加藤のメモ的日記
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2012年04月30日(月) 日本の光と影

○だいたい大飯原発の再稼働が議論になるのは半年前からわかっていた。それを今頃になってドタバタしている。被災地のガレキの広域処理も昨年末に法律ができたのに放っておいた。この政権はぎりぎりまで追い詰められた末に、仕方ないから手をつけるんです。

●それはね、野田さんの頭が消費税のことでいっぱいだからですよ。

○情けない限りですね消費増税でまず私が野田さんにいいたいのは、増税したら税収になると思い込んでいることの愚かさです。たとえは‘97年に橋本内閣で消費税を3%から5%に引き上げましたけど、このときの国税収入は54兆円だった。その後今に至るまで、この税収総額を一度たりとも上回っておらず、現在は42兆円です。増税イコール増収ではなく、逆に減ってしまった。これが歴史の真実です。

○だから、今やるべきはデフレを脱却して経済を成長させ、それによって税収を増やすことなんです。増税は景気の足を引っ張るんですから。

●だいいち、1000兆円もの国の借金を増税で返していけるはずがない。単純に計算すると消費税400%分ですよ。だから、5%増税なんて焼け石に水です。つまり、1000兆円の借金を持続的に返していくには経済成長するしかないわけです。

○借金が1000兆円もあるというのも、財務省の巧妙な洗脳ですしね。

●そうそう。‘09年度の国のバランスシートを見ると、確かに負債(借金が1100兆円もあるけど、資産は800兆円近くあるんです。ですから、純債務はざっと300兆円。トヨタだって12兆円の負債がありますが、同時に30兆円の資産があるし、ソニーだって1兆円の負債に対して13兆円の資産がある。ところが財務省は資産のことには口をつぐんで、、「GDPの2倍も借金がある」と騒いでいる。

○純債務で見ればGDP比は70%程度ですから、財務省は意図的にミスリードしているんです。

●予算委員会でこれについて質問したんですよ。「野田さんは所信表明演説で、いま生まれてくる赤ちゃんはみんな700万円の借金を背負っていると言われたが、同時にその子は500万円の貯金通帳を持って生まれてくるんですよ」と。日本の海外資産は252兆円で、これは世界最大です。それから個人金融資産は1500兆円弱ですけど、国や企業が持っている金融資産を全部合わせると5600兆円にのぼる。さらに経常収支は17兆円の黒字で、外貨準備高はどんどん膨れて、いまや100兆円ですよ。これだけのファンダメンタルズがありながら、財務省は増税しないと国家破綻するようなプロパガンダをする。本当に悪質です。

○同感です。なかでも酷いのが、消費税をあげれば景気が良くなるというデマ。集めた税金を国が上手に使うから経済が活性化するというんですが、今までの失敗を棚にあげてどの口が言うんだか。ところが野田さんをはじめ、増税推進派の政治家はこのデマを信じ込んでいる。財務省のマインドコントロールここに極まれり、ですね。

国家財政の私物化

●では、なぜ財務省が増税したがっているかというと、極端にいえば、かっての栄華をもう一度ということだと思う。つまり、自分たちの差配するお金を増やして権限を強めたい、天下り先も増やしたいと。しかも厄介なことに、財務官僚がそうやって財務省支配を強化することは日本のためになると本気で思いこんでいる。なにしろ、受験戦争で勝ってきただけの世間知らずのお坊ちゃま。KY連中の集まりだから、本気でそう思っている。これが実に始末が悪い。

○図星だと思いますよ。財務官僚は「我ら富士山。他は横並びの山」って入省したら最初に教え込まれるんですから。人災、財務省の課長は他省の局長を平気で呼びつける。課長が受ける接待もよその局長並み。ランクが一段違っていて、それが当然だと思っていますよ。自分たちの権力を高め、ほかの省庁に恩を売り、その見返りとして、特殊法人ができるとそこのポストを一つもらう。それで財務省は、すべての省庁の特殊法人に天下りしているわけ。要するに財務省がやっていることは、国家財政の私物化ですよ。



『週刊現代』


2012年04月27日(金) リーマン以降

間違いなく世界は、未曽有の転換期に来ている。新自由主義、解り易くいえば「資本主義」でよいのだろうか。この経済システムは、折からのグローバリゼイジョンと結びついて、まさに”弱肉強食”の資本主義の最も悪い面が表面化している。本来の資本主義は、企業が”市場の見えざる手”によって競争し、「最も適したもの」が生き残るはずであった。ところが現在では銀行などの金融業が、合併をくり返して巨大になってしまった。そして政府以上のスケールまでになってしまった。

これらの企業は経営破綻しても、政府は潰すわけにはいかない。そこで公的資金、つまり国民の税金を使ってこれを救済してしまうのである。これではまるで”国営”であり、むしろ社会主義ではないのか。この不合理は、リーマンショック以降世界中に広がり、各地でいわゆる「占拠せよ」という抗議運動になった。一番有名なのは、ニューヨークの証券街ウォール・ストリートであるが、ヨーロッパ各地、そしてオセアニアでも多くみられる。

抗議する人の主張を聞いても、では「資本主義に変わるシステムはあるか」となると、いまいちハッキリしない。代案を出すというより、現状がおかしいと言っている人がほとんどだ。主として税制への不満が多く、もっと大企業や大富豪から税金を取れと言っている。しかし資本主義では、企業から金を取ってしまうと、労働者の給料は上がらないし、設備投資もままならない。つまり、成長が止まってしまう恐れが生ずる。

マルクスは「「資本主義は自らを破壊する種を持っている」というようなことを言っていた。しかし社会主義も共産主義もその「種」を持っていた。ボクは長年「社会主義のセーフティーネットを備えた資本主義」が、最も現代にふさわしいと考えてきた。しかし現在の年金などを考えると、それほど簡単にはいかない、と考えるようになった。

中国では鄧小平の「一党独裁と資本主義」という綱渡りが、今のところ成功しているように見える。しかし問題は山積しているはずだ。すでにトラブルの芽は、全国で発生している。一方、成長が止まった日本はどうなのだろう。財務省の言いなりの野田内閣は、気が狂ったように増税路線を走っている。「増税に生命を賭ける」首相なんて聞いたことがない。


『週刊現代』


2012年04月25日(水) 大地震は60年ごとに起こる(15)②

その直後、私は自分の体が宙に浮くのを感じました。高さは2メートルほどで、すぐに落下しました。幸い綿毛布の上に落ちたので骨を折ることもなくすみました。これは最初のつむじ風ですが、高く巻き上げられた人も多くいたようです。囂々という音がしてあたりは真っ暗になり、その中を大八車が回転しながら空に上っていくのを見ました。私は、急いで綿毛布を頭からかぶりさらに近くにあったゴザの下にもぐりこんで突っ伏していました。眼が暗さに慣れて周囲を見渡しますと、近所の方々も所々により固まってうずくまっていました。

風は相変わらず物凄く、そのうちにあたりが急に暗くなりました。ガスに点火でもしたように、荷物が、一時に炎をあげはじめたのです。と同時に、それらが旋風に乗って舞いあがり、飛び交いはじめ、人の群れの中に落下するのです。悲鳴が所々で起り、人々がつぎつぎに倒れてゆきます。私は息苦しくなったので、地面に顔を伏せると呼吸が楽になることに気付きました。私は、炎の間を逃げまどいながら、息が苦しくなると地面に伏して息を吸いました。その頃には、すでに息絶えた人の体が所々にころがっていて衣服から炎が起こっていました。

そのうちに、後方から火勢が強くなったらしく、「わーッ」という叫び声がして大群衆が私の方に迫ってくるのが見えました。それは何千という人の数で、体をぶつけ合いながら狂ったように駈けてきます。踏みつぶされたら殺されることははっきりしていますので、地面近くの空気を吸って走り出しました。その時、横を走っていた30歳前後の夫婦の連れていた子供が、何かにつまずいて倒れ、母親が抱き起そうと立ちどまりました。が、夫は妻の手を強引に引っ張り子供を置き去りにして走っていってしまいました。子供はおそらくすぐ後方に迫っていた大群衆に踏み殺されたに違いありませんが、子供を抱き起こしたりすればその母親も押し倒されたと思います。いずれにしても恐ろしい光景でした。

多くの人々が死体の山を乗り越えているのが見えましたが、その上を越えるときに倒れる人もいて、その上にほかの人が積み重なってゆきます。注意してみますと、倒れる人は死体の腕や大腿の上を踏む人に限られ、丸みがあるので足が滑るのです。それに気付いた私は、倒れた人の胸や背中を踏んで走り死体の山をようやく乗り越えました。息が苦しく何度しゃがみこもうとしたかわかりませんが、そんなことをしたら踏み殺されますので、群衆の中にもまれながら走り続け、ようやく人の動きが鎮まりましたすきに地面に顔をつけて息を吸いました。

