雑感
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2001年09月30日(日) ほどよい目標設定

家人が読んでいた経営戦略の本に、「目標設定を低くして、
間違った達成感を味わっていては、自身が(組織が)もつ潜在的な
力を発揮することはできません・・・」とあった。

家人曰く、自分は目標設定が高すぎて、いいところまで行くけれど
結局高いハードルを越えられないと言う。私は目標設定が低すぎて
あるいは設定せずに取り組むからちっとも進歩しないクチだと思う。
自分の潜在的な力を進歩させるために、ほどよいところに目標を
置くことはむずかしそうだ。今年走った大会がことごとく去年の
タイムをオーバーしているのは、目標を立てていないし、すぐに
くじけてしまうからだろう。バッハウのハーフは2時間10分ぐら
いに置いたけど、28分かかってしまった。気合があれば、たぶん
目標通りのタイムで行けたと思うが、自分を甘やかしてしまった
のかもしれない。反省することしきり・・

今日のベルリンマラソンの高橋尚子は世界最高記録を樹立したけれど
彼女やコーチは、内心18分台を狙っていたのかもしれない。40キロ
ぐらいまでは、十分狙えるペースで走っていたし、最後の2キロはかなり
心肺に負荷のかかる呼吸をしていた。世界一の高橋でも、今後さらに目標
を高く設定するというのは、すごいことだと思う。


2001年09月28日(金) ホームレスの強さ

お昼休みにサンドイッチを食べるカフェに行くときにいつも顔をみかけ
る女性のホームレスがいる。全財産をビニール袋ひとつにまとめ、
ひがな何もせず散歩したり、座って時間をつぶしている。
他のホームレス仲間と交わろうともせず、一日一日を生きているので
ずいぶん精神力の強い人だなと思っている。自分が彼女のような境遇
だったら10日と生きてはいけまい。

ものにも人に対しても執着はそんなに強くないけれど、何にも持たない
で、誰にも気にかけてもらえないで生きることは無理だ。
今はいいけれど、子供もいないし、交友関係の希薄な中で生活して
いるので、一人ぼっちになっても、ちゃんと生きていけるよう心を
鍛えなければと思う。


2001年09月27日(木) プロの仕事/ありがとうの言葉

事務所の掃除を担当しているシルビアが休暇中で、代わりの年配の
女性がここ2週間掃除してくれている。仕事が丁寧で、誰かが持ち
こんだ食器でも、いやな顔せず処理して、おまけに冷蔵庫の中や
食器棚までもきれいにしてくれたので大助かりだった。本来は
清掃外の領域だと思っていて、実際シルビアから自分の領域以外
の仕事はしないといわれていたので、台所はけっこう汚れていた。
代わりの女性の言うことが気に入った。4時間という枠内で汚れて
いる箇所を清掃するのが仕事だから何でも言ってくれればいいと。
毎日掃除しているのに、こんなに汚れているのは、プロとして失格
だと自信に満ちたことばを聞いた。
掃除のしかたに無駄がなく、流れるようにすみからすみまで、いつ
のまにか、大掃除でも手を抜きがちな戸棚のてっぺんまでぴかぴかに
なって感謝の念でいっぱいだった。

自分は一日に何度「ダンケ・シェ−ン!」と言ってるか数えてみた。
家人が車で、会社まで乗せてくれて「ありがとう!よい一日を!」
から始まって、事務所のガードマンが新聞や郵便をチェックして
もってきてくれるたびに、清掃の女性が何かしてくれるたびに、
同僚がファックスをもってきたり、パートタイマーにコピーをお願い
したあとで云々・・きっと50回くらい言ってるにちがいない。
昼休みに買い物したレジでも、家人が食器を洗ってくれたときも
「ダンケ!」と言ってるな。
ありがとうの大安売りで値打ちもなにもあったものじゃないが、
これで他者との関係がスムーズにいくのであれば、何度でも言える、
ダンケ!と・・
こうやって、いろんな機会にダンケ!と言ってるうちに、心から
言える数の割合が増えていくかもしれない。


