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2003年09月30日(火)
『サハラに舞う羽』シェカール・カブ−ル監督

『サハラに舞う羽』シェカール・カブ−ル監督ヒース・レジャー主演
65点。
久しぶりの歴史大河物語なので、
悪い点をつけたくないのだが、
主人公はなぜ戦争を前に除隊したのか、
主人公はサハラ砂漠でどう変わったのか、
そういう肝心要のところがどうもすっきりしない。
     
砂漠の戦闘は黒澤時代劇より(一瞬)迫力あったので
点数はちょっと甘めです。



2003年09月28日(日)
「私のぼく東綺譚」安岡章太郎

「私のぼく東綺譚」新潮文庫 安岡章太郎
荷風の「ぼく東綺譚」は名作の誉れが高い。評論家加藤周一はいう。「(荷風は)明治国家のみならずその社会と明白な距離を置き、組こまれを拒否して批判的な立場を貫き、しかし幸徳秋水や河上肇とは違って、その社会の変革を志す変わりに彼ら自身の自己実現を目的とし、信念と原則にしたがって生きることに自覚的であった。(略)(「綺譚」は)荷風の小説の頂点であり、戦時下の日本に見るべき文学作品として「細雪」と双璧をなすだろう」(「日本文学史序説」)
そういう文章は固いと思う御仁には映画を紹介する。新藤兼人監督「ぼく東綺譚」(1992)である。当時の色街の「雰囲気」を見事に再現し、お雪役の墨田ユキがまた素晴らしかった。彼女はこの1作で女優賞を獲り、その後お雪のように見事に消えていった。原作とは違うラストが評価は分かれるが私は好きだ。
味わい深くかつ柔らかい文章となればこの著を推薦したい。本文に則して、自らの感慨と共に当時の雰囲気を紹介する。簡潔にして的をえた16章。1冊をもってこの本よりも薄い「ぼく東綺譚」を語り尽くしている。新聞連載当時の木村荘八の挿絵、荷風自ら玉の井を写したスナップ写真、その他貴重な資料が豊富に入っていて、本文とは関係ないところで私は感慨に耽った。先ずは薄い原本を読もう。そのあとに本作を読むことで「大人の文学の名作」をしっかり堪能できると思う。



2003年09月27日(土)
「忘れないよ!ヴェトナム」田口ランディ

「忘れないよ!ヴェトナム」幻冬舎文庫 田口ランディ著
この本は田口ランディの処女作だそうだ。一般的にいって処女作にはその作家のほとんど全てが詰まっているといわれている。そういう意味ではこのベトナム紀行文としては、はなはな不完全なこの作品も意味があるのかもしれない。この本の中に彼女の作家としての可能性の全てが詰まっているような気がするからだ。
私自身としては1ヶ月前に行ったベトナムを懐かしむ気持ちでこの本を手にとったのだ。1ヶ月の旅の間彼女は初めてのベトナムであるにもかかわらず、とうとうガイドを雇うことも無く、自力でベトナムに住むことになる。だからいったのはほとんどホーチミンの街とメコン川周辺に限られている。紀行文としては不完全といった所以である。彼女は精力的な『取材』というものをほとんどしていない。一日中ホテルの中でノンベンダらりと外を眺めているだけだったりする。テーマも決めていない。途中「目標」として掲げた「10m級のマングローブを見る」ということもついに実現せずに終っている。ただ、彼女のベトナム体験は私の体験することの無かった可能性としての旅に満ちていた。
この本は紀行文とはいえない。むしろ小説だと思う。もちろんほとんどが彼女の体験した事実だとは思うが、事実はこの作品の中では重要ではない。いろんな人に逢って、だんだんと「旅する」モードに入り込んでいって、「自分は何者なのか」に気がついていく過程、それがこの作品の真骨頂だ。ああ、また旅をしたくなった。



2003年09月26日(金)
「『超』整理法2」 野口悠紀雄

「『超』整理法2」文春文庫 野口悠紀雄
今回の文庫版は「1」と違い、大きな改変もない。よってすでに新書版を持っている人は特別買わなくていいだろうと思う。私はただ、再読の一つのきっかけとして本書を買った。最近上梓されたばかりの本なので、以前読んだにもかかわらず内容的には使える部分も多く、刺激にはなった。いや、もう一つ特徴がある。2000年に発行された「『捨てる!』技術」(辰巳渚著)では、「(超整理法は)書類を神聖化している」と本書を批判しているが、それに対し3年の沈黙を破り野口氏が全面的に反論していることである。

