My Huckleberry Friend***
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2005年10月25日(火) |
生と死の決定権は・・・? |
死んだ友について勝手なこと言う奴 首出せ、ガッツのだんびら剣で叩き斬ってやる。
自分から死ぬ奴はバカだ?同情はしないだと? 貴様のような野郎に同情されてたまるか。同情するならカネをやってくれ。 死ぬ死なないの決定は最終的には自分の自由だ。 何も考えないで楽しく生きてる輩はさぞかし幸せだろうな。 それもまた良い人生であると思う。 でも途中で死ぬことを選んだ人間もまた、間違いだとは思わん。 単に自己の決定に従ったまで。 それが、生きる苦しさからの逃げだとしても、逃げることが なぜ悪いのか?嫌なことから逃避することがどうしていけないのか。 嫌な事に立ち向かって闘ってる奴、そんなんはさっさと出世して 人生に成功すればいい。 自ら死ぬことはよくないことだと激しく非難した人にその理由を きいてみた。 「逃げだから」 仮に、自殺者が、人生の困難から逃げずに生をまっとうして、自然に死んだとする。それはそれでよかっただろうね。 途中で死ななくて良かったと思ったかもしれない。
でも死ぬことを決定して、それを遂行したことに対して いちいち文句を 言われても困る。死んだ人はもうここにいないんだから 死んでから言われても遅いぞ。 死なずに済んだ場合のその後の人生のことまで考えてやって その言葉を口にしているんだとしたら、そこまで愛があるとでも言いやがる んなら、力ずくで 死ぬのを止めてやればよかったんだ。 それができなかったんなら、 死んだ奴の人生について、とやかく言う権利はない。 死んだ奴をとめられなかった、そういう機会を神が 与えてくれなかったまでのこと。 人の生死の決定権について、しかも死んだ後に、口出しされても 無意味というもの。 また、自分から死ぬ人にとっては(もちろんいろんなケースがあるけど) 生きることと死ぬことは同じ意味があることなんだ。 何があっても生きる人は 死ぬことより、生きることの方が意味があると考える。 だから生きてるだけのこと。
思考を深く深くすればするほど、究極的には 生と死の問題、いくつもの論を経て、ついには自己否定の論になる。 そうやって死んでいく人間もおるけど、たとえば小説家。 最近では自殺するほどの小説家はおらんようだけどな。 小説家は自殺してこそ、真の小説家かもよ? ・・・って時代が違うもんな・・・。んなことはねーな。 自殺する小説家がいなくなった最近こそ、その時代の生き残りは 消えたのだとみなして良いと思う。 そういえば、死ぬこと で思い出したけど 武士。武士ね。 葉隠の、武士道とは、死ぬこととみつけたり。 武士が必要とされなくなった時代に、武士の自分自身の存在理由について の葛藤とかそういう・・・
面倒くさくなったのでここでやめます。 結論:生きるも死ぬも、価値観の違いだから、なんとも言えない。
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