その間にも木材や家財が舞い上がり落下するので、悲鳴が絶え間なく続いていました。私は、何千人とも知れぬ人々とともに右へ左へ移動することを繰り返していましたが、不思議なことに倒れた人の体はすぐに火が燃え移ります。衣服も焼けはがれて裸体同然ですのに、たちまち人の体が炎に包まれることが不思議に思えました。馬車も群衆ともに右往左往していましたが、馬がひどく暴れ、そのため多くの人が蹴り殺されていました。東京市の川は、死体におおわれた。とくに隅田川には、火に追われ川の中に飛び込んだ者たちの溺死体が無数に浮遊していた。当時東京府府議会長堀江正三郎も京橋区明石町に住み、2000坪ほどの空き地に避難していたが、猛火に追われて川の中に飛び込み死をまぬがれた一人である。かれの回想によると、

「空き地にはすき間のないほど荷物が積み上げられていましたが、新橋、銀座、八丁堀の各方面からの猛火が迫って、荷物に火がつきました。三方からの火炎に包まれましたので、後方の大川に飛び込む以外に方法はありません。人々は悲鳴を上げながら、一間半の高さのある明石町川岸から大川に飛び込みはじめました。幸い岸近くの水の深さは4,5尺ほどでしたので、私は辛うじて胸まで水につかって立っていることができましたが、女や子供は溺れ死んでゆきました。見渡すと佃島の渡船場からはるか水上警察署のあたりまで川の中に黒く太い人の列ができていて、その上に荷物を焼く火の粉が降りそそいでいます。頭や顔が焼けるように熱いので、私は幾十度となく水の中にもぐりました。川に浮かんだ船にも人が多く乗っていて、その船にも火が移り、助けてくれ助けてくれと泣き叫んでいましたが、救うどころではありません。私が、しばらく石垣から這い上がったのは、翌日の朝でした」

東京市の死者数の最大のものは焼死者で52.178名、それにつぐ死者数は溺死によるもの5.358名で、圧死者727名の7.4倍強にも達している。つまり河川は、避難者を炎から救うと同時に彼らの生命をも奪ったのである。もともと河川は、広い道路や高架鉄道線路などと同じように火の流れを阻止する防火線の役目を持っていたが、その上に架かった橋が焼けることによって対岸へ火はのびた。神田区の俎板橋や月島の相生橋は、燃えた船が橋の下に流れてきて焼けたが、それは特殊な例で、大半が避難者の持つ荷物に引火して焼け落ちたのである。


地震につぐ火災で、人々は炎に追われて道路を逃げまどった。と同時に、それは家財の大移動でもあった。当時の避難地の写真を見ると、どのようにして運び出したのかと思われるほど大きな荷物を背負った人の姿が数多く見える。馬車、大八車にも荷が満載され、人々は荷物のあいだに埋もれていた。かろうじて持ちだした家財の消失を恐れるのは当然の人情だが、それらが道路、空き地、橋梁などをおおい、その多量の荷物が燃え上がって多くの焼死者を生むことになったのである。道路、橋梁が家財で充満したために、人々は逃げ場を失い、消防隊もその活動を妨げられた。関東大震災の東京市における悲劇は、避難者の持ち出した家財によるものであったと断言していい。火災時に搬出される荷物については、すでに江戸時代かその危険が鋭く指摘されていた。

災害の中心となった東京府と横浜市の人口は約450万名であったが、知る手掛かりを失った彼らのあいだに不気味な混乱が起こりはじめた。彼らは、正確なことを知りたがったが、知ることのできるものといえば、それは他人の口にする話のみに限られた。根本的に、そうした情報は不確かな性格をもつものであるが、死への恐怖と激しい飢餓に怯えた人々にとっては何の抵抗もなく素直に受け入れられがちであった。そして、人の口から口に伝わる間に、憶測が確実なものであるかのように変形して、しかも突風にあおられた野火のような素早い早さで広がっていった。

流言はどこからともなく果てしなく沸いて、それはまたたく間に巨大な怪物に化し、複雑に重なり合い入り乱れ人々に激しい恐怖を巻き起こさせていった。地震の直後には津波が襲ってくる確率が高いということは、人々の間で常識化した知識であった。彼らには、明治29年6月に三陸海岸を襲った大津波の被害が鮮明な記憶として残されていた。その折も、同地方に烈震があった一時間半後に激烈な津波が沿岸約400㎞にわたって襲来し、13.000戸の家屋が全壊・流失し、死者も22.000名という多数にのぼった。

関東大震災でも、大島、伊豆半島、房総半島、三浦半島、鎌倉に最高12メートルの津波があり、多くの人家が流失した。が、津波の被害はkそれらの地域に限定され、地震・火災による被害と比較するとはるかに軽微なもので、まもなく鎮まっていた。しかし、それらの情報を知らぬ人々は、津波襲来に動揺した。火責め水攻めという言葉が誰の口からともなく起こって、火災発生後の津波襲来におびえた。東京でも、土地の低い下町方面に津波来襲の流言が人々の口から口に伝わり、山の手方面に逃げる者が多かった。東京には津波襲来の事実はなかったのだが、それは確実な情報として人々の間に伝わったのである。

罹災民は、地震発生直後から平時では見られぬ人間性の本質をむき出しにした市民の姿を数限りなく眼にしてきた。人々は他人を死に引きずり込んでも自分だけは生きたいと願う。親は子を捨て、子は親を見殺しにし、自分以外のものに心を配るゆとりは皆無だった。さらに人々は、無警察状態の中で醜い人間の行為もしばしば目撃した。火の鎮まった地域には、どこからともなく姿を現した者たちが死体の連なる中を歩き廻っていた。

かれらは、死体の携行していた手提げ金庫を壊して内部の物品を掠め取り、川岸に漂流する荷物をあさって歩いた。また死体の指輪から指輪を搾取することを専門とする者も多く、指輪を見出すと刃物で指ごと切り取り袋におさめる。中には、死体の口をあけて金歯をえぐり取る者もいた。そうした行為を数多く目撃してきた人々は、人間に対する不信感と畏怖を根強く抱くようになっていた。殊に集団を組む人間が、混乱しきった災害時を利用して行動を起こしはしないかという不安が醸成されていた。そして、流言も人々の恐れを反映した内容を持つものが流れはじめたが、囚人に関する流言も、その一つであった。



『関東大震災』 吉村昭 


2012年04月24日(火) 大地震は60年ごとに起こる(15)①

大正12年9月1日、午前11時58分、大激震が関東地方を襲った。建物の倒壊、直後に発生した大火災は東京・横浜を包囲し、夥しい死者を出した。さらに、未曽有の天災は人心の混乱を呼び、さまざまな流言が飛び交って深刻な社会事件を誘発していく。20万人の命を奪った大災害。



振動は押し寄せる津波のように果てしなく盛り上がり、地震計の針が動き出してから15,6秒後には想像を絶した激烈さにまでたかまった。その瞬間、戦慄すべき現象が起こった。中央気象台では明治9年以来地震観測を行なっていたが、観測室に置かれていた地震計の針が一本残らず飛び散り、すべての地震計が破壊されてしまったのだ。地震学教室の地震計も、すさまじい烈震にその機能は大混乱におちいっていた。すでに初期の微動がはじまった直後、地震計の針の大部分は記録紙の外に飛び出し、さらに振動が激化すると同時に破損してしまっていた。ただ二倍地震計のみが振動の最も激しい部分に達してからもかろうじて動き続け、それも5秒後には他の地震計と同じように故障してしまった。

地震学教室員は驚愕し、客員の中には観測を放棄して建物の外によろめきながら飛び出す者もいた。オーストラリアの汎太平洋学術会議に出席中の主任教授大森房吉の代行として地震学教室の指揮をとっていた今村明恒助教授は、波打つように揺れるは室内に踏みとどまって二倍地震計の針が描いた記録紙の線を凝視していた。最大振動時に達した時、彼は、振動が急速に弱まるに違いないと予想した。それは、長年地震観測に従事してきた豊かな経験によるものだったが、意外にも振動はそのまま継続した。大地は激しく波打ち、立っているのが困難になった。そのうちに、幾分ゆるやかになったと思った直後、再びすさまじい振動が襲ってきた。恐怖が彼の体を硬直させた。かれは、安政大地震以来の大地震が発生したことを一個の人間として感じ取った。

横浜市は、神奈川県庁の所在地であるとともに日本最大の港湾都市でもあった。外国人の居住・滞在者も多く、官庁、商社も設けられていて、その烈震は市の機能を完全に壊滅させた。横浜市の家屋倒壊戸数は、全壊9.800、半壊10.732、計20.532戸に達し、全戸数98.900戸の20%強に及んでいる。殊に洋館は石造またはレンガ造りなので耐震性はなく。最初の強震でひとたまりもなく崩壊してしまい、内部にいた者は逃げる余裕もなく大半が圧死した。その他官庁の大半も倒れ、横浜裁判所では末永所長以下100余名がすべて圧死した。

