたが、正しくは「厚木市立睦合中」。ムツアイ違いですね・・・。

 雑誌の取材で小宮山に話を聞いたとき、尾形の話をすると、「そうみたいですね。うちの父が尾形さんの小さいときを良く知ってるんですよ」と意外な答え。小宮山には兄がいて、父親が兄の少年野球の試合を見ていたとき、相手のチームに尾形がいたという。「当時からすごい選手だったみたいですよ!」と小宮山。

 もし、明日のドラフトで小宮山、尾形ともに指名されれば、睦合中は歴史的快挙?! 同じ中学の出身者が、同じ年のドラフトで指名されるというのは過去に何例くらいあるんでしょうか。どなたかご存知の方、情報お寄せください。
 よく、高校や大学では、プロ在籍者が何名いるなどデータがありますが、中学の場合はどうなんでしょう。1位はどこ? 名門といわれる明徳義塾中、星稜中、修徳学園中にしても、思い浮かぶのはせいぜいふたりくらい……。

 睦合中といえば、隣にある睦合東中からも館山昌平がヤクルトに入団した。館山は日大藤沢から日大に進んだ投手。いわゆる松坂世代のひとり。
「厚木は野球が盛んなの?」と小宮山に訊くと、
「どうなんですかね。最近、すごく盛んになってきたと思いますけど……」

 ふと思ったけど、プロ野球選手を最も多く輩出した市はどこなんでしょうか。やっぱり大阪市? 神奈川だったら、人口から考えて横浜市かな。相模原市も意外に多そうな気がしますが。

 そんなわけで明日はドラフト。
 小宮山は果たして阪神に指名されるか。大の阪神ファン水谷監督のためにも(?)、阪神だと嬉しいんですが。横浜隼人からプロ入りとなれば、同校初の快挙です! 



2003年11月17日(月) 神宮大会 神奈川大準優勝

◇明治神宮大会 大学の部 決勝
神奈川大 000 200 241    9
東亜大   106 010 101× 10  

 神奈川大学野球連盟代表の初優勝ならず。神大は終盤脅威的な追い上げを見せ、一時は同点に追いつくものの、サヨナラ負けを喫した。

「ここまでの試合をした選手を誉めてやりたい。同点に追いつくまでがいまのウチの力。逆転する力はまだなかったということです」
 試合後、神大の中田光一監督はサバサバとした表情で話した。
「エラーが5つも出て、お互いフォアボールも多くて、決してレベルの高い試合とは言えないかもしれない。選手には『今日のことを忘れないで、来年の春を目指そう』と話をしました」
 主力メンバーで抜けるのは主将の田口慎一郎(4年・崇徳)だけ。エース荻野忠寛(3年・桜美林)や主軸を打つ北村幸亮(2年・横浜)など、中心選手が来年もそのまま残る。
「まずはリーグ戦で勝たないといけない。神奈川はリーグ戦を勝つことが大変ですから。関東学院も商大もいますからね」
 
 神大はこの秋、平成11年秋以来、じつに8季ぶりのリーグ優勝を飾った。この間、ライバルである関東学院大は4連覇を含む6度の優勝。神奈川リーグの通算優勝回数も関東学院大に抜かれた(現在、関東46回、神大45回の優勝回数)。
 関東学院大はこの10年で14度のリーグ制覇。対する神大はわずかに3度。通算優勝回数こそ、ほぼ互角だが、近年は関東学院大に完全に引き離される形となっていた。
 その関東学院大は全国大会でも力を見せた。02年大学選手権ベスト4、03年大学選手権ベスト8。近畿大や東海大を下すなど、全国の強豪を相手に戦えることを証明した。

「関東学院が全国であれだけ戦えている。それなら、ウチにもチャンスがあるんじゃないかと、選手には話をしていました」
 神大は今秋のリーグ戦で、関東学院大を2勝1敗で下した。
 勝った方が優勝となる大一番、最終節の最終戦、対横浜商大戦ではエース荻野が志願の3連投。粘る横浜商大を下し、秋の神奈川を制した。

