ぶつぶつ日記
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2003年10月29日(水) Her life without him

予感はあった様に思う。
去年クエンカで会った時に。
ああ、この人はきっと、日本に戻ることはないだろう、
そんな予感。
でも、そんなことは考えたくなかったし、
実際、きっと彼は100歳まで生きると、
そんな風に思っていた。

朝、そのクエンカから届いた、たった一行のメールの、
「連れ」という言葉が、とても重かった。
法的になんら縛られることのない、
それでいて、濃密な関係。
これから先、彼女はどこで一人で生きていくんだろう。
彼のいない、クエンカというところで、
生きていきていくんだろうか。
そこは、さびしい所ではない。
友だちがいて、二人で暮らした家があって。
でも、そこにはもう、彼はいないのだ。
彼のいた場所にあるのは、果てしない空間だけ。

Her life without him,
your life without me,
my life without you.

誰かがいない人生を、想像してみる。
亡くなった人を見送る代わりに。


2003年10月27日(月) 死んでも、いいのかなあ。

本当に、ほんとうに、自衛隊はイラクに行くんだろうか。
本当に、ほんとうに、安全だって言えるんですかね。
じゃあ、何でブッシュ大統領はイラクにまだ行っていないんだろうか。
安全だったら、視察にいけるよね。
毎日のように必ず、駐留軍が攻撃されていて、
必ずのように、死者が出ているニュースは、
日本でも流れているのに、
そんなところに、自衛隊が行くんだ。
彼らが、殺されても、
彼らが、殺しても、
それは、アメリカ軍が殺されたり殺したりするよりも、
大きくセンセーショナルなニュースとして扱われるという。
だから、アメリカは自衛隊にイラクに行ってもらいたいんだと
そういっているジャーナリストもいる。

イラクで日本人自衛官が殺されても、
イラクの人やアラブの人を憎む気には私にはならないけれど、
日本人が殺されることに、政治的期待をしている、
どこかで誰かのことは、許せないと思う。
私たちもイラク人も、チェスの駒じゃない。


2003年10月23日(木) 青いフォルクスワーゲンで、旅立ってから

もう、ずっと昔、まだ、彼が若かった頃。
クウェートで成功していた。
家には真っ赤なスポーツカーとベンツもあって。
でもある日、まだ若かった彼は、それらを全て処分して、
青いフォルクスワーゲン(ドイツ語でわれわれの車という意味)に乗って、
旅立った。
クウェートから、パレスチナへと。
一体何日かけて?
自分たちの生まれた土地を、取り戻すために。
正義に燃えていた。
理想にも燃えていた。
青いフォルクスワーゲンにも、希望が詰まっていただろう。

それから。
権力を握った。
世界を相手にしてきた。
けれど、青いフォルクスワーゲンに詰まっていた、
希望はどこに行った?

彼は年を取り、何もかも統制する力を失いつつある。
彼が与えてきた希望は、もう光り輝かない。
市街地を飛ぶ爆撃機は、日常の姿になり、
少年だけではなく、女性ですら、
子供を宿す代わりに、おなかに爆弾を宿し、
相手方に突っ込んで行く。
そしてまた、繰り返される空爆・・・。

アラファトが青いフォルクスワーゲンで旅立ってから、
もう何十年が経った。
でも、いまだに、
パレスチナは取り残されたまま。
希望は飢え、憎しみが肥える。





2003年10月18日(土) 人生を、分けていくもの

たくさん腹を立ててた。
嫌な思いもしたし、悲しいこともあった。
でも、最後の感情として残るのは、
やっぱり行って良かったと言う気持ち。
嫌な事も、結局は笑い話。
私のカイロでの短い時間は、
どっかりと私の人生の真中に座っていて、
これからも続いていく私の人生に、
たくさんの影響を与えている。

でも、そうじゃない人も実際にいて。
外国に住むことで、
体や心を壊してしまったり、
そこまで行かなくても、つらい思い出しかない人や、
そのこと自体が人生をつらくしてしまう人もいたり・・・。
どこをどうすれば、
人生が分かれていくのかなーなど、
秋の深まりと共に、少々センチな気持ちで、
色々な人の顔を思い出している。


2003年10月17日(金) 感情論で、悪いか

改革が必要ならば、それはすれば良いと思う。
そして、改革によって人員削減などが行われるのも、
仕方ない部分もあるだろう。
問題は、その改革方法に納得できる理論があるかどうか、
そういうことではないかと思う。
当初、石原慎太郎都知事は、都立4大学を統合し、
総合的で専門的、アメリカのマサチューセッツのような大学を、
と言っていた筈である。
この目標は素晴らしい。
素晴らしかった、と言うべきか。
そして、都立大学改革案が出来上がってみれば・・・。
なんだか、ちっともわからないのだ。
どこが専門的な総合大学なんだか。
そして、廃止される科とそうでない科、
その区分けもよくわからない。
わけがわからないものを、はいそうですか、
と何も気にしないようにするには、
私はこの問題に、心理的に近くなってしまっている。
なぜなら、私の目の前には、
せっかく日本まで留学しに来て、
がんばって都立大で勉強している、
自分と同じような道を目指している女性が二人いるから。
彼女たち二人の将来を考えただけで、
はい、そうですか、とは言えない。
感情論であることはわかっている。
しかし、その感情を静めるほどの理論的な説明は、
何処を探してもないのだから、
やっぱり、私は彼女たちに肩入れをする。