2001年09月26日(水) 講義目録

10月は国立大学の新学期が始まる。どこの本屋でも大学の講義目録
が売られているので、大学とは縁のない私もぱらぱらめくってみる。
特に語学関連の科目の内容を眺めながら、聴講するつもりで日々の予定を
立ててみるとつかの間楽しい。結局は仕事とかちあって、もぐりの聴講も
できないのだけれど。今度は各区で実施されているフォルクスホッホ
シュ−レ(成人講座)のプログラムに目を通す。見るところは、油絵や
水彩画、デッサンのレギュラープログラム、それに週末の集中コース。
現在の絵のお師匠さまみたいな出会いがあるかもと、期待する。
結局は眺めるだけで終わるのだけど。

昔から、習うのが好きな性分のようだ。ほっておくといろんなものに
手をだして収拾がつかなくなるので、あまり手を広げないように注意
している。教えるのが好きなタイプのひともいるけれど、私は断然
何かを習うのが大好き。
目下の関心事は、ジョギング、スイム、短歌、オペラ、絵だと
思う。一つに収斂できたら、きっとすごい一筋さんになれるのに。
でも、↑って、週一回2,3時間でかたがつくお手軽なものばっかり
だなあ。


2001年09月25日(火) 色の世界に遊ぶ

1ヶ月ぶりに油絵のレッスンに行った。今日は夏季教室の最終日で
アトリエに置きっぱなしにしていた画材や絵を引き取りにいくついでに
絵の仕上げをした。年頭から初めて9ヶ月目にようやく一枚完成した
ミズバショウの絵は自分では気に入っている。
巨匠の作品を見るとき、作品が仕事なのか自分の楽しみで
描いたのかを注意している。肖像画などは、写真がなかった時代の
依頼であろうから、商品なのだろう。

自分が好きで描いた作品は、どれくらいの時間で仕上げていたのか
興味がある。油絵というのは、終わろうと思わなければ完成しない
やっかいなものだと思う。商品であれば、コストパフォーマンスを
考えて、思いきって筆を置くことができるけれど、自分のために
描いた作品は、筆を置くのも迷ってしまうのでないかしら。

今日は仕上げと思って、色を置きはじめたが、だんだんと夢中に
なって時間を忘れた。こういう濃い時間の中に自分を閉じ込める
ものが一つでもあって、ああよかったと思う。



2001年09月23日(日) はじめに戦争ありき

アフガニスタンへの攻撃は、初めからシナリオに組み込まれて
いたようだ。さまざまな報道を読んでいると
戦争への導火線となったN.Yのテロ事件は、かなりの確率で
(標的はわからないにしても)、諜報部や政府の中枢はつかんで
いたのではないだろうか。アメリカとしては、世界を納得させる
に十分な言い訳ができた。そら恐ろしいのは、アメリカが世界を
巻きこんで、宗教民族戦争に発展させようとしていることである。
兵器産業の意向でもあるのだろうか。

アメリカは、テロを企てたイスラム原理派のグループの引渡しを
アフガニスタンに要求し、できなければ攻撃をすると脅している。
パキスタンや近隣国には内戦のおそれさえでてきている。
イスラム原理主義者だけでなく、一般のイスラム教徒の神経を
逆撫でするような、やれ十字軍だの、Infinite jusice(限りなき正義)
という表現を平気で使っているのはおそろしい。(The Infiniteで
神という意味があり、キリスト教の神を指しているらしい。ドイツ語
では umfassennde Gerechtigkeit 徹底的な正義の意)
アメリカは自国にも、欧州にも、中東にも何人のイスラム教徒が
いるのかを数えたのだろうか。イスラム教の指導者がジハード
(聖戦)を呼びかければ、世界はとんでもないことになるだろう。
中世に、300年ほど続いた聖地奪還を合言葉に実施された十字軍の
遠征は、キリスト教による他宗教の侵犯にほかならない。また
繰り返すつもりなのだろうか。