「私が神奈川大学に来てから、今年で5年目。神奈川大学リーグのレベルは着実に上がっています。どの大学も関東学院大に勝つことを目標としてやってきて、切磋琢磨して、全体のレベルアップに繋がっている。とくにオープン戦で、六大学や東都の学校と試合をしたときに感じますね。昔より、差が詰まってきていると思いますよ。もちろん、選手個々の能力を見ると、差はあるんですけどね」

 2年前の神宮大会でベスト4に入った城西大の原田監督がこんなことを話していた。
「あの東海大を倒して出場することができた神宮大会。首都大学のためにも東海大学のためにも、情けない試合はできない。まずは1つ勝つこと、それがすごくプレッシャーでした」
 東海大の牙城を崩した城西大は、以降安定した成績を残すようになった。優勝までは行かなくとも、必ず優勝争いに絡む。帝京大の藤川監督は、「城西大は神宮に出てから変わった。負けないチームになりましたね」という。
 全国大会を経験したことで、全国のレベルを肌で感じ、全国で勝ち抜くために必要なものを得た。

 エースの荻野はいう。
「神宮大会は最悪のデキでした。もうリーグ戦で力を使い果たしてしまって……」
 商大との三連戦の疲れが抜けなかった。
「大会で投げる前から、調子が出ないなと感じてました。自分の思ったような球速が出ないし、変化球も落ちない。来年は全体的にレベルアップしないとダメですね。全国大会で投げられる体力をつけないと」
 エースが神宮で得たものはとてつもなく大きい。

「サヨナラ勝ちして、青学にも勝って、最後はサヨナラ負け。これ以上の経験はないですよ。優勝が一番だったかもしれないけど、優勝して満足してもらっても困るし。それぞれの課題が見つかって、ほんとに良い経験になりましたよ」(中田監督)

 全国の大舞台を経験した神奈川大が、どのように飛躍するか。巻き返しを狙う関東学院大など他大学との優勝争いを楽しみにしたい。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 というわけで、六大学も東都も良いけれど、神奈川大学リーグも見に行きましょう!
 来年の神奈川リーグは、今季活躍した各校の3年生エースが残り、高レベルの試合が期待できます。

・神奈川大   荻野忠寛(桜美林)
・関東学院大 池田裕行(小山西)
・横浜商大   渡辺翔太(横浜隼人)
・横浜国大   渡邉裕文(岐阜北)
・神奈川工大 岡村貴史(宇都宮南)
 
 
〜〜〜神奈川リーグの全国大会での成績〜〜〜

<明治神宮大会>
2003 神奈川大 準優勝
 2回戦 ○3−2 九州国際大(九州3連盟)
 準決勝 ○4−1 青山学院大(東都大学)
 決 勝 ●9−10 東亜大(四国・中国3連盟) 

2001 関東学院大 ベスト8
 1回戦 ○7−0 徳山大(四国・中国3連盟)
 2回戦 ●0−3 駒沢大(東都大学)

1999 神奈川大 初戦敗退
 1回戦 ●0−2 九州共立大(福岡六大学)

<大学選手権>
2003 関東学院大 ベスト8
 1回戦 ○2−0 東海大(首都大学)
 2回戦 ○5−4 愛知大(愛知大学)
 準 々 ●2−4 東北福祉大(仙台六大学)

2002 関東学院大 ベスト4
 1回戦 ○4−1 四国学院大(四国地区)
 2回戦 ○5−4 近畿大(関西学生)
 準 々 ○4−3 八戸大(北東北大学)
 準決勝 ●3−8 早稲田大(東京六大学)

2001 横浜商大 初戦敗退
 1回戦 ●3−5 崇城大(九州地区)

2000 関東学院大 2回戦敗退
 1回戦 ○8−2 松阪大(東海地区)
 2回戦 ●2−3 国際武道大(千葉大学)
  



