TOM's Diary
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2005年12月20日(火) S氏のハードボイルド

S氏はカウンターをコツコツと叩いた。
バーテンがうなずいて、いつものドリンクをグラスに注いでS氏の前に滑らせた。
S氏はそれを一気に飲み干すと札を一枚グラスの下に挟み込みバーテンの方へ滑らせた。
バーテンが黙ってグラスと札を片付けるのを確認するとS氏はバーを後にした。

普段アルコールは飲まないS氏だが、大仕事の前には必ずこのバーで一杯だけ飲むことにしている。
店の前に停めた黒のスポーツカーは高性能だが、とても地味だ。
この仕事に派手さは禁物である。

S氏はクルマに乗り込みゆっくりとクルマを走らせた。
あまりゆっくりすぎても逆に目立ってしまう。
適度な速度と言うのは意外と難しい。
大通りに出ると自然に任せて他のクルマの流れにのる。
これは、この仕事を始めて最初に覚えた鉄則である。

路地にはいる。
ターゲットのアジトは100mほど先である。
念のためクルマのヘッドライトを消してゆっくりと近づく。
ターゲットのそばは、如何に目立たないかが問われる時である。
アジトの手前30mでクルマを停める。
この位置からではアジトは見えない。
それでいい。
逆に向こうからもこちらは見えないのだ。
しかし、ターゲットのクルマははっきりと見える。
ここでターゲットのクルマが動き出すのを待つのが今回の作戦だ。

S氏は周囲を確認する。
ここはそもそもオフィス街であり深夜はほとんど人通りが無い。
野良犬がゴミを漁っているのが見えるほかは、人の気配はまったく感じられない。

作戦通りだ、まったく問題ない。
こんなことは珍しい。
今日は幸運に恵まれているようだ。
S氏はエンジンを止めた。
シートの色に合わせたグレーの帽子を目深にかぶった。
そして、シートに埋まるように座りなおした。
これで遠目に人が乗っているようには見えないようにすることが張り込みの基本である。

どのくらい待っただろうか?
後方から若者のしゃべり声が聞こえてきた。
若者がS氏のクルマに近づき、車内にS氏がいることを確認すると一人が窓ガラスをノックした。
S氏は黙って窓を開け、若者を見つめた。
若者はぴかぴかに磨かれたクルマのフロントウィンドウで吸いかけのタバコをもみ消しながら言った。
「へい!おっさん、金よこしな!」
若者はフロントウィンドウに唾を吐きかけ続けた。
「洗車代だ」
こんなときこそ冷静を保たねばならない。
S氏は懐のホルスターに隠し持っている黒いものをちらりと見せながら静かにこう言った。
「消えろ」
若者は後ずさりながら「今日は無料サービスデーだ、感謝しろよ」
と言うと仲間を従えて走り去った。
S氏が窓を閉め、再び先ほどの体勢にもどろうとしたときだった。

ターゲットと思しき人物が若い女性を従えて姿を現した。
若い女性はターゲットに大声でなにか訴えかけているようだった。
大きな身振りで訴えかけている様は外国人のように思える。
クルマに乗り込もうとするターゲットの腕を掴み自分の方を向かせようとする。
ターゲットは飽きれたように女性の方に向き直りしばらく話を聞いていた。
しかし、それも長くは続かず両手で軽く女性を突き飛ばし、女性がひるんだ隙にクルマに乗り込んだ。
ますます怒った女性はクルマを叩いたり蹴ったりしていたが、ターゲットは意に介さずクルマを発進させた。

ひでえ野郎だ。
女に優しくできねぇ野郎は生かしておく価値はねぇ。
S氏は心の中でつぶやいた。

女性は道路の真ん中まで出てくるとクルマに向かってなにかを怒鳴り続けていた。

S氏は少し安心した。
仕事のことを考えるとターゲットに連れがいるのはまずい。
S氏はゆっくりとクルマを走らせ女性の横を通り抜けた。
ちらりと見た女性の顔はとても美しかった。
しかし、S氏はターゲットのクルマを追うことに専念した。

あまりターゲットのクルマに近づくことは尾行がばれる可能性もあり許されない。
特に女性と口論をしたあとだけに、女性が後をつけて来ないかと、後方を気にしている可能性が高い。

S氏は絶妙な距離を保ちながら尾行を続けた。
深夜でミラー越しには車種を特定しにくいことを利用して、コンビニの手前でウィンカーを出してコンビニに入ったふりをしたり、ヘッドライトを消したりして、同じクルマがずっと後ろにいることがばれないように注意を払った。
これはS氏が長年この仕事で身に着けた高等テクニックである。

10分ほど走ったところでターゲットのクルマが減速した。
S氏はウィンカーを出し、左に寄ってヘッドライトを消した。
もちろん停車したわけではない。
停車したように見せかけただけだ。

しばらく走って、道が左カーブしているところでターゲットのクルマが見えなくなったところでヘッドライトをつけようとした。
ヘッドライトを再度点灯させるタイミングも重要なのだ。
そのとき、突然パトカーが現れた。
赤色灯を付け、スピーカーから大きな声でS氏のクルマに停車するように言ってきた。

なんということだ!
せっかくの尾行が台無しである。
やむを得ずS氏はクルマを停止させた。

警官は警棒で窓をノックした。
S氏が窓を開けると、警官は覗き込むようにして窓越しに話しかけてきた。
「無灯火・・・ん?酒臭いな」
S氏はバーテンを呪った。サービスのつもりかいつもの酒をグラスになみなみと注がれていたのだった。
いつもどおりワンフィンガーにしてくれていれば・・・
S氏は警官に言われたとおりクルマから降りようとすると、懐に隠し持っているものを警官に見られてしまった。
警官は突然S氏を乱暴に押さえ込み、懐のホルスターからゆっくりと黒いチャッカマンを取り出した。

S氏はその日明け方まで警察で説教をされ続け、「一人ハードボイルドごっこ」は、今後一切しませんと言う念書を書かされてようやく開放されたのだった。


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