最近の報道で気になるのは、自由を標榜するアメリカの報道規制や
文化規制(反戦の歌の放送自粛)、個人の通信媒体への介入と
やり放題なことである。あろうことか、テロ防止の美名のもとに
欧州各政府も、シークレットサービスを強化し、同じような行動
を取っていることである。だんだんと個は国家の目に見えない
管理下に置かれるのだろうか。生き難い世の中になりそうだ。


2001年09月22日(土) 今シーズン初オペラを見る

ヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」を見た。
今シーズン初めてのオペラ座詣でになる。座席の前に何と一人一人に
字幕が出るボックスがついている。イタリアオペラが多いので、
英語とドイツ語で同時に訳語が出る仕掛けになっている。イタリアオペラ
は好きだけど、あらすじしか知らず、歌唱の意味がわからずに聴いて
いたけど、歌の内容がわかるのでありがたい。

音楽は全幕を通してヴェルディ風味というのか、登場人物ひとりひとり
に深みのある歌詞とメロディで3時間半があっというまに過ぎた。
内容は、いま上演するとかなり障りがあると思った。
シチリア島でフランスの圧制で苦しめられているゲリラが幕の最後で
武装蜂起し、大量殺戮をやる場面があった。今後のアメリカとアフガン
のシナリオを彷彿とさせるかのようだった。
シチリア人の女性リーダーとフランスの為政者の息子との愛が愛国心に
負けていく場面の歌唱は圧巻だった。

ヴェルディのオペラを聴いて、バスやバリトンの歌唱の魅力にとりつかれ
た。以前は美しい歌唱、ソプラノやテノールの華やかさにうっとりした
けれど、ヘビー級のテノールや渋みのあるバリトン、バスに好みが
移ってきたのは自分が年をとったからだろうか。


2001年09月20日(木) 危機管理マニュアル

アメリカでテロ事件が起こって以来、空港の検査が一段と厳しくなり
米国向けは4時間前にチェックイン、それ以外の便でも3時間前に
空港に着いたほうがいいそうだ。テルアビブ行きは前から3時間前
に必ずチェックインと言われていた。
米国向けには、警察の特殊部隊が一名搭乗することにしたらしい。
空港の警備にも、赤ベレーに自動小銃をもった特殊部隊が配備された。
こんな風では旅行に行こうという気が萎えてしまうだろう。

我が家での危機管理マニュアル。表札を出さない。(出身がわかると
空き巣に入られると困る。)、呼び鈴をおされても出ない。
(ふらっと立ち寄る友人知人はいない。訪問のさいは必ず電話をいれ
ることにしている。)
タクシーで帰るときは、二つ三つさきの番地を言う。
空港で預け入れ荷物のタグには、会社の住所を入れる。
(自宅の住所だと、うっかり見られて空き巣に入られる恐れあり。)

お金をもっていそうに見えない服装。(これは事実だから危機管理に
はならないね。)


2001年09月19日(水) 物騒な世の中

アメリカで起こった同時テロ事件以来、国家の動きがあわただしく
なった。オーストリア政府も、有事のさいの外交、防衛問題を
話し合う国家安全委員会の設立に奔走している。
テロを未然に防ぐために、警察の権限の強化もなされ、容疑者の
電子メールやチャットなどの通信媒体をチェックできるよう法改正が
行われつつある。容疑者ってアラブ系の人たちをさしているのは
間違いないだろう。
アメリカでもFBIの権限がますます強くなり、個人情報は
ガラス張りにされるのではないかしら。
欧州も各政府が一丸となって、3000万人はいる、イスラム系の
住民を(オーストリア国内は40万人)監視するつもりのようだ。
度を越して、そのうちアラブ系は飛行機の搭乗を拒否される
かもしれない。この場合、国籍が問題なのではなくて、民族が
対象になってるのは間違いないだろう。
長い目でみれば、今回のテロ事件は、大きな戦争への導火線
のようなものだったのかもしれない。民族紛争を起こすと
100年たっても、平和は戻らないだろう。北アイルランド、
パレスチナ、バルカン地域、バスク地方、コルシカ島を見たら
わかる。私は平和に暮らしたいのに。



