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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2004年12月31日(金)
学ランとバット


 秋、見晴らしのいいグラウンドの外野後方、校舎とグラウンドの段差にあるアスファルトの上に腰掛けて試合を見ていた。不規則に立てられた三角コーナーが外野フェンス代わり。教室で使い古された椅子に一人の部員が腰掛けて、試合を見守っていた。ボール拾いとスコア係を兼ねているようだ。椅子に横には、マスコットバットとダンベルが置いてあった。試合展開が動かないときは、素振りをしている姿があった。

 そこへ制服姿の3年生2人がふらりとやってきた。小柄だけど肩幅が広く、運動やってたんだなあと思わせるには充分だった。当日は日曜日で学校は休みだったが、補習か模擬テストかで制服姿の生徒をよく見かけた。2人の3年生は、かばんを側にあった朝礼台の上にポンと投げた。学校指定のカバンのようだ。随分、使い込まれている。

 2人は椅子に座っていた後輩にちょっかいを出したり、試合を見て「あいつ、下手くそやな」「あれは、グラブの持ち方が悪いねん。意識したらすぐ直るわ」など球場によくいる野球好きのおじさんみたいなことを言って、しばらくの間そこにいた。

 手をもてあましたのか、椅子の近くにあったマスコットバットを持ち、おもむろに素振りを始めた。「うわ、オレ、全然振れてへんわ」なんて言いながら。すると、背後から「まるで振れてない」と小さな笑いを含んだ声が聞こえた。後ろの校舎の窓からチームメートがのぞいてた。1人は、「やっぱり?オレ、大学で(野球が)出来るんやろか」と笑いながらもちょっと不安げな表情を見せた。すると、同じようにバットを振っていたもう1人が言った。「オレは、(野球を)やらへん。遊びたいもん」。その言葉に大学で野球をしようと思っていた子も、「そっか。そうやんな。オレもどうしよう…」とバットを振る手を止めた。

 それから、窓越しに模擬試験の話をして、バットを朝礼台の上に置き、2人は帰っていった。朝礼台にバットが触れるまで、手を添えて、丁寧に丁寧に扱っていたのがとても印象に残った。



☆2004年の日記は、これで終わりです。1年間おつきあいありがとうございました。

☆新しいサイトを始めました。どうぞ、ご覧ください。http://arukoaruko.hp.infoseek.co.jp/
ちなみに、まだサイト名を決めていません…。いい名前があったら、教えてくださいね。




2004年12月30日(木)
カラオケで初“西浦達雄”


 今日は、ともきちと今年最後の忘年会。ともきちの地元で、私もわりと行きつけの居酒屋さんへ。久しぶりにアルコールで過剰なテンションを呼び込んでしまった。2人とも「来年は(もちろん自分にとって)いい年になる」と豪語してやまない。君ら、一体何の努力をしたというのだ。でも、ここ2,3年、そんな素敵な言葉を自分たちの口から言ったことはない。なんだろ、このテンションは。

 ともきっちゃん、今年もお世話になりました(ペコリ)。気遣いも劣等感もなく、接することは出来る数少ない人です。そのお礼も今日言いました。ビールのおかげです。

 よろしいテンションでカラオケ。年々カラオケに行く頻度が少なくなっているが、その間にカラオケボックスも随分変わった。ドリンクがセルフサービスになってたし、コンビニの店員さんが発注のときに使う平べったい機械の小型版みたいなので、曲検索や転送ができる。素敵だった。歌手名検索で、「西浦達雄」と入れてみた。ないとわかっていても、カラオケボックスに行くたびに探す。こないだ携帯の着メロを見つけたので、「もしや…」と思ったのだ。すると、「西浦達雄1件“そうだろう…”」。熱い、熱い。ピポパとスイッチを押して、さっそく熱唱。ゆっくりすぎて、返ってタイミングが取りづらかった。でも、カラオケで歌えるだけでありがたいと思わないと。この勢いで、「瞬間」とか色々入らないかなあ。



2004年12月28日(火)
「恥ずかしい」と思った


 随分前の話で申し訳ないけど、10月に西浦達雄さんのライブに行ってきた。あの西浦達雄さん。ミスター甲子園ソングの西浦さんですよ。小さいホール、舞台にはネットが張ってあり粋な計らい、生の声の迫力。特にアンコールの、「瞬間」なんてゾクゾクっときた。歌ってるときの顔、何度かあったMCでのトークを聞いていて、この人は感性が若いなあと思った。その内面がとても50歳には見えないルックスを作っているのだろう。ライブ終了後、CDの販売会があり、購入した際に握手とサインをしてもらった。他のファンの人は、まるでちょっとした知り合いみたいに話していましたが、私は「ライブ、よかったです」というのは精一杯だった。大袈裟に言えば、甲子園ソングの神様みたいな人やのに、降りてきすぎやてと思った。アーチストやスポーツ選手、好きであったりいいなと思えば思うほど、距離感が近すぎると戸惑ってしまう。

 さて。ライブ中に西浦さんがしてくれた話で特に印象に残った話がある。西浦さんが、東京で行われた定時制通信制の高校野球野球全国大会の開会式にゲストで招かれたときの話。大会に出るために費用のやりくりに各チーム苦労している。少しでも安くするために、途中の行動が自由になるようなツアーに申し込んで、試合は終わったから帰るという方法を取ってるチームもあった。あるチームが2回戦を勝ち、3回戦進出を決めた。ところが、申し込んだツアーの期間が2回戦が終わるまでしかない。さてどうするか。いわゆる「甲子園」が大舞台になる高校野球では考えられないのだけど、試合を棄権し、地元に帰るという選択を取った。すごく重い話だ。ちょっとしたドラマなら、誰かが助けてくれたり、思わぬアクシデントで試合に出れたりするのだが、現実はそんなに甘くない。

 西浦さんが言った。「長年、高校野球に携わっているのに、こんなことがあるなんて知らなかった。恥ずかしいと思いました」。私も、恥ずかしいと思った。





2004年12月27日(月)
変わったのは誰?


