Leaflets of the Rikyu Rat
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本当なら一週間前に行く予定だったのだけど、寝過ごしたからこの日になった。 けどその寝過ごしに関しては故意だったと思う。なんとなく行きたくなかった。懼れでいたのだと思う。 そんなに大したことでもないのに、ちっぽけなことなのに、さっさと行くべきことであるのに、どうして逃げる必要があるのか。 なので前日は彼の家に泊まり起こしてもらうことにした。 「明日検査行くから起こしてね。」言葉に出したりもした。
ゲイの多い地域の保健センターを選んだ理由は特に無かった。 地理に明るくない人間なので、知ってる地域を選んだだけだったのだけれど、 ゲイが多ければ多いほど疎外感が無いようで、いくらか安らぐ気もした。 前日、久方ぶりに髪を短く切り、少し後悔した。 短髪はステレオタイプなゲイの要素の一つであるため、 そのような頭髪で保健所を歩くのでは僕はゲイですと言っているようなものではないか、と感じたからだ。 保健センターの外壁に掲示されている人権保護のポスターが目に飛び込んできた。 むしゃむしゃと頭を撫でていたら、手に数本の毛が刺さった。
血液を検査するための狭いスペースが二階にこじんまりとあり、そのスペース付近を徘徊する男が皆ゲイに見えた。 実際彼らがゲイである確率は高いのだろう。地域的にも、空間的にも。 部屋に入り用紙に記入した。番号が振られており匿名可。 本名で書いても支障があるとは思えなかったけれども、とりあえず適当な苗字をカタカナで記した。 数字でも良いらしいのだが、自らを示す記号として数字を記入する気にはなれなかった。 梅毒・クラミジア・HIVが無料で検査可能であったので、全ての欄をチェックする。 「荷物はこっちに置いてね」と五十歳程の女性が僕を促す。 そこには男性物の上着がひとつ置いてあり、 それを眺める僕の視線を察してか、「肝炎を調べるには手続きが必要で、このひとはちょっと下まで手続きをしに行ってるのよ」と言った。 折角だし僕も手続きをして調査してもらおうかと思ったが、面倒だったのでやめた。 「それじゃあここに座って腕を出して。」言われたとおりにする。「グーを握ってね。」握る。 注射の針がささり、勢いよく赤色の血が注射器の中にたまっていった。 ――保険センターに入ってから十分も経たず全てが終わった。 荷物を持って部屋を出ようとしたら用紙に記入している女性が椅子に座っていた。背中だけが見える。 この女性はどうして・何があってここに来ているのだろうなどと魯鈍なことを考えながら外へ歩んだ。
不安を取り除くために不安になるのは間違っている。ということは分かっているのに不安になる。 陽性である可能性がゼロでは無いからだ。 誰かと性交渉を一度でも交わせばゼロではなくなるのだ。 誰かと付き合っている限り感染の可能性はゼロでは無いわけで、また誰かと付き合っている限りHIVは自分だけの問題でも無い。 僕は僕のために、彼のために、検査をしたいと思ったし、実際散々するべきでない尻込みもしたけれど検査をしたし、また 僕のために、彼のために、彼にも検査をして欲しいとも思う。 彼は四月に検査をして陰性だったから大丈夫だと言う。けれどその後少なくとも彼は僕を含め三人の人間と性交渉を行っており可能性はゼロでは無い。そんな風に僕が言えば、しっかりと気を付けたし大したことはしてないことしてないから大丈夫だと彼は言い張った。けれど。 そんなことは僕の知ったことではないしもはや知る方法も無いのだ。 愛情の言葉よりそれを示す態度が欲しいのだけれど――。
僕は逃げていたし、彼は逃げているし、僕の周りのひとは何だかみんな逃げている。 みんなが逃げたがることだけれど、逃げないひとが僕の周りには少ない。 類が友を呼んだ結果なのかもしれない。 結果は一週間後に判明。 あるていど気をつけたし大したこともしてないからたぶん大丈夫だろう、 なんて彼の主張したことと似たようなことを考えながらのんびり待っている。 別に緊張したり怖がっているわけではない。緊張や怖れがゼロというわけではないけれど、ほとんどない。 少し精神的に強くなったのかな、と思う。 とりあえず来週、寝過ごさないようにしなければ。
(題 絲山秋子「逃亡くそたわけ」)
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