激烈な地震は、大地に深い亀裂をはしらせ、山崩れを誘い、川岸を崩壊させ、鉄橋を河中に墜落させた。700年前に造られた鎌倉の長谷にある大仏も50センチ地下にもぐり、さらに40センチ近くも前にせり出したほどであった。

その日、風邪向きは南または南東で、風速は低気圧の影響を受け10メートルから15メートルとかなり激しいものであった。また夏季であったので火鉢、こたつなどの暖房具はなかったが、地震発生時が午前11時58分44秒という正午寸前の時刻であったので、各家庭ではかまど、七輪などに火を起こして昼食の支度をし、街の飲食を生業とする店々でも客に出す料理を盛んに作っていた。地震が突然起こった時、人々は激烈な震度に狼狽してかまどなどの火を消す精神的ゆとりをもつ者は少なかった。殊に倒壊した家では圧死から逃れるだけが精いっぱいで、かまどや七輪におこっていた火の上に材木や家財がのしかかり、たちまち火災が起こった。

また天ぷら屋などの飲食店では、激しい振動で油が鍋からこぼれ出て引火した。さらに最大の発火原因になったのは、薬品だった。学校、試験所、研究所、製造所、工場、医院、薬局などにあった薬品類は、棚などから落下して発火した。特に学校からの出火は最も多く、蔵前片町の東京高等工業高校、富士見町の日本歯科医学専門学校、明治薬学専門学校、牛込区市谷の陸軍士官学校予科理科教室、本郷区の東京帝国大学工学部、同大学医学部などからそれぞれ出火した。

消防署は全力をあげて消火につとめたが、頻発した火災の勢いは激甚を極め、それに対抗するにはあまりにも非力だった。風も火災発生と同時に激しさを増し、日没頃から夜の11時頃までには風速も26,7メートルという烈風と化し、市内一面に猛火が轟々と逆巻いた。さらに水道はいたるところで破壊され、浄水場の電力も絶えて水路は完全に断絶してしまった。そのため、河川、濠、下水などに水を求めポンプの中継によって放水したが、その効果は薄く、避難民の群れにも妨げられて消防隊は苦闘した。中には猛火に包まれた隊もあって、22名の殉職者と124名の重軽傷者を出した。

東京市の全焼戸数は、全戸数48万3千戸中の39万924戸に及んだ。239戸が半焼し、死者・行方不明者(圧死・溺死を含む)68.660名、重軽傷者26,268名に達した。火災の発生から鎮火まで42時間にも及んだが、焼失面積と対比してみると、1時間に24万9.650坪、1分間に4.160坪強が焼き払われたことになる。また延焼をうながした最大の原因は、避難者の携行する荷物であった。人々は、家財を荷馬車や大八車に乗せたり背に負うたりして逃げまどい、路上はそれらの人と物によってあふれたが、迫った火は荷物に次々と引火していった。人々は、燃えさかる荷物に逃げ道をふさがれて焼死し、火勢はさらにつのって延焼していったのである。さらに路上の電車に火が移って道路を超えて火の手が伸び、電線が燃え進んで町々を焼く現象も見られた。地震にともなう火災の被害は、横浜市においても甚だしかった。死の全戸数98.900戸中62.608戸が全焼し、圧死者を含む死者は23.335名、重軽傷者10.208名にも及んだ。


2012年04月21日(土) 尖閣取得は来年4月

石原都知事米国から帰国

東京都の石原慎太郎知事(79)は4月19日、出張先の米国から帰国した成田空港で記者団の取材に応じ、沖縄県・尖閣諸島の取得時期について、地権者と国の賃借契約終了後の来年4月になるとの見通しを示した。石原知事は「手続きは専門家をたてて、合法的に進めていく」と説明した。現地調査のための上陸許可については「政府に申請する」とした。一方で「国が所有権を含めて万全の態勢を敷くなら東京はいつでも引き下がる」とも述べた。

石原知事は米ワシントンで17日に開かれたシンポジウムで、東京都が尖閣諸島の購入に向け最終調整を進めていることを明らかにした。地権者とは基本的に合意しているという。そんな中、自民党は石原伸晃幹事長が20日から23日までの日程で予定していた訪中を延期すると発表した。父親の石原知事が表明した尖閣諸島の買い取り方針が影響したとみられる。党幹部によると、石原知事の尖閣諸島購入発言に関連し、中国でネット上に石原幹事長の訪中を非難する書き込みが相次いだことなどから大学側が対応を協議し、その結果、安全を確保できないと判断したという。



『九州スポーツ』


2012年04月20日(金) 民主党の終焉

国会は18日、衆参両院で外交、安全保障などをテーマに集中審議を行なった。野田首相は北朝鮮のミサイル発射に関連して「2006年、09年とミサイル発射のあとにほどなく核実験を行なっており、その点を注意深く見ないといけない。さらなる発射や核実験を含む挑発を行なわないことを北朝鮮に強く求めたい」と述べた。問題なのはミサイル発射直後の政府対応である。

防衛省は13日午前7時40分、ミサイル発射を把握していたにもかかわらず、国民への情報公開が大幅に遅れてしまったのはどういうわけか。野党の追及は、田中防衛相一人にとどまらず、発射情報を把握していながら危機対応を怠った首相官邸の藤村官房長官にも向けられた。

野田首相は「国民への情報伝達のプロセスには改善すべき点があった」と不手際を認めたものの、公表の遅れについては「何らかの飛翔体が発射されたが未確認という状況で、まだ国民にメッセージを発するのは早いのではないかと判断した。ダブルチェックをしながら公表することが基本的な考え方だった」と釈明した。

冗談じゃない。北朝鮮から飛翔体が発射されればミサイルに決まっている。確認している間にミサイルは日本領海に到達してしまうのだ。「情報提供の大きな遅れで、国民は野田政権の危機管理に不安を持っている。ミサイル発射も失敗だが、野田政権の危機管理も失敗だ」前日の参院外交防衛委員会で、自民党の自民党の佐藤正久議員(51)の指摘である。民主党政権の危機管理能力に重大な欠陥があることは、いまさら指摘するまでもない。福島原発事故隊の対応で実証済みだ。

自民党は18日夕、田中防衛相と、前田国交相の問責決議案を参委員に提出した。国会運営上、辞任は避けられないだろう。しかしながら、大臣のクビを切るだけでは不十分だ。民主党政権が続く限り、国民は枕を高くしては眠れない。新たな政権の誕生を期待する。


『九州スポーツ』


2012年04月19日(木) 人類はなぜ月を見捨てたのか

人類はなぜ月を見捨てたのか。その本当の理由が明かされる


アポロ計画。それはアメリカの威信をかけた世紀のプロジェクト。人類を月に送り込むという壮大な挑戦であり、1961年から1972年にかけて、計6回の有人月面着陸に成功した。その快挙はアメリカだけでなく、人類の偉業として語り継がれている。しかし、NASAは、17号をもって計画を打ち切った。その理由は公式には予算のためとされ、人類の宇宙開拓はスペースシャトル計画や宇宙ステーション構想にとって代わられた。しかし、あまりにも突然なアポロ計画の中止に、人類はなぜ月への挑戦を諦めたのか。その「本当の理由」をめぐって、さまざまな憶測が飛び交った。

あれから40年。ついにその謎に迫る重要な映像が発見された。それは、極秘に撮影された記録フィルムであり、公的には存在しないはずのアポロ18号が、月面へと着陸したことを示すものだった。本作は、その衝撃映像を編集し、、アポロ18号の存在を徹底的に追い求めたものである。しかし、これは真実の映像なのか?そして、真実だとしたら、いったいなぜNASAはアポロ18号の存在を隠さなければならなかったのか?この映像に記録されたアポロ18号の乗務員が遭遇したあまりにも衝撃的な事件を見れば、その理由は一目瞭然だろう。全米3.300館で公開されて物議をかもしたこのフィルム、信じるかはあなた次第。

18号の乗務員が回し続けた記録カメラは、誰も知らない月の正体を映し出していた…。

インターネットの片隅で発見された、ある映像。それはアメリカNASAによる月面探検計画”アポロ計画”の「ある真実」を告白する衝撃的な内容だった。アポロ計画が終了してから40年経った現在、いったい誰が何のために、この映像をネット上にアップロードしたのか?本作品はその映像を時系列に従って再編集したものである、と冒頭に告げられる。

カメラに向かって話すのは、ジョン・グレイ司令船操縦士。彼は言う。その電話をもらった時は「バーベキューをしていた時だった。ネイトが電話に出ると、18号を極秘で飛ばすと言われた。ネイトは”冗談だろ”って。しかし、私生活より任務が優先だった」と。そして、1974年12月20日、存在しないはずのアポロ18号は、司令船操縦士のジョン・グレイ、着陸船将操縦士のベン・アンダーソン、船長のネイト・ウォーカーの3人を乗せて月へと飛び立った。

