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あるこのつれづれ野球日記
あるこ
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2002年11月30日(土)
練習見たらわかる。

 どこの高校でも、レギュラーメンバー編成に関する不平不満を口にする人がいるという。数年前、そんなことを話していたときに、ある父兄さんがこう言っていた。「普段の練習を見たら、自分とこの息子の実力がどの程度かわかるんだよ」と。

 今日、午後からともきちと2人、東山の練習を見にグランドに足を運んだ。今年はおそらくこれで最後になると思う。休憩後、「今の自分の力を知っておくために」と遠投とベースランニングの測定が行われた。

 遠投では、まず「○○(自分の名前)、行きまーすっ」と叫んでから、全力で投げる。ボールが地面に付くと、測定担当の部員(?)が、「××(距離)」と叫ぶ。その結果に、「おおー」とどよめいたり、「お前、センスなしかー」をいうヤジが飛んだり、終始和やか…というより爆笑の渦だった。みな、自分なりの目標を持っているようで、悔しくて何度も挑戦した選手もいれば、好記録に帽子を放り投げて喜ぶ選手もいたりして、かなり楽しませてもらった。

 しかし、いい記録を出す選手がいる一方で、それほど記録の出ない選手も当然いる。当人に落ち込みの表情は見あたらなかったが、こういう数字がはっきり出てしまうことで、自分の力とかがわかってしまうんだなとふと思った。出来ない系人間としては、そんな選手のことがどうしても気になってしまう。ちょっとでも記録がよくなればといいな、と単純に思う。ベースランニングは、ベース付近のコースどりで記録の更新が出来そうな気がするが、肩って一体どうやったら強くなるんだろう。私、筋肉オンチだからわかんない。



2002年11月29日(金)
久慈ダンス

 イヤ〜なお仕事の後に聞いたハッピーなニュース。久慈(中日)選手の阪神復帰(?!)。一時期は“愛しの久慈サマ”をお呼びし、関川選手と共にトレードで中日に行ってしまった時は、私も中日ファンにならねばと悩んでしまった。それほど思い入れのあった選手。

 元々、小柄な野手は好きです。そして、彼には守備がうまいという印象があります。何より、これで久慈ダンスが思う存分踊れると思うと、今から来季が楽しみです(動機不純?!)。

 ところが、今やタイガースのショートは激戦区。藤本、沖原に田中秀太の3選手、そして新戦力の参入もあり得ます。そのほとんどが同じようなタイプの選手というのがちょっと悲しいですが(苦笑)、今やベテランとなった久慈選手、ふんばりどころです。試合に出ないと久慈ダンスも踊れないですから。

 …あ、そうだった。あの久慈選手の応援歌は今、沖原選手に使い回しされているんだった!(^^;)。来季の久慈選手の応援歌、どうするんだろ。個人のわがままだけでモノを云わせてもらえば、やっぱりあの応援歌は久慈選手に返して欲しいな。“♪ここで一発ホームラン”という箇所で、心の中で“んな無茶な”と突っ込むのはかなり楽しい。それに、沖原選手のモノとなった今の応援歌ではダンス付きで応援する人をほとんど見かけなくなってしまったからシクシク(泣)って感じ…。

 そんな話を日記作家仲間・すみさんにしてたら、“久慈ダンスをメールにして送ってや”と言われあわてふためいた。金輪際、“モノを書いて人に伝えたい”などという恐れ多いことは口にいたしませんので、お許しください(笑)…。



2002年11月28日(木)
垣間見た表情

 先日のドラフト会議で、福知山成美高校の大原選手がヤクルトに指名された。おそらく入団するでしょう。昨年、『野球小僧』さんの忘年会で流しのブルペンキャッチャーでおなじみの安倍さん(私のような素人にでもきちんと話をしてくれるいい方でした)に、「京都の選手で誰か注目している人いますか?」と聞いたら、一番最初に出てきた名前が彼、大原選手だった。

 いつの頃からかプロ候補と言われていたので、「ま、どこかに指名されるんだろう」とは思っていたが、今夏、初めて見た大原選手は残念ながら、不調の極みにいた。

 京都大会準々決勝、福知山成美高校は優勝候補の一角・平安高校にコールド勝ちした。挨拶を終え、ベンチ前に戻ってきた選手はみなはじけるような笑顔だった。ところが、そんな中一人浮かない顔をしていたのが、大原選手だった。おそらく、この試合ではヒットを打っていなかったように思う。チームは会心の勝利でも、自分に納得がいかなかったのだろう。福知山成美高校は、この2日後の準決勝東山戦で敗退した。大原選手はこの試合で1本ヒットを打ったが、それ以降再び当たりが止まってしまい、“注目のスラッガー”らしき活躍が出来ないまま夏を終えた。

 別に私には彼に対して特別な思いもないし、熱心なファンでもない。ただ成功して欲しいなとは思う。数年後、雑誌で特集を組まれるような選手になって、『高校3年の夏、あの日があったから今の自分がいる。』そう言って笑っていたりしたら最高。そのとき、“あの夏、エライ選手相手に勝ったんだな”と改めて肝を冷やしてみたい。
 



2002年11月27日(水)
こんなエールの贈り方

 オリックスの川口投手は、どうやら来季も現役でいられるようだ。気になって覗いた某野球サイトの戦力外通告や任意引退の欄に彼の名前はなかった。ほっとした。

 彼が京都・平安高校のエースとして、甲子園に出たのは多くの野球ファンがご存じだと思う。夏は準優勝で、それでも「なんや優勝すると思ってたのに…」などと心の奥で舌打ちをしていたのは、きっと私だけではないはず。当時の平安はそれほど強く、川口投手はそこまでいわせるほどすごかった。

 そんな川口投手と京都大会で最後に対決したのが、東山だった。当時の東山は今以上に強かった。でも、平安に一度も勝ったことがなかった。結局、2−7で敗退。一時は2−3と迫ったのだが、結局追いつくことが出来なかった。選手たちの手元は掌にのる程度の小さな銀メダルが残った。

 このときのメンバーで内野を守っていた選手の親御さんから、こんな話を聞いた。
 
 秋、彼は大学受験に挑んだ。試験科目は、小論文と面接。その面接の際に夏の大会で川口投手と対戦したことを話し、教官に関心をぐっと引き寄せた。教官は、「川口投手に何か言いたいこと、ありますか?」と彼に聞いた。彼は答えた。

 「実際対戦してみて、やっぱりすごいと思いました。プロに行ってもがんばって欲しいと思いました」

 結果、彼は合格した。本人に届くわけでもないし、面接官ももはや覚えていない話だ。でも、こんなエールがあってもいい。たとえ、それが受験の点数稼ぎだったとしても、だ。
 
 話を聞いた父兄さんとは縁が途絶えて、以後一度も会っていない。だから彼が今どうしているかはわからないが、今、川口投手をどういう思いで見ているのだろう。それだけは気になる。



2002年11月26日(火)
取材を試みようと思う。


 11月10日に「私の彼」(ハハ、柄にもないタイトルだね(^^;))という相方のことを書いた日記をアップしましたが、今はリニューアル工事中にしました。というのも、今日、相方と大阪で飲んでいて、彼の現役時代の話を聞いたのですが、原稿とそれの間にズレが生じていることがわかったのです。

 きちんと話を聞いているつもりだったし大丈夫と思って書いていましたが、記憶力の不確かさが再確認出来てしまいました。私は彼本人ではありません。だから彼の思っていることを100%書けません。でも、彼を書くということにおいて、私と彼という違う人間のギャップをちょっとでも埋めることが大事だと思いました。