2003年11月09日(日) 済美高校、四国大会制覇

 いやいや、びっくり。創部2年目の済美(さいび)高校(愛媛)が、四国大会で甲子園常連の徳島商(徳島)、明徳義塾(高知)、鳴門工(徳島)を連破し、初出場初優勝を飾りました。徳島商戦にいたっては、26安打で23得点と打線爆発。明徳戦でも6回まで0−7のビハインドから、6回7回8回の3イニングで8点を奪い逆転勝ち。すごい試合してますね。
 四国大会の優勝で、来週14日から開幕する明治神宮大会への出場が決まりました。初戦の相手は、東北大会優勝の東北高校。言わずと知れた今夏の甲子園準優勝校。試合は14日の8時半開始。甲子園でもあるまいし、朝早すぎ……ですが、間違いなく神宮大会屈指の好カードでしょう。
 済美の試合はもちろんまだ見たことがなく、ネットや雑誌等で情報を仕入れるだけです。実際にどんなチームなのか、いまから楽しみでなりません。

<四国大会優勝までの道のり>
◇伊予地区大会
1回戦 ○11−1 松山中央
2回戦 ○ 9−2 松山南
◇県大会
1回戦 ○10−0 松山北
2回戦 ○ 3−1 松山東
準決勝 ○12−2 新田
決 勝 ○ 5−0 八幡浜
◇四国大会
2回戦 ○23−4 徳島商(徳島2)
準決勝 ○ 8−7 明徳義塾(高知1)
決 勝 ○10−3 鳴門工(徳島1)

 済美高校は今年で創立102年目の私立高校。松山市湊町にあります。創立以来、女子校として知られていましたが、創立101年目の昨年、男子生徒を募集し共学がスタート。同時に、硬式野球部も創部されました。チームを率いるのは、高校野球ファンにはお馴染みの上甲正典監督。88年のセンバツ甲子園で、宇和島東を率いて初出場初優勝を成し遂げた監督です。平井正史(中日)、岩村明憲(ヤクルト)らプロ選手も育て上げました。
 済美は学校側のバックアップも万全で、野球部創部に合わせて、中堅120メートル、両翼91メートル(←意外に狭い?)の専用グラウンドを用意し、トレーニングルームまでもあり。施設は抜群だとか。
 
 上甲監督がチームを指揮することもあり、昨年は高校野球雑誌にもチラホラと取り上げられていました。そのため、済美の成績を気にしていたのですが、この秋までは全く良い結果が出ておらず……。改めて成績を調べると、驚き驚き。

<創部〜今夏までの公式戦成績>
◇2002夏 1回戦 ● 6−8 小田
◇2002秋 地区  ○18−0 内子
             ○ 7−0 松山中央
        1回戦 ● 2−11帝京五
◇2003春 1回戦 ● 不戦敗 松山聖陵
    *1年生部員の喫煙が発覚したため
◇2003夏 2回戦 ● 0−10 丹原

 この秋の大会が、県大会レベルでは初勝利だったんです。いや〜、全然知らなかった。今春の「不戦敗」というのもなかなかどうして……。夏じゃなくて良かったかな(←問題発言?)。

 秋の結果を見ると、とにかく打ちまくっているよう。打線の中心は3番高橋勇丞(2年)と、1年から4番を打つ鵜久森淳志(2年)。高橋は四国大会3試合で3本塁打。徳島商戦では6打数6安打6打点2本塁打と、化け物的な活躍。ダルビッシュでも真壁でも良いけど、対決が楽しみだ。
 鵜久森は調べてみると、地元のボーイズリーグ松山クラブの出身。今治西から早稲田大を経てヤクルトに入った藤井秀悟の後輩にあたります。大阪出身の選手が多いのだろうと思っていたけど、地元の選手もいたんですね。失礼しました……。でも、いわゆる野球留学生はどれくらいいるのでしょうか。興味ありです。1年前の雑誌には「県外選手8人を含む38人が入部」と書いてありましたが……。

 ちなみに、ついでに調べた1988年の宇和島東センバツ優勝のときの勝ちあがりは以下の通り。懐かしい……15年前ということは11歳か。懐かしいといいながら、宇和島東が優勝したことは覚えているが、試合内容は全く覚えていない。辛うじて覚えているのが、決勝を戦った東邦のエースが山田喜久夫(元中日など)だったこと。あと、宇和島東のベンチ入り選手の中に「神」がつく選手がふたりいて、「縁起がいい」とか「福を呼ぶ」とか言われていたかな。ひとりはキャッチャーをやっていた明「神」。で、もうひとりが思い出せない……誰でしたっけ??
 