12月25日、無事切り離された着陸船リバティは月面着陸に成功。月面に降り立ったネイトとアンダーソンは、さっそく極秘ミッションに着手する。動体探知カメラと、”国防総省PSD5”と記載された装置の設置だ。比較的簡単だったその作業を終えたネイトは、石の採取も忘れなかった。船外活動から着陸船内へと戻った二人は、原因不明のノイズが気になりながらも、疲れた体を癒すようにゆっくりと深い眠りへと落ちていった。

翌日、目を覚ますと、採取して保存袋に入れたはずの石がなぜか床に散乱していた。その原因もわからないまま、二日目の船外活動を始める二人だったが、月面にとんでもないものを発見してしまう。それは、なんと自分たち以外の足跡。すぐさま調査を開始したネイトと、アンダーソンはさらに驚愕の事実を知る。我々アメリカしか降りたことのないはずの月に、ソ連の探査機が着陸していたのだ。自分たちが知らされてきたときとは確実に何かが違う。しかし、衝撃はそれだけでは終わらなかった。その頃、昨日設置した動体探知カメラは、とある異常な物体を映し出していたのだ。いったい月で、何が起こっていたのか?記録カメラは、冷酷にその事実を映し出していた。

STORY
18号の乗務員が回し続けた記録カメラは、誰も知らない月の正体を映し出していた…。

インターネットの片隅で発見された、ある映像。それは、アメリカ・NASAによる月面探査計画”アポロ計画”の「ある真実」を告発する衝撃的な内容だった。アポロ計画が終了してから40年経った現在、いったい誰が何のために、この映像をネット上にアップロードしたのか?本作品は、その映像を時系列に従って再編集したものであると、冒頭に告げられる。

カメラに向かって話すのは、ジョン・グレイ司令船操縦士。彼は言う。「その電話をもらった時はバーベキューをしていた時だった。ネイトが電話に出ると、18号を極秘で飛ばすと言われた。ネイトは”冗談たろ”って。しかし、私生活より任務が優先だった」と。そして、1974年12月20日、存在しないはずのアポロ18号は、司令船操縦士のジョン・グレイ、着陸船操縦士のベン・アンダーソン、船長のネイト・ウォーカーの3人を乗せて月へと向かって飛び立った。

12月25日、無事切り離された着陸船リバティは月面着陸に成功。月に降り立ったネイトとアンダーソンは、さっそく極秘ミッションに着手する。動体探知カメラと、”国防総省PSD5”と記載された装置の設置だ。比較的簡単だったその作業を終えたネイトは、石の採取も忘れなかった。船外活動から着陸船内へと戻った二人は、原因不明のノイズ音が気になりながらも、疲れた体を癒すようにゆっくりと深い眠りに落ちていった。翌日目を覚ますと、採取して保存袋に入れたはずの石がなぜか床に散乱していた。

その原因もわからないまま、二日目の船外活動を始める二人だったが、月面にとんでもないものを発見してしまう。それは、なんと自分たち以外の足跡。すぐさま調査を開始したネイトとアンダーソンは、さらに驚愕の事実を知る。我々アメリカ人しか降りたことのないはずの月に、ソ連の探査船が着陸していたのだ。自分たちが知らされてきた月とは、確実に何かが違う。しかし衝撃は、それだけでは終わらなかった。その頃、昨日設置した動体探知カメラは、とある異常な物体を映し出していたのだ。いったい月で、何が起こっていたのか?記録カメラは、冷酷にその事実を映し出していた…。

アポロ計画の中止の謎と、月の「先住者=異星人」

月着陸は人類の歴史に燦然と輝く偉業なのだが、冷静になって俯瞰してみると、アポロ計画ほど疑惑と謎に満ちた計画はない。まず挙げられるのは、NASAが公開してきた情報量の不自然なくらいの少なさだ。レインジャーからアポロ計画の終了までに公開された写真は約14万枚。これは撮影枚数のわずか3.5%にしかすぎない。残り96.5%、要するに、ほとんどが未公開なのだ。NASAは何かを隠している。その”何か”こそが、まさしく月の真実の姿なのだ。

だが、それ以上に不可解なのは、財政的逼迫を理由にしたアポロ計画の終結である。実は17号のあと、さらに10回もの月探査が予定されていたのだ。18,19号にいたっては、なんとロケット購入代金まで支払い済みだった。当然、乗務員の訓練も終了しており、いつでも打ち上げ可能な状態にあったという。にもかかわらず唐突に中止が決定された。なぜなのか?

なぜなのか?

月には人類以外の先住者、つまり”異星人”が存在していたからだ。アポロ宇宙船には、常にUFOがつきまとい写真に撮られている。そして月面に降り立った飛行士たちもまた、道路や掘削条痕や半透明なドームや塔、あるいはまた太古の遺跡とおぼしき数々の異常構造物を見つけていた。月面探査を丹念に検証していくと、こうした宇宙飛行士たちが発見したものが、そこに暴かれるのだ。

月は単なる衛星ではない。

少なくとも何らかの”手”が加えられた天体だ。その”手”はほぼ確実に異星人のものだろう。月は異星人が自分たちの”目的”に沿うように改造し、開発した天体なのだ。その”手”はほぼ確実に異星人のものだろう。彼らの月における目的が何であるのかは、うかがい知ることはできない。だが、少なくとも異星人にとって、月は何らかのミッションを行なうための活動拠点なのだ。

初めて月の裏側をアポロ18号で周回した際、ボーマン船長は「サンタクロースがいた」と、決して見ることのできない月の裏側に、彼らの基地が存在していたことを告げている。アメリカ政府は、アポロ計画を発進させ、異星人と遭遇した。そして、彼らとの間で何らかのトラブルが生じたか、または逆に合意が見られた結果、突然プロジェクトの中止を決めたのかもしれない。

実はNASA内部には、真実を公表しようという派があり、隠蔽派と常にせめぎあっている。そのせいで時折、秘密情報がリークされる。驚くべきことに、アポロ計画は実際には20号までミッションが遂行されていたというのだ。3人を乗せた18号は計器故障で月から帰還できず、19号と合体した20号が無事帰還したという。情報を鵜呑みにすれば、これは「裏のアポロ計画」だ。そのアポロ20号が1976年8月16日に撮影したという映像がインターネット上にアップされている。そこには月の裏側のクレーター付近に鎮座する巨大な宇宙母艦を連想させる流線型物体が写り込んでいるのだ。この映像がリアルなのか、またはフェイクなのかはわからない。NASAは、常にこうした陰謀めいた噂や謎めいた情報がついてまわるのである。



映画『アポロ18号』





2012年04月17日(火) 季節の花や木を愛でながら(14)

私が数年前まで勤務していた病院に、N先生という外科の医者がいた。これは私がN先生からじかに聞いた話である。N先生の義父は消化器専門の内科医で、長年大学病院に勤務されていたそうであるが、40歳代で開業しいわゆる町医者として、地域の医療に貢献し、患者さんも多く、人気のあるドクターとして70歳代前半まで実に30年以上も現役の開業医を続けられていたという。

N先生の義父のY先生が72歳になったある日、上腹部に小さなしこりが触れるのに気付いた。即座に「これは胃癌である」と自己診断を下した。この時点ではY先生は体調も良く、食事も普段と同じように食べられていたそうであるが、「胃癌」であることを確認するために、Y先生は自分の後輩のS先生のもとでバリウムを飲み、胃のレントゲン写真をとってもらった。その結果、Y先生の胃は全体に硬化したスキルス胃癌であることが判明した。S先生やY先生の家族は、Y先生に手術を受けることを勧めたが、Y先生は癌の進行度を自分自身で、たとえ手術したとしても6カ月程度しか余命はないだろうと診断し、手術を拒否したという。

Y先生の偉いところはここからで、普通の人だと自分が癌と知ったら落ち込み、仕事など手につかなくなるものだが、その後も変わらず診療活動を続けられていたという。3ヶ月くらいたつと、体重は以前に比べて10キロ近く減ったというが、やはり外見的には今までと変わらずに診療活動を続けられていたという。しかし、5か月目になると、食事の通過が悪くなってきたのか、流動物しか食べられなくなり、胸水が貯留してきたせいか咳と呼吸困難を訴えるようになった。家族はどうぞ仕事を休むようにとY先生に懇願したが、Y先生はこれを聞き入れず、自分も点滴を受けながら仕事を続けた。

それから、2,3週間そういうY先生の苦闘が続いたが、ついにまったく食事が通過しなくなり、Y先生は初めて休診の札を医院の玄関にかかげた。この時にはさすがのY先生もふらふら状態で、家族はぜひ入院するようにと勧めたが、Y先生はこれも頑なに拒絶し、さらに点滴を受けることも拒否し、「これが天寿だ」と言い残して、自宅の寝間でそのわずか3日後に枯れるように息を引き取ったという。まるで即身成仏の様な最期だったらしい。