 文中で、私は“彼はクラブを辞めた”と書きましたが、厳密には引退という形をとっており、クラブには籍を置いていたそうです。でも、部活をしていないので、「辞めたも同然やん」と言うと、「それは心外やわ」とちょっとむっとされました。

 取材が必要だと思いました。素人でも身近な人に取材は出来るでしょと言われたことがあります。でも、身近にスポーツ選手や関係者なんていないし…と思っていました。ところがところが、ちょっと考えが変りました。ふと隣にいる相方を見て、「なんや、こんなに側にいるやんか!」と思ったのです。



2002年11月25日(月)
独断と偏見の「2002好ゲームベスト10」


 昨日で、2002年の野球観戦をすべて終えました。2月の安芸キャンプでの紅白戦から始まり、昨日の練習試合まで、今年は去年より約20少ない70試合程度の観戦でした。去年は「0」だった大学野球が「10」と飛躍的に増えたこと、その代わりに社会人が「1」、阪神戦以外のプロ野球の試合が「0」と偏り傾向は治りませんでした。(ま、今となってはもういいけどね)。

 というわけで、今年もその70試合の中から私個人が思う好ゲームをエントリーしたく思います。(ただし、練習試合は除いてあります)

 
 第10位 6/15 大学野球選手権 亜細亜大学10ー0東北福祉大学(6回コールド)
→詳細は6/14の日記にて。

 第9位 8/24 敦賀市長旗争奪高校野球大会 若狭7x−6敦賀(9回逆転サヨナラ)
→取りつ取られつの好ゲーム。詳細は8/24の日記にて。

 第8位 10/5 秋季京都大会 北嵯峨6−4洛星
→これもまたシーソーゲームとなって。詳しくは10/5の日記にて。

 第7位 9/7 中国大学野球秋季リーグ 東亜大学6−0山口大学
→東亜大・米澤投手の好投に唸る。スコアを片面しか書かない楽しみを教えてもらった。

 第6位 7/26 京都大会 福知山成美8−0平安(7回コールド)
→某サイトで“歴史的瞬間”と言われていたが、それもうなづける。成美の野球はこれでいいんだなと第三者である私ですら思ってしまった…。

 第5位 7/18 京都大会 東山9−5西城陽
→あの逆転3ランがすべて始まりだったんですね…。ホームランってやっぱり“夢を運ぶものなんだ”と痛感したゲームでした。

 第4位 8/13 選手権大会 東山7−11佐久長聖
→東山のいいところ悪いとことの全てを出し切った試合だと思う。あの1試合だけ見た人でもこの年の東山ってどんなチームかわかっていただけたと思う。

 第3位 10/15 関西六大学秋季リーグ 京都産業大学1x−0龍谷大学(延長15回サヨナラ)
→0−0、最大延長イニング、ナイター、そしてエラーが絡んだ非情のサヨナラ。大学野球でこんな熱い試合が見れるとは正直思いませんでした。色々あって観戦記を途中放棄しましたが、もう一度書き直そうと思います。それくらいすごい試合でした。

 第2位 7/28 京都大会 東山9−7福知山成美
→壮絶な試合でした。終盤はちょっと相手校に不運だったなと正直思います。でも、エース対4番の対決に初めてしびれた試合であり、やっぱり最後の関投手の力投にはゾクゾクきました。今年の名場面大賞です。

 第1位 7/14 京都大会 西城陽2x−1洛西(延長15回サヨナラ)
→内容的には前出した2,3位の試合の方が壮絶だったのかもしれませんが、私の中の印象度ではこれをしのぐ試合はありませんでした。


 ☆番外 4/27 春季京都大会 東山7−8同志社
→試合終了後、放心状態でしばらく立ち上がれないほどショックのデカいゲームでした。負けた瞬間球場で座り込んでしまう選手の心境がちょ〜っとだけわかったような…。



2002年11月24日(日)
ほろ酔いの実感〜ついに試合解禁!〜


 ついにこの日がやってきた!今秋、最初にして最後の練習試合。おそらく直前に組んだ試合だと思うので、応じてくださった相手校にも感謝感謝。楽しみだけど、何故かすごく緊張して、朝早くから目覚めてしまった。地元の駅でともきちと待ち合わせて、徒歩でグランドへ向かった。風は吹いていなかったけど、空気が冷たく、空模様も残念ながら、すかっと秋晴れというわけにはいかなかった。けれど、グランドで声を掛けてくださった父兄さんの顔は、晴れ晴れしていた。「やっと試合が出来ます」。たった一言が、すごく響いた。

 試合は、思っていたよりも大勢の観客に見守られて進んでいた。もちろん父兄さんや関係者なのだけど、中にはこの夏引退した3年生の姿も見受けた。髪の毛もすっかり伸びていて、本人だとわかるまでに随分時間がかかった。

 1試合目は4−2で勝ち、2試合目は1−1の引き分け。守備も2試合通してエラー“1”と初の実戦にしては上々の出来。ホームランも飛び出し、ベンチは夏の大会のような盛り上がりを見せていた。また、試合内容も安定していたように思う。先制してから逆転されても、ズルズル行く前にきっちり追いつくことが出来ていた。時折、実戦経験不足を覗かせるシーンも見受けたけど、それもご愛敬?!現チームを初めて見た人と話をしたら、こんなことを言っていた。「みんな、楽しそうに野球をしてるな」。

 試合が引き締まった内容だったため、2時半という異例の速さで終了した。ちょっとあっけない気がした。また、長い間待ち望んでいただけに、燃え尽き症候群に近い症状が出て、“練習試合を見た”“春から公式戦にも出れる”という実感が今ひとつ持てずにいた。

 時間をもてあました私たちは神戸へと繰り出した。夕方混み合った餃子屋で、瓶ビールを頼み、乾杯した。酒を解禁してからもう2,3回飲む機会があったけれど、すっかり弱くなってしまい、飲むと頭が痛くなったり、胃がもたれたりした。でも、今日のビールは、これまで飲んだどの酒よりもおいしかった。そして、このとき初めて、“ああ、今日は試合を見たんだ。そして、春には公式戦が待ってるんだ”とほろ酔いの心地よさに素直に身を任せることが出来た。



2002年11月23日(土)
涙のメカリズム?!

 
 夕方、東京から帰宅し、こたつで寝転がりながら女子駅伝の中継を見ていた。若い女の子が懸命に走って、次の女の子にたすきを渡した。そのとき、何故か私の目から涙があふれてきて止まらなかった。女子駅伝には特別思い入れがあるわけでもないし、レース自体ちょっと競ってはいたがものすごい展開だったわけでもない。なのに、私の目から涙が溢れてきたのはどうしてなのか。自分でもそれがわからない。



2002年11月22日(金)
スポーツライター塾第二日目

 前回に引き続き、またもや遅刻。え〜ん、私じゃなくて、首都高(速)が悪いんだよ〜(泣)。あの渋滞の仕方は異常です。どこが高速やねん(-_-)。(どうでもいいけど、路肩見てるとすごく怖い。下丸見えやもん。私のようにまっすぐな道を見るとよれたくなる衝動にかられるような人間は、絶対首都高で運転してはいけません)

 今回も前回同様、“書く”ことが中心でした。書いてみてから聞く理論(?)は耳にきちんと入ってきます。野球もそうですが、やっぱりグランドに出て、ボールをさばかないとね(一応、ノックにたとえてみました)。

 今日印象に残ったのは、書いた記事を作者が読み上げたこと。全然イメージが違いますねえ。あと、人が見えていれば、多少興味のない分野が書かれていても、読んでみようかなという感じになれます。不思議です。日々思うのですが、やっぱり“人を動かすのは、人”なんですね。



2002年11月21日(木)
幸せはここにある?!