 縁あって、甲子園を経験した2人の指導者と話をさせてもらったことがある。共通して聞いた質問が、「甲子園に行って、選手はどう変わりましたか?」だった。

 1人は、「みんな変わったは変わりましたが、特にベンチに入った子より、入れなかった子の方が練習の取り組み方に違いが出てきました」という答え。そのチームは部員数が少なく、ベンチに入った選手より、ベンチに入れなかった選手の数の方が少なかった。ボールボーイをしていた彼に甲子園はどう映ったのだろう。

 もう1人の答えは。「選手というより、自分が変わりました。変わったというか…。(甲子園に出れたことによって)何をどれだけすれはいいのかという目安がわかったので、指導しやすくなりました。もう一度行きたいですね。よく、「一度でいいから行きたい」って言うじゃないですか。でも一度行ったら、もう1回行きたくなるんです。行ったことないときよりも、行きたいという気持ちは強いです」



2004年12月26日(日)


 M−1グランプリを見た。今年は、好きなコンビがおらず、注目のコンビが多かったので、楽しめた。好きなコンビがいると、そのコンビの出来不出来や審査員の評価で、テンションの上下が左右されてしまい、純粋に大会を楽しめなくなるのだ。去年、それを痛感している。今年のお笑いブームでTVでネタを見る回数が増えた。ほとんどのコンビは見たことのあるネタをしていた。「お、これできたか」「出たっ、このフレーズ!」「あ〜あ、アレをカットしたんやあ」などと随所につぶやくので、一緒にいた人は関わりたくなさそうな顔をしてた。

 テレビを見た後、私の中になんか不思議なやる気が出てきた。実は昨日、強烈に文章を書きたくなくなって、もうイヤで、ごろ寝しながらもだえていたのだ。いいつながりもそうでないつながりもすべてしんどいなあって思った。そして、日常を慈しむ人になりたいなあって思った。朝起きて、顔洗って、仕事して、ご飯食べて、読書でもして、お風呂入って、寝る。ネットや文章を考えたり書くことに費やしていた時間をそっちに持っていくと、ゆとりのある生活が出来るんじゃないかな。そっちの方が楽しそうだなって。

 でも、テレビを見てて、彼らと違う世界にいてはいけないって思った。いや、私、漫才をするわけじゃないけど。なんていうかね。物(もしくはスタイルというもの)を創造して、何かの目的に向かっているという集合体にいるあの人たちと同じ場所にいたいっていう気持ちになった。ジャンルとかプロアマとかレベルの違いは置いといて、ベベ(最下位)でもその場所にいないよりいた方がいい。(目的に向かっているのは野球も一緒だけど、野球を見ても不思議とそういう気にならない…)

 こんなことを思ったからって、明日からすんなり文章が書けるようになるとは思っていないけど、ただ文章を書けることって当たり前じゃないんだなってことがわかった気がする。これまでの私は、「文章が書けない」っていう人の気持ちがわからなかった。思ったことを話しかけるように書けばいいやんって思ってた。そんなんじゃない。私は、「○○する人の気がしれない」とか「○○なわけない」と思うと、かなり高い確率で○○な状況になり、その心境を思い知らされることになる。今もそんな感じかな。
 
 書けると思うから、書けないときに落ち込むのであって。今日から、書けないことを当たり前だと思おうかな。すると、“今日は書くことができた、ありがたい”となる。感謝は自分を苦しみから遠ざける。



※Mー1が終わった。オールザッツ漫才があるけど、今年はトーナメント制ではないので、大会らしい大会と言えば、来年のABCお笑い新人グランプリまでお預け。野球ファンとしての注目は、やっぱりエージェント。baseよしもとで活動するコンビらしいが、実はまだ見たことがない。彼らにスタイルが、ノックで世の中を斬るというものだから。単純にそれだけなんだけど。漫才ファンとしては、早口言葉のネタでぐっと力を付けたなあと思うアジアンや3年連続出場でMBS新世代漫才アワードで2位になったNONSTYLEがどこまでやれるか気になるところ。見たことのないコンビが多いので、楽しみ。



2004年12月24日(金)
可能性


 テレビで、日本人メジャーリーガーの特集をしていた。私が見たときはちょうどイチローがインタビューに答えていた。今季イチローは、メジャーリーグのシーズン最多安打数の記録を更新したが、記録が近づく前に結果が出せなかった時期があった。そのときの心境を答えたいた。「あのときはですね…」そのあと、しばしの沈黙。彼なりに言葉を選んでいたのか、何か思うところがあるのか。もしかしたら、沈黙だけで終わるかもしれないと思ったとき、口が開いた。きっちりと覚えているわけではないが。こんなことを言っていた。

 「打てたときは、可能性がすごく広がったように感じたけど、打てなかったときは、可能性がすごく減ったように感じた」

 その言葉がすっと私の心の中に入り込んだ。いわゆる一つの一喜一憂。加えて「あんなに(気持ちが)揺れたことはなかった」と言っていたけど、イチローでのそんな心境になるんだとちょっと驚いた。

 私もこの可能性の広がりと減りを感じることがある。イチローは歴史的な大記録を前にようやくそれを感じるほどの大物だけど、私は凡人なので、今日の日記が書けるが書けないかでそれを感じる。こうして、実際書いてみたら非常にアホらしいのだが、思うものは仕方ない。冗談みたいな文章ばかりだけど、書けたら、一番の極端は「もしからしたら誰かが見てて、何らかのオファーがあるかもしれない」と思うし、書けなかったら、「うわー。もう一生文章書けへんかもしれん」「私は何のために生きてだろう」とすら思う。誰に期待されているわけでもなく、生活がかかっているわけでもないのに、不思議だ。執着しているのかもしれないけど、最近はちょっと心境が変わった。書けなかったら書けないでいい。書けない部分を無理に更新せずに、「その日は書けなかった」という証拠を残すスタイルを取っている。そうして、どんどん書けなくなっていっているので、不安は不安なんだけど。



2004年12月23日(木)
脇をしめる


 バッティング練習を見ていると、指導者が「脇をしめて」などとアドバイスしています。野球だけではなく、動作において、脇をしめることって大事なようですね。

 この頃はサボッていますが、ダンベルで二の腕を鍛えるときもそうです。ダンベルを持って、肘から上を動かさずに肘から下を前から後ろへゆっくり動かすのですが、その際脇をしめておかないと効果がありません。力が目的の場所(バッティングならバット、ダンベルなら二の腕)に行く前に外にそれてしまうからかもしれません。

 脇をしめることの大事さは、何も運動だけではありません。海原やすよともこの漫才で、「かわいく見える女の仕草」についてやっていましたが、脇をしめることが大事なようです。手を振るときは、顔の横で振るようにするのですが、脇が開いているのとしまっているのとでは、かわいさが違ってきます。また、あくびを抑える手も同様です。彼女らの実演で比較してみたら歴然でした。へえって思いましたね。

 ま、私にかわいく見える必要なんぞないのですが、まだこれからという女性の方の参考になれば幸いです。そういえば、ともきちは上司に「脇が甘い」と言われているそうです。それとこれとは関係ないかな。



2004年12月22日(水)
JET BALL HOUR 04


 昨日は、「後輩にカンカン」っていう日記を書きましたが、一夜明けてもまだ気持ちは収まらず、通勤途中、今度そんなことがあったら、どう言ってやろうかとあれやこれや考えてたら遅刻してしまいました…。「自分が正しい」という思いは、決していいものではありません。確か、仏教でそんな教えがありました。