さて、今回の『終章その後の展開』は丸ごと「『捨てる!』技術」に対する反論である。辰巳氏の無責任な批判によほど腹を立てたのだろう、その論点は鋭く容赦がない。私は『捨てる!』は読んではいないが、野口氏の終章を読む限りでは、どう考えても野口氏のほうに論理的説得力があるように思う。今回はこの反論がこの本の一大特長になっている。



2003年09月25日(木)
「予知夢」 東野圭吾

「予知夢」文春文庫 東野圭吾
天才物理学者・湯川学が、オカルトっぽい事件を科学の視点で解決する。いくら不思議な事件が出てきたところで、それは科学的な裏づけがあるのだ。そういう風に物語の構成が決まっているので、いくら推理に疎い私でもこの連作だけは半分以上トリックを当てることが出来た。それならつまらない作品かというとそうではなく、最後の数行で「うーむ」と唸らせること毎回。基本的に東野の「眼差し」は優しい。それが私にはとても心地よかった。
例えば「絞殺(しめ)る」では、絞殺のトリックとは別に、ある女性のアリバイ工作が重要なファクターになる。私は女性がアリバイ工作をしているのだとは早くから気がついていたが、その「意図」についてはまったく気がつかなかった。最後の数行で「本当はいけないことなのだが」「優しい気持ち」になったのは多分私だけではないだろうと思う。



2003年09月24日(水)
「偶然にも最悪な少年」グ・スーヨン監督

「偶然にも最悪な少年」60点
「いまどきの」無茶をする
少年の気持ちを切り取る、
少女の気持ちを切り取る、
もちろんこれが全てじゃないけど

……というようなことを伝えたかったのかしら。
よく分かんない映画だった。
どの出演者にも共感を覚えず、
どの出演者をも嫌いになれず、
見るものを選ぶ映画なのだろうか。

市原隼人と中島美嘉を見るだけで幸せという輩には
二人は充分露出多し。
ただ、「最悪」という言葉は
「サイテー」よりも救いがあるのでは、と思った。



2003年09月23日(火)
「トゥームレイダー2」ヤン・デ・ボン監督

『トゥーム・レイダー2』70点
アンジェリーナは確かにはまり役なのだが、
もうこのシリーズもいいかな、と思ってしまった。
1作目のクロフト邸の攻防戦のような
アイデアがあまり感じられなかった。



2003年09月22日(月)
「閉ざされた森」ジョン・マクティアナン監督

「閉ざされた森」45点
これは「藪の中」の構成というのではない筈。
「藪の中」というのは真実が最終的に明らかにならないところに
面白みがある。
これはむしろどんでん返しの連続という、
伝統的なサスペンスの手法に依ったものでしょう。
でも小説で発表されれば、
書店の棚の隅に追いやられて
やがて消えていく運命の本だとおもう。
あまりにもご都合主義。
    
とはいっても、
全編ずっと雨が降っていて、
それが見事な催眠効果をもっていて、
私一時期意識を失っていたので、
あまりえらそうなことは言えない(^_^;)

以下掲示板にも書かなかったこと。

ネタバレ警告

ネタバレ警告





ネタバレ警告

(もういいかな)