2001年09月18日(火) 化粧箱のない国

職場では日本のお客さまからおみやげをいただくことが多い。
虎屋の羊羹やお饅頭、上等な煎茶など。たいていはブリキの缶や
丈夫な化粧箱に収められている。到来物があると、同僚たちの
目がきらりと光る。中身の菓子類ではなく、化粧箱に。
目ざといものは、「私、これもらうからね。」とさっさと中身を
お皿にあけて、箱の方を取る。
化粧箱やブリキの缶というものは、ここでは(たぶん欧州で)
贈答用に買うものだと認識されている。お菓子やケーキを買っても
お店では箱には入れてくれない。ケーキなど、せいぜいボール紙を
ふんわりかぶせてくれるだけである。
化粧箱は後日、お手製のクッキーを作ったとき、クリスマス
プレゼントを包装するときに大活躍する。
毎年、国連のバザーがあるが、日本代表の売り場では、駐在の
日本人から寄付されたブリキの缶が販売され、飛ぶように売れる。

化粧箱はこちらでは、ありがたいプレゼントだけれど、日本では
物があふれているから、反対に処分に困るごみなのかもしれない。
場所が変わるとものの価値もいろいろだなあと思う。


2001年09月17日(月) ウィーンの駅について

ウィーンの鉄道駅は主に3つある。
西欧州への出入り口の西駅、東欧方面が南駅、それにフランツ・
ヨーゼフ駅。
ウィーンに来たことがある人ならすぐに気づくと思うが、首都の
玄関口にしては殺風景なことこのうえない。インターシティが
発着するにもかかわらず、駅でゆっくりお茶でもしようかなどと
絶対に思わない。これから旅に出るひとたちを暖かく迎えよう、
逆に長旅お疲れ様と癒してくれそうな雰囲気はどこにも見当たら
ない。うらぶれた駅構内にいるのは、失業してどこにも行く当ての
ない人たちや、小銭を乞う人たち、足早に列車に乗り込む旅人である。

十数年前、チューリヒから夜行列車にのって、初めてウィーン西駅に
降り立ったとき、東欧に来たと錯覚するほど、何もない殺風景な駅
だった。当時は地下鉄がダウンタウンまで通じていなかったので
路面電車で乗り換えないとシュテファンス寺院まで行けなかった。

私の中にある駅のイメージは東京や大阪にあるターミナル
駅の華やかさで、そこにいけば何でもあり、夢がある場所だった。

あれからずいぶん時が流れたが、ウィーンの駅は今もうらぶれて
いて、変わることを拒否しているかのようだ。



2001年09月16日(日) 走るときは何を考える?

ドナウ川有数の白ワインの産地であるバッハウのハーフマラソンを
走ってきた。21Kはさすがに長く感じられた。短いジョグなら
周回タイムのことを考えたり、体調をみたりするけれど、今日は2時間
以上もいろんなことを考えて走っている自分に気がついた。キロ表示の
ときは時計を確認し、3キロごとのエイドのことを思い、最後はゴール
までの残り距離を考えた。それ以外は、無心で走るなんてほど遠く
、日常の些末なことに思いをはせる。
何も考えずに、心を空っぽにして走る機会というのは、徹頭徹尾
自分のリズムで走るときだけに生まれるのかもしれない。レースだと
タイムを更新しようと欲が出てしまうのだろう。


2001年09月15日(土) ウィーンのカフェ

明日のバッハウ行きの電車の切符を買った帰り、カフェに寄った。
アイスクリーム専門店だけど、小腹が空いていたので、トーストと
カプチーノを頼む。先日、友人から差入れてもらった短歌集を読んだ。

週末の午後はよく本を片手にカフェに行く。行き付けのカフェという
のは決めていないが、天井の高い古いカフェが好きだ。週末は混んで
いるのが難点だけど、ウィークディのカフェ・ツェントラルや
カフェ・シュバルツェンベルク、美術史館にあるゲルストナーは
落ち着く。コーヒーとケーキで長くいてもウェイターにいやな顔も
されないし、お相席などと言われることもないので、ゆっくり本を読む
ことができる。