 さて、今日は楽しみにしていたフットボールアワーの単独ライブを収録した「JET BALL HOUR 04」DVDの発売日。仕事帰り、電気系に詳しい後輩(昨日のイタイ後輩とは別)に案内してもらった店で即買い。家で、ビールを一杯やりながら、さっそく鑑賞。

 前回劇的に面白かっただけに過剰期待したためか、今回は思っていたよりちょっと物足りなかった。それでもおもしろいことに変わりはない。ただ、私の好みのシチュエーションやスタイルのものが前回に比べて少なかったのかもしれない。私が一番よかったと思ったのは、「出生届」というコント。子どもの名前を届けに来た父親と区役所の職員のやりとり。子どもの名前を「童夢(どうむ)」にしたいけど、あれやこれや迷う父親。野球場のドームから取っていると思われるのはイヤだなあとか、童夢くんが大きくなった彼女が出来たときに彼女が友達に、「童夢と甲子園行っていてん」って言ったら、「へ、2つも球場まわったん?」って返ってくるんやろし、それはかわいそうだとか…。やっぱり野球絡みなんですが、この頃変わった名前をつける親が多いので、近い将来、この会話が現実になっているかもしれませんね。



2004年12月21日(火)
センパイノキモチ


 体育会系の部活に縁がなく、勤めも長続きしなかった私なので、新人や後輩の気持ちがわかっても、先輩の気持ちはわからなかった。でも、今の職場では名実共に先輩と言える立場になっている。なんか変な気分だけど。

 私は新人さんには極力声をかけたり、話したするようにしている。それは私が慣れない環境の中にいる新人さんには誰か一人でもほっとできる存在がいた方が仕事も覚えも早いと思ったからだ。私自身、新人のころは誰もかまってくれず、ろくに仕事を教えてもらえなかった苦い経験がある。そんな職場だから、続く人も決して多いとは言えない。今でこそ、それがここのやり方だとわかったいるのだけど、それでも私と同じ思いを新人にさせたくないと思った。だから、最初からため口で話したし、仕事のこともわかる限り教えてあげた。その新人さんが私の後輩になる。その中に一人で同じ年の子と仲良くなったのだけど、その子は私がタメ口で話しているから自分にいいと思ってタメ口で話し始めた。なじんでくれた証拠だけど、正直「空気、読めよ」って思った。うち、年下でも先輩には敬語使うべ。ただ、その子も年上下にかかわらず、他の先輩には敬語を使う。不愉快だけど、まだ「しゃあないな」と思える。

 問題は今日。その子と一緒だったのだけど、あまり行ったことのないお店だった故、ミスをいくつかしていた。リーダさんにこてんぱに怒られていた。ま、それも経験。私はミスしたことに関しては不愉快に思わないし、腹もたたない。ただ、そのあとの態度がいただけない。私がその子のデータ修正をしていたのだが、その子、リーダーさんに店内で商品整理をするように指示されていたにもかかわらず、データ修正でてんやわんやの私にブツブツ話しかけてくる。「テンパってて、カウント漏れしてたわ」「それ(今日のミス)より、明日の店の方が気になる」「今日はもうええねん。次がんばるわ」。

 しばいたろか、と思った。後輩を持ったことないので、後輩に腹を立てた自分にびっくりした。でも、いくら親しくても、それはないやろ?と思った。今日の店がどうでもいいって?それって、今日の給料いらんっていうのと一緒やで。わかるの?あと、私、あんたの尻ぬぐいしてんねん。このせいで、終了時間30分遅れですわ。私にいうことは言い訳や愚痴やなくて、「すみません」せめて「ごめんね」やろ。この心の声、立場的には口にしてもいい。でも、出来なかった。落ち込んでいる人の中には、誰かに自分の正当性や気持ちが切り替わっていることを声に出して話してしまうことによってでしか事実を消化できない人がいる。実際、そういう友人がプライベートでいるし、私にもそういう傾向がないとは言い切れないからだ。「今、修正で頭いっぱいやし、だまってて」というのが精一杯だった。

 それでも、私の頭の中は今もすっきりしない。今度はきちんと言おう。でも、前にもこんなこと思ってて、ダメだったもんねえ。あ〜あ、最初にもっと毅然としていればよかった。余計な配慮は自分を苦しめる。後輩に優しい自分はもういらない。かと言って、厳しくしたり、虐めようとは思わないけど。その職場にいる限り、先輩と後輩は友達ではないのだから。



2004年12月19日(日)
ともきちを讃える会


 今日は、ともきち&相方と大津のちゃんこ屋で「ともきちを讃える会」という名の忘年会を開催。京阪電車で浜大津へ。隣には東山中学野球部の子がいた。相方曰く、「自分(私)を見てずっと笑ってたで」。高校生になったら、また会おうね♪

 野菜不足のきょうび、ちょっと値上がりしていたけど、白菜とかをたっぷりいただけた。相変わらず、はじけるともきちトーク。何話してたかな?ともきちを一生懸命持ち上げてたつもりなんだけど、私が「お尻の小さい女はそそられへんわ」と言ったら、「私、小さいねんけど…」。傷つけてしまった…。

 あとは、携帯の動画で来年の決意表明。ともきち、ここではとても書けないこと言う。がんばってください…。

 ごっつおもろかったんやけど、何を話していたかあまり思い出せない。いっか、忘年会やねんから。

 



2004年12月18日(土)
初取材後の雑感

 
 今日、生まれて初めての「取材」をしてきた。

 予想通り、最後まで質問内容やテーマがまとまらなかった(にもかかわらず、行きしなの近鉄電車内で爆睡)。監督さんからグラウンドのことやチームのことを伺った。私はグラウンドのことを中心に聞きたいけど、監督さんは違うことを話したいのかもしれない。結局、どっちつかずで、質問が散乱してしまった。また、取材を許可されているのに、そのメリットを存分に生かせなかった思う。その気になれば、選手にも話が聞けたのに、やっぱりいつもの自分がそこにいて。どうしても引いてしまった。今にして思えば、もっと見ることを中心にしてもよかったかなと思った。でも、せっかく話が出来るのだからと、「話さなくきゃ」「話さなきゃ」と前のめりになって、ドツボにはまった。監督さんが私と話しているときより、むしろ他人、部長先生やコーチ、マネージャーや選手と話している内容に興味惹かれた。私は一人。引き出せる話も限られている。そのことを改めて思い知った。取材という言葉を使うのも、恐ろしい。今日は30点くらい(と言いながら、帰りの近鉄特急で爆睡。近鉄電車は、睡眠誘発NO1だと思う。こんな精神状態なのに、寝れるなんて!)。

 今までは、取材が出来る立場になれば、話が聞けると思った。でも、違った。取材が出来る立場になったからと言って、自分が変わるわけではない。自分が変わらないと、今まで出来なかったことが出来るわけではない。相手が言いたいことを引き出すことも、選手に話を聞くことも、自然に出来る自分になるのを待とう。今は今できることしか出来ない。

 ただ逃げ出さずに現場へ行き、ダメだと思いながらも、最後まで話を聞いた自分は認めてあげようと思う。あとは、文章を書き終えたら+5点かな?