 夜、東山の父兄さんから電話を頂戴し、今週末に練習試合があることを知った。電話の向こうの父兄さんの声も以前に比べて明るかった。私はすぐにともきちに連絡して、その旨を伝えた。ともきちも喜んでくれた。でも、週末は雨かも?とつけ加えられ、ちょっとブルー。

 神様、もしいるのなら日曜日は晴れにしてください。いえ、くもりでも小雨でもいいっす。贅沢は言いません、とにかく試合だけはさせてください。



2002年11月20日(水)
ドラフトと私

 
 私がドラフトに一番熱くなっていたのは、90年から92年の3年間である。当日は、仮病を使って学校を休み、テレビの前にはりついていたほどだから我ながらあっぱれだと思う。

 あのころのドラフトはドラマで、面識も何もない注目選手でもブラウン管越しに見ていると、不思議な親近感が湧き、まるで身内の人のように一喜一憂していた。唯一の不満は、最後まで中継されないこと。当時はドラフト6位まであったのだが、中継はたいてい1位か2位で終わってしまう。私が密かに熱を上げていた選手は、当落線上ギリギリだったことが多く、いつもヤキモキしながら、翌日に朝刊を待っていた。で、新聞に目を通すと、興味は4位以下の選手に集中する。

 逆指名制度が始まった忘れもしない93年、注目の高校球児の一人、宇和島東・平井投手は意中のダイエーではなく、オリックスに指名された(オリックスって何故かこんな役割ばっかりのような気がする。いい球団だと思うんだけど)。社会人入りして逆指名するといったことをほのめかしていたのもあり、“なんで高校生だけ逆指名が出来ないの?!”とラジオの前で熱くなっていたのを覚えている。

 結局、平井投手は、オリックスに入団した。それから2,3年後、オリックスは日本一に輝いたのだが、そのとき、ストッパーとして活躍している彼の姿があった。



2002年11月19日(火)
ユニフォームの下


 体調ボロボロで、仕事にならなかった。頭の中には「しんどい」という一言しかなく、家に帰って寝ることと、目下止まらない鼻水を(食事中の方、すんません)対処することで精一杯。

 そんな自分の状況を思うと、野球選手ってやっぱりすごいと思う。高熱をおして登板するピッチャー、疲労骨折を隠して守備につく野手。それは「好きだから」だけではできないことだと今は思う。

 そういえば、東山が春の甲子園に出た時、岡島投手ともう一人活躍した投手がいた。岡島投手が故障もあり調子が上がらないなか、実質的には大半の試合を投げた投手だった。いい意味でふてぶてしさを持ち、マウンドに登っていた。そんな彼が実はひどいアトピー性皮膚炎に苦しんでいたのを後々になって当時の監督さんから聞いた。私も軽いアトピー性皮膚炎を持っているが、症状が出ると頭の中は“かゆい”の一言で征されてしまう。血が出てヒリヒリするのにそれでもかかずにはいられない。この話を聞いたとき、野球選手は健康でそんな症状とは無縁なんだと勝手に思い込んでいた自分に気付かれ、ハッとした。

追伸:花粉症も同様で、練習試合とかで山の中のグランドへ行くと、症状に苦しんでいる選手の姿を目の当たりにすることがある。


 



2002年11月18日(月)
優勝、したいです。


] 今日、大学野球の神宮大会(でいいのかな?)の決勝戦が行われた。決勝カードは、亜細亜大学ー東北福祉大学。実はこれ、春の2回戦の再戦カードだった。春は、東北福祉が為すすべもないという感じのコールド負けをしたが、今回は5−3とスコアから想像する限りではなかなかの好ゲームだったようだ。

 実は、私、春に亜細亜大学戦を終えたあと、偶然、東北福祉大の堂前選手が取材を受けているのを目の当たりにしている。結果が結果だから、声のトーンも低く、表情も暗かった。心なしか涙声だったように思った。今は人前だから緊張感を保っていられるのだろうけど、ふとした拍子に泣き出してしまうのではないかと、ハラハラした。私の中では、涙は高校球児にものだから。

 そんな彼がポツリポツリとこぼすように発した言葉に、「優勝、したいです」というのがあった。2回戦でコールド負けしたチームが優勝だなんて、随分高い意識を持っているんだなあなどと失礼なことを思った。しかし、秋にここまで上り詰めたのはすごいなと思った。当時は、あのか細い声で、「優勝したい」と言われても正直説得力に欠けるなあという気持ちもあった。この結果を受け、表象だけで物事を判断してはいけないと思った。
 
 目標まであと一つのところで、春に苦杯をなめた相手にまたもや敗退。彼はどう思っているのだろう。同じ相手に負けて悔しい?優勝出来ずに残念?準優勝でも自分たちはよくやったと胸を張っているのかな?

 スコアだけではわからないことって、たくさんある。



2002年11月17日(日)
もうすぐ結婚する友のこと


 友人が、来春結婚する。式に招待されており、出席しようと思っている。この年頃なら、多くの方が経験されていることだろう。ところが、今回はちょっと勝手が違う。結婚するのは、男友達だからだ。

 相手の女性が良く思わないだろうし、男友達が結婚しても、式には呼ばれないだろうと思っていた。ちょっと淋しい気もするが、逆の立場に立ってみるとそれも仕方ないかなと思っていた。ところが、彼は違った。まだ彼が“男女のおつきあい”というものをたしなむ前にそういう話になったのだが、そのとき、彼はきっぱりこう言い放った。「そんなこと気にする子とはつきあわない」。うれしかったし、きっとそういう子は彼には似合わないように思えた。

 彼とは大学時代からのつきあいだが、甘えさせてもらっていたと思う。純粋に優しい。料理はうまいし、よく気がつく。そういや、会社つとめしてたころ、「もう仕事辞めんねん」と愚痴る私に延々つき合ってくれた。でも、逆に彼が失恋したときは、一緒に酒をかわして、話を聞いたからおあいこなんだけど。

 そんな彼が結婚する。最近、どんどんあか抜けていくのがわかったし、優しさだけではなく意志の強さを随所にのぞかせるようになった。実は昨日から彼の家で学生時代の友人と遊んでいた。今日、新居となるマンションのモデルルームを見に行った。35年ローンで購入したとのこと。聞いてびっくりした。これまで生きてきた月日よりも長い!結婚って、やっぱり“生きる覚悟を決める”こととイコールで結ばれると思った。

 彼の結婚は嬉しい。今から相手の女性がどんな人か会えるのが楽しみだ。もちろん、彼とは今後もずっと友達だが、「結婚後も変らぬおつきあいを」という言葉を私は信じていない。だから、それによって失うものを思うと、ちょっと名残惜しい。たまり場化しているワンルーム、オリジナル料理、突然電話をかけても酒につきあってくれるパートナー、プレステで「桃鉄」に燃えること、押入いっぱいにあるマンガ図書館、そして風を受けて走るバイクの後部席…。

 以前、こんなことがあった。彼の家でのオールナイト2日目の早朝、急遽1時間後に東山の試合が入った。試合の会場と彼の家の距離を考えると、どうあがいても間に合わない。そんなとき、寝ぼけ眼の彼が起きあがり、「駅までバイクで送る」と言ってくれたのだ、お言葉に甘えることにした。早朝の河原町通を爆走した。便のいい駅で降ろしてもらったので、「ありがとう、朝からごめんな」と言うと、「かまへんって、これが自分の本職やろ」と言って小さく笑っていた。モノの分かる友を持てて幸せだなと思った。



2002年11月16日(土)
東山三昧?!