<1988年 宇和島東センバツ優勝>
2回戦   ○ 9−0 野洲(滋賀)
3回戦   ○ 9−3 近大付(大阪)
準々決勝 ○ 5−4 宇部商(山口)
準決勝   ○ 5−4 桐蔭学園(神奈川) 延長16回
決 勝   ○ 6−0 東邦(愛知)
   
 そんなわけで、本日で神宮大会の出場校がすべて出揃いました。
・北海道地区 鵡川
・東北地区   東北
・関東地区   土浦湖北
・東海地区   愛工大名電
・北信越地区 金沢
・近畿地区   大阪桐蔭
・中国地区   広陵
・四国地区   済美
・九州地区   福岡工大城東

 ダルビッシュはもちろん土浦湖北のエース須田幸太(2年)、センバツ優勝メンバーの広陵・上本博紀(2年)、福岡工大城東の主砲・定岡卓摩(2年)(←定岡智秋前ダイエー2軍監督の二男)ら、来秋のドラフト候補も出場。朝早いことだけを除けば……かなり楽しみな大会になりそうです。



2003年11月04日(火) 秋季関東大会(4) 万全の状態で

◇秋季関東大会準決勝(11月4日・大宮公園野球場)
甲府工業 000 000 000 0
土浦湖北 000 000 01× 1

 甲府工の敗戦が決まった瞬間、複雑な気持ちが湧いた。
 エース水野の投球がもう一度見たかった。いや、今後を思えば、ここで負けて良かったのかな……。
 センバツ当確ラインと言われるベスト4に残り、甲府工は関東大会を去った。
 
 甲府工のエース水野隼人(2年)。関東大会で、「見たい投手」のひとりだった。決して前評判が高いわけでもない。理由はただひとつ。中学3年のとき軟式の関東大会でベスト4に進んでいるからだ。山梨の増穂中のエースとして、秋春夏と県内三冠も達成している。当時のチームメイトには東海大甲府でこの夏甲子園に出場した清水満がいる。甲府工のサード初鹿優もそのときの仲間だ。

 大会前、高校に入ってからの水野のことを調べると、1年から試合で投げ始め、2年で早くもエースナンバーを背負っていた。この夏はエースとしてチームを決勝まで導くが、東海大甲府に完敗。中盤まで0−1で進みながらも、終盤に打ち崩された。

 関東大会初戦の聖望学園戦、はじめて水野のピッチングを見た。力投派というよりはコントロールタイプ。直球、変化球を内外角に丁寧に投げわけ、序盤は素晴らしいピッチングを見せた。170センチ、70キロと投手向きとはいえない体格。一瞬、高校の先輩・中込伸(元阪神)とダブって見えた。
 投球数が60球を超えるあたりから、水野が突如崩れ始めた。ストレート、変化球が高めに浮き始め、思ったように制球ができない。そのときは「バテたのかな?」と思いながら見ていた。
 7回表、4−3と1点差に詰め寄られたところで、水野はマウンドを1年生の三森祥平に譲った。ベンチに戻るとき、すごく不機嫌そうに戻ってきた。三森に激励の言葉をかけるわけでもない。うつむきながら、ベンチに戻ってきた。

 試合後、ベンチ横のカメラマン席にいた人から、こんな話を聞いた。
「水野、交代してベンチに下がってきたとき、泣きじゃくってたよ。熱い選手なんだろうね」
 塁上にランナーを残しての交代とはいえ、悲観するほどの状況ではない。ましてや、言い方は悪いが、これは秋の大会。「最後の夏」でもない。この話を聞いて、ますます水野に興味が沸いた。