2004年12月17日(金)
写真のこと(おしらせ)


 グダグダの仕事から帰ってきたら、父に言われた。「おい、野球見に学校行くやろ。“(写真を)撮ったらあかん”って言われたことないか」。私の答えを待たずに父が話す。「こないだハンドボール(を見に行ったとき)で撮ってたら、“あかん”って言われてな」。へえ、おとんが見るのって、公式戦やろ?公式でやってることやしええんとちゃうの?すると。「なんや、写真と撮って新聞社に売るヤツがいるんやて。高校生やしなあ。教育やから。よくないっことなんやろけど」。

 そうなんや。これで、疑問が解けた。夏、北海道に行ったとき、球場入口に『許可された者以外の写真撮影を禁止します』と書いてあったのだ。ま、それでも選手の親御さんらしき人はビデオを撮っていたのだけど。なんでそんなこと言うねんと思っていたけど、そういう理由なのかもしれない。過去私が見に行った場所ではそういうルールはなかった。球場に行くとカメラを持ってウロウロしている人をよく見かける。“売る”なんてこと、私の頭にはかけらもなかった。でも、昔読んでた高校野球の雑誌に“選手の生写真あります”という呼びかけがあったっけ?

 私は球場での写真はほとんど撮らないけど、グラウンドの画像は撮っている。“ダメだ”と言われたことないのは、“いいですか?”と聞いたことがないからだ。浅はかなのだけど、そういうことを深く考えていなかった。幸い、今までクレームが来たことはない。でも、「いいのかなあ。」という不安がドンドン増している。ずっと「どうしようかな」と思いながらもやりすごしてきた。でも、そろそろ、きちんと向き合っていかないといけない。(近日中に画像削除の可能性があります。あらかじめ、ご了承ください)



2004年12月15日(水)
ビジター人間


 友達を自分の家の呼ぶ子と、自分が友達の家に行く子と二つのタイプがある。私は断然後者だ。家族が多く友達を家に入れる余裕がなかったのもあるけど、私の友達の大半が前者タイプの人間だったからだ。私が友達を家にあげた回数はごくわずか。2回以上入った人がおそらくいないと思う。そんな長年の経験で、私は人が家に遊びに来るより、遊びに行く方が落ち着く人間になっていた。家でなくても遠方の友人と会うときが、友人の地元に行く事が多い。

 よくどこかへ行くのもそういうところから来ている。また他地方出で野球を見るようにもなった。一番にお気に入りは福井県(でも、M−1が見れないらしい。お笑い好きにはちょっと辛い土地だね)。知らないことだらけで、地元で野球を見るより疎外感を感じそうだが、ここにはそういう感情を持たない。知り合いが出てるわけでもないし、親近感があるわけでもない。でも、そういうことにこだわる必要がないと思える自分がいるのだ。応援している学校にも、初めて見る地方の野球にもない心地いい距離感を持つことが出来ている。いつ崩れるかわからないから大事にしていきたいと思う。グラウンドもそうだ。練習試合で行く以外では、地元より他府県へ行く事が多い。お笑いでも、昨日見てた名古屋の劇場が妙にしっくりきていた。レベル的には電車で3,40分で行ける梅田や難波の方が高いけど、あのしっくり感を味わうことが出来なかった。それも、やっぱり名古屋が地元ではないからだろう。大阪は地元ではないけど、地元感が強い場所だ。

 じゃあ、地元が何故しっくり来ないのだろうと考えた。それは、そこに自分がいるからだ。弱い自分、ウジウジクヨクヨしている自分、卑怯な自分、情けない自分…。地元はそんな自分を知っているように思えて、落ち着かないし、照れる。もちろん、そんなことを知っているのはごく身近な人たちだけだと頭ではわかっているのだけど。大阪にはよく遊びに行くので地元感があるし、東京にはライター塾時代にジュクジュクのダメな自分がいるから。関東もダメかもしれない…。

 そんな私だから、地域密着というものがあまり好きではない。でも、そんな一体感の中で、独り佇むのが最近の快感になっている。以前までは、なんとか交流を持とうと思っていたけど、いい加減疲れた。苦しいのは多くを持たない人ではなく、多くを欲する人なのだ。



2004年12月14日(火)
冬の18きっぷ旅第1弾〜独りで名古屋〜(工事中)


 こんばんは。今日は休みを利用して、ネイルサロンデビューをしたあと、名古屋へ行ってきました。中京大中京のグラウンドを見学し、保護者に間違えられ、校内で軽く迷ったあと、「愛知の高校野球はどんなんだろ」というのと同じノリで、「名古屋の笑いはどんなんだろ」と吉本栄3丁目劇場へ。ゲストは千鳥。ネタを見てるだけではわからない彼等の面白さを見ることができた。18切符を使うので、帰ったら日付が変わってるでしょう…

☆ネイルサロン☆

 朝イチでネイルサロンへ行ってきた。ともきちが、ネイルサロンに通っていて、よく話をしてくれる。それを聞いていて、「なんかいいなあ」と思った。

 もしも病院の中にバーがあったらこんな感じだろうなという雰囲気のカウンターの腰掛け、あれこれしてもらった。まず消毒。そして、ツメがヤスリで削る。ついている色の違うヤスリが何本かあって、ネイリストのお姉さんがそれらを巧み使いこなしていた。聞くと、「荒さが違う」とのこと。気になっていて、右手薬指のでこぼこもヤスリを使えば、ちょちょいのちょい。ヤスリが終わった地点で、ツメが別人になっていた。こんなにも鮮やかなピンクが出るんやあ。

 そのあとは、ケーキのクリームを泡立てる機械のちっちゃい版みたいなので、甘皮を押す。ツメの下のある白い部分。栄養が行き渡りやすくするのだという。それが終わったら、ボウルに指先をつける。なんか保健室に来たみたいな気分。

 それから、何したかな?そうそう、割れてたツメのお直しをした(+1,050円)。お直しって、わたしゃ呉服か。接着剤にスプレー、そして細かい粒子の白いパウダーの手を突っ込む。ワシは木工か。そのあとは、オイルをつけて軽くマッサージ。

 お会計をすませたあと、マニキュア。職場の規定で、あまり目立つとやばい。ツメになじむベージュピンクにしてもらった。ベースコート、二度塗り、トップコート、そしてツメの根本に魔法のおまじないのようにポトリと速乾性の液体を落とされた。借りてきた爪のようだ。街行く姉ちゃんのそれと同じだ。私みたいな爪がこんなになるなんて。もっと早よ目覚めとけばよかった…