 
 ずっと体調が悪かったはずなのに、休みになると元気になるゲンキンな私は、朝から西京極球場に足を運んだ。クラブチームの交流試合があり、その第一試合に東山クラブが出ていたから。東山クラブとは、その名の通り、東山OBが中心に構成されているクラブチームだ。

 試合は最終回まで0ー9と大量にリードされていたが、土壇場で4点を返し、“やっぱり東山やなあ”といい意味でも悪い意味でも、そう思った。電光掲示板には懐かしい名前の並んでおり、ほとんど観客がいない球場で一人悦に浸っていた。そこで繰り広げられていたのは、都市対抗を目指したり、プロ注目の選手がいたりする企業野球とは、まるでカラーが違った野球だった。現役時代に比べてふくよかになっている体のラインや、動きにキレがなくなっている姿を見ると、“人は年をとっていくもんなんだなあ"としみじみ思ってしまった。

 試合は1時間半くらいであっさり終わった。そのあと、一度帰宅し、次に向かったのは、そんな元選手たちがかつて汗を流した山科グランド。着いたら、すでにノックが始まっていた。まもなく、監督さんがグランドから出てきて、父兄さんに「今日は、紅白戦“もどき”(変則性があり、完全に試合形式ではなかった。高校野球は色々あるので、念のため)をやりますんで」と言った。そっか、今日は11月16日。もう解禁なんだ。長かったような短かったような3ヶ月だったなあ。

 全部員を二手に分け、ホームベース前に整列。選手は一礼し、気合いの入った声とともに、各ポジションに散らばった。一番バッターが打席に向かう。そのときの何とも言えない嬉しそうな顔が印象的で、なんだか私まで嬉しくなった。三振あり、ホームランあり、各々の選手が力を発揮したように思うが、勝ち負けより、“野球”をしている選手を見れたのが何より嬉しい。

追伸:2ヶ月半ぶりの酒は、大好きな麒麟淡麗生で決めた。やっぱり、私には酒が必要なんだと痛感した。アルコールに愛と平和を込めて。乾杯♪



2002年11月15日(金)
高校生が真剣に話を聞くとき

 高校野球部の練習では、練習中に何度かミーティングが行われる。一つの課題に入る前に、何故この練習をするのか、どういう風に進めていくのかという指示が指導者から出る。走塁やフォーメーションなどの細かいプレーの練習をする際にはしっかり聞いておかないと頭がこんがらがりそうだ。

 選手たちはそんな指導者の説明をもちろん真剣に聞いている。しかし、その表情やまなざしが色褪せて見えるほど、彼らの表情や目の色が一変するときがある。

 ある日のミーティング中のこと。バックホームのフォーメーションの練習における説明がなされていた。じっと耳を澄まして聞いていたが、ややこしすぎて頭がこんがらがってきた。選手とてそれは同じで、私の目から見ても集中力をなくし始めているように思えた。

 そんなときである。指導者が少しトーンを変えた。
 「…(前略)、結局、このプレーが出来なかった。それだけで、夏が終わったんだよ。3年間がんばってきたのに、たったそれだけで」

 選手の目の色が変ったのは、このときだ。姿勢も前のめりになっている。側で談笑しながら見守っていた父兄さんの口も止まり、じっと指導者の方に目線を注いでいた。

 新チームが結成されてまだ日が浅かった当時、上級生ですらまだ“最後の夏”という実感がそれほど湧かない時期のはずだ。でも、選手たちは“夏が終わる”という言葉に鋭く反応した。びっくりした。
 



2002年11月14日(木)
数字がモノを云う世界


 前々から、自分は仕事の出来ない人間だと思っていた。でも、事務職やホールなど実力が明確に表れない職種だったため、出来なさ度を測ることが出来ずにいた。だから、心のどこかに“自分が勝手に思い込んでいるだけ”と思える希望が残されていた。

 ところが来るべきときが来てしまったというか。今の職場はどうやら仕事能力を数値で評価出来る職種であることが発覚した。商品をどれだけ早く正確に数えているのかを数字にして、事務所の壁に個人別に張り出されていたのである。イヤな予感がしたのだが、私の数値はみなのそれと比べて頭二つほど低かった。ま、2ヶ月ほど前の成績なので、今はもう少しマシになってはいると思うのだが、トータルしてみると、やはり全社員の中では最下位だった。やっぱり私は仕事の出来ない人間だったんだ!ある意味あっぱれではあるのだが、今日、一緒に仕事をした上の人に、「もう少し早く打てるようにしないと、仕事くれなくなるよ」と言われ、さすがに“やばいかも”と思っている。

 そんな私が思うのは、やっぱり仕事場に居づらいなってこと。それでなくても今の職場にはなじめていないのに、事務的なことを訊くことすら怖くなっている。成績表はみんなが見ることのできる事務所の壁に貼ってある。当然、私の成績はずば抜けて悪いことは周知の事実だ。こんなことを訊くなんて、そりゃ、あんな成績だよなとか思われてるんだろうなと思うと、なんかねえ。自意識過剰かもしれないけど、もし私が私でない人間だったら、やっぱり本人見るたびに「(成績が悪いのは)あの人か」ってどうしても意識してしまうだろう。

 プロ野球を語るときに、厳しい世界だとよく言われる。かく言う私もそうだろうと考えるのだが、今、自分を表す数字の恐ろしさを痛感して初めて、それが実感としてわかったように思う。



2002年11月12日(火)
アメリカスポーツの凄さを痛感

 
 何気なくテレビを見ていたら、NFLの試合が中継されていた。先日アメリカンフットボール観戦デビューした私は、いきがって見てみることにした。つい数日前までは未知のスポーツだったアメリカンフットボールだが、たった1回の観戦ですごく身近に感じてしまったから不思議だ。

 日本の野球とメジャーリーグの違いというのは、TVで見ていても漠然とだがわかる。でも、アメフトの場合は、全く分からない。もし“どっきり”か何かで、高校生の試合を流して、「これがNFLの試合ですよ」と云われても、それを信じて疑わないで見ているだろう。

 ところが、アメリカってところはすごいなと思える場面の遭遇した。試合前半、自陣のゴール目の前で相手がパスしたボールをカットして、独走し、そのまま逆転タッチダウンを奪った選手がいた。ラグビーでも思うのだが、10人強の大男達のすきをついて、風と声援を受けながらフィールドを走るのはすごく気持ちいいのだろうな。それも今回の場合は、ついさっきまでピンチだったのに。

 その選手が走った距離は98ヤード。メーターに直すと90メートル弱。アメフトのフィールドは、長さが100ヤードなので、この数字がいかにすごい独走だったかを物語っている。

 カメラは、タッチダウンを奪った選手を映していた。なんとその選手は酸素マスクを口にあて、苦しそうな表情をしていた。確か、この選手は30代後半のベテランだと解説者が言っていたっけ?にしても、100メートル弱を走っただけで、酸素マスクだなんて、アメフトの選手って、そんなにヤワなん?