もしよろしかったら、下記サイトをごらんになってみてください。

http://t-kb.hp.infoseek.co.jp/index2.html


2003年10月16日(木) 結果を見届けられない

最初から、問題が山積みだった。
それでも何とかクラスを開講し、1年以上やってきたけれど・・・。
上の人にはいいわけにしか聞こえないかもしれないが、
担当としては、全くない予算の中、
宣伝広告から学生集め、クラスカリキュラム、クラス運営と、
ない知恵を絞り、やれるだけのことはやったと思う。
広告費ゼロだった割には、問い合わせもあった方だと思うし。
でも、もう袋小路。
私たちには、それを打破する手立てが見つけられない。
しかも担当は2人だし。

前々から言っているけれど、
ルティーンワークの中に入るよりは、
自ら開拓して行く仕事の方が性に合っているとはいえ、
評価もなし、評価どころか、常に消極的妨害の中での1年は、
正直言って、かなり疲れた。
しかも、一緒に仕事をしている先生には、
あふれんばかりのこの学校への愛があって、
それが原動力になっていたのだろうけれど、
私にはそんなものはないし(^^;)。
時には、この先生のこの思いが、私には重た過ぎてもいる。

最初から今まで、ずっとクラスに通ってきている学生の人がいて、
最近になってようやく、
今まで蓄積されてきた学習の効果が、
現れるようになってきている。
もう少し、後半年くらい勉強を続けたら、
きっと効果は誰の目にも見えるようになるだろうと、
同僚の先生は言っている。
だが、残念だけれど、その結果を
私たちは目にすることができないかもしれない。
それがとても、残念だ。


2003年10月14日(火) 文化習慣の壁

日本にある日本語学校の、かなりたくさんの学校のトイレの壁には、
アジア某国の言葉で、トイレの使い方の張り紙がはってあるんじゃないかと思う。
差別ではなくて、習慣が違うのでしょうがないのだ。
ここは日本だし、その国以外の学生もいるし、
最低限「日本の習慣」は守ってもらわないと。
さすがに、張り紙があるからか、
外国に生活しているからか、
そんなにびっくりすることが日々あるわけではないけれど、
最近、このトイレに関することで、
激しい文化習慣の壁を感じている私なのである。

確かに、トイレというところはそんなにきれいなところではないが、
使いようによっては、かなりきれいな状態を維持できると思う。
そのためには、使う者が後から入る人のことを考えて、
できるだけ現状維持で使用するという「努力」が必要になる。
が、そこまで考えなくても、
最近はどこも水洗トイレだし、
そうそうトイレは汚れないと思うのだが・・・。
私が入るのは、もちろん女子トイレである。
汚い話しなので、食事前には読まない方が良いんですけど、
最近、この床に、「痰」が吐かれているのだ。
・・・・・。
別に痰を吐くなというわけじゃないが、
どうして床にはくんだろう?
なんだったら、便器の中にはいて、流せばいいんじゃない?
トイレの床はきれいじゃないけれど、
長いパンツをはいていて、それを下ろしたときに、
パンツのすそが床についてしまうこともあるでしょう?
そこに、痰、吐くか・・・・。
自分のパンツのすそに、誰かの吐いた痰がつくなんて、
考えただけでもいやだけど、
吐く子はこういうことは考えないのかなー?????
ちなみに、その国では、
街中で女子も痰を吐いたり、手鼻をかむこともあるという・・・。

たかが痰、されど痰。
それが文化習慣。
やっぱり越えられない壁もあると思うのだった・・・。


2003年10月09日(木) 暴力の連鎖

シレラレオネ、という国を知っているだろうか。
アフリカにある、この間まで激しい内戦をしていた国。
ここでは、敵方の大人子供を殺さずに、
その手足を切断するという「戦法」が取られていた。
未来にわたって、敵方を弱体化させるという、おぞましい考え。
そして子供たちも、誘拐され、暴行され、麻薬を打たれ、
少年兵として狂った戦闘の只中に放り込まれていた。

現在、状況は少しだけ落ち着いてきているようで、
このような少年兵が助け出され、
日常生活を送れるように、施設でリハビリを受けている。
しかし、異常な生活を送っていた彼らは、
ちょっとしたことで、すぐ激しい暴力を引き起こしてしまうという。
コンピューターの順番待ちのような、
ほんの些細なことから。
彼らの面倒を見ているNGO関係者も
どうしていいのかわからないほどに、
ほんの些細なきっかけで、暴力が再発してしまう。

