活字離れではなく |
最近はあまり聞かなくなりましたが、「若者の活字離れ」と言われてました。 しかし、実際はインターネットの普及により、むしろ活字に親しんでいるのが現状でしょう。
ただ、いわゆる「行間を読む」ことが出来ない人が、最近多い気がします。 単純に、言葉面のニュアンスだけで、その文章を読み取るという、そういう感覚。 表には出てこない、隠されている意味づけを想像する読み方が出来ていない気がするのです。
さらに、感情移入ということも出来てないような気がします。 あくまで自分の価値観のみで、書かれている文章を読むだけ、という読み方ですね。 書いている人の背景や、そこに至る経緯を一切気にせず、字面だけで評価する。
これを感じたきっかけは、最近流行りの「ブログ」に付けられたコメントです。 ん?そういう意味で書いてるか?と感じるコメントが、やけに多い気がするのです。 これは、主観的なものだけではなく、明らかな誤読ということです。 指摘したり、意見を述べる、その論点がずれているのです。
あと、話を最後まで聞けないというのも、最近の風潮のようです。 途中であっても、気に入らない意見があれば、容赦なく割り込んで自分の意見を話す。 そのくせ、自分の話に割り込まれると、とたんに激高する。 子供ですか、と言いたくなるのですけどね。
近頃、日本語を見直す、というスタンスで書かれた本が人気のようです。 些末な言い回しや、敬語の使い方など、間違った言い方を指摘して正すという内容の本です。 確かに、「正しい日本語」というのは美しくて、気持ちの良いものではあります。 しかし、あくまで言葉はただの道具です。 まずは、何を話し、どう読み取る(聞き取る)かが最重要点だと思うのです。 それは、言葉の些末な部分を気にする以前の問題だと、個人的には思います。 まずは、会話のマナーや、文章の読み方をきちんと学ぶことから始めるべきだと思うのです。 それを理解した上で、学びたい人だけが、正しい日本語を学べばいい。
余談になりますが、そもそも言葉は進化して行くものだと思っているので、 「正しい」日本語というものは、果たしてどういうものを言うのだろうか、と思ったりもします。 ら抜き言葉とか、間違った敬語というのも、それはそれで正しかったりするんじゃないのかな。 形式にとらわれて、現状に則さない言葉を使い続けることは、原則不可能だと思うのです。 それじゃ、言葉も死んじゃいますしね。
最近の教育の現場はよく分からないのですけど、どうなんでしょうね。 こういう、本来の「国語」の教育って、きちんとしているのでしょうか? 議論のやり方とか、感想文なり論文なりの書き方だとか、 そういう「小手先」の技術だけで終わってるのだとしたら、 それこそが本当の日本語の危機だと、恐怖を覚えます。 「生きた日本語」は、口語にこそあるというのが、正解だと思うのですけどね。
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2005年03月22日(火)
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