 むろん、それは大きな誤解だった。そのあと、スタジアムのビジターチームのロッカールームが映った。壁にプレートが掛けられていた。そこにはこのスタジアムの標高値が書かれているらしく、ここは標高1000メートル強という高地であることを知らせていた。これは敵を威嚇するためのものだろうとアナウンサーが話していた。

 標高1000メートルなんて、山の上やん。そんなところでアメフトかいな。そりゃ、酸素マスクいるわ。



2002年11月11日(月)
紫の糸


 偶然の重なりを運命と呼ぶのかもしれない。今日の出来事は、私にとってそれくらい驚いた。

 夜、ともきちとおち合って、東山の練習を見に、グランドを足を運んだ。グランドには野球のユニフォームを着た選手がいたのだが、どうも違和感がある。軟式の子かもしれない。グランドに入る前に念のために確認しておこうと、外のブロック越しにグランドを覗いた。一人二人とグランドに姿を見せた選手は、見慣れた面影ばかりで、どうやらこれから硬式の練習が始まるようだ。来て良かった。そう思って、グランドに入ろうとすると、懐かしい顔とすれ違った。目があった。

 「おう、久しぶりやんけ。まだ来てんのか」。その顔に苦笑いが浮かんだが、悪い気はしていないようだ。青色のベストに薄いストライプの入ったシャツ。グランド側にある喫茶店のマスターの制服。仕事帰りのようだった。こうして話をするのは久しぶり。「まだ嫁に行ってへんのか」とか、「ここまで(追っかけを続けて)きたら、もうとことんやれや」などとからかわれはしたが、それでもこれからの東山に期待をかけているようで、明るい話が続いた。ひとしきり話した後、「また、店にもおいでぇや」と言って去っていった。

 久しぶりの再会に興奮を抑えられないまま、ともきちと二人でグランドに入った。そして、どっちが言い出したかは忘れたが、「ああ、ひとまわりしたな」と一言。応援に限らず、何事も続けるということは、いい意味であれ、そうでないであれ、進んでいることとイコールだと思っていた。ところが、私たちがやってきた追っかけは、そうではなかったようだ。このとき、初めて気付いた。

 ひとまわり。スタート地点はもちろん、追っかけを始めた当初である。11年前のちょうど今ごろ、近畿大会の試合に感動した私たちは、初めてグランドに足を運んだ。すでに夜で、ナイターの白い光が色鮮やか。シーンと静まりかえったグランドに、選手たちの低い声が響く。グランドの門は開いていたが、はりつめた空気が私たちをグランドには入れなかった。私たちは今日と同じように外のブロック越しに練習を見ていた。そこに声をかけてきたのが、前出の喫茶店のマスターである。それ以来、甲子園応援バスに乗せてもらったり、成人式の振り袖姿を見せに店に足を運んだり、就職の悩みを聞いてもらったり…つきあいの途切れた時期もあったが、そうして11年が過ぎた。

 そして、今日、全くと言っていいほど同じようなシチュエーションで再会したのだが、今日ここにいたことは本当に偶然だった。本当なら、私は夕方まで仕事で帰宅は夜の8時か9時くらいの予定だった。ところが、会社の手違いで午後の仕事がなくなり、午前中で仕事が終わった。そんなときに、ともきちから、「久しぶりに会いたいな」というメールをもらった。で、グランドに行こうということになったのだ。もし私の仕事が夕方まであったら、メールを見ても会えなかっただろうし、マスターとも今日のあの時間だっただから会えたのだ。会う日の候補に挙がっていた明日は定休日だし、閉店時間を考えると店から出る時間というのもある。それに、グランドの中にいたら間違いなく気付いてもらえなかっただろう。こうして羅列してみると、すごくささやかな偶然が重なっている。

 だからというわけでもないが、あのときからひとまわりしたと思った。あれから、たくさんの人と出会い、たくさんの試合を見、泣いて笑って怒って感動した。思うことも一杯あった。選手との距離感、父兄さんとの関わり方、東山の首脳陣の人事も、している野球も大きく変った。選手の気質もそうだろう。それに対して、はがゆかったり、無力感に襲われたり、イヤになったり、冷めたりすることもあった。そうして、甲子園行きを素直に喜ばなかった自分が形成されてしまったのだが、そのことも含めて、すべてがひとまわり。良くなったわけでも、悪くなったわけでもなく、ただ元に戻っただけ。それがなんだかすがすがしくていい。

 追っかけ故に抱いていた複雑な感情がイヤだった。消してしまいたいと思った。でも、それをも受け入れることが出来るような気がする。

 今日は自主練習だったらしく、選手はのびのびと各々の課題に取り組んでいた。普段以上に選手の生声が聞こえ、かなり素の言葉もあり、聞いていて楽しく、ともきちと二人で笑いっぱなしだった。(明らかに練習の邪魔だったね。ごめんなさい)

 世界は何も変っていないし、自分の現状も変っていない。でも、今日は“幸せ”の2文字が身に染みた。こうして、これからもこのチームを見続けていくのだろう。ともきちが言う。「(東山から)離れようとすれは離れられるだろうし、離れてしまうのが普通。それに実際離れようとしたこともあった。でも、誰がか私たちと東山を引き合わせてくれているような気がする。今日、マスターと会ったことだってそうなんじゃないかな」。私たちと東山は赤い糸、もとい紫の糸で結ばれている。きっとそうなんだ。



2002年11月10日(日)
私の彼


 彼は自分のことをあまり語りたがらないが、高校時代にしていたクラブについてはわりとよく話す。身長165cm、体重50kg台前半。未だに学生と間違えられてもおかしくないほどの童顔。彼が、「高校時代、アメフトをやっていた」と言うと、100人中100人が驚く。何を隠そう、私もその一人だ。

 野球好きでずっと野球部に入りたかった彼だが、坊主頭がどうしてもイヤで、野球部に所属することはなかった。そんな彼が選んだのは、アメリカンフットボール。スタートがみな同じというのが気に入ったらしい。ヘルメットは、バイク用のスプレーとビニールテープを使って自分で装飾するのだとか、マネージャーが発注したユニフォームが小さすぎて格好悪かったとか…。話すたびにエピソードが増えていく。

 小柄で足の速い彼は、何というポジションかは忘れたが、ボールを受け取って、走るのが役割だったという。野球で言うと、ピッチャー並に目立つところだ。あわよくばタッチダウンも決めることができるポジションだが、彼にはその経験が一度もない。せっかく独走状態に入っているのに、ほどけた靴のヒモに躓いてこけたりして、何故かチャンスに恵まれなかった。でも、それは実力だった言えるかもしれない。彼は、高校3年の春に引退した。

 その後、チームは全国大会出場を決めた。「悔い、残ってへんの?」と何度か訊いた。ところが彼から返ってくる答えは、「受験があったしなあ」とか「俺は(監督に)あまり重要視されてへんかったから」と訊くたびに違う。要するに、はぐらかされている訳だ。ただ、必ず口することがある。

 「社会人のチームと試合をしたんや。ブォーンと吹っ飛ばされんねん。片手で…」

 彼は、おどけてぶっ飛ばされたときの顔マネをして笑うのだが、私は一緒になって笑えなかった。

 ある日、そんな彼と初めてアメフトの試合を見に行った。アメフト観戦デビューの私は何も知らない。だから、アホみたいに、「タッチダウンって何?」とか「今、何か黄色い物体が飛んできたけど、あれは何?」といちいち質問していた。最初は丁寧に答えてくれた彼だが、試合が進むにつれて寡黙になった。隣に私がいることなど忘れてしまったかのような真剣なまなざしでフィールドを見つめていた。見たことのない目をしていた。




2002年11月09日(土)
掲示板の思ひ出

 数日前からすでにお知らせしていますが、明後日で掲示板が終えます。みなさま、温かいメッセージをありがとうございました。レスはつけていませんが、すべてのメッセージを拝見させていただいています。こんな素敵な常連さんたちに見守られて、HPを運営してこれた私はほんまに幸せもんやと思います。

 つれづれ掲示板は、2001年5月ごろ(だと思う)に設置しました。当時はまだ「野球日記」しかなかったので、単純に日記に対する感想が欲しかったのと、あと野球ファンの人のいろんな思いを聞きたかったのがあります。

 最初は友人を中心とした義理半分冷やかし半分の書き込みが続き、その後、よく遊びに行っていた「ベンチウォーマー」さんの常連さんが来てくださるようになりました。今も常連さんの大半が「ベンチウォーマー」さんの流れを組んでいます。