麻薬組織の壊滅をねらうのなら、
あんな回りくどいことをしなくても、
もっと色んなてがあった筈。

トラボルタが呼ばれなかったらこの作品は存在しなかった。
偶然にたより過ぎ。

鑑札を換えたことにどうして軍がすぐ気がつかないのか。



2003年09月21日(日)
「天然まんが家」本宮ひろ志

「天然まんが家」集英社文庫 本宮ひろ志
本宮ひろ志は私にとっては、特別なまんが家である。彼が名作を描いたからではない。彼の作品の中には一本の名作もない。しかし忘れられない作品があるのだ。「男一匹ガキ大将」はそれである。誰もが初めて買ったレコードは擦り切れるまで聴いて忘れることが出来ないように、初めて買ったマンガの単行本なのだ。1〜3巻まで買い、まさに擦り切れ、ぼろぼろになって読めなくなるまで何度も読んだ。
一人の「不良」がカンと度胸と行動力で成長していき、やがて全国の不良を一つにまとめあげるというストーリーは当時の少年にとってはものすごい魅力的であった。今回この本を読んで、全国制覇に至る過程はそのまま本宮自身の私生活とリンクしていたのだと分かった。一人の「素人」が、最初は一人でやがて数人の「素人」スタッフと、やがては「少年ジャンプ」を一番人気まんが週刊誌までに育て上げる過程。文字とおり反吐をはき、のたうちながら描き、それが漫画の迫力に繋がっていた。最後の決戦のときは本当はいったん恋人と駈け落ちして投げ出したのだという裏話。面白かった。陰の「ガキ大将」を読むみたいだった。漫画の完成度は低いが忘れることの出来ない作品であった。
その後の彼の作品は面白いものもあるが、ネームまでスタッフに任せるような仕事なので認めるわけにはいかない。特に女の子の描写を妻に描かせているのは断じて許せない。「私のマンガの中で、妻の描いてくれる女性の絵がなければ、私のマンガ家としての寿命は、絶対といっていい確信として『男一匹ガキ大将』一本で終っていただろう」。女の子の顔がかって「りぼん」の人気作家だったもりたじゅんの作風に似ているなあ、とは思っていたのだが、全面的に描かせているとは、それで「本宮ひろ志」のペンネームで雑誌に載せているとは。こんなことをどうどうと書く本宮の神経が私にはわからない。



2003年09月20日(土)
『記憶よ、語れ』海老坂武 

『記憶よ、語れ』筑摩書房  海老坂武 
海老坂武は私の気になる評論家の一人である。私の好きな加藤周一を唯一評論しているのがこの人であるし(「戦後思想の模索」)、独身主義を説得力ある本にまとめてあるのもこの人だし(「新シングルライフ」)、サルトルの重要な翻訳者でもあるからだ。
海老坂武の自伝的な本だと聞いて買ったのだが、一読、わたしの期待はずれだった。加藤周一『羊の歌』のように自分史を語りながら時代を語るのではなく、巷にあまたある自伝のように、自分の魂の成長を記録するのでもない。海老坂は自分を語りながら戦前戦後の「風俗」を語る。しかもその語り口は卑しい。途中何度も出てくる一段下げた挿入文がある。そこで海老坂は自分の恋人、生徒、編集者、弟に臆面もなく「私信」を書いている。まさに我々は高い金を払い、海老坂の長い長い手紙を読まされている気分に陥る。失望した。



2003年09月19日(金)
「トォーク・トゥ・ハー」


『トォーク・トゥ・ハー』70点
こういう男と女の関係もありだ、と
どれくらいの女の人と男が思うのだろう。
アリシアとデニグマの関係は単純である。
神秘的なのはむしろ、ミューズとマルコの関係である。
     
ありふれていると見るのか、特殊な関係と見るのか、
純粋な愛と見るのか、汚らしいと見るのか、
     
男は女が悲しみで崩れるとき前の障害物をとり除いてあげられるだろうか。
男は女が愛のうたを歌うときその体を支えてあげられるだろうか。

疑問符で終るそういう作品だった。
そういう意味ではあまりにもあざとい作品だ。   
しかし形としては完成している。



2003年09月17日(水)
『ゲロッパ』井筒監督

さすが「シネマクレール」、客筋がいい。  
9割型入っていたのも驚きだったが、
みんな楽しもうと心に決めていて、楽しい時間が持てた。
西田敏行と岸部一徳の芸達者ぶりに充分笑わせてもろた。
岸部は「座頭市」でも少し役柄をずらしてヤクザをやったが、
つくづくいい役者やと思た。
太田琴音嬢の存在感は末おそろしい。
後はハートウオーミングを狙っているのか、
ナンセンスを狙っているのか、どっちつかずの構成が難。

以下ネタバレ
     


ハートウオーミングを狙っているのなら、
常盤貴子があまりにもあっさり心変わりをするのが異様だ。
内閣調査室が何を狙って動いていたのか、前半はぜんぜん分からなかった。
(あれに一億出すのはちょっとひどいぞ)
ナンセンスなら、もう少しぶっトンで欲しかった。
本来のクライマックスの西田の「ゲロッパ」は
「釣りバカ日誌」に負けているぞ。