私は同じ医者として、Y先生の生きざまと死にざまは何とも見事で羨ましいと思うとともに、「医療とは何か?」という一つの教訓がまさにここにあると感ぜずにはいられない。


『羨ましい死にかた』


2012年04月15日(日) 大往生したいなら、病院に行くな

高齢者の80%が病院で亡くなる時代。だが、人生の終末を医者に任せて本当に大丈夫なのか。「自然死」と「在宅看取り」の第一人者の医師2人が理想の「最期」を考える。

医者の使命感が、患者を苦しめることも多い。

入院すると、1日で1年分の体力が落ちる。

75歳以上の人が入院すると、基本的に寝たきりにされてしまう。

苦しみながら延命するより、安らかな死を

昔の遺体は軽かったが、今の遺体は重い。点滴で必要以上の水分を入れられているからです。

今の医療は、死ぬことの邪魔をしている。

ガンだって痛まないなら放っておけばいいんです。

治療したために死期を早める場合もある。



●私も在宅医療に携わっていますから、今の病院での高齢者への医療に対して、同じ印象を持っています。先端医療が施され、成功したとしても従来の生活に戻れないことが、高齢者にはあります。心筋梗塞は治ったが、寝たきりになる。ガンの手術後、抗癌剤の副作用で味覚を失い、その後の人生を送るはめになる。入院医療によって、主病名以外の身体環境を悪化させることが多いんです。

○その通りですね。

●75歳以上の人だと、病院に入ると1日2%は体力が落ちます。普通の人なら1年で落ちる分がたった1日で落ちてしまう。寝たきりにされてしまうからです。

○ヘンにウロウロされて、ひっくり返ったりされたら困るからでしょう。

●ですから、病院は目的をはっきりさせて、入院治療は必要最小限にしないといけないと思っています。できるだけ早期にリハビリをしないと、どんどん体力を奪われてしまう。

苦しみながら延命するより、安らかな死を

○専門医の弊害ですよね。全体を見ない。臓器なり、病気なりそこしか見ない。生活習慣や生活背景、年齢などは一切、考慮しないんですよ。40才でも90歳でも同じことをする。

●もし年齢をするようなら、それは専門医ではありませんからね。

○点滴だって、死に向かっている人に無理やり打っても仕方ないんです。それなのに余計に打ってしまうから、身体がぶくぶくになる。

●なるほど。

○葬儀社の人が言っていました。昔の遺体は軽かったが、今の遺体は軽い、と。点滴で必要以上の水分を身体に入れられてしまっているからです。私はあれではまるで溺死体だ、と言っています。逆に昔の人遺体が軽かったのは、最後に医療が介入しない「自然死」だったからです。点滴をしないと、体内の水分を利用するので、むくみやカエル腹がすっきりなくなり、とても安らかな姿になるのです。

●本来、その人にとっての最善の医療を考えたときには、二つの要素が必要ですよね。生命の質と生活の質です。確かに生命は救われた。病気は治った。でも生活者としてはどうなったか。その両方が意識されないと。

○おっしゃる通りです。命を守るだけだと、ダラダラと死ぬことを先送りするだけの医療になってしまう。人間の命は地球より重いなどといって、本人が希望もしていない苦しい日々を送らされることが、本当に正しいのか。

●やはり、家族の問題が大きかったと思うんです。核家族化の拡大で、高齢者が家にはいられなくなってしまった。施設や病院に送り込まれることが、当たり前になった。やがて施設に入れられるのであれば、病院のほうが世間体はいいようだ、と病院の安全神話に繋がっていった。病院で何が行なわれているか、多くの人が知らないまま、死も人から遠ざけられてしまったんです。

○日本人は今や、人が死ぬということが、ほとんど念頭にないですよね。生まれたら、成長してやがて死んでいくのは普通のことなのに、異常状態になってしまった。

●本来、死に際しては医療は無力です。死は自然の摂理なのですから、何が何でもどうこうしようというのは無理がある。

○それなのに、そろそろ危ないですよ、などと言われると、死ぬことなど考えていないので、家族は狼狽する。延命できるならと過剰な治療も受け入れる。反対に、延命治療に疑問を持っていたとしても、家族を見殺しにするのか、という目で病院側から見られると辛くなる。そして、チューブだらけでベッドにくくりつけられる姿を見るわけです。くくりつけられている本人の意思は問われることなく、です。

●だから、そんな姿になっても生きたいと思うかどうか、本人が意思表示をしておかないといけないですよね。どんな姿でも生かしておいてほしいのかどうか。そうしないと、家族を困らせることになります。

独り暮らしでもちゃんと死ねます

○私がホームで見ているのは、超高齢者。ご家族も、もう年だからこれ以上何もしなくてもいいとおっしゃるし、病院でも精密検査をしたりしない。結果的に、点滴注射や酸素吸入など、なにも治療をしないで看取らせていただく機会をえました。使命感から延命治療をしたくなる病院では、まずできないことです。普通の人は知らない昔のような死、自然死です。これはとても安らかなんです。自然死とはつまるところ、「餓死」です。食べ物も水分も一切取らないで死ぬこと。こう聞くと恐ろしげに聞こえますが、死に際のそれは、まったく辛くはありません。当人は死に向かっているわけなので、空腹感も喉の渇きも感じない。

●人は極限状態では、苦痛は感じないんですね。

○それどころか飢餓状態は脳内モルヒネが出て気持ちいいし、脱水状態は血が煮詰まって意識レベルが下がるので、ぼんやりとした状態になるのです。見ている家族は、こんな死なら怖くないと言います。自然死を見ると、死へのイメージは大きく変わるようです。

●私も在宅治療で、これまでたくさんの方を看取ってきましたが、自宅で死を迎えたい、満足して死にたいという人が、この5~6年で増えてきました。高齢者も家族も少しずつ現実がわかってきて、延命治療はしないでほしいという声も多くなっている。家族の側も変わってきているんですね。在宅といっても、特に設備などが必要なわけではないんです。1畳分のベッドさえあればいい。

○誤解を恐れずに言えば、理想的な死に方は「孤独死」と「野垂れ死に」だと私は思っています。医療者も家族もいないから、誰に邪魔されることもない。実に穏やかに安らかに死んでいける。

●確かにその通りですね(笑)

○ただ、問題は早めに発見してもらわないと、まわりが大変迷惑すること(笑)死ぬのに今の医療はいらないんですよ。死を邪魔しているんです。孤独死や野垂れ死にというと寂しそうですが、生まれてくるのも一人でした。死ぬのも一人でいいんです。

●それこそ一人暮らしでも、ちゃんと死ねますからね。ある時、一人暮らしの患者さんを訪ねると、ご自宅は足の踏み場もないほど乱雑な状態でした。病院にいけはきれいな部屋が待っている。でも、死に場所に選ばれたのは、散らかった自宅でした。病院なんかで死にたくない、と。

○その意味では、高齢者にとって、ガンは死ぬのにいい病気だと思います。死期がおおよそ予想できますから。ただし、治療はしないで、です。発見された時点で痛みのない末期のガンは、死ぬまで痛みは出ません。ガンだからといって必ずしも痛みが出るわけではないんです。逆に早く見つかってしまったために治療され、手術や治療で体力を奪われたり、正常な細胞が破壊されて死期を早める場合もある。

自分がガンだと知らせない方が幸せなこともある

●ガンが見つからず、末期まで楽しく過ごして、穏やかに死んでいくか、治療で苦しみ精神的にも大きなプレッシャーを受けて死ぬか、どちらがいいでしょう。ガンの痛みや苦痛は緩和ケア等で対処することができます。しかし、ガンと闘う心のケアは今、大きな問題になっています。ガンに罹ってしまったことで、心に大きなダメージを受けてしまう人は多い。

○実際、ある男性の患者さんは、肺ガンを5年前に患って亡くなったんですが、最後までほとんど治療は行ないませんでした。亡くなったのもご自宅。発見されてから4年3ヶ月間、趣味の卓球を楽しんでおられました。元気に過ごすことができていたんです。いよいよ末期となって、やっと訪問診療医が検査をしたら、腫瘍マーカーがとんでもない値だったので、たまげて腰を抜かしたそうです(笑)

●痛むならさておき、痛まないなら放っておく。知らないほうが幸せなこともあるのです。

○早期に発見されなければ、ガンに脅かされることもなく、いつも通りの生活が送れて、静かに自然に死んでいける可能性だってあります。

●早期発見されても、ガン治療でさんざん苦しい思いをして、最後は緩和ケアに行って下さい、というのはよくあること。医療から見捨てられた「ガン難民」がたくさん出ているのも現実ですね。