 これまで何度か書いてきていますが、私が自分の掲示板で知りたいのは、情報ではなく、その情報に対するその人の思いなんです。そう気付かせてもらったのは、掲示板初期のころのある常連さんの書き込みででした。その常連さんが試合を見に行くとおっしゃるので、深い意味もなく、「レポート待ってます」とレスしました。ところが、その常連さんは「私ではわからないこともあるし、私の一存でその選手や試合のイメージを持ってもらったら怖い」みたいなことを書き込まれました。当時私はネットや野球にまつわる諸々のしがらみを今以上に分かっていなかったので、単にその方の考えすぎなんじゃないかと思いましたが、抱えている事情は人それぞれです。だから、「その試合を見たあなたがどう思ったかを教えてください」とレスしました。単なる情報なら、もっと早くて詳しい掲示板はくさるほどあるし、そこと同じこと書き込まれても、私個人は楽しくないです。私のHPの掲示板に、なぜ私以外のHPの掲示板でも書き込めるものをかかれなきゃいけないの?って感じですし、その気持ちは最後まで持っていました。だから、私はコピー書き込みや宣伝、一言書き込みにはきびしかったんですよ。

 なんかすごいなあと思ったのは、2001年夏でした。九州産業大学九州高校が甲子園に出ていたのですが、その試合のときは、チャット状態で、「今、○ー○です」「あと少し集中、集中ー」とか、文章になってませんでした。なんか、みんなで一緒に球場で応援しているような一体感を感じました。

 あと、掲示板管理人冥利につきたのは、いい意味で議論が活発になったときです。それも、自分の書いている文章がきっかけで。たとえばあるページに背番号のもらえなかった選手のことを書いたんですが、それを受けたレギュラーだった元高校球児の方が、「補欠の人を持ち上げるのは大切だけど、レギュラーも努力してつかんだもの、だから度が過ぎるのはどうか」と書き込まれ、それを受けて補欠だった元高校球児の人が「補欠だったがんばってる、でも、実を結ばなかった」とレスされました。不思議とケンカにはならずに終わりました。私は両方の立場だった人の思いがわかって、すごく感動しました。掲示板やっていて、ほんまに良かったと思いました。今も、この議論で思ったことを文章を書くにおいて柱に据えているように思います。あと、父兄さんが切なる悩みを書き込まれ、それに対して、一ファンの私や元高校球児の方がそれぞれの思いを書き込みました。答えにはなっていなかったかもしれませんが。

 また、私の文章スタイルが大きく変ったのも、掲示板がきっかけです。今はもう消えてなくなったいるのですが、日記を始めた当初の私の文章はすごく堅いものでした。それこそ、私の嫌いな評論文的スタイルで、上から物を見たような感じの。ある日、大阪近鉄が優勝したのに雑誌の表紙が長島さんというのはおかしいといったことを書いたんですよ。すると、掲示板に超長文の反論が来たんですね。腹は立ちませんでした。内容を見て、「この人は、私の文章をすごく真剣に読んでくれているんだ」と思えたからです。指摘された点が治ったかどうかはわかりませんが、11月から私の文章にスタイルが変りました。すっごく楽になりました。また読者が増えたという実感やメールが来るようになったのもこの時期からだと思います。当時はネット上で恥をかかされたみたいで、恥ずかしいし情けなかったのですが、今ではすごく感謝してます。

 ところは、いいことばかりではありません。HP運営のトラブルの8割は掲示板絡みだという説があるほどです。私にもいろいろあって、一時掲示板を閉鎖していたこともありました。ちょうど去年のこの時期です。今、思ったら大人気なかったと思うし、読者や常連さんに随分甘えていたなと思い、恥ずかしいです。でも、あのときはほんまに自分の限界でやばかったですね。ここでも、常連さんに助けてもらいました。メールで励ましてくださいました。また、今までROM専科だった方もメールをくださいました。当時は辛いのは自分だと思ってました。でも、決して許しはしませんが、トラブルの相手の人もそれなりの苦しみがあったのかもしれなし、また見えないけれど掲示板を見て傷ついたり辛い思いをしている人もいるのかもしれないと考えるようになりました。

 再開後は、ほとんどトラブルなく、運営できたと思います。ああいうアイコン型にしたのは堅苦しい雰囲気がトラブルを呼び込むと思ったからです。幸い、分かってくださる方が多く、アイコンネタで楽しむことも出来ました(^^)。

 それにしても、いろんな方から書き込みをいただきました。ファンの方は元より、東山のOBさんや私が好きだった球児くんの親族の方やもしかして奥さん??という方まで。ネットってすごいなあと驚かされっぱなしです。

 閉鎖の理由には、仕事がしんどいというのがあります。あとは、私の頭の中の問題ですね。私の頭の中って、簡単に言えば容量の少ないメモリースペースなんです。たくさんのことが入らない。だから、ある程度のことが頭にあると新しいことを入れるには、これまでのものを削除しないとダメなんですね。それはHP運営においても同様なんです。で、何を消そうということになり、先に削除した「あるこの原点」と掲示板が浮かびました。

 掲示板閉鎖に関しては最後まで迷いました。それは、掲示板は他のコンテンツとは違い、自分ではなく書き込んでくださるみなさんが中心のものだからです。書き込んでくださるみなさんにはそれぞれの事情がおありだと思います。HPをするほどでもないけど、野球について書きたい、自分の地元の野球、注目の選手をみなさんに知って欲しいなど、ご本人から直接聞いたわけではないのですが、書き込みを拝見していて、そういうのが伝わってきました。掲示板を閉じると、そんなみなさんの思いや常連さん同志のつながりを断ってしまうことになります。

 掲示板は、書き込むみなさんが作り上げるコンテンツ。そう定義づけて、私は管理だけして、一部常連さんをメインにして続けることも考えました。でも、管理人が関与しない掲示板の行く末なんてしれています。せっかく立ち上げた掲示板、惨めな形で終えるのは淋しいじゃないですか。

 なんかうまく書けませんでしたが、これを機にずっと澱んでいる私の人生が一歩でも先に進めばいいなと思いますし、進めなきゃいけないな。今回、掲示板を終えるにおいて、多くの方からいただいてメッセージを読んでいてそう思いました。人生は自分一人のものじゃないんだ。だから辛いときもあるのだけれど。

 とにもかくにも、今までありがとうございました。そして、今後ともよろしくお願いいたしますm(_ _)m。



2002年11月08日(金)
スポーツライター塾第一日目


 “えらいことになったなあ”と思った。正直、不安が先行した状態でこの日を迎えた。バスの渋滞で遅刻した私の息が整わないうちに、「今から話をするので、記事にしてください」と言う。うわあ、苦手やねんな、そういうの。

 大体、この塾の受講をためらっていたのは、人に話を訊いたり、話をまとめるのが苦手だからなのに…。でも、逃げられないし、書くしかないか…。
 
 それにしても小林さん(塾の主催者)の話はおもしろかった。カール・ルイス選手の独占取材のエピソードや“最近のメディアではやるスポーツがあまり取り上げられていない”という指摘は、すごく新鮮だった。この話だけでも、スポーツライターの可能性ってまだまだ開拓途上なんだなと思ったし、なんだか未来が明るい気がした。

 でも、話に聞き惚れて、手がお留守になって、原稿では大苦戦した。私は、取材者失格だな(笑)。



2002年11月07日(木)
そんなわけで、明日は東京です。


 8日ぶりの仕事でした。休みばかりで不安だったけど、いざ仕事は入ると億劫。やっぱ、根本的に労働嫌いなんやろな、わたしゃ。

 前にも一度お話しましたが、私の今の仕事は日によって内容はおろかメンバーや勤務時間も違います。だから、いいときもあればいやなときもあります。普段は4〜5人のグループで仕事をするのですが、今日みたいに2人だけということもあります。だから、仕事をするにおいて一番重要なのは、パートナーの人柄、および相性です。私の中には、下記のような“仕事快適度グレード表”たるものがあります。(左から順に、グレード数、パートナーの人柄、仕事のやりやすさ、仕事終了時間)