2003年09月16日(火)
『春の惑い』田壮壮監督

『春の惑い』田壮壮監督(『古城の春』リメイク)
夫は病を得て癇癪持ちになった。妻はそんな夫の性格の変わりようや病のこともあり寝室を別にする。それがまた夫には悲しくてたまらない。やがてそこに夫の親友であり、妻の昔の恋人であった男がやってきて、旧家である夫の家にしばらく泊まることになった。1946年、春。上海郊外の蘇州。まだ至るところが日本軍の爆撃で瓦礫と化している。古城からの眺めは美しい。河がゆったりと流れ、田んぼが広がっている。そして美しい妻の愛を勝ち取れない若旦那、買い物とハンカチ刺繍の退屈な日々を送っている妻と、若く魅力的な医者であり、親友であり恋人(妻との関係を夫は知らない)男との三つ巴の心理戦が闘われる。
撮影は昔ながらの南中国の典型的な家屋から離れない。家の造りは南方らしく風が通るように工夫されており美しい。現代から見て、この三つ巴の心理戦はあまりにも倫理観や、世間体を気にしすぎており、正直(私には)物足りない。しかし、恋のためらい、嫉妬、そして人生を掛けて愛するということはどういうことかを、時代と場所を制限して、だからこそ純粋にうたいあげており、名作の気品を持つ作品であった。
最初、まるっきり夫の目を見ないで会話する妻が最後になると真正面ではないが、盗み見るように夫の目を見るようになった。その変化がこの作品の全てだろう。




2003年09月15日(月)
『さよなら、クロ』

あのつぶらな瞳で見つめられたら、犬嫌いの私でも(本当ですよ)
誰でもクロを好きになるだろうと思った。
ドラマ部分はとってつけたような気もするが、
似たり寄ったりのことは10年間の中であったのかもしれ無い。
金井勇太、三輪明日美、近藤公園、次代を担う若手が
大勢出ていて、手堅い演技をしているのもうれしい。
主役脇役も手堅く、こういうきっちりした映画に残してもらえるなんて、
クロはやはり「「世界一幸せな犬」なのだろう。
特に新井浩文、今、乗りに乗っている若手の一人だろう。
あのごつい体とまるっこい顔と神経細そうな表情、
いろんな役をやらせてみたいような役者だ。
     



2003年09月14日(日)
『ロボコン』古厠智之監督

最初実物高専名が出てきて、
(『徳山高専』『津山高専』凄い)
実在高校生がぞろぞろ出てきて、
主役級の役者さえも学芸会並みの演技をするので、
これりゃ外したかな、と思ったのだけど、
全国大会になって次々と試合をこなしていくうちに、
意外性とドラマと感動がやってきた。
何がいいといって素材がいい。
あと編集も良かった。
要らないところをばっさりと切っていた。
長澤まさみも、伊藤淳史もこのままではだめだ。
ひと皮むけないといけない。



2003年09月13日(土)
『きっと君は泣く』山本文緒

『きっと君は泣く』角川文庫  山本文緒
「いいかい、椿。美人なんていうのは、雰囲気なんだよ。ハッタリなんだよ。いくら形が整ってたって貧乏臭かったり卑しかったりしたら何にもならないんだ。」椿はずっと年老いてもりんとした美しさを保っている祖母が自慢だったし理想だった。その祖母を手本として、椿は自分の容姿を「才能」だと思い活用している。自分の傲慢さも気にならない。祖母がそうだからだ。しかしその自慢の祖母がボケていく。祖母は本当に「美の理想」なのだろうか。それはこの作品の隠れたテーマだ。

読んでいくうちに椿をどうしようもない女だ、と確かに思ったりする。昔の同級生が「あんたは3歩歩くと、誰かが親切にしてくれたことなんか忘れちゃうんじゃない?鶏よりひどいわよね。目先のことしか見えないの。先のことを想像する力が無いのよ。」と悪態をつくのももっともだと思ったりする。ただしこの作品は椿の目線で描かれているので、椿に悪気が合ったわけではないことは分かるという仕掛けだ。そんな椿も最終場面にまで来ると「可愛いところもあるじゃないか」などと思ったりする。女性からは「甘い」といわれるかも。



2003年09月12日(金)
「女子中学生の小さな大発見」清邦彦編著

この日記は、日記というよりは、私の読書ノート、映画ノート、旅ノートの統合版のようなものです。この文章はamazon.comへのレビューに投稿したものですが、第1段落目は文字数規定に引っかかると思い自主的に削除しました。