○日本人は命の有限性にきちんと気付かないといけない思います。人間としての繁殖期を終えたら、もういつ死んでもおかしくない。還暦や定年を迎えたら、死を視野に入れて考えること。死を前提に生きていく。会っておきたい人に会って、行っておきたいところにも行っておく。死を全く考えていないから、なんとか生にしがみつこうとするんです。だいたい年を取ったら、早すぎる死なんてないんですよ。もう十分に生きたんです。いつ死んでもいいんです。


○中村仁一 1940 財団法人高尾病院長を経て、老人ホーム「同和園」所長
●新田國夫 1944 北多摩医師会会長 認知症の高齢者を在宅診療を行なう


『週刊現代』3.31


2012年04月14日(土) 大阪市の思想調査

大阪市全職員思想調査

市職員に「業務命令」で、組合活動や政治活動への参加や、誘った市民・国民の名前まで報告させる。そんな内容の「思想調査」アンケートをした橋本大阪市長に、「憲法違反」との強い批判が広がっている。21には、足元の大阪市教育委員会でも、教職員へのアンケート調査拒否を決定した。

ファッショ政治を全国に押し広げようと画策する橋本市長と「維新の会」。日本共産党は、思想調査の矛先は職員だけでなく、「市民・国民に向けられている」(志位和夫委員長)と指摘した。人権と民主主義を守るため、国民的共同を広く呼びかけている。


橋本市長の”思想調査アンケート”は「凍結」されたが、憲法違反のものを出すこと自体が問題である。仮に組合側に問題があったとしても、あのアンケートは決して許せるものではないし、市民からの働きかけも記入させるなど、ことは市職員だけの問題ではない。組合活動や政治的な思想信条の問題を、強制的に報告させるなど異常極まりない。地方公務員も法的にみれば、極めて限定的に政治活動が禁じられているだけで。市民としての思想信条や政治活動が基本的に自由なのは当然である。

橋本氏は、政治への不満のはけ口を庶民同士、弱者同士で争わせることに長けているトリックスターだと思う。「維新八策」で国政に進出すつというが、結局は弱者いじめが本質に見える。

この問題は、マスメディアの根源的な不健康さと問題提起能力の欠如も明らかにした。政策を掘り下げず、民主、自民が秋波を送るとか、政局の話ばかり。結果的に「橋本劇場」の盛り上げに手を貸してしまっている。明らかな憲法違反のアンケートには厳しく疑義を突きつけるべきなのに、ほとんどまともに伝えない。一面トップで扱ったのは「赤旗」だけ。マスメディアはこうした問題的能力を学ぶべきである。


「職員アンケート」は市長の「業務命令」で行なわれている。これはただの調査ではない。職員に恐怖を抱かせ、今後多様な意見や考え方を持たないといった方向に委縮させ、人間性まで管理してしまう一歩になると思わざるをえない。職場の中が疑心暗鬼になり、お互いに探り合ったりすれば、職場の雰囲気も硬直化する。それでは、自治体の本分である市民サービスなど二の次になってしまう。

アンケートそのものは、憲法や法律に違反した問題のある杜撰なものである。しかも行政の長である橋本さんが、役所に勤める人達の思想・信条を含めて管理する権利があるという前例がつくられると、橋本人気の中で、それは一つの規範、モデルになりかねない。そんな前例をつくってはならない。マスコミは橋本氏というある種のフィーバーのような現象だけを伝えるのではなく、情報を全体的に提供すべきである。



『赤旗』


2012年04月11日(水) 政治塾で世の中が変わるのか

あちこちの山野では梅から桜に、花景色がかわっている。震災で花見を自粛という声が上がったが、花見というものの本来の意味は、いま生きていることを祝っての宴で、それは同時に亡くなった人へのレイクエムと感謝をこめて宴をするということでもある。
景気というものは、悪い、悪いと口にすると本当に悪くなる。これは人気と似ている。人の気がすべてをこしらえているだけで、実態はわかっていない。大恐慌なんてのが、そのいい例だ。ギリシャみたいに労働人口の3割近くが公務員になって国がカネを与えていれば、どんな国でもおかしくなる。
アテネは市民が皆政治家もどきになったとき、なにもかが崩れた。政治家とは国を平気でこわす職業なのである。
同じように役人が増えても国は傾く。昔の中国がそうである。役人が増え、好き勝手をすれば千年かけて築いたものは一夜で滅亡する。それが今のの日本の政治家も役人もわからない。当たり前だ。当人たちが自分の足元を変えようなどと微塵も思っていない。
議員の数を減らす。公務員の数を、給与を是正する。言うのは口だけでやりはしない。
政治家がこれほどバカで無能だとは知らなんだとマスコミが言い、いまは国民までがそう口にする風潮が蔓延している。
その政治家を選んだのは国民で、一番バカで無能なのは国民ということではないか。しかし、今の政治家は本当に、バカで無能なのだろうか。
”商いの神様”と呼ばれた松下幸之助は、長い企業家生活の中で、一つの国が隆盛するも滅亡するも、政治家の質だとわかり政経塾なるものをこしらえた。今の内閣にも、そこの出身者がいるが、彼らが優秀とはとてもでないか思えない。松下幸之助は生活に役に立つものをいろいろ作ったが、唯一の失敗作は松下政経塾だろう。今の内閣にも、そこの出身者がいるが、彼らが優秀とはとてもではないが思えない。
大阪でも塾をこしらえたという。それが悪いとはいわないが、その方法しかないんだろうか。小泉チルドレンと呼ばれて集まった政治家の質の低さは何だったのか。
吉田松陰という人物が昔の長州藩にあらわれ、頭脳明晰、秀才で、彼のもとに”松下村塾”として若者が集まり、それが明治維新の原動力の一つになったと歴史家は言うが、彼の思想は明治維新には反映できるものではなかったし、はたして塾ひとつで何事かの改革はできるのか。さらに言えば、明治維新そのものがおかしかったのではないか。あの頃の長州出身者の政治家でまともなのがいたのか。
坂本竜馬が理想の人物のように、この頃、皆が言うが、それは事実なのか。一人の若者だぜ。さらに言えば、アメリカの大学から教授がやってきて、”これから正義の話をしよう”なんて言っとったが、あれだけ戦争を起こした国が持ち上げる“民主主義”とは”正義”とは何なのだ?民主主義は21世紀の柱となるべきイデオロギーなのか。資本主義と民主主義は成立するのか。
経済、企業にとって大切なのは他利を考えることではないのか。ならそれは資本論、マルクス主義との共通点があるのではないか。
ゴールドマンサックスの中枢にいた者が、この会社は自分たちの利益しか考えていない、と言って退職したが、この会社だけではなく、何一つ物を創造していない金融業者がなぜあんなに儲かり、若いエコノミストが世の中のことがわかったようになぜ私たち大人の男の前でわかったような口をきくのだ。
東北の人は可哀想だが、瓦礫がうちに来ては困る、は沖縄の人は可哀想だが基地が来ては困るとどこが違うのか。



『週刊現代』4.7


2012年04月09日(月) 在日コリアの歴史

日本はアジアでいち早く、帝国主義のステージに、坂の上の雲を目指すようにして入り込もうとしていた。帝国主義は植民地を必要とする。日本は李子朝鮮を植民地として呑み込んだ。これを境に、膨大な数のコリアンたちが安価な労働力として流動化され、根こそぎにされたプロレタリアとなって、北九州、広島、大阪、名古屋、川崎、東京などの諸都市にいっせいに流入してきた。この中でも、「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほど発達した工業地帯であった大阪には、100万人近いコリアンが、低賃金労働者として集まってきた。

ここで興味深い現象が起こった。大阪に流入したコリアン労働者たちが1500年以上も前に彼らの先祖たちが開拓の村を建てた、その同じ土地の上にバラックを建てて住みつきはじめたのである。新米の移住者の多くは、すっかり日本風の中世都市のたたずまいに変貌を遂げた平野郷を避けて、平野川を少し下ったあたりの猪飼野の田園地帯に、吸い寄せられていった。そしてそこに、在日コリア世界「中層」の地層が、堆積を始めたのであった。

20世紀の初頭にはじまる、帝国主義時代の移民の波は、朝鮮半島のほぼ全域から、たくさんの人々を日本列島に引き寄せた。その数、210万人ともそれ以上ともいわれる。猪飼野に移り住んだ人々のうちで、最も多かったのは済州島の出身者であった。日本の敗戦を契機に、100万人超のコリアンたちが、祖国に戻ることになり、猪飼野のあたりも、一時はすっかりさみしくなった。ところがその数年後、半島を分断することになる朝鮮戦争(1950~53休戦)の勃発前夜、済州島からの新しい大量難民が、大阪にやってくることになった。南北分断に反対する人々の運動が、済州島を中心に起こり、流血の弾圧を受けた。その弾圧から逃れた人々の群れが、親せきや知り合いのいる大阪に集まってきたのである。