☆中京大中京高校☆

☆吉本栄3丁目劇場☆

 夜は、名古屋吉本のライブを見に行った。劇場と言えば、うめだ花月のイメージしかないので、大通りからはずれた小さな会場を見つけるのに、ちょっと時間がかかった。外装、入り口、受付周辺も、まさにインディースが活動する小さなライブハウスのよう。定員は94人。段差のないフロアにちょっと使い込まれた小豆色の椅子が並べられていた。座席番号は手書き。紙の切取線がちょっと歪んでいた。体育館くらいの大きさの舞台に、所狭しと芸人が集結。大阪から千鳥をゲストに迎え、ネタありコーナーありの1時間半。

 初めて名古屋芸人のネタを見た。確かに大阪で見たそれには見劣りするけど、それはそれでいっかと思った。コーナーでは、千鳥・大吾の「かわいいリアクションが見たい」という要望が出たことから、大吾がケーキを食べたり、ぬいぐるみの子犬とじゃれり、寝言をいうパフォーマンスを見せてくれた。全コンビのネタが終わったあとは、大喜利コーナー。ネタよりも面白かったような気がする。ノブが前に前に出てたのが印象的。そういうイメージはなかったけど。それにしても、「すんずれいしました」は来年の流行語大賞になるのだろうか。それは、ともかく。横にいた女の子がびっくりするくらいよく笑っていた。よく笑うお客さんは好きだ(芸人みたいな発言やな)。私が劇場に行くと、かなり高い確率で、側にそういう人がいる。

※名古屋芸人のネタは大体こんな感じ(出演順)
☆オレンジ→もしもツアーをやるなら。(のっけから、名古屋ローカルが出て、「お、うち、名古屋でお笑い見てる」と独りで悦に入っていた…)
☆ロングラン→夏休みの計画。女の子のコンビなんだけど、随分思い切った動きや歌で笑いを取っていた。
☆アンとニオ→コント。魔王を倒すために手に入れるべき剣が抜けず、勇者が「勇者やめて就職するわ」と言い出すのを、魔女のようなおばあさんが止めるやりとり。テレビゲームの非現実感と就職という現実感のアンマッチング、個人的には好きな着眼点)
☆ブロードキャスト→フォローをする。(5組の中では一番、正統な漫才の形だったかなと思った)

 今日一番に思ったのは、「千鳥、おもろいなあ」ということ。テレビではネタしか見ないけど、コーナーで見せるアクションやトークがかなり面白かった。また、ネタは「中世のヨーロッパ」。こないだテレビで見たのと同じのだったけど、生で見たらかなり笑えた。妄想を頭の中に忠実に再現すると笑いが生まれるんだなあ。カタカナの名前ってそれだけで笑えるなあと思った。Mー1でするかもなと読んでいる。

 観客の大半が20代前半の女の子だったけど、中には男の子同士で来ている子もいたのが印象に残った。帰り、後ろを歩いていた女の子たちが、「ロザン来て欲しいわ」「ビッキーズ、楽しみ、飴ちゃん投げてくれるんやろ?」「ストリークは?」とか言っていた。地方遠征を楽しみにしているのは、野球ファンだけではない。会場は、前述したが、狭い。MCの芸人が話していると、いつも目が合っているような錯覚を起こしてしまいうくらいだ。だから、大阪や東京からのゲストをそれぞれの本拠地より近い距離から見れる。それがメリットかな?

 それにしても、予想していた以上に、しっくりくる劇場だった。高校野球愛知大会+栄3丁目劇場、愛知の高校野球グラウンド+栄3丁目劇場…。いいかもしれない。
 



2004年12月13日(月)
野球クイズ


 こないだ素振りのことを書いたら、最近よくやりとりをする読者さんからメールをもらった。

 N君は大阪からきた子で、寮に住んでいて毎日練習後居残りでティーしてるし素振りもしてます。自転車通学(10分)のI君は家に帰ってから素振りは欠からないらしいです。K君はJR通学組(1時間)で家に帰って素振りして寝るだけです。
 あるこさん 一番伸びるの誰だと思います?

 あまりにむずいっ。難題や。来年にならなわからへんとしか言いようがない。『みんながんばってて、エライですね』が模範解答なんだうけど、それもなんか味気ないので、ちょっと考えてみた。

 3人の選手の体力や能力的手がかりは何一つないので、置かれている環境から推測するしかない。まず、N君。彼は遠くから来ているだけに野球に対する意識は強い。寮にいるため、通学帰宅の時間ロスも少ないだろう。自転車のI君はNくんと同様、他の子が通学帰宅している時間を自主練にあてることが出来る。そして、気を遣わなくていい環境である自宅なので、スポーツ選手にとって大事な休養もしっかり取れるはず。

 でも、返信した私の答えはこう。
 『強いて言えば、通学に1時間かかる子が他の二人に比べて自主練のできる時間が少ないことを自覚出来ていたら、集中力が出て伸びるんじゃないかと思います』。

 そして、返ってきたメール。『1時間かかる子ががんばればもっと応援します。何と言っても家の息子ですからね(笑)』。よ、よかった。正解やった(汗)。
 



2004年12月12日(日)
姉に天理高校グラウンドを先越される…


 今日は予定がなかったので、朝から晩までお笑いにかまけていた。年末が近づくにつれ、ネタ番組が増えてくるので、うれしい。番組と番組の間にビデオを見て、とことんお笑い漬け。

 そんな中、奈良に行っていた姉からメールをもらった。「天理高校、行ったことある?グラウンドには誰もいなかったよ。」というメッセージと正門の写真。う〜ん、気持ちがありがたいけど、グラウンドの画像の方が興味あったかなグラウンドはどうだったときくと、「甲子園と同じ大きさやって!」とのこと。そのあと、姉に天理の感想を聞くと、「すごいな。寺なんて、京都の比じゃない。すごくでかくて。なんか“千と千尋…”みたい建物やったわ」。確かに天理という都市は独特の雰囲気がある。普通の小綺麗な姉ちゃんが、天理教のハッピを来て町中歩いてたりする。私も前に一度行ったことあるから、その雰囲気はわかる。

 でも、天理高校には行ったことない。何故か縁がない。過去3回ほど練習試合を見に行くチャンスがあったのだが、1回は雨天中止、2回目はどうしても抜けられない仕事、3回目は急遽対戦相手の変更…。よくよく縁がない。今年度も予定があるようなので、今度こそは是非!