近日中にスターバックス1号店がシュテファンス寺院前にオープン
するらしいが、私は歴史のあるウィーンのカフェがいい。
古めかしい椅子に腰掛けて高い天井を眺めたり、ピアノの生演奏
に聞き入り、食事をしたりケーキをつつき、備え付けの新聞を
めくる。ぼーっと座っていると、19世紀にいるような錯覚をし
別の時間枠から、通りを行く人、カフェでおしゃべりをする人を
眺めることができる。


2001年09月14日(金) 行列について

きのう、マラソンのゼッケンを取りに会場に入場するまでに1時間
ほど並んだ。人数が多いので、警察が出動して列の整理に当たって
いる。オーストリアでは、あまり列を作ることがないので
行列はイギリス式のように美しい直線とはならず、所々だんごが
できたりする。こんな風に、いいかげんな並び方をしていても、
自分の順番はちゃんと意識していて、誰かが割り込もうとすると、
「次は私の番です。」と主張する。ゼッケンをもらうための行列
なら少々割り込まれても余裕であるが、オペラや演奏会、サッカー
の試合のチケットということになると、順番に対する意識指数が
跳ね上がるのはどこでも同じだと思う。
イギリスの行列というのは、理路整然とした列であるから、所定の
位置に陣取れば、あとは自動的に順番にことが運んでいくという
安心感を与えてくれる。ただし、列を無視すれば、注意されるだろう。
地下鉄を例にあげれば、東京はイギリス式で大阪は混沌とした
オーストリア式、いやラテン式に近しいかもしれない。


2001年09月13日(木) ほどよい距離

先日、我が家に3年ほど逗留していた男の子から素敵な花柄のCDをもらった。
美しいソプラノがステレオからこぼれてくる。彼がいた3年間は、ずいぶん
悩まされたが、距離をへだてて向かい合って見ると、気のこまやかな、
他人に優しい子だったことに気づく。
家庭内で距離がうまく取れなかったために、仲良しになれなかったが
こんな風に自分のことを思い出してくれると嬉しい。

昔から、対人関係において、ほどよい距離がうまく取れずに、近すぎたり、
遠すぎたりして悩んできたが、今は、遠めに距離をとって他人と接すると
期待もないかわりに、落胆もしないですむようだ。
時に近づきすぎて、落胆し気持ちの修復に時間がかかることもあるので、
自分はここまでなら大丈夫と距離を多めに取っている。不器用な生きかた
だと思う。


2001年09月12日(水) 詐欺に気をつける

日本人会からの会報には、毎号数ページに渡って外務省から危険度別に
分類された渡航先が更新されているが、最後の方にアフリカの詐欺の
手口について記載があり、読んでいるうちに私も同じような文面を受
け取ったことがあるなあと納得した。数ヶ月に一度ナイジェリアあた
りから手紙やファックスが送られてくる。内容は、国のプロジェクト
がらみで、多額の送金を指示してきたり、大金持ちの未亡人が一時的
に融資を依頼したりと、読んでいておもしろい。

以前は、手書きの封書で送付されたが、最近はファックスが多い。
こんなのにひっかかりようがないと思うのだが、商談に出向いた人
が拉致されたこともあるらしい。この種の手紙やファックスはアフリカコレクションとして同僚に保管してもらっている。
アフリカからの案件がうちの事務所に来るのは、怪しさいっぱいなので
無視するけれど、アフリカの事務所はこういう案件にしょっちゅう
つきあっているのだろう。大変だと思う。


