◇日記◇
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2005年05月04日(水) 稚拙なアタマで考えた

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「逃げた」というのは表現としてどうなのか。



今回の鉄道事故で、たまたま乗り合わせていたJR西日本の運転手二人に関する報道に

「逃げた」という言葉が使われているが、

バイアスがかかりすぎていないのか。



◇◆


それは、朝、勤務先に向かう途中の事故であった。

自分の会社の起こした事故である。思いもかけない事故だった。


自分の職務は、列車を運転すること。


大勢の怪我人がでた。助けてあげたい。

でも、自分の職務は列車を運転することだ。

しかも、これから運転しなければならない列車が自分を待っている。

乗客も自分を待っている。



もし、ここで救助にあたったら、自分が出勤しないがために、他の運転手にしわ寄せが

来る。自分が運転する列車の運行に支障が生じる。

しかし、大勢の怪我人がいる。何かしてあげたい。でも…



二人には、相当な葛藤があっただろう。


急いで仕事場に向かい上司の判断を仰ぐのが、組織人としての、

しかも当のJRの職員であるからこその、

正しいあり方であるようにも感じる。




私としては、もしこれほどの大事故ではなかったなら、彼ら二人は救助に当たっていた

と思いたい。




だが、想像をはるかに超えた大惨事であった。

彼らがあの現場に止まったとして、一体どのくらいのことができたのか。

事故現場も混乱の極みだったであろうが、管理部門も混乱の極みだったであろう。

自分の仕事は、あくまで、列車の運転である。

きっとこの事故のために、運転手も車掌も、その他ありとあらゆる人材が

不足するだろう、これから数日間は、徹夜仕事が続くだろう。



救助は、救助のエキスパートにまかせ、自分は、自分にしかできないこと、つまり

列車の運行に当たることが、自分に課せられた本当の仕事なのではないか。

他の大勢のお客さんを安全に無事に目的地に届けることが、

自分の仕事なのではないか。

しかし………



と、勝手に渦中の二人の運転手の心中を推し量ってみた。

この二人の運転手が、事故現場を離れるにあたり、全く苦痛と痛みを感じなかった

という報道をなぜするのだろう、そんなわけないじゃないか、と思うのだが。


私の考え方が、おかしいのだろうか。

以上。


sai |MAILBBSDiaryINDEXpastwill

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