「女子中学生の小さな大発見」清邦彦編著 新潮文庫
私の夏休みの宿題には理科のレポート提出というのは無かったと思う。その代わり、「発明」を作るというのがあった。先生はいう。「何も大発明を作る必要は無いのよ。ちょっとした工夫があればいいんだから」そんなこといったってそう簡単に無から有が生じるはずもない。結局夏休み終了間際に、どこかの本から盗んできたアイデアをそのまま借用し、一日か二日掛りでまったく役に立たないガラクタを作る羽目に陥るのだ。今になって思う。普段から困ったことをなんとかしようという気持ちさえあれば、「深づめをしないための自分専用の爪切り器」や「お母さんの白髪最速発見器」など、「発明」することが出来ただろうにと。

科学の基本は「なぜそうなるのだろう」というなぜを持つことから始まる。けど、それは「訓練」無しに突然出てくることではない。清先生は普段から女子中学生に「大発見」の機会を与えていた。「0さんは爪の伸びる速さを計りました。一日に0.3mm伸びます。」こんな「発見」でも全校生徒に配られるニュースにのるんだということが分かると、生徒は次々と発見レポートを先生に知らせるだろう。
それが見事な「訓練」になっているのだ。

もう夏休みは終っているし、中学生の宿題のヒントになりそうな「発見」は紹介するのは止めにし、文学的な香り漂う「発見」を紹介してみよう。「0さんは万歩計をつけて寝てみました。朝までに12歩、歩いていました。」 「Hさんがアリを踏んでしまったら、たくさんのアリが近寄ってきて怪我したアリを巣につれて帰ろうとしていたそうです。」「Kさんはお正月の酔っ払いの観察をしました。「帰る」といって、30分飲んでいて、また「そろそろ帰る」といって帰らず、一時間たって3回目の「帰る」で帰りました。」               



2003年09月11日(木)
『天使の牙』大沢在昌

「天使の牙(上)」大沢在昌  角川文庫
映画を観ました。原作とは違いいろんな点で変更されている部分がありました。スクリーンでしか映えないストーリーというのは確かに在るのでこの変更点は仕方ないでしょう。
さて、原作のほうです。上巻では、心は女刑事・明日香、体は麻薬元締め君国の愛人・はつみの誕生に至る経過を描く。日本の地方都市を舞台にして(映画とは違いなんでもない地方都市が舞台になっているところが好きだ)、麻薬シンジケート、警察庁、一匹狼の刑事、明日香、この四つどもえの追跡劇が描かれる。滑稽むとうさと細部のリアルさが大沢の真骨頂。読みだすと止まらない。

天使の牙(下) 大沢在昌  角川文庫
明日香の上司芦田がかっこいい。腐りきった警察内部の根元を絶つために、涙を飲んで自分の愛する部下を危険にさらし、自ら凶弾に倒れる。組織内部での孤独な闘いは「かっこいい」としかいいようがない。ヒーローとヒロインがかっこいいのは当たり前。

映画では出てこないキャラクター、金村のエピソードも感動的である。話の展開はこうなるのだろうと大体予想はつくのだが、先を読まずにはいられなかった。それは対極にある神のキャラクターが生きていたからだろう。

読みだすと止まらない。四日間のうちに1〜2冊読み終えようと思っていたのに、4冊になってしまったのはこの作品のせいである。



2003年09月10日(水)
フジの番組「晴れたらいいね」での鬼伝説の扱いに物申す

この日記は日記というよりは、私の読書ノート、映画ノート、旅ノートの統合版のようなものです。各掲示板への書き込みもここに載せます。

今回は某考古学掲示板への書きこみを少し編集して載せます。



岡山県総社市の北の山の上に、
7世紀の朝鮮式山城といわれている「鬼の城」があります。
鬼の城から、吉備の国が一望に眺めることが出来ます。

(西門を再現中。建物のデザインの質問に対して)

うーむ最近行っていないんで、どうなっているか実際のところはよくわからないんです。何を資料にしたか、また勉強しておきます。鬼の城は今、半年行かないとまるっきり雰囲気が変わるくらい変化しています。ある程度完成してから行きたいなあ、と思っています。

そういえば、この前フジの番組「晴れたらいいね」で、『吉備の国では鬼は悪者ではなく、地元の人たちに尊敬されている渡来形の豪族だった』という内容の番組をしていました。地元人間も知らない、血吸い川上流の砂鉄採集スポットも映してくれて、面白かったのですが、数ある鬼(地元では温羅)伝説のなかから楯築遺跡を取り上げているのは感心しなかった。楯築遺跡にある『ストーンサークル的な』石の楯は、鬼の城からの矢を防ぐためのものだったという伝説です。けれども楯築の石は(おそらく)三世紀に作られたもので、(おそらく)7世紀の話である桃太郎の鬼退治とはまるっきり時代が違うのです。