1,ヤな人、やりにくい、遅い
2,ヤな人、やりやすい、遅い
3,ヤな人、やりにくい、早い
4,ヤな人、やりやすい、早い
5,いい人、やりにくい、遅い
6,いい人、やりやすい、遅い
7,いい人、やりにくい、早い
8,いい人、やりやすい、早い 

 今日は、そのグレード“8” だったんですよ〜。もうウッキ〜♪ですよ。細かいこと気にしない人で、失敗しても責めないし、すっごく質問しやすいし、今の会社では珍しく話しやすい人です。身長も嫌味のない程度にあり、ハツカネヅミのような愛嬌のある顔。いやはや、相方がいなかったら、絶対惚れてましたよ〜(*^_^*)。でも、どうやら既婚者みたい(携帯の待ち受け画面が子供の写真やった)なんですが。昼はおいしい焼きそば屋へ行きました(もちろん勘定は別。仕事だもんね。チッ)。次は、いつ一緒に入れるかな。

 な〜んて、おめでたい文章が書けるのも野球が絡んでいないから?!

 こんな精神状態で、明日は東京にて文章講座です。一体どうなることやら。では、おやすみです。
   



2002年11月06日(水)
心動かされた本たち。(あまり野球とか関係ないです)

 
 今日は、私が読んで心動かされた本を特選して紹介したいと思います。深い意味はないです。(順不同)

☆エントリーナンバー1 『放課後の音符(キーノート)』山田詠美著

恋愛観が180°変りましたね。恋愛する前にこの本に巡り会えたことに感謝。

☆エントリーナンバー2 『女の一生』遠藤周作著

歯医者の待ち時間で泣きました。

☆エントリーナンバー3 『ルーキー』山際淳司著

私が“野球を書きたい”などと思ってしまったのは、この作品のせいです…。

☆エントリーナンバー4 『松本の遺書』松本人志著

今や心のバイブル♪

☆エントリーナンバー5 『スカウト』後藤正治著

まるでその場所に居合わせたかのような臨場感。彼の書いた選手像をそのまま信じたい!今のところ、私の中ではナンバーワンスポーツライター。(でも、実際は医学なども扱うノンフィクションライターです)

☆エントリーナンバー7 『ブッタとシッカタカブッタ』小泉吉宏著 

4コママンガです。心が楽になります。一応佛教書。

 個人的には文学作品はほとんど読みませんが、たま〜に読みます。以前、『文學トイフ事』という深夜番組がありました。これは文学作品をCMとドラマの合いの子のような雰囲気で紹介する(プロモーションビデオ?)15分くらいの番組だったと思いますが、それを見ていたときはわりと読んでいました。

 その中の1冊に『美徳のよろめき』(三島由紀夫著)があるのですが、なんだか読んでて楽しかったし、この作者は楽しんで書いているんだろうなと思った記憶があります。生まれて初めて、行間が読めた作品として思い入れがあります。

 とても、いい番組だったのに、すぐ終わりました。復活してくれないですかね。活字離れをちょっとはくい止められると思うのですが…。



2002年11月05日(火)
勝手に相対評価


 今ではどうかわかりませんが、私が中学生だった当初、成績は相対評価でした。各クラスに『5』は2人、『4』は何人という風に分配されていていました。だから、出来る人が多ければ多いほど、いい成績を取れる可能性が低くなります。もちろん、学校サイトはそういう事態を最小限に抑えるように考慮してはいるのでしょうが、人って変って行きますからねえ。

 あれは、忘れもしない中学1年の3学期。大きなテストはたった1回、期末だけです。別に自慢するわけではないのですが、私は100点を取りました。100点を取ったのはクラスで2人だけです。もしかして、『5』が取れるかな?と思いましたし、思うじゃないですか、普通。ところが、いざ成績表を開くと、あいそもへったくれもない黒いスタンプで押されていたのは『3』の数字。あ〜ん?って感じですよ。

 確か、先生に抗議しに行ったはずです。当時の先生の名前すら覚えていないので、先生からの理由に素直に納得できたのでしょう(よっぽど日頃の行いが悪かったんだろうな)。でも、未だになんだかなあとちょっと思います。

 それから、14年。私はどうやらこの“相対評価”に支配されていることに気付きました。自分が自分なりの文章が書けたとしても、それより上を行く人がいると、もう辞めたくなります。自分の書いた文章なんか削除したくなるし、自分の脳みその中にある“文章を書く”という細胞をピンセットか何かでプチッとつぶしたくなりますね。おかしいなと思うのですが、思ってしまうので仕方ないです。

 余談ですが、私の本名の画数は29です。これは男性にとっては立身出世するいい画数なのですが、女性ではそうでもないようで、恋愛・結婚運が良くなく、孤立しやすいタイプなんだそうです(すっげえ、あてはまるんですが)。お母さんは何故私を男の子に生んでくれなかったのでしょう。…で、なんでも他人に勝ってないと気が済まない勝ち気なタイプともありました。ハハハ。イヤんなります。アドバイスは、“不平不満を言う口をふさいで、感謝の言葉を口にしなさい。人は人、自分は自分と割り切って、こつこつ努力しましょう”。出来たら、苦労しねえよ。



2002年11月04日(月)
ラーメン屋ふしぎ発見?!

 今は野球のHPをやっている私ですが、実はもう1つやりかたかったHPがあります。それは、私がバイトをしていたラーメン屋『天下一品』を扱ったサイト。各店舗の一言寸評やアルバイト経験者ならではの裏話などを盛り込もうという魂胆でしたが、いかんせんめんどくさがりですし、もうあちこちにその類のサイトがあるので止めました。その名残をここで随時放出していきたいと思います。

 ここの名物こってりのスープは、某所にある工場で作られ、袋に入ったものを温めて使っています。ですので、どこも基本的には同じ味に仕上がるはずなのですが、店舗を巡っているとその差の激しさにカルチャーショックすら覚えてしまいます。

 私が思うまずいスープの条件に、水っぽいこと(特に都会の真ん中の店にその傾向を多く見受けるような…)があげられます。普通の店は、最初は少々水っぽく、終わりに近づくとどろっとしてきます。その最初と最後の味(濃さ)の差が無ければないほどいいスープだと私は考えています。(某店舗では、何故か真っ赤なスープが出てきてびびりました。ケンカ売っとんのか!)今日行った琵琶湖沿いの店舗はそういう点ではヒットでした。最初から最後までどろっ感にぬかりがなく、終始味が一定していました。それも初めての人が戸惑い、常連をさらに虜にしてしまう高い濃度のこってり感で。店舗がきれいということもあり、客がたくさん入っていました。ちょっと希望を見いだすことが出来ました。

 ここで、最初で最後のクエスチョンです。当時アルバイトをしていた私は、まかないとしてこのこってりスープのラーメンを食べていたのですが、このスープであることがわかりました。さて、それは一体何でしょう?(ここで、『世界ふしぎ発見』の問題提起後のBGMが欲しいところ)

 さ、みなさん答えは用意できましたか?自信のある方は、あるこちゃん(?!)人形でどうそ。

 正解は、(調理していた)店長の機嫌。

 やっぱり機嫌が悪いときのスープはムラが激しいですし、焦っているときやしんどいときは水っぽかった。逆にニコニコしているときは、こってりが心地よく喉を通っていきました。どうであれ、やっぱり社会に出たら上の人の心境をつかんでおくことって大事です。おかげで、その方程式がわかってからは、それほど叱られなくなりましたよ。