 甲府工の原初也監督は試合後、水野についてこう話した。
「ヒジが悪いからね。よくあそこまで投げてくれたよ。もう50球〜60球くらいが限界なんだよ」
 周りを囲んでいた地元記者は、水野の故障をもちろん知っていたのだろう、格段驚きもせず、耳を傾けていた。私は……初耳だった。
 監督に話を訊いていると、知らぬ間に水野が取材ブースの隅にポツンと立っていた。目は真っ赤に腫れているようだった。
 水野が発した第一声は「今日は最悪」だった。ぶっきらぼうに言い放った。「途中から守りに入ってしまって、攻めのピッチングができなかった。集中力もなくなってしまった」。勝ちチームの投手とは思えない口ぶりだった。
 ヒジのことを訊くと、「今年の春の大会からずっと調子が悪い」という。「MAXは134キロ」というが、「ヒジが悪くなってからは、ずっと出ていない」と話す。
 原監督は「水野のヒジは相当悪いから」とも言っていた。水野をリリーフした1年生の三森も同じようなことを話していた。関東大会が終わったら、治療に専念することも有り得るくらい悪いという。
 
 2回戦の前橋工戦も先発。同じく途中交代だった。
「納得いかない」とポツリ。「自分のピッチングに? それとも交代に?」と訊くと、「こういうこと言うと怒られるから……」とすねたように言った。表情を見れば言いたいことが分かる。
 
 ヒジさえ良ければ、もっと良いピッチングができる。監督も水野もチームメイトも、同じように思っている。その中でも、「だましだましだけど、よく投げてくれているよ」(原監督)と言うように、エースとして最低限の責任は果たしている。でも、水野本人からはこの大会中、自分のピッチングに満足するような言葉はまったく聞かれなかった。

 関東大会ベスト4でセンバツはほぼ決まった。
 水野が甲府工を選んだのは「公立の高校で私立を倒して、甲子園に行きたかったから」。秋季大会では帝京三、山梨学院大付、日本航空と私立を次々と撃破し、関東大会出場を決めた。夏に果たせなかった目標を、秋には実現させた。
 センバツを迎えるまでの数ヶ月で、果たして水野のヒジは良くなるのだろうか。甲子園のマウンドに、万全の状態で上がる水野隼人を見てみたい。



2003年11月03日(月) 秋季関東大会(3) 背番号10

◇秋季関東大会2回戦(11月3日・上尾市民球場)
埼玉栄高 100 300 000 4
土浦湖北 102 000 21× 6

 埼玉栄の戸栗和秀監督は、不安定なピッチングをしていた1年生エースの三戸貴正(左投げ)を2回で下げた。三戸を引き継いだのは、背番号10を着けた2年生の平沼智史(右投げ)。初戦の文星芸大付に続く登板だ。

 初戦では先発した三戸を6回途中からリリーフし、3回2/3を3安打2失点に抑えるピッチングを見せた。代わった直後こそ、「はじめはかなり緊張した」という言葉の通り、2四球で押し出しの1点を与えるなど荒れた内容だったが、以降は立ち直り勝利の原動力となった。
「立ち上がりと最後が課題なんです。どうしても緊張してしまって……」
 2点リードの最終回。1点を返され、なおも1死二、三塁のピンチを招いた。後続を気迫のこもったピッチングで何とか打ち取ったが、課題は克服できなかった。本人も言葉にする通り、自覚している。
「県大会でも最後がダメだったんです」
 埼玉県大会の準決勝・聖望学園戦で平沼は先発。関東大会出場がかかった試合で、見事に重責を果たし、1失点の完投勝利を収めた。だが、3点リードで迎えた9回裏、1死一、三塁と攻め込まれる場面があった。
「常に攻めよう攻めようと思ってるんですけど……」
 意地悪だと思いつつも、「心が課題?」と訊くと、
「そうだと思います」と小さな声で答えた。

