道院長の書きたい放題

2005年02月05日(土) ◆(6)ドブロク/とにかく記しておきます

■昔、現在でも一部愛好者がいますが(法律違反です)、自家製のお酒=ドブロクを楽しむ風習があったようです。ビシャビシャした甘酒のような代物で、酔うんだか酔わないんだか分からないお酒であった、といいます。

だからガブガブと飲んでしまって、そして後から効いてくるので、「親の意見とドブロクは後から効いてくる」のだそうです。母親の母親が母親=私の曾祖母から聞いた話しだそうです。今朝聞いて、思わず「へー!昔の人は上手いこと言ったもんだねー」と感心してしいました。

はてさて、(私の意見が)そうであったら、イイですね…。

■書きたい放題の(3)で「…私はこれをきっかけとして、卍の教義、卍への想い、卍の存在について、以前より深い理解を得られたようで、なにか不思議な法縁を感じています…。」と書きました。

とにかく(1)を書いて以降、自宅道場の小祭壇をじーと眺めたり、その上にある新マークを眺めたり、教範を再読したりして過ごしてきました。それで一昨日、集会所道場で改めて卍の掛け軸を眺めていて、フッと開祖のお言葉が頭の中をよぎりました。

「少林寺はダーマ信仰なのだ」――。

いつ頃のご法話でしたか、そう仰ったことがあります。目の前にある掛け軸を凝視しますと、変な言い方ですが、確かに卍と共に梵語でダーマ=法を意味する文字が書いてあります(少林寺拳法では、ダルマさんとの混同を避ける為にダーマと称します)。その字がだんだんと大きくなり、私の目の中に飛び込んできます。本当に、いつもより大きいのです。

次の日、昨日です。教範をおもむろに開き、「ダーマの意義について」「ダーマの徳性と、人間の霊性の関係詳説」を再読しました。

■――人間はダーマの徳性即ち分霊をもって生まれてきた万物の霊長と認識する。そして、この分霊たる人間の霊性は、育つ可能性を有する種子として、之を育て、開花結実させるために、修行努力しなければならぬことを知るのである。――

なんと、なんと、“裏卍と表卍が言葉になっている”ではありませんか。←最近どこかで聞いたような、見たような…。

しかし昭和三十年の教範にこの言葉、卍図はまだありません。また教義「力愛不二」の確立も、卍の胸章(1950年ごろには着けていますが)や「拳禅一如」より後なのを改めて確認しました。

少林寺拳法は最初期、方便として宗教法人を持った、とされますが、開祖の個人的境地=出発点は明らかに宗教、思想であり、武術としてではありません。その完成期の序章が“書きたい放題”で再三述べている如く、昭和四十年版教範であることに異論はないでしょう。

■宗教法人法との絡みですか、最近でこそ各道院の祭壇には達磨像が置かれていますが、その前、新本堂の祭壇は大きな金色の卍でした。直筆を模写した掛け軸の存在と相まって、我々にとって卍は本尊なのです。

つまり、拳士個々人が本尊たる卍を胸に着ける意義は誠に大きく、開祖の布教人生を経て完成された、今様の組織の言葉を借りるなら、偉大な教化システムだったのです。

拳士は絶えず、開祖の励ましの言葉=自らが可能性の種子であることを感じながら、信じながら、共に相手と卍に合掌し合って修行できたのです。

その強いメッセージを持つ私たちの財産であるシンボルマーク=卍を、本当に外して良いものなのか。もし今再考が不可能なら、後世の拳士達よ、よくよく考えて下さい。

私が死んでも、このメッセージは残るとイイなー。




////////////////

【注意】本「書きたい放題」は気持ちの問題もあり、即日にアップします。ですので、当日中、あるいは翌日にかけ、表現の過不足を改める場合があります。印刷して読む場合は数日後にお願いします。

表現が異なったまま残るのは、私にしてみれば不本意であります。いずれ、リニューアル?=改訂して行きたいと考えています。★印なんか付けますか…。


 < 過去  INDEX  未来 >


あつみ [MAIL]