2001年09月11日(火) お取替えのきかないもの

家人が、旅行バッグを買ったと嬉しそうに見せびらかす。黒革で
ノートパソコンが入り、書類がたっぷり入り、おまけに旅行セットまで
入るんだと自慢している。買ってすぐに、ローラーをごろごろさせて
ネームタッグまで入れてもらって、帰宅したら、こころもち小さかった
ようだ。
私は、すぐに取り替えてもらったらと言ったが、すでにローラーは摩擦で
白くなっているし、ネームまで入っているから、無理だよと言う。
さきほど、空港から電話があった。今度はもっとすてきな旅行かばんを
見つけたらしい。永久保障で、値段もため息の出るほど高いので
きのう買ったかばんでしばらく、がまんするそうだ。買ってすぐに
お取替えのきかないようにするのは家人の専売特許みたいなものだ。
もう少し、慎重に扱えばいいのにと言ってやろうと思ったが、これって
人間関係にもあてはまる。私というパートナー選びも、すぐに失敗と
悟ったが、お取替え不可能だと思って、がまんしているのかもしれないと
思うと可笑しくなってしまう。
人生の伴侶という大きなお買い物をしたあとは、車や家や旅行かばん
のような小さなお買い物で憂さをはらしているのかな。





2001年09月10日(月) 台風の進路、人生の行方

台風15号はどうやら関東を超えて北海道あたりを北上中らしい。
以前は、住んでいた地域の被害、親戚まわりのことしか心配しなかった
が、インターネットを通じて全国に友人ができてからは、自分の
一番気になる地域が無事でほっとしても、今後の台風の進路のことや
友人の安否を気にするようになった。
さらに、友人や知人の周囲の慶弔事なども、耳にする機会が増え、
結婚やおめでたがあったときは素直に喜び、家族の一員が病に
倒れたり、他界されたりすると、自分のことのように悲しくなる。
いつも一人で生きていると、へんに肩肘を張ってがんばることも
あったが、年齢を重ねるうちに、自分は誰かに支えられているし、
目には見えなくても誰かに貢献しているのだと感じることがある。


2001年09月09日(日) おまかせはダメ

先日の日記にサービスの精神について少しふれた。朝食でさえ、
何をどう調理してもらうかついて、しっかり注文を出さない
と食事にありつけない。朝食の注文は、コーヒーか紅茶かココアか。
トースト(白パンか全粒粉か,ミックス)かクロワッサンか。
卵はどう調理しますか?スクランブルエッグ、ポーチドエッグ(何個?)、
ゆで卵(何個、固さは?)、ソーセージ、トマト、ポテトの有無?
まかせるから、何でももってきてねでは通らないお国柄である。
食事にありつけるまでには、うっとうしいやら、面倒とうつるかも
しれないが、満足いく食事を味わってもらおうと思えばこそのサービス
だと思う。
シェフにおまかせというメニューがあるが、作り手の台所事情を
優先しているのは、否めないと思う。


2001年09月08日(土) 水彩絵の具

滞在地の文房具屋をふらりとのぞくと、水彩絵の具がところ狭しと陳列
されていた。ガラスケースの中に厳重にしまいこまれている携帯用の
固形絵の具に目がくぎ付けになった。8色、12色、16色、24色と
プロがもつようなケースにおさまっている。値段も相当なもので、今まで
買う勇気が出なかったが、旅先と見えて気がついたときには、16色の
ウィンザー&ニュートン社の水彩絵の具の紙袋をにぎっていた。

こういう発色のあざやかな色でひと筆さっと塗れば、自分の技術の
なさがごまかせる。以前、ターナーの作品をイギリスで見たことがある
が、作品とともに陳列された、ぼろぼろになった携帯用の水彩ケースが
印象に残っている。あの、光の洪水のような油絵や水彩画の100分の1
(ぜいたくか)でも近づけたらと思う。


2001年09月07日(金) サービスについて

ここ数日、温泉のあるリゾートホテルで過ごしてきたが、普通のペンション
ホテルにもかかわらず、サービスというか、ホスピタリティが徹底している
のに驚いた。小さな宿なのに、サービスを提供する側の姿勢に感心させら
れた。
ホテルは100人も泊まればいっぱいだが、朝食のときも夕食のときも
手を抜いているなあと感じることがなかった。
通常のホテルだと2食付きというのは、人手を省くためにバイキング
形式を取っているところが多いが、夕食は前菜2種、メイン、デザート、
コーヒーとそれぞれ4種類くらい用意されている。盛りつけもていねい
で味に品がある。朝食も同じ方式が取られているのは、すごいこと
である。
いちいち客の食べたいもの、調理方法を訊ねて準備してくれる。
たかだか朝食なのに、人手間をかけていることを知り、すごく大切に
扱われているように感じた。
従業員も朝会えば、今日は気分はいかがですか、昨日はどうでしたか
と訊ねて暖かい会話のきっかけを提供してくれる。久しぶりにマニュ
アルにない臨機応変な会話を聞いて嬉しかった。



2001年09月06日(木) ほめられて嬉しい?