ニューカマーも含めたこうした人々は、猪飼野の北西のはずれにあった国鉄環状線鶴橋駅の周辺に密集してすみはじめた。もともと鶴橋には戦前から日本人の経営する小さな駅前商店街があり、戦後はそこには派手な闇市ができていた。そこが次第に在日コリアンがたちが生活必需品を手に入れるための、魅力的な商店街へと発展するようになった。そんなわけで、済州島出身者のニューカマーが多い鶴橋近辺と、戦前からの住民が多く住む猪飼野中心部との間には、微妙な地層のずれがある。 

壁とその解体

古層のコリア世界と、近代に形成された中層コリア世界との間には、いくつもの大きな相違点がある。中層コリア世界に生きたのは、半ばプロレタリア化した人々であったから、当然暮らしぶりも貧困であったし、奢っていた当時の日本人の多くは、コリア世界に何か自分たちが学ぶべき重要なものがあるなどとは、思ってもみなかった。このあたり、日本人が三韓渡来者から、夢中になって学びとろうとしていた、謙虚な古層の時代とは大違いである。そのために、在日コリア世界と日本人との間には、コミュニケーションを阻む、見えない「壁」ができあがり、双方が文化的ブロックの中に籠って、相手を軽蔑したり敵視しあう悲惨な状況が生まれた。力関係からいっても当然予測されるように、在日コリア世界は、日本人からひどい「差別」を受けたのである。

職業選択の自由の少ない在日コリア世界の中に溜まりに溜まったエネルギーは、芸能界や遊技産業や土建業や金融業のような、さまざまなすき間産業の通路にほとばしっていった。彼らには、過剰なバイタリティーを抱えて、がめつい生き方をする権利があった。壁を作ったのは日本人なのだから、資本の流動性に翻弄されて、その壁の向こうに押しやられてしまったコリアンたちには、壁に体当たりをくらわす権利があった。しかし、壁をつくったのは資本主義であったから、その資本主義が自己変容を起こせば、おのずと壁も解体していく。

経済が国を単位として動いている間は、民族を隔てる壁にも大きな効能があったけれども、グローバル化した資本主義は、もはやそういう壁を必要としない。韓国経済の近年の発展によって、ますます壁の存在はお互いの邪魔になるようになった。見えない壁を解体しよう、かくして「韓流ブーム」は起こるべくして起こった。


『週刊現代』2.4


2012年04月06日(金) 消費税導入は政権末期

大型間接税やら、福祉目的税やらと聞いてもなんだかさっぱりわからなかった。消費税と知らされ、やっとピンと来た。すなわち消費に税がかかる。何か買うたび、何パーセントか値段に税金が上乗せされるってんだから、さあ大変。一億国民が猛反発。損してたまるか?イデオロギー抜きの大衆団結デモが日本中で炸裂して、時の政権をぐらつかせた。

消費税問題とは、国民と政治権力の対決の歴史だった。1978年、第一次大平内閣で、一般消費税導入案が提起されるも、総選挙で惨敗、あえなく撤回。‘86年、第三次中曽根内閣で売り上げ税法が浮上したが、世論は猛反発。‘88年、ついに竹下内閣で消費税法が成立した。翌‘89年4月1日、施工され、税率3%の消費税が初めて我が国に導入された。が、それと引き換えるように竹下は首相の座を追われる。同年夏、宇野政権での参議院選挙は自民党の歴史的大惨敗。‘98年、5%に税率を引き上げた橋本内閣もまた同じく参院選で大敗した。今日まで続く衆参”ねじれ現象”はここから始まった。

自民党政権が倒れても事情は変わらない。人気抜群の細川トノサマ総理が突如、真夜中の会見で国民福祉税7%案をぶち上げたが、猛反発を食らい、一夜にして撤回したり。民主党政権が実現するも、菅直人首相がこれまた突如、マニュフェスト違反の消費税率引き上げを口にして、参院選で大惨敗。一年で首相の座を追われた。継いだ野田首相はこのままじゃ国家財政はパンクする、同情するならカネをくれ、ドジョウ総理は税をくれ!と泥臭く引き上げをゴリ押しし、政権に危険信号が灯っている。

消費税を口にすると、時の政権が倒れる。まるで呪われているかのようだ。何の呪い?竹下内閣で初の消費税法が公布されたのは‘88年12月30日のこと。その8日後、昭和が終わった。つまり”昭和の呪い”ではないか?敗戦後、国民が一丸となって豊かさを実現する。一億総中流社会。それが昭和イデオロギーだった。一転、財務官僚主導で貧しい国民にも税を強いる平成格差社会へ。昭和の夢は破れ、その呪いが噴出した。ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛ぶという。消費税論議は政権の黄昏に飛び交う。



『週刊現代』4.12


2012年04月05日(木) ”危険な”哲学(13)

”神は死んだ”現代哲学の先駆者ニーチェは20世紀の現実を、不気味なほど見事に予測していた。最高に危険な哲学。

ワーグナーが生まれたのはニーチェの父と同じ年である。その他の点でも、ワーグナーはニーチェの父と似ていた。ニーチェは無意識のうちにワーグナーに父親の代理を求めたのかもしれない。ニーチェにすれば、ワーグナーは初めて会った一流芸術家である。そして、理想を同じくする初めての人間だった。また、短い会合のあいだに、ワーグナーがショーペンハウアーを深く敬愛していることを知る。ワーグナーのほうも、俊才ニーチェの言葉に乗せられ愛想をふりまく。ニーチェに自分の優れた点を次々とみせつけた。ニーチェはこの偉大な作曲家に圧倒され、深い影響を受ける。華麗なオペラを生みだす華麗な才能に魅惑されたのである。

ニーチェはキリスト教にも否定的な眼差しを向け、主張する。キリスト教は文明を弱体化させている。キリスト教にディオニソス的要素をつきつけなければならない、と。つまり、ニーチェにいわせれば、人間の衝動は常に二つの面をもつのである。人間の善良な衝動にしたところで、暗黒の側面や退廃的な側面を持つ。「愛と憎しみ、崇拝と軽蔑の双方が存在しなければ、理想と呼ばれるものは生じない。肯定的側面から重要な衝動が生まれる場合もあれば、否定的な側面から重要な衝動が生まれる場合もある」ニーチェはさらに議論をおし進める。

キリスト教は否定的な側面から生まれた。確かに、キリスト教はローマ帝国で力をもった。しかし、それは抑圧者の宗教、奴隷の宗教としてである。キリスト教の生命に対する考えを見ればこのことがよくわかる。消極的な態度に終始している。だから、キリスト教は絶えず、人間の力強い積極的な本能を押し殺そうとした。この抑圧は意識的な場合(柔和や謙虚さも、この種の抑圧なのだ。それは、弱者のあがき、つまりルサンチマンの無意識的な表現なのだ)次に、ニーチェは同情心に牙をむく。キリスト教のうちにも、本当は「強者の倫理」の感情が潜んでいる。人間の感情には、本来「強者の倫理」に近いものがあるのだ。キリスト教はこれをねじ曲げている。このねじ曲げた欲望を満足させ、「本当の気持ち」を押し殺している。ニーチェは叫ぶ。神は死んだ!キリスト教の時代は終わった!

ニーチェの人生は孤独だった。人生の大部分を孤独に過ごしている。安い部屋を借り、安いレストランで食事をすまし、散歩を繰り返す。しかも、その間激しい頭痛の悩まされる。頭痛を治療し、できる限り痛みを和らげようとするのだが、嘔吐に苦しみ一睡もできない夜も、たびたびあった。激しい苦痛に襲われ、週のうち三日から四日も何もできないことすら、珍しいことではない。具合は悪化し、絶えず激しい苦痛にさいなまされるようになる。未公刊のノートの中で、ニーチェは次のように言っている。「キリスト教は終焉を迎えようとしている。キリスト教と結びついて離れない道徳。これが自分の首を絞め、自分たちの紙すら否定せざるをえなくした。キリスト教徒は『誠実さ』を高く掲げ広めてきたが、その『誠実さ』のために、自分への嫌悪感を呼び起こしてしまったのだ。世界と歴史に関するキリスト教的解釈への嫌悪感を……。『神は真理だ』という信仰は『すべて偽り』だという熱狂的な信念へと変わってしまった。

ニーチェはついに、臨床病理学的な意味で精神に異常をきたすようになる。そして二度と回復することはなかった。今日の医学水準でも、救い得ないほどひどい状態であったと思われる。狂気に陥った理由としては、過労、孤独、苦痛があげられよう。しかし、根本的な原因は梅毒である。ニーチェの梅毒は第三期に達していた。ここまで症状が進行すると、精神に異常をきたすようになる。病院にしばらく滞在していたが、やがて退院して母親のもとに送られる。母親が彼の面倒をみることになったからだ。ニーチェに、かっての毒気はみられない。一日のほとんどの時間を一種の恍惚状態で過ごす。このため、植物人間のような状態になってしまう。意識がややはっきりしている時には、過去の思い出がぼんやりと顔をのぞかせたようである。何らかの拍子に本を手に取ると、「僕も、本を書かなかったかなあ」とつぶやいたという。ニーチェの面倒を見ていた母親は、1897年に帰らぬ人となる。母の後を継いだのは、妹エリザベート・フェルスター・ニーチェ。彼女が、ニーチェの看護をする最後の人間となる。