 そうそう、私が大学生だったこと、天理高校の野球部は低迷期だった。確か寮をなくしたか、スポーツコースをなくしたかで。ある日、講義を受けと、机が他のよりやけに黒いことに気付いた。見てみると。ものすごく男っぽい字が文がつづられていた。小学校のときによくあったヤツだ。でも、落書きという言葉で片づけられ倍熱くせっぱ詰まったものがあった。書いたのはおそらく天理高校野球部のOBだと思う。現況をなげき、今後どうしていけばいいのか、そして強豪復活の日を信じて待つと熱いメッセージで締めくくられていた。いい年して何机に書きもんしてんねんって思ったけど、天理のいない甲子園はちょっと寂しい。ここ2,3年前からまた甲子園に姿を見せるようになってので、作者もほっと一安心だろう。



2004年12月11日(土)
スポーツノンフィクションと海外


 高知土産をもらうために、ともきちに会いに行った(ゆず七味、ありがとね。ちょうど切らしてた)。夕方京都駅前のオキニの喫茶店に集合。久しぶりに会ったので色々長話をした。

 本の話になったとき、「うち、洋書(海外小説)ってあかんわ。登場人物の名前がカタカナってだけで受けつけへん」。まったく同感。そういえば、スポーツ選手の海外進出がめざましい今日この頃だけど、スポーツライターってどうなんだろう?海外で取材するライターさんはいるけど、海外に向けて記事や作品を書く意識のある人はどのくらいいるのだろう。そして、実際そういう人はいるのだろうか。文学やアニメは、現地の言葉に訳して海外にも出ているけど、スポーツノンフィクションでそういう作品はあるのだろうか。以前、そんな意識を持った作品を読んだことがある。『魔術師』という元西鉄の監督・三原脩氏(故人)を扱ったもので、作者名は忘れた。文章の最初に、「海外で読まれることを意識して、話の流れを年月に忠実に書いた」とあった。日本では多くの作品が、最初に気をひく試合や事件のことを書き、そこから回想風に過去からそこに至るまでを追いかけている。読書を惹きつけるための技術で、ライター塾に行っているときも、そういう書き方があることを教わった。でもそれは、海外ではわかりづらいとされ、あまり用いられていないという。ある一人の人物を取り上げるなら、生まれて、学校へ行って、社会に出て、出会いあって、結婚して…てな具合だ。スポーツライターの海外進出について考えたのは、この作品を読んでいたからだと思う。

 ひとしきりしゃべったあとは、ともきちオススメのパスタに店へ。おいしかったけど、メニューが少なすぎ。一品が欲しいなあ。最近、日記が書けへんというと、「そんなときは、好きなものを書き並べたらいいねん」とアドバイスされた。ある日、ここに名詞ばっかり並んでいたらともきちのせいだと思ってください…。



2004年12月09日(木)
素振りの少年2


 仕事帰り、久しぶりに素振りをする少年に遭遇した。高速道路の高架で小さな亜アパートに似た白い建物の前の道路にジャージ姿で、少し髪の毛の伸びた坊主頭っぽい男の子がバットを振っていた。体はちょっと小さいけど、中学生かな?前に見た少年よりもちょっとやんちゃっぽくて、仕草を見ると軽くやっているという印象を受けた。「どれどれ」。渋滞でなかなか進まない車の窓にへばりついて見ていると、少年と目があってしまったみたい。彼はそれとなく目をそらして動作を止めてしまった。あ〜あ。でも、車が動き出すと彼は再び素振りを始めた。もう気付かれないだろうと、再び窓にへばりつくと、ついに素振りをやめて家に入ってしまった。シクシク。

☆おしらせ☆

『あるこのつれづれ野球日記』は、http://www.geocities.jp/arukotsuredure/よりお入りください。今後は、こちらのアドレスでしか更新ができなくましたので。よろしくお願いします。
 



2004年12月08日(水)
小学校社会と天気図、そして高校野球。


 近畿とか関東とか北海道とか。日本をいくつかはいくつかの地方に分けられている。それがセンバツにおいて大きな意味を持っていたりするのだが、小学校の社社会で習ったもの、天気図、そして高校野球では微妙に違う。当時はそのたんびに戸惑ったものだ。

 「近畿の明日の天気です」と言って出てくる天気図には、かなり高い確率で三重県が入っている。三重県は近畿か。次に多いのは、香川と福井そして徳島。他の地方で天気予報を見たことあるけど、こんなに広範囲を取り扱っているところはなかった。ただ各地が細かかった。京都北部、南部(うちは、京都南部より滋賀南部の天気です)なんていうおおさっぱな区分ではなくて。そして、小学校の時に習った中部地方は東海地方と言うのが一般的。中部より東海の方がかっこいいもんな。高校野球ではその中部地方に長野が北陸(でも、小学校のときに、北陸地方というものを習った記憶がない…)に編入されている。高校野球では山梨は関東だ。小学校の社会科で教わったのとはまるで違う。ややこしい。それとも、私が間違って覚えているのだろうか?でも、三重は近畿やないで。
 
 中でも、山梨県が関東地方だという高校野球における地域分けには長年なじめなかった。でも、今では地理上では山梨県は何地方にあたるのかを忘れてしまった。高校野球のせいだ。関東地方の天気予報には、山梨県は入っているのだろうか。そして、三重が近畿地方だったら、近畿大会はどんな展開を見せていただろう。たまにはシャッフルしてもおもしろい?はた迷惑?



2004年12月07日(火)
決戦の火曜日


 マジな話。今日が私の人生の大きな転機になるかもしれません。某高校に電話をして、取材依頼をしました。OKが取れました。吐くほど緊張しましたよぉ〜。

 これにはからくりがあります。HPを見ていた方から、その高校の監督さんを紹介してもらい、面識もあるんです。実際、グラウンドへ行き、試合を見た上で、心惹かれました。練習を見にくるときは電話をくださいと聞いていたので、日程が決まったら電話をしようと思っていましたが、緊張するのなんのって!忘れてはったらどうしよう、急いではったらどうしよう、不在のときはどう伝言しよう等々自分ではどうにもならないことを考え、仕事があることを言い訳に電話を先延ばし先延ばしにしていました。

 今日は、昼からの仕事です。後にも先にも平日に電話が出来る日は今日くらいでしょう。昨日から憂鬱にも似た気持ちでいました。でも、今回は自分以外の人が絡んでいます。私がいい加減な態度をとると、その人の信頼までなくなります。ここまでおいこまれた状況は、逃げ腰の私には打ってつけなんでしょうけど。

 朝から電話を握りしめ、ご飯、身支度、ネットサーフィン。早くしてしまえば楽なのに、体が言うことをきいてくれない。ああ、どうなるんだろ。他人ごとのように思っても始まらない。どうにでもなれ!10時をすぎたころようやく、学校の番号をプッシュ。でも、また逃げ腰。そのまま通話のボタンが押せず、数分。何回も何回も会話の練習。心臓がバコバコ言ってる。誰かボタン押して〜。でも、ここまでの道のりを思うと押さないと何のために生きてきたかわからない。よしっ。

