2009年09月03日(木) |
第六回 活人拳講義録/卍を考える |
■少し躊躇していた…
これまでの講義を踏まえて、やっと卍の説明に辿りついたのだが、実を言うと多少のためらいがあった。それは開祖の説かれた卍の教義と、あるいは見解が異なるやもしれず、どうしたものかと思案していたわけ。しかし、すでにブログに書いたこともあり、もし違っていたら、あの世に行って先生に叱られるだけのことだ、と観念したんだ…。
「褒められるかもしれませんよ!」
―一同笑い―
「卍について、このような新聞記事がありました。――日本経済新聞2009年3月5日号文化欄/名にし負う卍を探求/オヤジがかけた謎か、世界各地に多種多様の形態/植村卍=神戸学院大学教授――です。名前がマンジさんらしいですね。著者によると、ユダヤ人自身も昔は卍を普通に使っていた、とあります(後述)」
――少林寺拳法では承知の通り、2005年1月から胸章が卍からソウエンに変更となった。しかしこの印章は金剛禅の教義中に存在し、また日常の練習で卍の掛け軸を用いる道院もあり、大切なものだ。
ここで言う大切と言う意味は、私は、卍が生命の神秘を表現していると観じるので、命に合掌することが活人拳と主張すると、自然の成り行きで強く卍と結びつくことになる。それと、合掌形と共に技法にも大きな関わりがある(後述)。なので、変更は変更として受け止めるが、拳士は卍を胸に秘めて日々修行じなければならぬだろうね(『教範/ダーマの徳性と、人間の霊性の関係詳説』参照)。
■私の卍観
仏教のシンボルマークである卍は、命という観点から見ると、やはり大切なことを教えていると思える。私の卍観は、縦の線は時間=過去から未来に連なる命の連鎖であり、横の線は空間=生きとし生ける命の繋がりであり、鉤に飛び出ているのは流動よりも永遠と無限の彼方であり、その不可思議な縦横線が一瞬交差した点=現在に、「天上天下唯我独尊」たる我の命がある、と観じる。
「カッパブックスには――力愛不二の思想をあらわすものに、仏教の象徴である卍がある――とありますが…」(『秘伝少林寺拳法/光文社/絶版』)
――表卍と裏卍は、生命誕生の神秘を便宜上、平面に図示したので陰陽二対となったのだろう。例えば、表卍を平面上ではなくて、後ろでも前でもかまわないからイメージで回してごらん。自転車のペダルのように、表卍と裏卍が立体的に順繰りに現れるね。このように、二対は仮の姿で不可思議な宇宙時間と宇宙空間を象徴していると思える。
永遠の生命体と無限の生命体が交差して命が誕生すると云う、宇宙の大時空を表現したのであって、単に表卍と裏卍では平面的に認識しやすいので注意を要する。命は対立して生まれるのではなく、調和協調して生まれるものだ。もちろん開祖はそう教えていらっしゃる。「我等は魂をダーマより受け、身体を父母より受けた事に感謝し、報恩の誠を尽くす!」という心情は、卍の真理を観じた時、おのずと湧き上がってくるものではないかな…。
「力愛不二を平面的に認識するとはどう云うことですか?」
――講義を進めてゆくと、だんだん岩盤にぶつかるような気がするね。
―一同笑い―
――かい摘んで言うと平面的に認識するとは、不二なのに二にすることだ。例えば自分を見詰めると、良いところも悪いところもあるだろう。誘惑に打ち克つ、誘惑に負ける、善を為す、悪事を働く、すべて自分であるわけだ。しかし結論的には、修行者は「悪しきを為さず、善きことを実践する」に向かう。
力愛不二は、実は自己の内なる問題と捉えるが、傾向として外に出して論じているように思える。内にあるから不二なのに、外に出すから力と愛の二つになってしまう。変だね。もっとも、人間は言葉で事象を認識する必要があるので、致し方ない部分がある。哲学的には形而上とか形而下の問題となるのかな。まあこれまでにしよう。力愛不二については改めて論じたい。開祖は心の問題として、我の字で説明されている(『教範/武道とそのあり方について』参照)。
話しが卍に戻って、命は見えないが生き物として見える。心は見えないが、力はウェイト・リフティングや暴力となって、愛は抱擁や子供を甘やかすなどの盲目愛となって見える。卍は――古くは紀元前のインダス文明のモヘンジョダロやトロイの遺跡、黄河文明、現在の中国・天安門広場の故宮博物館など至るところに見つかる(前出新聞記事)――のだそうで、古今東西を問わず、宇宙神秘を表す形状として人類に現れたのだろう。UFO好きだったら、宇宙人が伝えた文字だ!と言うかもしれないね。
「本当にそうかもしれませんね!」
―一同笑い―
■冒頭の新聞記事―結構長いので要点・記事を箇条書きにする―
まとめようと思ったが…長すぎて降参する。ご容赦! 著書の紹介と著者の願いが書いてあるので、最後の一文を紹介しておく。
「…いずれにしても生成変化する自然の現象であり。聖なるもののシンボル化だ。シンボルを扱う能力は人間の人間たるゆえんでもあり、卍はまさに人間性の根幹にかかわるともいえる。だからこそ世界各地、至るところに卍がある。ただエジプトではいくらさがしても卍が見当たらない。これは不思議で仕方がない。
まだまだ分からないことは多いし、もっと調べなければいけないことはたくさんあるが、ひとまず十年間の成果を昨年十月『卍・裏卍(注:フォント無し)の博物誌』(晃洋書房)という本にまとめた。しかし書くことが多すぎて、分量が収まらず、日本だけの話しか盛り込めなかった。今年中には第二部として海外編を刊行したい。これらを踏み台に、若い研究者が卍の謎をより深く探求してくれることを願っている」(うえむら・まんじ=神戸学院大学教授)
【注意】本「書きたい放題」は気持ちの問題もあり、書き上げると即日にアップします。ですので、当日中、あるいは翌日にかけ、表現の過不足を改める場合があります。印刷して読まれる場合は数日後にお願いします。表現が異なったまま残るのは、私にしてみれば不本意であります。よろしくご推察の程をお願いします。尚、月日、年月が経て訂正を行なった場合、0908○○と断って訂正するのでご了承下さい。
良いものを残したい、伝えたい、と念じております。
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