キリスト教は一見したところでは、まったく違うことを説いているようにみえる。謙虚さ、隣人愛、兄弟愛、憐れみ……。キリストの掲げる理想は「権力への意思」に真っ向から対立するようにみえる。けれども、実際は、これらの理想は「権力への意思」を少しばかりねじ曲げたものにすぎない。キリスト教はローマ時代の奴隷の宗教に他ならず、奴隷根性から解き放たれることはなかった。キリスト教にみられるのは、直接的な「権力への意思」、つまり権力者の「権力の意思」ではない。奴隷の「権力への意思」だ。しかし、「権力への意思」があることには、変わりがない。

「権力への意思」。この鋭く危険な概念に対する最後のコメントしては、やはりニーチェ自身の言葉を引用するしかない。「権力へのこの渇望は時の移り変わりに応じて、その姿を変えてきた。だが、源は何もかわっていない。今でも、熱く燃える火山のようなものだ……。かって『神のために』したことを、いま人間たちは『お金のために』している。……いまの時代にあっては、お金こそが最高の権力感を与えてくれるのだ」

ニーチェの超人の典型を見てみよう。「ツァラトゥストラ」である。「ツァラトゥストラ」とはどのような男か?途方もない熱意と真剣さにみち溢れていると同時に、退屈であきあきするような男だ。その行動には、精神異常者の危険な兆候すら現れている。もちろん「ツァラトゥストラ」は一つの寓話である。しかし、一体何の寓話だろうか。それなら、キリストに関する寓話と比べることにしよう。

「キリストが山上で垂訓でで説いた寓話は、一見したところでは、とても単純である。幼稚にすらみえる。けれとも、よく考えてみると、単純でも幼稚でもない。深いものがある。「ツァラトゥストラ」の寓話のほうも、単純で幼稚である。よく考えてみても、そうである。だが、そこに込められたメッセージは深い。「キリスト教的価値観を捨てろ!」というのだ。神は死んだ、しかし、神のいない世界では、一人ひとりの人間が自分の行動に対して、絶対的な責任を負わなければならない。際限のない自由の享受するためには、自分自身で自分の価値をつくりだしていかなければならない。神の意に沿った行動もない、罪も報いもないのだ。


『90分でわかるニーチェ』


2012年04月03日(火) 不気味な異変

これは何の予兆なのか。琵琶湖・富士山・桜島に不気味な異変が起きている。

大規模な地殻変動が起こっているのは、東北や首都圏だけではない。いま、日本各地で、誰も見たことのなかった奇妙な系現象が次々と怒っている。

548回、896回、996回―。これらは‘09~‘11年の鹿児島県桜島の年間噴火回数である。3年連続で観測史上最多の記録を更新している。まさに異常事態の櫻島だが、今年明けからはさらに加速し、1月26日夕方現在で162回もの小規模な噴火を起こしている。単純計算では年間記録が2200回を超えるペースなのだ。

桜島で何が起こっているのか。現地で観測を続けている京大防災研究所火山活動研究センター准教授の井口氏はこう解説する。「蓄積したマグマ量が、大規模な噴火を起こした大正噴火時の約9割に達していると推測されます。その時と同等の噴火が起こることを考える時期なのです」

1914年に起きた大正噴火は、20世紀の日本最大級の噴火だ。噴煙は高度1万メートルに達し、火山灰は関東・東北はもちろん、はるかカムチャッカまで飛散した。30億トンの溶岩が噴出し、鹿児島と桜島を地続きに変えた。この時点で死者は166人にのぼったが、鹿児島市内ではさらに地震が頻発し、M7級の大地震も起こり、171人が死傷している。今年3月、NHKで放送された5万年前の桜島の大噴火では、火砕流が九州一帯に流れだし、桜島には約30㍍もの厚さで火砕流の跡が現在も残っている場所がある。火山灰は日本列島に降りそそぎ、東北地方にも5万年前の地層に約5~6センチの桜島の火山灰の層が残っている。

井口氏によると、1914年の規模の噴火が起こる直前になれば、やはり体に感じる地震が群発するという。「火山の活動によって起こる地震は普通は弱くて体に感じることはない。これが体感できる震度3~4になれば危ないのです」不気味な活動を見せる琵琶湖、富士山、桜島。井口氏は「日本全体が動き出した」という。


『週刊現代』2.11


2012年04月01日(日) 神風特別攻撃隊(12)

結果からみるならば、少なくともわが海軍は、最初から捨て身的な覚悟であった。戦後、無謀な戦争を開始したとして、幾多の批難が主として当時の指導者に向けられた。しかしわれわれ一意真剣に戦ったものは、指導者といえどもわれらと等しく、誠意を持って祖国に幸いあれと最善と信ずるところ遂行したものと同情し、こうなったのもまた歴史の必然であろうと受け取っている。すでに歴史の必然と見てとった以上、将来かかる戦争の再び起こらないことを心から欲するものは、すべからく他人のことを善意を持ってみることから始めなければならない。私はこのことこそ、今度の戦争の厳しさが教えている大事なことの一つではないかと思っている。

同じようなことは特別攻撃隊のことについてもいえる。戦争において、いわゆる捨て身の戦法は決死体当たり攻撃の例は、古今東西にわたって枚挙にいとまがない程である。その動機や当事者の心境にはもちろん相違はあろうが、不惜身命、勇断決行した点では、国境を超えておのずから相通じるものがあるように思われる。とくにわが国にあっては、この「捨身」が昔から強調されていたから、その戦例の多いことは他に類を見ないほどである。

しかるに神風特別攻撃隊が、文字通り特別に云々されるのは、どういうわけであろうか?それは次のような特殊性を挙げることができよう。それは必然の体当たり攻撃を組織的、計画的、集団的に続行した、ということである。事実この点に関しては、確かに史上類例がなかったといえよう。そして、これは主として、必死の場を与え(命じ)た者の側に問題があるとされ、戦後多くの批判もこれに対して加えられている。当然のことである。しかしながら、この作戦にその生命をささげていった青年たちが、なにか妄信的であり、狂信的でさえあったというような一部の批難は、十分に事の真相を究めたうえでの発言とは思われない。

今まで見てきた通り、彼らは特別に狂信的な訓練を受けてきたのではなかった。開戦以来、青年士官の奮戦はめざましく、その大部は相次いで戦死し、特攻作戦機において、海軍兵学校出身の青年飛行士官で生き残っていた者は、真に指をもって数えうるほどであった。したがって特攻隊員は、その数において、一般の学校から祖国の危急に際して戦前に立ったものが、過半数を占めるに至った。彼らは教養もあり、十分な知性も理性もあった。特別攻撃隊に指定された夜静かにピアノを弾いていた久納中尉のように、また自分の生命が惜しかったためではなく、自分の技量の未熟を考えて三日三晩にわたって志願を躊躇した植村少尉のように、あえて未曾有の非常手段によって、危機に瀕した祖国を救おうとしたのであった。

緊迫した戦場にあって、攻撃の第一線に立つという一種の圧迫のようなものはあったかもしれないが、彼らは決して強制されたのではなかったのである。沖縄の戦いで高等工業出身の一中尉は、その人材を惜しんだ上官から特攻志願を再考するように言われたにもかかわらず、その志願の意志をついにひるがえさなかった。

彼ら特攻隊員の多くは、もの静かな若者であった。数日中に死と直面することを運命づけられた時においても、その冷静さを決して失わなかった。彼らの残していった遺書のなんと冷静なことか。沖縄戦で桜花隊として出撃していった土肥中尉は、その出撃の最後の瞬間まで、宿舎の整備に心を砕いていた。その淡々たる心境は、古来その名をうたわれている碩学、高僧のそれと比べて、いささかも劣るものではないといってよいだろう。


8月16日未明

8月15日の晩は、大西中将は若手部員を次官宿舎に招いて、話が深更にまで及んだ。大西中将が宿舎で自決したのは、その翌16日の夜明けであった。すぐ副官がかけつけると、まだ意識があった。日本刀で腹一文字にかき切っていたが、とどめがうまくいかなかったらしい。中将は「治るようには、してくれるな」と言っただけであったという。そしてその晩の午後6時に絶命したのである。かくて特別攻撃隊の父、大西滝次郎中将は戦争の終結した日の夜、みずからの刃に伏した。かれの指揮下で特攻隊となって祖国のために散華した多くの部下将兵の英霊と、その遺族に謝するために……。



『神風特別攻撃隊の記録』


加藤  |MAIL