2002年11月03日(日)
決別


 一部ご存じの方もおられるでしょう。8月ごろから私はある新人賞に応募しています。先日、すごいダメージを受け、めちゃくちゃ凹み(日記に書けないほど悲観的なこと考えていました)、情けなくなって、虚しくなり、そして、最後にはごっつ腹が立ってきて、「もう一生涯応募してやるもんか!」とすら思っていました。

 それで自分の中で終わったはずでした。でも、なんか後味が悪いっていうか、歯にひっついたキャラメルのような違和感がまとわりついていたのです。本当は、わかっていたのかもしれません。その作品と向き合わないと現状を打破することはできないんだと。ただダメージがあまりに大きすぎて、必死にその現実から目を背けていたんでしょう。

 昨日、野球部の練習を見ていて、ふと思ったんです。「ああ、この子らも、いろんな束縛の中でがんばってるんだな」って。言われたことをやらないといけない。わからなくても、わからないとなかなか言えない。納得できないこともあるかもしれない。でも、やっている。なんかね、そんな選手ら見ているとね、自分がちっぽけに思えてきたんですよ。ま、私なんてちっぽけなんですが、ふと、そのとき、あの作品を放置することは、誰のためでもなく、がんばった選手のために良くないんじゃないかと思ったんですよ。人に批判されたからどうこう、じゃなくて。

 でも、今のスランプ状態の私に何が出来るわけでもないんです。で、たった一つ出来ることは、文章を削ること。悔しいけど、一番手っ取り早いのは、自分を消すことでした。自分が感じたこと、自分の言葉は精一杯削ぎ落とし、試合状況を伝える言葉、選手の声だけを残しました。

 これで、指摘されたことが治ったのか、また選手にとって良くなくはなくなったのかはわかりません。ただ、私はこんなことを思ったんです。

 私が書く。もしかして、それだけで、“私は感動しているんだ”“これを読者に伝えたい”という強烈なアピールになっているんじゃないかな、と。だから、文章の中に自分がいなくても、私の存在や私の思いがないわけじゃないのかもしれないと。

 もちろん、私の“自分の思ったこと、感じたことを書く”という思いには変りありませんし、今後もこだわっていくでしょう。ただ、時と場合によっては、自分を存在させないプレーンな文章で書くことがベストな場合もあるんじゃないかなと思います。

 再応募作にどんな評価が下るかわかりません。ただ、私はひとつのひっかかりを克服出来たような気がします。だから、もう新人賞呪縛とは決別です。ひゃっほぅ〜!



2002年11月02日(土)
“走りたい!”と思った。


 野球部の練習を見に行った。午後からたっぷり4時間。最近、練習を見るのがほんまに楽しい。選手たちにしてみたらいい迷惑かもしれないが、いろんなことを微笑ましく見ている自分に気付く。

 今日一番印象に残ったのは、終盤に行われたベースランニング。ひたすらベース間を走るだけのものだが、これがまた手に汗握ってしまったのだ。全体練習だから当然いろんな選手がいる。足の速い子、遅い子。ぎこちないフォームをして走る子、元気のいい子…。

 最初はみな、「これくらい平気やで〜」という余裕の表情で目の前を走り抜けていく。ところが、本数が増えるにつれ、1人また1人と息の上がる選手が出てくる。「あご、ひいて〜」とコーチの声が響く。それでも、知らぬ間にあごが上がってしまう。「ヒィヒィ」という喉の奥からしんどそうな声がネット越しの私の耳にも届く。足がもつれ始める選手もいる。後ろには俊足の選手が迫っている。「おい〜、抜かされんなよ〜」、側で別メニューをこなす選手の声。体を重たそうに引きずりながら走る選手、やけくそになって「おりゃぁ〜!!」と叫び声を挙げる選手。「9秒、10,11,12…」、コーチは淡々とタイムを読み上げている。最初は、シュッシュッと軽快だった足取りは、いつしかドタドタという重い音に変っていた。

 そんな彼らを周りにいるチームメイトが励ます。人事のように自分のメニューをこなしている選手には、「おい、お前ら、声かけたれよ」という檄が飛んだ。コーチも秒を読み上げる合間をぬって、「はい、がんばって!」と早口で声をかける。そして、みんなが盛り上がってきた。単調な練習メニューである。極端に言えば、ただ走っているだけ。それでこれだけ盛り上がれるなんてすごい。知らぬ間に、“がんばれ、がんばれ!”“もうちょい、もうちょい!”、心の中で声援を送っている自分がいた。

 ものすごく長く感じたベースランニングが終わったときには、日はすっかり暮れていた。照明が入り、真っ白い光が辺りを包んでいた。グランドではさっきまで必死に走っていた選手がストレッチをしていた。まもなく、奥から選手がトンボを持ってきた。今日の練習も終わり。

 グランドに背を向け、歩き出した。空気は冷たく、手もかじかんでいる。ふと、歩くことに違和感を覚えた。そして、“走りたい!”と思った。こんな衝動、初めてだ。元来運動嫌いである。特に走るという行為にはかなりのコンプレックスがある。走らねばならないときは今まで何度もあった。急がねばならないときもあった。でも、今日はその必要はないのに。

 そして、私は走り始めた。重いはずの体が不思議と軽かった。渋滞で動きの止まっている車の列や、買い物帰りの家族を追い越していく。空気は相変わらず冷たい。でも、走っても走っても、しんどいとは感じなかった。



2002年11月01日(金)
ええぞ、ドラフト友の会!


 『野球小僧NO.13』が発売されました!

 …のですが、貧乏な私は本屋で立ち読み(トホホ)。とりあえず、我が母校期待の☆・杉山投手のインタビュー記事を読みました。記事では椹木監督に触れていましたが、私もこの監督には興味があります。どっかで特集やってくれないかな?

 そのあとは何気なくページをめくっていたら、うれしいことが書いてあったんですよ〜♪聞いてください、聞いてください。

 野球小僧さんには、地元選手の情報を提供する読者で構成されているドラフト友の会というのがあるのですが、その会員の人(京都担当?)が注目の選手として、我らが東山の選手を挙げていたんです!やばかったですよ、本屋で小躍りしそうになりました(汗)。

 別にね、プロ注目とかドラフト候補とかね、そういうのが全てだとは思わないんですが、でも、やっぱり注目されてたら嬉しいですよ。なんだかんだ言いながら、ドラフト注目選手リストをチェックしてしまいます。バカですねえ。でも、やってしまうんですよ。

 確か、『この夏のミラクル東山を引っ張ったリードオフマン』とかなんとか書いてあったっけ?いやあ、見てる人は見ているんですねえ。やっぱり地元はいいわ。地元民、最高!

 彼、今堀くんっていうんですが、確かにいい選手です。京都大会でもよく打っていました。で、実は肩も強いんですよ。入部当初はキャッチャーとして試合に出てたこともあったんですが、1年生ながらいきなり盗塁を刺していましたから。当時は、彼がいずれはキャッチャーになるんじゃないかと思っていました。今は大半の試合で左打席に入っているんですが、実はスイッチヒッター。昨秋のダブルヘッダーの練習試合で2試合連続ホームランを打ったのですが、相手校の父兄さんに「あの子はなんていう名前や、2年生か?4番やろ?」と聞かれました。長年、練習試合を見ているのですが、こういう質問を受けることはごく稀なんですよ〜。あとね、今堀くんの次に打ってた那谷くんもいいですよ。守りがね、うまいんですよ。なかなか抜けないですよ、一二塁間。

 あ〜。もう嬉しくて嬉しくて、ついついしゃしゃり出てしまう(笑)。でもね、ちょっと幸せ♪