 初戦から中一日で臨んだ土浦湖北戦。センバツ出場がかかった大舞台で、平沼は3回裏からマウンドを任された。早めの交代について、相手の土浦湖北・小川幸男監督は試合後にこう振り返っていた。
「もう少し三戸くんに投げていて欲しかった。初戦を見て、平沼くんからはそんなに点を取れないなと思っていたんです」
 相手指揮官から高評価を得ていた平沼だが、やはり課題は立ち上がり。代わった直後の3回裏、4本の安打を浴び、2点を失った。それでも、この回に「圧巻」ともいえるピッチングがあった。
 2点を失い、なおも2死満塁のピンチで、8番加藤徹哉(2年)に対してカウント2−3。栄の捕手山本裕紀(1年)が送るサインに、マウンド上の平沼は「待ってました」とばかりに力強く頷いた。押し出しの可能性もある中で、投じたボールは何とフォークボール。加藤のバットは気持ちがいいくらい思いっきり空を切り、空振り三振。試合の大勢が決まるかもしれないピンチを、フォークで凌いだ。満塁で、しかもカウント2−3からフォークを投げる高校生……あまり見たことがない。
「シニアのとき、コーチからスプリットを教えてもらって投げてたんです。高校に入ってから、指の間隔を広げて、フォークボールになりました」

 4回表、味方打線が平沼を援護。ピッチャーからレフトに下がった4番三戸の三塁打を足掛かりに、好投手・須田幸太(2年)から3点を奪い、4−3と逆転に成功した。
 その裏から、平沼は見違えるようなピッチングを見せた。ストレート、スライダー、フォークのコンビネーションで凡打を積み重ねる。6回までの3イニングで許した安打はわずかに1本。「そんなに点をとれないと思った」という小川監督の言葉が現実のものとなった。
 ただ、「1点差のまま終盤になったら、平沼の心臓が持つか……」、スタンドからそんな心配をしていた。

 1点リードで迎えた7回裏。土浦湖北は1番田上英穂(2年)からの好打順。だが、平沼はわずか3球で1番、2番を仕留め、あっという間に2アウトとした。しかしここから、3番島田成紀(2年)、4番須田に連打を浴び、一、二塁のピンチ。打席には5番の左打ち澤高史(2年)。カウント0−1から「真ん中のストレート」(平沼)をライト前に打たれ、4−4の同点に追いつかれた。2死からの3連打。打たれたのはすべてストレートだった。
 場面は2死二、三塁に。打席には6番佐藤秀平(2年)。ここで湖北ベンチが仕掛けた。二塁ランナー澤がわざと飛び出し、三塁ランナーの生還を狙うサインプレー。これに栄の山本が引っかかり、二塁へ悪送球。三走の須田がホームインし、これが決勝点となった。

 平沼は8回途中まで投げ、マウンドを譲った。5回1/3を9安打3失点という投球内容だった。
 初戦後の取材で口数の少ない印象を受けた平沼。この日の試合後は、それ以上に口は重たかった。
「初戦に比べて、攻めのピッチングはできたと思います。でも、チームが負けちゃったんで」
 そして、ポツリと漏らした。
「勝ちたかったです……」
 それでも、負けはしたが、今大会で掴んだものはあった。
「関東大会という大舞台で投げられたことは自信になりました。これからもっと球速を上げて、安定したピッチングをしたい」
 下を向いてボソボソと喋っていた平沼が、このときははっきりとした口調に変わっていた。

 平沼は今年の春、夏とベンチ入りすらできなかった。「中学のときから持っていた」という腰痛のせいだ。2年の春に悪化し、ピッチングができない状態にまで陥った。夏はスタンドから仲間を応援することしかできず、「自分が出れなくて悔しかった」と振り返る。そのときのことを思えば、いまマウンドで投げられていることは喜ぶべきことである。腰痛も治り、平沼が目指しているものはエースナンバーだ。いま1年生の三戸が着けている背番号1を手に入れたい。
「中学のとき(浦和シニア)からずっと二番手投手だったんです。エースは徳栄にいった権田。栄に入っても二番手。1番をつけたいです」