ホテルのプールで泳いだ後、サウナで汗をかいていたら、英国人らしき
おばさまが隣に座り、彼女とひとしきりおしゃべりをした。お互いの出身
の話や夕食の量の多さを話題にしたあとで、「英語上手ね」と言われた。
ドイツ語を話すことを知っている上での、ほめことばだとわかっていた
ので素直に「サンキュー」と返しておいた。英語はちょっと苦手なのを
自覚しているので、上手ねとほめられてむっとすることはないけれど、
これが「ドイツ語お上手ですね」などと言われたら、ちょっとひっかかる
かもしれない。
長く生活して、ドイツ語も一部メシの種になっている。外国語が
ほんとに上手だったら、互いの仕事上の利益がぶつかっている
丁丁発止の交渉事に、そんなことを言う余裕のある人はいない。
実際、私は日本語をあやつる同僚に、そんなこと言わないし、普通に
仕事話をしている。初対面の日本人が、同僚に「お上手ね」なんて
言うのを聞いたら、はらはらしてしまう。
ほめることは相手より一段高いところからものを言ってるようなもの
だろう。何も言わずに、会話を進めることが相手を認めていると
思ってさしつかえないと思う。
私は、他人の話を聞くときに「すごいね」と感心して口について
出てしまうが、ほんとにすごいと思っているから、どうか誰も
気にしませんようにと願っている。



2001年09月05日(水) 人間万事塞翁が馬

以前、森本哲郎の本を読んでいて、この中国の故事の意味すること
を知った。
塞翁が丹精こめて育てた馬が逃げてしまい、周囲の人は
それは不幸なことでと塞翁をなぐさめたが、逃げた馬が駿馬を引き連れ
て、戻ってきた。それを見たひとは、よかったですねえと言ったが、
塞翁は見かけの幸不幸に左右されなかった。
今度は息子が落馬して足を怪我してしまった。でも、息子は怪我の
おかげで兵隊に行かずにすんだという、人間の幸不幸は、予測できない
といった意味である。

私はこの故事を読んで、物事は何であれ、ニュートラルで、個人の
ものの見方次第で、ポジティブにもネガティブにもなるのかなと
感じている。塞翁のようなものの見方は諦観だとは思っていない。
むしろ、自分の身に振りかかった事を一歩退いて、別の視点から
見つめている。厳しい、自己鍛錬の必要なものの見方だ。

ものごとを複数の視点から見ることは、何か悲しいことが起こった
とき、泥沼に落ち込まないように網の役目を果たしている思う。


2001年09月03日(月) いらいらする時

日常の生活では、いらいらする、させられる頻度が高い人は多い
と思う。私も経験がある。何かささいな他人の言動でいらいらして
しまうのは、自分が片付けるべき仕事をしていないあせりがあるのではと
いう文章を読んだことがある。
なるほど、そう思えば思い当たる。台所のごみの片付けができていない、
空き瓶がたまっている、アイロンがけするものが山盛りになっている
目では気がついているけれど、その場を離れたら忘れている。でも
いらいらの元にしっかりなっているということに気がついた。家の掃除
や細かな作業は取り掛かるのは大変だけれど、始めると楽しい仕事に
変わったりするのが不思議だ。ワイシャツやシーツにアイロンをかけ
ていると、いつしかその作業に没頭していることがある。
私という人間は、どんなに凹んでも、こんな作業をしていると元に
戻るお手軽な見本のようだ。鬱で悩んでる人に少しお裾分けしてあげ
たいくらい。


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