Leaflets of the Rikyu Rat
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2006年05月31日(水) 私たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる。

集中力が続いている間だけ本当の自分を取り戻しているかのような錯覚に陥る。
多分「本当の自分」なんていうものを美化しているだけなのだろう。
しかし集中力を保持し続けられるわけも無く、せいぜい四時間で限界が来る。
これも以前ならば一日中集中できたはずなのだ、などと過去を美化してしまう。
おそらく何事も訓練なのだろう。
只今リハビリ中。

毎晩彼から電話がかかってくる。
時折疲れ果てていて電話できなかったと謝られる。
たとえば面倒臭がりな僕には毎晩誰かに電話をかけるなんていう行為を容易にすることはできない。
愛があれば出来るのかもしれない(愛もある意味では訓練なのだろうか?)が、
きっと僕が持ってるのは別の種類の愛なのだ。
なんて言い訳をしてみるが、ただ彼から毎晩電話がかかって来ることに甘え、安心しているのだろう。

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 さて物語とは一体いかなるものなのか?
 俺が問うているのは物語というものの構造とか仕組みとか成り立ちとかそういう話じゃない。何が物語を定義するかという話でもない。物語がどうして生まれどうして残りどうして消え去るかという話でもない。設問は結局のところ、それがどうして存在するのかということになるだろう。ちょっと考えただけだと、人の想像力が物語を作っていることは間違いないように思える。全ては想像力が基盤であるように。それが大元であるように。でももしそれが正しいのならどうして想像力って奴は物語なんかに精力を傾けることにしたんだ?ツーバイフォーやダムを考え出すばかりじゃなく、F15イーグルや核処理施設や電子レンジを作り出すだけでなく、折り紙の折り方だの油絵の描き方だのステーキの焼き方だのを編み出すだけでなく、どうしてこの世にないストーリー、フィクションなんてものをわざわざ生み出す必要があったんだ?猿が進化しただけの存在の俺達にどうして物語が必要になるんだろう。うまいバナナの食べ方やアリの巣の見つけ方、ついでに目当てのメスの捕まえ方でも考えておけば十分だったのに、どうしてプロローグがあってエピローグのある「お話」なんてものを考え出さなきゃいけなかったんだ?そもそも物語なんて、何の役にも立ってないじゃないか。カタルシス?スポーツで十分じゃないか。バスケを観ろ。野球を観ろ。阿呆みたいなオリンピックを眺めてろ。あそこにもちゃんとカタルシスくらいある。だいたい毎日働きに出てご飯を持って帰って家族そろって食べて「ごちそうさま」、お腹一杯ポンポコチン。ここにだってカタルシスはあるだろうに一体どうして物語なんて必要になる?喜びも悲しみも楽しみも寂しさも現実にあるもので十分なのに、どうして作り話が必要になるんだ?作り話はつまり嘘の産物だ。何で嘘なんかがここに介入して来たりしたんだろう?
 俺は答えをちゃんと知っている。それはつまりこういうことなのだ。

 ある種の真実は、嘘でしか語れないのだ。

 本物の作家にはこれが自明のはずだ。ドストエフスキーやトルストイやトーマス・マンやプルーストみたいな大長編を書く人間だってチェーホフやカーヴァーやチーヴァーみたいなほとんど短編しか書かない人間だって、あるいはカフカみたいなまともに作品を仕上げたことのない人間だって、本物の作家なら皆これを知っている。ムチャクチャ本当のこと、大事なこと、深い真相めいたことに限って、そのままを言葉にしてもどうしてもその通りに聞こえないのだ。そこでは嘘をつかないと、本当らしさが生まれてこないのだ。涙を流してうめいて喚いて鼻水まで垂らしても悲しみ足りない深い悲しみ。素っ裸になって飛び上がって「やっほー」なんて喜色満面叫んでみても喜び足りない大きな喜び。そういうことが現実世界には多すぎると感じないだろうか?そう感じたことがないならそれは物語なんて必要ない人間なんだろうが、物語の必要ない人間なんてどこにいる?まあそんなことはともかく、そういう正攻法では表現できない何がしかの手ごわい物事を、物語なら(うまくすれば)過不足なく伝えることができるのだ。言いたい真実を嘘の言葉で語り、そんな作り物をもってして涙以上に泣き/笑い以上に楽しみ/痛み以上に苦しむことのできるもの、それが物語だ。

題名は舞城王太郎「私たちは素晴らしい愛の愛の愛の愛の愛の愛の愛の中にいる。」より引用
「------」線部以下は舞城王太郎「暗闇の中で子供」より引用


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