 この関東大会では、三戸の不調もあったが、平沼はエース格の働きを見せた。2回戦での早めの交代に見られるように、戸栗監督の信頼も高まりつつある。
 関東大会ベスト8敗退で、「センバツ当確」と言われる関東ベスト4には残れなかったが、試合内容から選ばれる可能性は残されている。
「背番号1をつけて甲子園で投げたい」と平沼はいう。
 センバツ出場校の発表は1月31日。平沼のもとへ、吉報は届くだろうか。



2003年11月02日(日) 秋季関東大会(2) いつもと同じように……

◇秋季関東大会1回戦(11月2日・上尾市民球場)
前橋工業 121 000 320 9
藤嶺藤沢 200 104 000 7
 
「18本も打たれれば、悔いはないですよ」
 試合後、藤嶺藤沢の山田晃生監督は、サバサバした表情で振り返った。
「前橋工の打線はすごいと聞いていたけど、あれほどだとは思わなかった。ストレートもスライダーもカーブも、全部狙い打たれた。決め打ちして来てたんですかね……、それにしてもすごい打線でした」
 記録に表れないミスが続いた守備陣にも話が及んだ。
「硬かったですよね。どうしたんだろう、何だろうと思うくらいですよ……」

 もっとも大きなミスが2回表に起きたレフトの落球だった。単なる落球ではなく、同点に追いつかれるタイムリーエラー。落球で生きたランナーまでも、次打者のタイムリーで生還。無失点で切り抜けられた2回表が、終わってみれば2−3と1点ビハインドとなっていた。

 主将でエースの清水賢吾(2年)は言う。
「県大会と比べて、緊張感が違い過ぎました。いつも通りいつも通りと思えば思うほど、硬くなって、7回に同点に追いつかれたときは、ベンチがもう負けたようなムードになっていました」

 試合開始前、藤嶺藤沢を見て「あれ、おかしいな」と思うことがあった。いつもの儀式がなかったからだ。藤嶺は初回の守備に付くとき、キャッチャーを除く内外野の全選手がマウンドのもとへ集まる。ピッチャーが持つロージンバックを、全選手の手に回し、思いをひとつにする。ロージンを入念に手につける選手もいれば、頬に軽く当てる選手もいる。県大会ではいつもやっていたことだった。それが今日はなかった。
「センバツのかかった大会だから、選考委員の目もあるし……、あまり良いふうには見られないなと思って……。だから、大会前に、『関東大会ではやるのを止めよう』と決めたんです」(清水)
 「関東大会」という大舞台が、いつもの藤嶺らしさを失わせていた。

 清水が中学3年のとき、藤嶺はエース深沢(現専大2年)を中心とした守りのチームで関東大会ベスト8に進んだ。関東大会は、それ以来の出場。山田監督は「あのときよりもチームの力はある。とくに投手陣。清水以外にもふたりのピッチャーがいるからね」。県大会準決勝終了後、監督は自信ありげに話していた。
 しかし、前橋工戦では、清水のあとを継いだ背番号10の山田が、7回表に1番の星に同点タイムリーを打たれるなど、わずか1アウトしか取れずに降板。「継投」で勝ち上がってきたチームだが、関東大会では機能しなかった。

 清水に今後の課題を訊くと、
「精神的な面ももちろん、技術や力を上げないと、夏は勝てないです。ストレートのスピードも磨いていかないと……」
 この秋の藤嶺は、細かい野球で勝ちあがってきた。ピッチャーの動きを見て逆をつくバント、要所で決めるエンドラン、相手打者の特長に合わせた継投。そのすべてがうまくはまった。実力で見れば、藤嶺以上に強いチームが神奈川にはあったが、秋独特の戦術で勝ちあがってきた。
 「これが秋の戦いですよ」、県大会の試合後山田監督が満面の笑みを浮かべることが何度となくあった。逆にいうと、夏には通用しない戦い方だ。
 関東大会を経験した藤嶺が、冬から春を経て、どのようなチームになるのか。注目してみたい。