 最初に出たのは、事務員さん。「野球部の○○先生いらっしゃいますか?」。思ったよりすんなり言えた。この時間帯は授業中なので、いないだろうと読んでいたせいもある。でも、「少々お待ちください」。い、いるの?心臓の鼓動で背中が痛くなる。まもなく、御本人の声。自分でも驚くほど用件をはっきりすらすらと言えた。元々私はモジモジと話す人なので、自分で自分の声を聞いてて。びっくりした。それは、私は成長したからではなく、相手の声にほっとできるものがあったからだ。前にお話させてもらったときも、思ったよりたくさん話すことができたっけ。元々は練習見学しか言っていなかったので、取材させてくださいとお願いしたときはちょっと勇気がいったけど。「甲子園を目指している強い学校も他に一杯あるのにうちでいいんですか?」と柔らかい声に謙虚な言葉。「うちでいいんですか?」は私のセリフだ。

 電話を切ったあと、一気に脱力した。アホやね、これからが本番やってゆうのに。あと11日。何時も通りおろおろしながら時間がすぎ、当日に吐きそうになるのかな?逃げ出してはいないかな?12月18日の私、しっかり頼むよっ。

 



2004年12月06日(月)
スコアブックの続き


 初めてスコアをつけたのは、多分大学生のときで、野球サークルのマネージャーをしていたからだ。それから数年、思うところあって、東山の試合にスコアブックを持っていくようになった。その日は、市内の高校での練習試合。私はネット裏に椅子に腰掛けた。側にいる保護者に、「あの子は誰ですか?」「この子は?」と聞いて、メモを取りながら、ボールを追いかけるのが精一杯。

 試合展開が遅く、気をつけていたのに、トイレに行きたくなった。スコアをつけ始めたころは往々にしてそう思うのだろうけど、「正確に書きたい」。でも、トイレ…。つかの間の葛藤のあと、私はトイレに行くことを選んだ。一応、断腸の思いだった。

 すっきりして返ってくると、「書いといたし」と後ろで観戦していたお父さんが小さく笑っていた。よく見かける顔だけど、話したことはない。私は、「ありがとうございます」と返した。スコアブックに目を落とすと、細いけど、確かな字体があった。使っている記号は、私のと変わらない。人によって正反対なくらいに違う場合もあるというから、私に合わせて書いてくれたのか、ホントに私と一緒に記号を使う人かはわからない。。おかげで、初めてのスコアが正確に記録でき、いいスタートを切れた。以降、約2年間続いた。嬉しかった。それは記録がきちんととれたからではなく、お父さんの心遣いやこういう経験したことのないふれあいができたことが。

 そのあと、そのお父さんと意気投合して…なんていうことになれば、いい話の種なんだろうけど、残念ながらその人とはそれっきりだった。だからこそなおさら、不思議に思う出来事だ。

 それはそうと、当時のスコアにはあちこちに吹き出しがある。そのときの選手姿やベンチの声、自分が思ったことや、改めて知ったルールなどが書き込まれている。「止めたバットもボールが当たって…」とか、「○○くん、審判にプレートさばきの指導を受ける」とか、「すべりこめ〜byベンチ」「迷うなっby監督」「みんな、おつかれさま」とか。この作業が、後の日記に反映されているように思う。自分的には非常に楽しいのだけど、端から見たらヤバいようで、過去2人の男性に見せたけど、2人ともひいてた…。



2004年12月05日(日)
日記


 M−1の決勝進出者が決まり、あとは本番を待つばかり。M−1のおかげで、夏の高校野球のようなワクワク感を冬にも味わう事が出来る。それに、出場者の多くがプロなので、高校野球よりも気持ちが楽になれるものいい。

 メンバー全員のネタは、見たことがある。でも、イマイチわからなかったのが東京ダイナマイト。笑いの金メダルで一度コント見たのだが、ネタがわかりづらくて、入っていけなかった。シュール系という印象もあって、今回の漫才での決勝進出は意外だと思った。しかし、好き嫌いをしてはいけない。それは高校野球でよく思い知らされている。さっそくネットで関連情報を検索。そして、片われの過去日記を発見。これがまた良かった。おもしろきて、すいすい読んでしまった。面白いと書いたけど、お笑いのネタのような笑いを誘うものではない。ネタ合わせをした、プロレスを見に行った、飲みに行った…ただ日常が書いてあるだけなのに、文章がすごく弾んでいた。言葉選びというか、平坦な文章から無重力状態の中にふわりと浮いているような読んでて気持ちのいい言葉に続いていくのだ。おそらく、本人にそんな意識はないだろうけど、これが私にはツボ。

 ああ、日記を書きたいと思った。日常のなんてことないことばっかり書きたい。もっとくだらないことを書きたい。今でも十分書き散らかしているけど、それでも作品を書こうという気持ちを捨てられずにいる。でもこれを読んで、また違う方向へ行こうかななんて思っている。ここのタイトルは、あくまで「日記」だ。そう自分に言い聞かせている。

 あんないい文章を書く人だから、きっといいネタをすることだろう。ちょっと期待しておこうかな。



2004年12月04日(土)
ぬいぐるみ


 野球選手が試合の前日にバットを抱いたり、枕元に置いて寝ているなんていうエピソードって素敵だなあって思います。私は昔ぬいぐるみを抱いて寝ていました。大体小学校に入ったころから、中学1年生くらいまでですかね?それは、人生の中で一番しんどかった時期とダブります。

 多いときは、5,6体いましたが、最初から最後まで共にしたのが、うさぎのぬいぐるみで“うさちゃん”と名付けていました(まんまやんけ)。ぼんやりとしか覚えていないのですが、祖母の姉家族がいらなくなったおもちゃをたくさんくれて、うさちゃんはその中の一員でした。布自体に柄に入って水色系で、大きさは大体30センチくらい、細身でした。最初はたいした意味もなく、ただ抱いて寝ていただけだったのですが、段々その日あったことを口にださないで心の中で話したり、自分のつくったお話を聞かせるようになっていました。さっき書きましたが、この時期は今までで一番辛い時期。大人になった今でこそ、どうってことないと思うことでも、子どもは人生を始めたばかり。何をどうしていいかわからなかったのです。そんなとき、ぬいぐるみに話すことでとりあえずそのときだけは、そういう悩みから解放され、すっと眠りに入れました。隣の家の子が干してあったうさちゃんを勝手にもっていってときは、怒って泣かしました。それくらい大切でだったんです。でも、知らぬ間に姿を見せなくなました。ボロボロだったので母が捨てたのかもしれません。でも、私もうさちゃんのいない布団に違和感を感じないようになりました。たまに、かわいそうなことをしたなあと思います。だから。ぬいぐるみを買うのがちょっと怖いときもあります。