いくら伝説の紹介とはいえ、あれでは楯築遺跡の権威が下がる、と、弥生時代の超重要遺跡である楯築遺跡ファンの私としては一言言いたいような内容でした。

それでは。



2003年09月09日(火)
『座頭市』北野武監督

この日記は日記というよりは、私の読書ノート、映画ノート、旅ノートの統合版のようなものです。

『座頭市』北野武監督 ビートたけし主演
75点
基本を『面白いか』『面白くないか』ということに置くと
見事なB級映画であった、と言うことに気がついた。
『悪いやつはみんな死んじゃったねえ』と
まあ実はそういう物語なのである。

でも一番悪いのは、「市」なのだが、
そのことに気がついていても誰も言わない。
いつ居合で殺されるかわからないから。

傑作ではない。でも楽しめる作品だった。
    

以上が某掲示板に書いた文章であるが、
少し付け足します。

ネタバレ注意


この作品に、深遠な哲学を求めてはいけない。
市に「正義」を求めてはいけない。
彼が殺すのはやくざばかりではあるが、
市が「向かうところ敵なし」だとしても、
あの皆殺しはいけない。
『匂いでいい人間か悪い人間かわかる』そうだが、
あそこで殺されるのは明らかになんもわかっていないチンピラたちだ。

北野武は「不良」に対するなんとも言えない「優しい眼差し」が特長の監督だ。
もう一方で「不良」を突発的に殺す。
その線引きは非常に微妙だ。
今回の作品の線引きは、やくざなら所かまわず殺せ、だ。
時代劇だから、たかが外れたのだ。
それが時代劇なのだから、私はB級映画だといったのだが、
たけしらしくない、とも言える。

『楽しめる』作品であるが、私は嫌いな作品である。
盲目の市の世界をミュージカル的世界で味付けしたのはいいアイディアだ。



2003年09月08日(月)
「虹の谷の5月」

この日記は日記というよりは、私の読書ノート、映画ノート、旅ノートの統合版のようなものです。amazon.comへのレビュー、ニフティの掲示板に書いたもの、各MLに投稿したものを載せます。過去の投稿はあまりにも膨大なので、原則的には載せません。私のリアルタイムの精神の遍歴(とそんな大袈裟でもないか^_^;)と思ってください。

「虹の谷の五月」(上)集英社文庫  船戸与一
フィリピン・セブ島ガルソボンガ地区に祖父といっしょに住んでいる日本人との混血児13歳のトシオの98年から2000年までの物語。現代フィリピン辺境では、人々は拝金主義にまみれている。新人民軍というゲリラでさえ、革命税といいながら、貧乏な家からも強制的に金を徴収する。たった244人の地区なのに地区長選挙に買収が横行する。街の警察所長も金で動く。その中で元抗日人民軍だった祖父の薫陶よろしく、トシオは純粋な少年に育っていた。

虹の谷はまんまるい虹が出る谷だという。しかしそれは乾季の5月に出ない。この物語はしかし全て5月に起こったことしか扱っていない。よって上巻を読む限りではその虹は現れない。しかし私にはその虹がこのフィリピンの一地区の失われた「誇り」の様に思える。まるで知らない地域ではあるのだが、日本とは生活習慣も政治も違うのだが、だからこそ、少年の不正を許さない気持ち、エイズになった知りあいの女性へ村の男たちがしたことへの憤りがびしびしと伝わってくる。少年は誇り持った青年になるのか、ガルソボンガ地区は生まれ変わることが出来るのか、まんまるい虹を見ることは出来るのか、下巻に期待したい。

『虹の谷の五月』(下)船戸与一  集英社文庫
拝金主義にまみれているのは、何もフィリピン・セブ島だけではない。この間私が実際に旅してきたアジアの都市はみんなそうだ。いや、形こそ違え、日本がそうでないと誰が言えるだろう。この小説では拝金主義がむき出しの形で現れ、私たちの住む国ではそれが洗練された形で現れるだけなのかもしれない。『誇りを持て』たった15歳のジャンピーノ(トシオ・マナハン)は私たちにそう言っている。
これは過去の物語ではない。現代『世界』の物語だ。凄絶な殺し合いが続く下巻ではあったが、読後感は「希望」に満ち、なぜかさわやかだ。