2003年11月01日(土) 秋季関東大会(1) 埼玉栄を支えるサードコーチャー

◇秋季関東大会1回戦(11月1日 上尾市民球場)
文星芸大付 000 001 001 2
埼玉栄高校 000 030 00× 3

 試合中盤から、サードコーチャーが気になり始めた。
 埼玉栄の背番号16を着ける明賀忠彦(2年)。打者に1球1球大きな声で檄を飛ばし、ランナーが出ると大きなアクションで指示を送る。コーチャーズボックスに立つとあらゆるところに目を配る。三塁側ベンチにいる監督、バッターボックスにいる打者、そして文星芸大付の守備陣と、目を常に動かし、次のプレーを予測する。
 
 5回頃だったと思う。明賀の声が、ネット裏にいた私の耳にやけに届くようになった。はじめは何と言っていたか分からなかったが、集中して耳を傾けると、こんなことを叫んでいた。
「狙え〜! 狙え〜!」
「引き付け〜! 引き付け〜!」
 ん? もしや球種を教えているのか……(もちろん禁止)。
 「狙え〜!」のときはストレート、「引き付け〜!」のときは変化球系。5回裏、埼玉栄が3点を先取したとき、この読みがほぼ完璧に当たっていた。
 6回以降、明賀の声と、投手の球種に注意して見ると、当たるときと当たらないときがあった。5回はたまたまだったのかな……(あとで明賀本人は「全然適当です。プレッシャーかけるために叫んでいただけですよ」と苦笑い)。
 
 試合後、埼玉栄・戸栗監督に明賀のことを訊いた。
「明賀はチームにとって欠かせない存在。野球をよく知っているから、新チームになってからサードコーチャーとして起用している」
 強いチームには必ず優れたサードコーチャーがいる。戸栗監督は「野球をよく知っている」ことに加え、「明賀には野球を見る目がある」とも言った。監督の言葉から、明賀への信頼の大きさが窺えた。

 戸栗監督への話を訊き終えたあと、三塁側選手入り口の方へ行くと、栄の選手がユニホーム姿で集まっていた。「明賀くんいる?」と声をかけると、「あ、いまそこで写真撮っているのが明賀です」と控え選手が教えてくれた。
 間近で見る明賀は、思い描いていた通りの選手だった。体全体から、「熱さ」「真剣さ」が伝わってくるような選手。戸栗監督が信頼するのは、「野球を見る目」以外に、明賀の持つ人間性にもあるのでは、と感じるほどだった。

 監督の話を明賀に伝えると、
「サードコーチャーは1点入るか入らないかを左右する大事なポジション。そこを任せてもらっているのは、すごく嬉しい」と満面の笑みを浮かべた。
 監督の言葉通り、サードコーチャーに就いたのは新チームになってから。
「もともとはセカンドをやっていたんですけど、腰を痛めたこともあって、いまはコーチャーに専念です」
 グラウンドでプレーできない、もどかしさはないのだろうか。
「チームが勝つために、力になれればそれで良いんです。サードコーチャーはそれくらい責任あるポジションですから」
 コーチャーとしてのプライドを覗かせた。でも、あとにこうも続けた。
「まだ、選手としてグラウンドでプレーすることをあきらめたわけじゃないです」
 最後に将来の目標を訊くと、こんな言葉が返ってきた。
「まだ考えたことないです。とりあえず、いまは甲子園に行きたい。それだけです。甲子園でチームの力になりたい」
 
 明賀はどんな質問にも真っすぐ前を向き、しっかりと目を見て答えた。いい意味で、今どき珍しい高校生だと思う。勝敗を左右する重要なポジションを任せるには、うってつけの選手とも感じた。甲子園で活躍する明賀の姿を見てみたい。
 


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