 そんな私ですが、今の相方がぬいぐるみ好きで梅田のキディーランドでよく買っています。今日も3体ほど買いました。好きやったら、自分の金で買ったんやし、自分で持って返ったらいいのに、何故か私に渡します。なんやねんと思うのですが、我が家にはぬいぐるみがどんどん増えていきます。使っていないベットの上にあふれんばかり。このごろ癒される時間が少ないのは、やはりぬいぐるみと寝ていないからかと考えますが、今の寝床には飼い犬であるシロがやってきます。ぬいぐるみなんぞおいておくと、いい餌食になります。飼い主に似て、ぬいぐるみが好きなようです。



2004年12月03日(金)
変わりゆくもの

来年から甲子園球場は全面天然芝になりという。全面天然芝と言えばグリーンスタジアム(現YAHOOBBスタジアム)しか見たことない。名物“甲子園の土を持って帰る球児くん”という図も段々変わってくるかもしれない。

 とはいえ、高校野球はいつも同じようであって、毎年何かが微妙に変わっている(それは往々にして春に多い)。大きなところでは、ラッキゾーンの撤去や今回の全面天然芝。これは、みてくれも変わるし、試合展開も変わるから結構大きい。(余談だけど、2002年の夏の京都大会では何故か試合中のグランド整備がなかった。だからか、優勝は誰もが予想できなかったチームになった)また球場以外では、大会歌の変更、21世紀枠の導入、希望枠の導入、高校生による司会進行、選手宣誓の立候補制、ハイライト番組の時間短縮、選手のサポーターや手袋(みたいなの)の着用、消音バットの使用などなど。そして、いつだったか、ストライクボールのコールの順番を変えようという試みがあった。日本では、2ストライク3ボールというように、ストライクから先にいうが、アメリカなど諸外国では逆らしい。そのため、その年のセンバツから中継のアナウンサーはボール→ストライクの順番で言っていたが、その後定着せず、今でもストライク→ボールの順番が崩れていない。

 そんな風に考えると、同じ高校野球でも50年前、20年前、去年、今年、来年とそれぞれが違ったルールや環境の元で行われている。小さな変化だからあまり気にならずにいるが、高校ハンドボールはそれをしのぐ大きな変化をしていた。今のハンドボールは、7人制で体育館でやる。しかし、父がプレーしていた4,50年前は、人数は11人、場所はグラウンド、コートの大きさやゴールの大きさもサッカーと同じだった。今やっているスポーツは同じハンドボールでもまるで違う。これを野球で考えたら恐ろしい、人数は5人くらいになって、二塁ベースがなくて、試合は体育館で…。OBとかは、ものすごく違和感を感じるんじゃないかなあ。それでも、母校は母校だから試合を運ぶのを辞めたりはしないんだろうけど。



2004年12月02日(木)
義援金と私


 先々月、読者の方からメールをいただいた。過去にも2,3回頂戴したいたのだが、今回は野球とは関係ない新潟地震の話だった。面識のある女子大生が何か出来ないか義援金を送る話を聞いて、今の若い子もまんざらではないなと思った。そんな内容だった。

 私は募金や義援金といった類のものが苦手である。嫌いなのではない。なんかどう接していいかわからないのだ。だから、街頭で「募金お願いしま〜す」と言われると、目をそらして逃げるように通り過ぎる。なんだか自分がためされているような気がするのだ。募金をしない非情な自分、募金をして「いいことをした」と思っている自分。どっちもイヤだ。特に社会人になってからは、(経済的にという意味での)自立も出来ていないのに、人にお金をあげるってどうよとも思うし。それに、(主に海外募金だけど)お金がきちんとその用途通り使われていない場合もあると聞いたことある。それはもちろん日本側が悪いのではなく、受け取った海外に問題があるようなんだけど。

 そんな私だけど、阪神大震災は別だった。何かしないとと思った。でも、現地に出向くほどの積極性はない(鈍いから足をひっぱるだけだったろうし)。そこで、ひらめいたのは義援金の振込。別にいいことをしているだけではないんだと自分にいい聞かせて、銀行へ向かったのを覚えている。私もそのときは女子大生だった。しばらく忘れていたのだか、ふと思い出した。

 翌日、高校野球の近畿大会を見に、甲子園球場まで行った。受付に二つの箱がおいてあった。一方が新潟地震の、もう一方が台風23号の義援金を募るものだった。メールをもらっていなかったら、気付いていなかったかもしれない。大きさや場所の割には目立っていなかったから。でも、いち早いなと思った。阪神大震災のときはどうだったんだろう。95年の春の大会や夏の大会でそんな取り組みがなされていただろうか。よく覚えていない。義援金ではないが、こういうテのものでは、あしなが育英会やアオダモ募金(500円が一口でピンバッチをもらう)を見たことがある。また、前に行った試合では病気と闘っている地元の高校生の手術代の募金を呼びかけていた。これって、高校野球の社会貢献の一貫なのなかあ?



2004年12月01日(水)
死球


 試合の中盤、1−2。ツーアウトランナーなし。バッターは、エースピッチャー。相手ピッチャーが投げた球は、ヘルメットへ向かった。バッターはその場に倒れ込んだ。場内がざわめいた。

 前の打席でも、腕に死球。この打席でも前の球が顔の側にきてきた。頭部への死球は臨時代走を出すことが出来る。でも、このチームはそうはしなかった。少しして立ち上がったバッターは、治療のためベンチに下がった。

 相手チームは、軽いキャッチボールをしながら試合再開を待っていた。スタンドでは、応援が始めた。ところが様子が違う。かけ声の間に、「○○倒せ!」と言っている。その○○は、相手のピッチャーの名前だ。相当、腹が立ってるんだろう。懸命に叫ぶ応援団の中で、音頭をとっているのは、一際背の小さな部員だった。この子、見たことある。それは、このチームの前の試合が終わったあとのこと。スタンドで次の試合を見ていたのだが、彼はずっとバッターの子と一緒にいた。仲がいいのだろう。

 しばらくすると、相手校も、「○○倒せ」に気づき始めた。スタンドがざわめく。空気がとがっている。何か言うのかなと思ったけど、そのざわめきは束になることはなかった。間もなく、バッターは治療を終え、一塁へ向かった。拍手が起こった。次のバッターは、セカンドゴロだった。点数は入らなかった。チェンジのとき、ホームベース付近で、相手の一塁手が脱帽して、バッターに丁寧におじぎをした。バッターもそれに答えた。もう終わった話。次の回からは、応援も「○○倒せ」はなくなり、元のスタイルに戻っていた。

 結局、その1点を返せずに負けた。帰り、アイシングをしているバッターの側にには背の低い応援団の子がいた。