つい先日、またイスラエルでパレスチナの自爆テロがあった。
そのレストランは、もう長い間、
ユダヤーアラブの経営がうまく行っていた場所で、
被害に遭った人の中にもアラブ系の人も含まれていた。
そして、そのレストランに突っ込んだのは、
29歳の、女性であった。
弟と親戚をイスラエルに殺された、女性。
これだけ聞くと、単純な復讐のように思う。
けれど、実際はそんなに単純な感情ではなかったと、
これまでのパレスチナ人の80年という年月を見て思う。
暴力と、閉塞感と、憤りと、、、、
ありとあらゆる負の感情が堆積してきた80年間。
その場から逃げることは、一生その場に戻れないことを意味するような、
選択のあまりにもない80年。
踏まれても踏まれても、殺しても殺されても、
非難される「パレスチナ」という立場。

「希望」を持てるのは、贅沢なことなのだ。
暴力の連鎖の中では、希望という言葉は、
あまりにも夢物語に近い。

暴力の中で、生きて行くということ。
それは、暴力に身を任せ無感情になるか、
激しい怒りを誰か自分以外のものにぶつけて行くか、
結局は「暴力」を選ぶしかない、
究極の悲しい選択しか存在しないことを意味する。



2003年10月06日(月) 行政を監視する

私は、生まれも育ちも都民、である。
しかし、考えてみると、「都民」として行政のすることに、
注意をはらったりすることが、本当になかったんだなと、
最近になって思った。

現在、慎太郎都知事は、都立四大学の統合と大学改革、
という計画を推し進めている。
私のところに、バイトに来てくれている留学生が
たまたま2人とも都立大、
また、日本語教育の恩師も都立大ということで、
色々な情報が入ってくる。

大学を統合し、総合大学として新たなに形作ることは、
確かに有意義かもしれない。
けれども、その改革案を見たとき、
疑問符がいくつも浮かんだ。

・国文廃止
・目先の人気のありそうな科ばかりを設置
・しかも、それは専門学校レベル
・全寮制案(その名も東京塾!)

・・・・・・しばし、沈黙。

柱となる、東京都立大の特徴というのはなんだろう。
それは、あくまでもアカデミックな、
研究がしっかりしている大学であること。
そのために、そういう特徴を生かして、
教授たちとしては、「大学院大学」のような形で、
大学統合をすすめたいと考えていたようだ。
しかも、全寮制ってなんですか?
その上、国文廃止って?

過剰で余剰な人員を削減することは、
確かに必要ではないかと思う。
そのために、統廃合されてしまう科が出てくるのも、
致し方ないと思うが、
観光ツーリズム科(観光観光科ってことかよ)や、
演劇なんらた科?というものを作るけど、
国の言葉である国文や、外国文学はどうでもいいんですね。
表面上の国際化ができれば、それでいいのか。

色々と、ぶつぶつ言っているのは、
私の面前に、今後の人生設計にまで影響が出てしまう、
留学生が二人いるからだとは思うが、
それにしてもやっぱり、
日本人ってのは、行政のやることに、
なんら注意を払っていないんだなと、
自分を含め、今回のことで実感したのだった。
行政を野放しにして、好き勝手やらせているのは、
それは国民のせいでもあるんじゃないかと。
政治家の追っかけをする前に、
政策について吟味しないと、
政治は、顔でやるもんじゃないし。

もう少し、行政を監視することに、
注意を向けてみようと思っている、
今日この頃なのだった。


2003年10月02日(木) ベツレヘム

相変わらず混迷が続くパレスチナ。
今朝の新聞に、パレスチナ、イスラエル双方の市民のインタビューが載っていた。
いつも、現在のベツレヘムの写真を見ると、
にわかにはそれがベツレヘムだとは、信じられない気持ちになる。
自分が見たのどかなベツレヘムとは、全く違う町のようだから。
活気があって、でものんびりとしていて、
青い空に万国旗がひるがえっていた、私の訪れたベツレヘム。
それが今では、観光で訪れ人もほとんどなく、
イスラエル軍の攻撃で壊れた建物は、
修復もほとんどされていないようだ。

兵器で、蹂躙されるということ。
戦後に生まれ育った私には、想像もできないことだが、
ベツレヘムを見る時、
そのすさまじさが、少しだけ実感できる。
私たちがリュックを背負ってのんきに歩いた道は、
戦車のキャタピラの下で、きしんでいただろう。
パレスチナ人に混じってそぞろ歩いた狭いスーク(市場)は、
破壊されてしまっただろう。
道を聞いたサイダリーヤ(薬局)は、今もあるんだろうか?

積み重ねられた歴史は、
兵器の前で一瞬に破壊される。
壊すことは、あまりにも容易い。


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